20060228

幸運の台所

ひさびさにアーロン・バーグマンのサイトlucky kitchenにいってみた。アレハンドラとアーロンの二人が主宰するインディペンデント・レーベルで、音響作品を中心に、CDを制作したり美術館で音響をまじえたインスタレーションを発表したりしている。最近はアートブックも作っているようで、インディペンデント・パブリッシャーです、とトップページにはあった。1年くらい前に、「森ノ星」のムービーをつくるとき、アーロンにサウンドを提供してもらったことがある。

今回、いろいろ見てまわって発見したのは、自作以外にもたくさん音楽(音響)作品のCDの紹介があって、サンプルがいくつか聴けるのだけれど、それぞれにとてもユニーク。アーロンという人は、エレクトロニクス系の音楽のイメージが強いけれど、根っこのところにはフォークロアな歌や音楽、自然の音や生活の音への関心があるようで、その興味のあり方が面白い。作品にも反映されていると思う。

以前にスペインの田舎をまわってさまざまな音を収録した作品集のサンプルを聴いたことがある。女の人が手仕事をしながら歌っている声や羊のベルなど。Portoというプロジェクトではポルトガルの田舎を2ヶ月間さまざまな音を採集して旅したとか。町の床屋さんのハサミ音と店の様子とか、丘の上の共同洗濯場の鼻歌など一部がサイトでも聴ける。すばらしいと思う。伝統的なジャンルの区分けにはこだわらない、でも伝統の実践は大いに賛美する、という一言にも納得。

あとQuickTImeで見れるムービーがすばらしい。センスがすごく好きだ。"goodbye" と "detroit"、このふたつは特にいい。ユニーク。"goodbye"は6分くらいのフィルム、"detroit"はデトロイト(確かアーロンの出身地)に住む知り合いなど(子どもも含む)へのインタビュー・ドキュメンタリーなのだが、、、、非常に変わっている。なぜこんなアイディアを思いついたのか、アーロンに聞いてみたいところ。

20060225

国語という言葉から

アメリカの友人から「翻訳不可能なことば(untranslatable words)」を集めるプロジェクトを始めたというFWメールをもらった。友人は詩を書く人で、そのFWメールの主も詩を書いたり、ことばに関する遊びや実験をいろいろやっている人。わたしがきっと興味をもつだろうから、と知らせてくれたのだ。

投稿することばを考えている途中で、何のことばだったかgoogleしていて「国語とは何か?」というタイトルのページに行き当たった。読んでみると大変興味深く、日本では学校の教科で日本語の授業のことを「国語」と言っているが英語圏などでたとえばnational language などの呼ばれ方をしていることはめったにない、というようなことが書いてあった。今まで「国語」ということばが国家主義的な思想に裏づけされた表現だとは気づいてなかった。このページの書き手の人によると、「国語」という言い方は二つの虚構の上に成りたっていると言う。一つはその言語がその国の中だけで話されていること、もう一つはその国家の中ではその言語だけが話されていること、この二つの虚構だという。

「日本語」の授業という表現の方が、より実際的で公平なことばなのだろう。「日本語」と言ったとたん、そこに外部が生まれる。だから通常は、外国人が勉強するときに限って「日本語」の授業と言うのだろう。

あれこれ考えていたところへ、東京在住のヨーロッパ人がやって来た。アンダルシア生まれの作家+英語及びスペイン語の教師で、もう10年くらい様々な国を渡り歩き勉強や仕事をしている。まずスペインで「国語」を何と言っているか聞いてみた。答えはlanguage(英語訳)。で、その意味合いはour languageで、national languageに近いニュアンスだという。バスク、カタランなどの地域語がある上、その昔スペインはカトリック勢力によるイスラム排斥の歴史があり、スペイン語は拡張していく国家の、そして植民者の言語の象徴というところがあるようだ。

さらにアメリカ、イギリス、フランス、メキシコなどに話が及んだ。アメリカはEnglish、イギリスやフランスが何と言っているかは微妙だな、という話になった。理由はスペインと同じ。メキシコは反対の意味で微妙。スペイン語はメキシコ先住民にとっては植民者の言語だったから。このように同一言語内でも、国家の事情が変わればその呼び方も変わる可能性があることがわかった。新しい発見だ。海外の友人たちに聞いてみることにしよう。その結果はまた、わかり次第、ここに書きとめていくつもり。

20060218

オルタナティブな出版者たち

絵本やコンピレーションブックを出している個人出版者の方とお会いする機会があった。葉っぱの坑夫も様々な協力者に助けられているとはいえ、実質の運営は個人出版といっていい。去年の秋に共同で「Rabbit and Turtle」を出版したスイスのNievesもスタート以来、主宰者のベンジャミンがほぼ一人ですべてをこなしてきたと聞いている。

この三つの版元はどれも2000年にスタートしている。偶然もあるとは思うが、この頃インターネットのウェブが一般に広がりつつあり、受け手の中から発信者になろうという人々が増えてきた時期と重なるのかもしれない。個人や小規模の出版者にとって、インターネットは優れた道具だ。出版の案内はもちろん、直接注文を受ける窓口となるショップでもあり、読者や購入者との、そして制作者同士の連絡のツールでもある。葉っぱの坑夫にとっては、ウェブは作品発表のメディアでもあり、ウェブで作品を「出版する」という表現を使ってきた。

今回お会いした8Plus の芳賀さんは、絵を自分で描き本にして出版したのが始まりで、それは絵本という本のスタイル、形態に強く惹かれてのことだという。以来、自作の絵本ばかりでなく、他の作家の絵本、様々なアーティストによるコンピレーションブック、ものづくりの現場取材記など全9册の本を出している。しかも制作の全工程、編集から取材、写真、デザイン、営業までのすべてひとりでこなしている。どの本もそれぞれに魅力があって作り手の本をつくりたい気持ちが伝わってくる。わたしは中でも、芳賀さん自身の絵による言葉のない絵本が好きだ。「the silent book」「THE NIGHT BOOK」「One day」。どれも8Plus のウェブサイトに紹介があり、購入もできる。

ところで今出ているエスクァイア3月号のビジュアルブック特集に、Nievesが取材されている記事があった。スイス発の本の作り手たち、というテーマの中で。ベンジャミンやオフィスの写真も載っていた。(この記事の中ではベンヤミンとなっていた。ニーブスもニエヴェスとなっている。彼がスイスのドイツ語圏に属しているからなのか。でも去年の1月に東京で会ったとき、わたしは最初に名前の発音を聞いたのだ。ベンヤミン、ベンジャミン、ベンハミン???と。すると彼はベンジャミン、と注釈なしで答えた。ニーブスはウェブも英語表記のみで、全体にテキストはシンプルで少なめ。コミュニケーションがアート中心だからということや、世界各国のアーティストや読者を相手にしているからだろう。ベンジャミンでもあり、ベンヤミンでもあるのかもしれない)
Nievesの本はウェブサイトからも買えるが、日本のアート系の本屋さんでもいくつか置いてあるところはあるようだ。Happano Storeでもマイク・ミルズ「Humans」とキム・ゴードン「Chronicles Vol.1」は扱っている。


出版の話でもうひとつ。
葉っぱの坑夫の「ことばの断片」に「ピクニック」という詩(#27)を寄せてくれている井上洋子さんが、詩集をつくりました。自費出版です。中の詩はもちろんですが、写真やデザインなど(表紙の絵と題字以外)すべて自分の手で制作しています。だからこんな風に本をつくりたい、という気持ちがまっすぐに伝わってくるそういう仕上がりになっています。印刷はオンデマンド印刷。書きためてきた詩を自分の手で出版する、これもオルタナティブな出版のあり方のひとつだと思います。詩集の紹介は井上洋子さんのサイトにあります。

20060216

シチリアの詩人と

パレルモ(シチリア島)に住むグイドさんという人とメールのやりとりをしている。先月グイドさんから、Fragmentsへの多言語による詩の投稿があり、たくさん送ってもらった作品の中から、"Dapur Vetur, waste winter" という詩を選び、それを掲載するためにいろいろ相談をしている。Dapur Veturはプロバンス語で冬枯れ、くらいの意味だが、この詩にはプロバンスの他に、日本語、アイスランド語、フランス語、英語がとびとびに使われている。

プロバンス語というのは、フランス南部で使われていた言葉で、中世の吟遊詩人たちが用いたとも聞いている。この詩にも登場するリュデルもその一人。他に松尾芭蕉の俳句の一節も引用されている。こんな具合だ。
Aprè longs nuages fuyugare ya, the waste winter

フランス語と英語にはさまれた「フユガレヤ」は新鮮な響きだ。

そんなわけでグイドとのメール交換が続いているのだが、今日、パレルモから航空便が届いた。彼の著書の詩集が2册(英語とのバイリンガル、マルチリンガルなど)、テキストの入ったカードが数枚、そしてナミビアに旅行したときの写真が1枚。ナミビアの現地の人と仲良く並んで写真に納まっているグイドさん。パレルモの高校でイタリア文学とラテン文学を教えているそうだが、多言語の詩は、異文化間の新たな関係を模索しているなかで生まれたものだそうだ。

リュデルと芭蕉の簡単なバイオを付けていて気づいた。どちらも旅の詩人であり、旅の途上で亡くなっている。リュデル1147年、芭蕉1694年。リュデルは愛する人に会うため十字軍に参加してやっと着いたトリポリで、芭蕉は京都を出たばかりの夏の大津で死んでいる。