20110429

日本人の読み書き能力

日本語について言えば、全体として、日本語を母語とする日本人の読み書き能力は上がっているのではないか、と思う。インターネットの普及以降、中でもメールやブログ、ツイッターを多くの人が普段の生活の中で使うようになってから、その傾向は高まっている気がする。ネットを使う人にとって読むこと、書くことは日常の遊びや習慣になっている。手紙とメールを比べてみると、手紙の時代では手紙を書くことはそれほどしょっちゅうすることではなく、それなりの非日常感や特別感があったと思う。メールにはそういうものはないし、時間の感覚がほぼリアルタイムなのでチャットと変わらないやりとりもできる。

書いたり読んだりする機会が増えれば、当然「書く言葉(書き言葉ではなく)」の精度やバラエティが増すだろう。実際、ネットの様々な場面で読む日本語は、ブログであれ、料理のレシピであれ、スポーツ批評であれ、面白いものが多い。内容もユニークなものがあるし、書き方も適度なサービス精神があって読む人のことを意識して書かれているものもそれなりにある。やはり言葉は使うことで発展、進化していくものなのだろう。

日本語以外の言葉についてはどうなのだろう。日本語が母語であれば当然日本語の読み書きが最初にくるとは思うが、その他の言葉、たとえば日本人にとって最も習得率の高い英語についてはどんなものなのか。今の日本の学校教育でいえば、最低でも義務教育の3年間(小学校での英語学習も含めればもっとか)、多くはその先の数年間も英語を学ぶ機会がある。それほど短いとも思えない学習期間である。一般に中学、高校卒業程度の英語をマスターしていれば、ある程度の読み書き能力の基本は備わっているはずだ。

ただ多くの人が他の学科(生物や物理、地理、算数など)と同様、英語をただの学校の習得科目とみなして、普段の生活で利用していないように思う。周囲に英語を話す人がいないから機会がない? 確かに会話の英語はそうだろう。わたしの場合も毎日英語に触れているといっても、それは読み書きの英語である。実際に英語をつかって話す機会は年にわずかだ。使わなければその部分では当然衰えていく、あるいは上達しない。日本に住んでいるかぎりは、特別な環境にいる人でない限り、英語をつかってコミュケーションをとらなければならない機会は多くはない。

読み書きの方はどうか。少なくとも読むことついては、英語および英語の世界観に興味があれば、日常的に機会を得ることはできる。本、新聞、いろいろあるだろうが、インターネットをつかう人にとっては一番身近で安いのがウェブの英語を読むことだろう。そもそも英語で語られる世界観に興味がなければ、英語を習得することは難しい。日本語のうまい外国人の多くは、単に言葉ができるというのではなく、日本人や日本文化に興味をもっている。またそうでなくては様々な場面での日本語の用法を理解するのは難しいだろう。同じことが英語についても言える。その世界に興味なくして、ものを学び習得することは難しい。逆に言えば、英語の授業では、英語そのものを学ばなくても、英語の成り立ちや歴史、地理(地球上のどういう地域で使われているか)、世界における英語の扱われ方を知ることが、英語をよりよく知る道筋になるかもしれない。それは日本語での授業でかまわない。そうやって英語というものを理解することは、英語を身につける際に大切なことだと思うし、学ぶ意味や興味もそこから湧いてくる気がする。

小学校からの英語の授業、会話中心の英語、英語の授業は英語で、というのが最近の日本の学校英語教育における方向性だと思う。その目指すところは「グローバル社会」において誰もが英語能力を「身につけなければならない」が、その中心はコミュケーションが英語でできること、と言われているようだ。その際のコミュニケーションできる能力とははどんなものを指しているのか。挨拶ができる、外国人に道を聞かれたとき答えられる、旅行でホテルを予約したいとき役立つ、そういった日常会話的やりとりを想定しているような気がしないでもない。そうでないとするなら、どんなコミュニケーションをイメージしているのだろう。最初に書いたように、日本に住んでいるかぎり、特別な環境にいる人以外は英語を普段話す機会は今後もそれほどは増えないと思う。

道で外国人に呼び止められたときによどみなく英語で話せるようになることを目指すよりも、多くの人にとっては英語の読み書きが楽しめるようになった方が利益は多いのではないか。書く方は読むことが進んでいけば、自然にできるようになる。まずは読むことを通して英語の世界の周辺を興味をもって見ていくこと、英語を母語とする人だけでなく、英語を第二、第三の言葉として使っている人々ともアクセスできるので、ものを見る視点は確実に広げられる。日本のウェブサイトでは今でも一般に少ないが、他の言語圏では英語が母語でなくてもウェブサイトに英語版をつけるところは多い。いくつもの言語を習得するのは簡単ではないが、とりあえず英語がある程度の仲立ちをしてくれる。

今月末に葉っぱの坑夫でスタートさせた新しいプロジェクトでは、英語圏出身ではない作家たちの英語の文学作品を集めていく。英語圏へ移住した人々、過去に英語圏植民地だった国の出身者たち、そういう人々が今第二、第三の獲得した言語でたくさんの作品を紡ぎ始めている。インターネットの数ある英語文学ジャーナルを見ていると、ネットの普及によってもその数は爆発的に増えていくのではないかという気がする。英語は習得するのがそれほど難しくない言語、と言われているように、短期間に言葉を習得し作品を書くまでになる人もいるようだ。

書くことは人間の欲望の一つなのかもしれない、と思ったのは、スーダンの難民化した子どもたちの手記を読んだときだった。スーダンの内戦を生き延びるために、子どもだけで逃避行、難民キャンプ暮らしを送ったLost Boysと呼ばれる子どもたちの何人かは、後にアメリカに渡ってからそのときの体験を書き綴った。ケニアやエチオピアの難民キャンプの木の下の学校で、地面をノート代わりにしたり、破って分け合ったノートに半分に折った鉛筆で書きつけて覚えた英語が、本を書くときの言葉になった。ロスト・ボーイズたちは英語を取得するために、図書館から放出された本があれば熱心に読んだ。英語が生き延びるための道具になると考えていたからだ。アメリカに渡ったばかりの少年たちが(そのときはもう20代になっていたが)、スーパーマーケットの文房具売り場で目を輝かせて、ノートが欲しいと言った場面が印象的だった。ノートがあれば自分のアフリカでの体験が書き綴れると思ったのだ。書くことがそれほど大切なことだった。そしてキャンプで学んだ英語が本を書くために使えると思ったのだ。

英語で書く作家となった様々な出自の人々は、ロスト・ボーイズとはもちろん状況が違う。でも全く違うかと言えば、そうとも言えない。ロスト・ボーイズと同じように、英語で書くようになった作家たちは、故郷のことをときに故郷の言葉を交えながら書くことが多い。亡命作家でなくても、故郷の窮状が、そして故郷と外の世界とのギャップが書く動機になっている人も多く見られる。世界に未だ知られていない自分たちの実情を、自らの手で書かずにはいられない、という意味でロスト・ボーイズと共通点がある。そのときに英語という言葉を選択するのは、ひとつには読み手の数とバラエティが他の言語と比べて格段に豊富だということがあるだろう。彼らはネイティブ英語を話す人々のみに向けて書いているのではない。英語を解する、読める人々に向けて書いているのだ。その中にもちろん日本人も入っている。そのことを認識すれば、中学高校程度の英語であっても、英語でものを読むことに慣れようとすることは、意味あることに思える。その輪の中にもっと入っていっていい。

よく英語による世界覇権などという言い方がされるが、そしてエスペラント語のような特定の文化集団や歴史に依らない言語の存在も大きな意味があると思うが、現実的な手段として、地球上の広い地域で基本となる英語を元にした地域ごとのローカル英語が使われ発達し、あるいは移民たちの口を通して再構築された英語が広まり、様々な出自の作家たちが作品を書くことによって新たな英語が広められていくのは、素晴らしいことだ。同じ英語でも多様性を含んだ言葉が自律性をもって広がっていくかぎり、「覇権」のイメージはそれほどないし、世界に知られることの少ない地域言語、部族言語が世に知られる機会にもなっている気がする。


*4月末スタートの新しいプロジェクト:
「Birds Singing in New Englishes / とり うたう あたらしい ことば」(英語・日本語)
 第一回寄稿作家:ハ・ジン、チカ・ウニグェ、タン・ドン・ホワイ
http://happano.org/birdsong/html/index.html

20110411

頭をクールに

何か大きな出来事が起きたときや、生涯に何度とない重要な場面の真っただ中にいるとき、頭をクールにしておくことは簡単ではない。今回の震災で感じたことの一つに、人間というのは厳しく自覚的にならない限り、頭(考える)より心(感じる、想う)の方が活発に働くものなのかもしれない、ということがあった。頭に集中するには、頭をクールに保つ必要がある。それには心の方を少し鎮め、頭の働きとのバランスをもたせなければならない。

一概には言えないかもしれないが、わたしの印象では、日本では一般に「頭の問題」より「心(気持ち)の問題」がエスカレートする傾向にあるように見える。震災以降のテレビの報道では、被災者、支援者、報道記者、すべてに渡って「心の問題」が優先事項として伝えられていた。心や気持ちが取り上げられること自体、悪いことではない。それによって共感したり、同情したりした人々が支援の行動に出たりもしている。ただ連日テレビを見ていて、心のことばかりが問題になっているのを目にすると、頭はどこに行ってしまったのか、という素朴な疑問と将来への不安が広がる。

まさか今の日本で、「文明国」であり「先進国」であり「民主主義国」であるはずの日本で、「頭の問題」は御上のものなどと考える人はいない。頭も心もバランスよく使うのが「文明人」であるはずだ。人は心の問題だけで動こうとすると、判断を間違うことがある。心と同程度に頭も働かせれば、より適切な行動がとれるだろうし、それにより心の状態も変わってくるかもしれない。心に集中するあまり(あるいは振り回されるあまり)思い詰めたようになっていた状態から、少し距離を置いて事態を見れば、違う風景が見えてくる可能性もある。

広域に渡る津波被災の風景を見れば、誰もが暗澹たる気持ちになると思うが、それに加えて被災者の人々が泥にまみれた写真やアルバム、位牌や思い出の品々を抱きしめ涙し、早く家に戻りたい、元の生活を取り戻したいという姿を見て、さらに暗い気持ちになった。元の生活とは、津波被害を受けたところにある家での以前と同じ暮らしを意味しているのだろうか。でもそれは可能なのか。可能だったとして、そうすることが一番いいことなのか。それとも不可能と知りつつ、なおそう言ってみているだけなのか。

日本人視聴者にとってはそういった被災者の気持ち、その表し方共によく理解できるのだろうと想像する。しかしたとえば外国籍の人は、あの地域は人が住んではいけない場所にしたほうがいい、と考える。江戸、明治、昭和と何度も大きな地震と津波の被害を受けてきた地域であり、「ここから先家を建てるべからず」という石碑もあるのに、その教訓が生かされなかったのはとても残念だ、と。先人の教えがあるのに、それを軽視して、あるいはそれがうまく後世に伝わらず、同じことを繰り返してきたとしたら、それは何とも悲しく哀れな歴史だ。お年寄りが多く入院する病院や介護施設が海の近くの低地にあり、自分の力では歩けない人々が津波に飲み込まれた、という事実も悪夢のようで言葉を失う。

管首相は海岸線に近い地域には高層のビルを建て、漁業関係の会社などを置き、住民は高台に住んでそこから海辺に通勤する、という今後の地域再興の構想を発表した。理にかなったものだと思う。そういう方向性のものでないと、未来に夢は描けない。ただこの案は、早く元の家に戻って以前と同じ生活を、と願う被災者の人々にうまく受け入れられないかもしれない。昔のアルバムや思い出の品々に心を寄せるように、元のままの暮らしを心に描いていれば、なかなか受け入れがたいことだろう。心の方に引っ張られていると、頭で理解できることも受け入れがたくなる。

確か出発日が今日くらいからだったと思うが、トルコ航空が旅行代理店のHISと面白い企画を出していた。この震災の被災者に限って、1ヶ月滞在のトルコ旅行を一人5万円で受け付けていた。カッパドキアでのスタンダードクラスのホテル宿泊で食事込み、ほぼ全日が自由行動のスケジュールだった。避難生活や余震や原発の影響からしばらく離れて暮らし落ち着きを取り戻す、という意味で面白いと思った。トルコ航空は最近、欧州の人気サッカークラブの面々を使った洒落っ気のあるテレビコマーシャルを流したりして、新規顧客獲得に力を入れているのだと思うが、被災者をトルコへという一見突拍子もないアイディアで異彩を放った。さて被災者の方はこれをどう受けとめるだろう。果たして応募者はいたのだろうか。そんな精神状態ではない、自分だけ国外に逃げて帰ってきたら人に何と言われるか、などと心配する人もいるかもしれない。でもこれほどの被害を受けたのだから、想像もしなかった旅にひと月突然出てもいいのではないか。人生に一度しか起こらないであろうことの最中で、そんな風に考えてもいいと思った。

頭をクールに、ということで言うと、こんなアイディアをツイッターで見た。東京の水道水に微量の放射性物質が含まれていたというニュースの後のこと。赤ちゃんがいる家でない人々、中でも放射能の影響が少ないと見られている高年齢の人々が、スーパーのペットボトルの水を買いに走ったとも聞いたが、そんな中、水が売り切れているのなら、今の状態の水道水を空のペットボトルに入れて冷蔵庫で保存したらいいのでは、というアイディアがあった。ヨウ素などは時間が経つと減るわけだし、とりあえず今の状態の水道水が成人には影響ないのであれば、今後のことを考えて(今より状態が悪化するなど)、自宅の水道水を緊急時用に保存しておくというのは意味がある。頭がクールでなければ案外思いつかないアイディアだと思った。



葉っぱの坑夫は新しい企画の作業や著者たちとのやりとりなど、先週くらいから活動を再開している。発表時期については、原発の収束状況をみてと思っているのだが、ニュースなどで表面上は静かになっているものの、いい方向に向かっているとも言えない状態だ。根本的な処理ができていないわけだから、ここから先まだ何か起こる可能性もゼロではない。また放射能に汚染された水も海へ流されつづけている。報道がテレビから消えると、解決したのかなという気分にもなるが、当局が何も言わないということは深刻な状況がつづいていると解釈した方がいい。緊張ばかりもしていられないけれど、単に時間がたってそのことに慣れてしまったというだけで、事態の深刻さを軽視するわけにはいかない。原発事故という非日常を日常の中に受け入れつつ、引き続き起きていることにしっかり目を向けていかなければならない時期だと思う。