20120423

キンドルいよいよ日本上陸?!


先週火曜日の朝日新聞第一面に、「アマゾン、40社と配信合意」という記事が載った。一面とはちょっと驚いたが、この時期に合意した出版社が現われたことも意外だった。今年の4月キンドル上陸説が、いつのまにかたち消えになっていたので、これはまた先に延びるのだろうなと思っていたからだ。

キンドルというのは、アマゾンが開発した電子書籍専用端末。アメリカでは2007年に発売され、その後、スペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語などのアマゾンでも展開されている。アマゾンのそれぞれのサイトに行くと、どこでもまずキンドルが一番に表示されている。日本と中国のサイトのみ、キンドルがない。端末自体は、日本語にもとっくに対応していて、日本の出版社とアマゾンが合意すればいつでも、すぐにでも、キンドルはスタートできる。事が動かないのは、技術ではなくて、「日本独自の事情」である。

日本ではなぜ、キンドルが導入されないのか。出版界の事情とは何か。大きくは二つの事項。一つはアマゾンのキンドルでは、販売する本の価格を出版社側が決定できないこと。日本では再販制というものがあり、本は定価販売となっている。その商習慣に反するということらしい。法的には、電子出版物は再販制の対象外となっている(公正取引委員会)ので、小売側が価格を決めることに問題はない。しかし現状は、日本の多くの電子書店で、電子本は定価制を守っているそうだ。

もう一つは、商品選択権について。出版社側は何をキンドルで売るかは自分の側で選択したいと思っているのに対し、アマゾンは市場にあるあらゆる電子書籍をキンドルで販売したいとしている。版元がキンドルでの配信を予定していなかった電子書籍も、アマゾンの裁量と自己負担で電子書籍として販売できる、という条項を契約書に盛り込んであるらしい。またアマゾン側の契約条項の中には「無期限配信」などの項目もあり、それも日本の出版社側に抵抗感をもたらしているようだ。

わたしの目から見ると、アマゾンの言う「すべての本をキンドルで」読めるようにすることや、ひとたびキンドルに登録された本は「永遠に誰もが手に入れる」ことができる、という考えはデメリットではなく大きなメリットだ。本にとっても、読者にとってもそうだと思う。なぜなら、紙の本に関しても、現状で言えば、何か探しているとき一番頼りになるのがアマゾンであり、日本語の新刊本ばかりでなく、洋書や古書(マーケットプレイス)も含めて広範囲にわたって網羅しているので、まず探すべき場所となっている。その意味で、キンドルがスタートしたなら、日本語で読める本がすべて登録されているのは望ましい。この「すべて」というところが大事なのだ。たとえば今、日本にあるいくつかの電子書店に行ってラインアップを見ても、印象としてごく一部の本しかなく、少なくとも自分が読めるような本はないように感じる。「あれは置くけどこれは置かない」式のことをやっていては、幅広い層の読者からの要望には応えられない。歯抜けのデータベースのようになってしまう。

ある大手出版社は、例外的な高額商品や限定本を自社で価格コントロールして売りたいのに、アマゾンのやり方ではそういうことが出来ないと言っているそうだ(日経新聞)。これを読んで、「本」というものに対する見方が、かなり違う方向を見たまま停滞しているのではないかと思った。限定本、豪華本はもちろんあってもいいけれど、一般に言うところの、18世紀や19世紀のものではない現代の本という見方で言えば、そういうものは別のジャンルに属する商品となるのではないか。たとえば掛け軸や絵画などの美術品などのグループに入れていいもの。なぜなら、本の中身(コンテンツ)そのものよりも、本の造りや希少性に重点が置かれ、そこに付加価値が付けられているからだ。

一方、「本」の本質は複製にあると思う。それはグーテンベルクの時代からだ。英語では印刷された本のことをcopyと言う。3冊本を送ってほしい、という場合、send me three copies(of the book). などと言うわけだ。最初聞いたときは、えっ?と思うかもしれないが、コピーとは言い得た言葉だと思う。本は必要としている人のところまで届くよう、できるだけ広く頒布するのがその本命だ。印刷機械の技術の問題や物流、経済性などで、これまでは「いくらでも刷って世の中のどこへでも配布すること」は不可能だった。しかし、本が紙への印刷を通さず、データさえある場所にしっかり置いておけばいい電子書籍では、半永久的にその本は生き延びることができる。絶版もない。これは人間の文化にとっての、旧時代の本とは違う身体性を持つという意味で、大革命だと思う。企業アマゾンはそれを徹底してやろうとしているように見える。

そしてその心は、企業として優位に存続すること以外に、本を読む人々に対して徹底したメリットを与えることに向いている。わたしにはそう見える。逆に言えば、そのように行動するから企業としての優位性が保てるのだ。この世の中にある本のすべてが、分け隔てなく、比較的低価格で、いつでも、永遠に手に入ることの利点は、全人類的に見れば、他の「事情」(限定本、希少本を高い値で売りたい、買いたいなどの)を大きく上回るように思う。

元々、企業というのは、世の中のためになること、役に立つことをするために起こされるものだ。そこには「お客様が第一です」などという狭い範囲での消費者対応ではなく、自分の起業が人類にどんなメリットをもたらすか、人間社会は、文化はどうあるべきか、といったオープンで透明性の高い視野があるはずなのだ。残念ながら、これまでの日本の出版業界のキンドル対応やさまざまなコメントを見ていると、既得権をなんとか守りつつ、しかし「みんな」が新しいものに参加し始めたときには、自分だけ遅れをとってはならないから、今はじっと「様子見」をしているという態度が現われている。

今回合意した出版社は、学習参考書で知られる学研や、ビジネス書が中心のPHP、生活・実用書の主婦の友社などだというから、なんとなくその傾向が読み取れる。これらの出版社は、紙の本でこれまでアマゾンで売り上げを伸ばしているところでもあり、本の性質上、文芸書などのように「著者問題」がそれほど絡まないことも、早く合意に達した理由かもしれない。

いずれにしても、合意した会社が出てきたことはいいことだ。アマゾンのCEOジェフ・ベゾス氏はキンドルを日本で「年内に発表する」と言っているそうだ。葉っぱの坑夫も、現在準備中のアマゾンのPOD(プリント・オン・デマンド)による出版、販売につづいて、解禁されたらぜひともキンドルでも本を販売したい。POD&キンドルの仕組は、版元にとっても読者にとってもここから先の新しい出版体験、読者体験になっていくと思う。


20120402

これからの日本と原発

前回のポストでは、1年前の震災及び原発事故直後の新聞記事を読み返すことで、どうして今回のような事態になってしまったのかを改めて考えてみた。ひとことで言えば、起こるべくして起きた、というのが事故の偽りのない姿だったと思う。それは何とも腹立たしく残念なことだが、果たしてこのことは未来に生かされていくのだろうか。この取り返しのつかない事態を生きていくとき、そうでなければ救われない。

地震直後の管首相の会見で、印象に残っている発言が二つあった。一つは津波被害のあった地域の再建についてで、海岸から十分に離れた高台に集落ごと住居を移し、海岸付近にある漁業関係の事業所などへは通勤する、という青写真を示したこと。もうひとつは今後のエネルギー政策を脱原発の方向にシフトすると明言したこと。どちらも多くの国民にとって納得のいくものだったのではないか。比較的早い時期に、今後についてのはっきりした指針を示したことに、わたしは多少驚きつつも(日本の政府がそういうことをすることはきわめて少ない印象があるから)、少し安心したことを覚えている。やはりこれだけのことが起きたのだから、政府も今まで通りとは言えないだろう、と。

しかし1年たって、今の状況はどのようなものだろう。管政権から野田政権に移ったことで発言は宙に浮き、脱原発へのシフトはあいまいなものになってしまっていはいないか。推進派などの抵抗勢力に押されて、脱原発の声が弱まってはいないか。前回のポストで書いたように、日本の原発は、自民党政権時代からの政府の強力なサポートによって、ここまで発展してきた。そうであるなら、もし脱原発に向かうとすれば、ここまでの政策の失敗を国民に謝罪し、はっきりとした政策上の転換を公式に発表するべきである。しかしそういう発言は1年たった今も、聞こえてこない。

確かに一つの変化としては、今年の1月に、原子力規制関連の閣議決定で、原子力発電所は「原則、運転40年で廃炉」にすること、という法案が通った。「20年を超えない期間を限度として、1回に限り」延長認可が可能という特例はついたものの、現存のものはおおよそ40〜60年の間にはすべて廃炉になる。新規の原発が作られなければ、それ以降は日本から原発が消滅することになる。多分、新規に計画される原発は、該当地域の理解を得ることが今までの何倍も難しいだろう。「充分な安全措置をするから、たとえ地震や津波が起きても、放射能漏れなどのリスクはほとんどない」といった説得は、まったく信頼を得られないのではないか。(それとも、少し時間がたてば、目の前にぶら下げられた利益と比較しつつ、受け入れたいという地域が出てくるのだろうか)

仮に新規の原発が今後作られないことになり、現存のものが廃炉になるのをこの先半世紀くらい待っていれば、日本から原発が消滅する、ということが事実化した場合でも、結果としてそうなったというのでは情けなくはないか。「脱原発」という明確な指針が政府見解として出せず、またそういうアイディアや意志も実行力もなく、廃炉の期限を決めることで、事実上脱原発に至るかもしれない、というやり方は、わたしから見ると、「意志を明確に示さないことで、責任を逃れようとする」いつもの日本の姿にそのまま重なる。何かを意志決定し、それまでのやり方をはっきり改める、変革するのは、どの分野においても、一番日本が苦手とすることだ。

そもそも日本は、日本の政府は、今、原発のあり方をどう考えているのか。どのような方向に今後進めていくにしても、最低でもその考えを国民にわかるようにきちんと説明する義務があると思う。もし今後もエネルギー政策を原発中心に進めていくつもりがあるなら、それを言うべきだ。過去とは違った高いレベルの安全対策をしてそれを進める、ということなら、その中身やコストを合理性をもって説明し国民を納得させるべきだ。また使用済み核燃料の処理の方法やコストについても、長期的な未来を見通す説明をして、いかに原発によるエネルギー政策に合理性があるかを話さなくてはならない。とうてい国民の理解を得られるような話はできない、というのであれば、それは計画そのものが多分間違っているのだ。

福島で原発事後が起きた2ヶ月後の5月、ドイツではメルケル政権が10年以内に全原発停止という政治判断を下した。ドイツはその前年、原子力推進路線への転換を表明したばかりであった。それが今回の日本での事故を受けて、大幅に方向転換させる方へと動いた。ドイツには脱原発を掲げる緑の党があり、社会の基盤に原発に反対する活動が根強くあったことが、政策の大転換に大きく影響したのかもしれない。実際、福島の原発事故以降のドイツでの地方選挙では、緑の党が大きく躍進し、第2党になった州もあるという。

「ドイツは脱原発を選んだ」(ミランダ・A・シュラーズ著、岩波ブックレット、2011年9月刊)で、日本に留学経験のある、ドイツ在住のアメリカ人学者の著者はこう書いている。
『ドイツ人が日本についてまず疑問に思うのは、広島と長崎に原爆を落とされたにもかかわらず、どうしてこれほどたくさんの原発を持っているのか、ということである。これはドイツ人にはとうてい理解できない。二つめは、日本は地震の多い国であるにもかかわらず、なぜ原発をつくったのか、ということだ。』

この二つの疑問に答えられる日本人は、政治家であれ一般人であれ、いないのではないか。日本の外から見たときに出てくる率直で的を得た疑問に、「日本にもいろいろ事情がある」とか「ことはそんなに単純なものではない」などと答えて、相手を納得させることは可能だろうか。

日本が、被爆国であるにもかかわらず、原発推進に力を注いできた理由はいくつかあると思う。まず原爆と原発のつながりが、明確に認知されてこなかったこと。あるいはつながりを意図して見えないようにしてきた勢力が存在したということ。核兵器=nuclear weapon、原子力発電=nuclear power、どちらも同じnuclearであり、基本の原理は同じもの。原発推進派の原発維持の理由の一つには、日本が核兵器の開発能力を失わないため、ということが潜在的にあるとも言われる。それでも福島事故後の2011年8月の広島、長崎の平和記念式典において、両市長から原発の存続に対する明確な意思表示はなかったと聞く。今後、「世界で唯一の被爆国」として「被害者として」の立ち場を世界に訴えるとき、福島で起こした「加害者として」の立ち場に一切触れないのであれば、どんな発言も未来への視点を欠いた、説得力の薄いものになってしまう可能性がある。

日本の国民は今後、被爆した被害者としてだけでなく、原発事故を起こした加害者として生きていかなければならない。加害者としてどう振る舞うかは、被害者のそれよりずっと難しいと思われる。それは加害者としての責任が常につきまとい、周囲からその目で見られるからだ。核兵器に反対するだけでなく、同じ基盤にある原子力発電への明確な、そして世界から理解を得られる指針を持つ必要がある。反対運動やデモ、署名など直接的な働きかけも有用だと思うが、そうでなくても、個々の人間が政府や原発周辺の動きを監視し、何が起きているかを能動的に理解し、日常生活の中である種の臨戦態勢をとり続けることも大事だ。

東京都では最近、原発住民投票という運動が起きた。原発に対する都民の意志を投票で直接的に表そうというものだ。自治体の有権者の1/50以上の署名が集まれば、都議会に条例の制定が請求でき、議会で可決されれば住民投票が実現する。署名集めは3月24日に終了し、必要な署名数22万人を大きく超える34万人分が集まったそうだ。請求後これが議会で可決され、2〜3ヶ月後の住民投票につながるのかどうか注目したい。東京都の石原慎太郎知事は、条例などつくれるわけない、と言っているそうだ。大阪市でも同様の運動が起き、市民グループによって直接請求された住民投票条例案は、3月27日の市議会で否決されたという。大阪市は関西電力の筆頭株主である。議会では橋下徹市長率いる大阪維新の会、公明、自民などが反対し、共産党だけが賛成した(このことは次の選挙のときに、大阪市民はよく思い返す必要があるだろう)。住民投票の実施には過半数の賛成が必要だった。原発事故という過酷な事件を受けて、直接民主主義に訴えようとした運動も、今の日本の社会の現実においては無為に終わるということか。

最後に、3月末で退任した国際協力機構理事長の緒方貞子さんの発言を紹介したい。今後の海外援助はどうあるべきかを述べている中での、原発の輸出についての見解。(3月24日付け朝日新聞「私の視点」より)
『中東などの途上国への日本の原発輸出について、個人的な見解として、一言述べたい。東日本大震災で引き起こされた東京電力福島第一原発の事故を受けて、私なりに原発の是非を考えた。自分の国でうまくできなかったものを、外に持っていっていいのだろうか。福島原発事故について、地震や津波があったから、という人がいるが、日本はそもそも地震大国だ。日本ほど技術が進んでいる国で、しかも(原爆を投下された)広島、長崎の経験があり、原子力に慎重なはずなのに、こんなことになった。原発への理解が不十分だったと言わざるを得ない。太陽光、風、地熱など再生可能エネルギーの進歩は著しい。多様なエネルギー供給のあり方を真剣に考えるべきだと思う。』


参考図書:
ドイツは脱原発を選んだ:ミランダ・A・シュラーズ著、岩波ブックレット、2011年9月刊
世界:特集・原発 全面停止への道、2012年1月号、岩波書店
「原発」国民投票 :今井 一著、集英社新書、2011年8月刊
原発をどうするか、みんなで決める――国民投票へ向けて: 宮台 真司他著、岩波ブックレット、2011年11月刊)