20140224

差別用語のいま(1)



「私家版差別語辞典」の著者、上原善広さんはこの本のあとがきで、『成熟した社会への試み』という副題のもとこう書いている。『まずそもそも「差別語」を悪、「言いかえ語」を善という二元論で論じることほど、言葉を単純図式化した暴論はない。私たちはこの二元論からまず距離をおいて、一から見つめ直すことから始めなければならない。』

上原さんはノンフィクションの作家で、自身の出自を『昭和四十八年(1973年)に大阪府松原市の路地で生まれた』と書いている。『路地』とは、作家の中上健次が使っていたのと同じ意味、被差別部落の文学的表現である。「差別語辞典」は、この路地を指す言葉を中心に、『差別用語』と言われている言葉を取り上げて、一つ一つ考察している。

もくじには、穢多、非人にはじまり、猿回し、陰陽師、障害と障碍、おし、つんぼ、めくら、ビッコ、気違い、浮浪者、ブス、土人、丙午、ジプシー、チョンコ、インディアン、オロッコなどの言葉が並ぶ。ただ単に、言葉そのものの考察をしているのではなく、それぞれの言葉との出会いをめぐる著者の体験が書かれているところがユニークで、『私家版』たる所以でもある。

たとえば『ジプシー』については、ブルガリアで会ったジプシーとの出会いが書かれている。そのボジョという青年は、英語が堪能で、著者が通訳として雇った人だった。ボジョ青年は小さい頃は別として、肌の色が薄かったことから、大学ではジプシーと気づかれなかったという。ただ恋人に自分の出自を明かしていないという悩みを抱えていて、著者は日本の路地の出身者と同じだという感想をもつ。またブルガリアで取材中に、ジプシー少年の物乞いに出くわし、「俺は日本のジプシーだ」と名乗ったというエピソードもある。上原さんには「被差別の食卓」という、世界の被差別民の食べものをルポしたユニークな著書があり、アメリカのソウルフードにはじまり、ブラジル、ブルガリア、イラク、ネパール、そして日本の各地をめぐって、取材して話を聞き、実際に土地のものを食べたり、集落まで出かけてご馳走になったりしながらルポを書いている。その取材のときも、自分は日本の被差別民だ、と言って、自分のところの食べものとの類似性を相手に紹介したりしている。

上原さんの考えは、差別用語とされているものをポリティカル・コレクト(政治的言いかえ)によって制限したり、自主規制したりすることでは、本質的な問題の解決にはならないというもの。多くの言葉は、言葉そのものというより、言葉の使われ方に差別的感情が込められていることにより問題を起こすのではないかと言う。『めくら』という言葉は、抗議や言いかえの事例が多いという。しかし、古典落語などに見られるように、豊富な語彙を生んだ言葉でもあり、何らかの注記をするなどして、歴史的な作品の中の使用は認めてもいいのでは、と述べている。

確かに、『めくら』『びっこ』『つんぼ』などの言葉は、現代の作品の中では使いづらい言葉だ。翻訳をしていると、これらの言葉にあたる原語と行き会い、訳すのに困ることがある。たとえば[blind]という言葉は、英語では差別用語ではないので、作品中に使われていることはよくある。辞書の説明で最初に来る説明は、[unable to see]つまり『見ることができない』というものだ。日本語の『めくら』も『目が暗い』という語源が想像され、元々は目の見えない状態を表しているだけの言葉だったのかもしれない。しかし『めくら』である人々が社会的に劣ったもの、邪魔なもの、役立たずなもの、迷惑な存在と『健常者』たちから認識され、その『障害』ゆえに仕事や結婚などにおいても避けられ、嫌われ、社会の隅に追いやられた結果、被差別民となり、『めくら』という言葉も差別用語になったと考えられる。『めくら』の人への心情も含め、あまりに長いこと、この言葉が慣習的に使われてきたため、そのニュアンスを消して使うことは今となっては難しい。

確かに代わる言葉として『盲人』があるが、こういった漢字による熟語は見た目も音も固い感じを与え、小説などではそぐわないことがある。全体の文の調子からいうと、違和感があったりする。もっと他の表現が生まれなかったのか、あるいは今からでも作れないものかとは思う。もしかしたら『めくら』という言葉も、言葉が発生したとき、差別的な意味合いと同時に出現した可能性もなくはない。そう考えると、言葉の出現とそのバラエティは社会や人々の心情を映す鏡だと気づく。

言葉の歴史的経緯という意味で、「私家版差別語辞典」の中で印象的だったのは、『部落』という言葉だ。著者が韓国の被差別民である白丁(ペクチュン)を取材した際、韓国人の作家が次のような説明をしたという。韓国にも『部落』という言葉はあり『プラク』と発音する。意味は『異民族を集めたところ』だが、近代以降は使われなくなった。この言葉が日本に輸出され、日本では近代になってから『部落』が使われるようになった。1900年代になって、日本が朝鮮半島を侵略したとき、逆輸入のかたちでまた韓国でも使われるようになった。この言葉は韓国では、もともと集落を悪く言うときに使われる言葉で、日本で被差別部落に『部落』が使われたのはその印象が生きていたからではないか。また、日本の部落は、朝鮮半島から連れて行かれた人々によってつくられているのではないか、と我々(その作家や韓国の歴史家)は考えている。このようなことが書かれていた。

被差別部落が朝鮮半島から連れてこられた人々の集団だ、という話は初めて聞く話だ。日本の部落研究者の間では、『異民族説』と言われ、タブー視され、議論がされてこなかった仮説だという。上原さんは、豊臣秀吉の時代に『朝鮮征伐』により、朝鮮半島から数万人の人が奴隷として連れてこられたが、その人々はその後どこでどうなったのか、と部落との関係性を引き合いに疑問を呈している。これは差別用語とは別に、興味深く真相を知っておきたい問題だ。(タブー視されてきたということは、日本語で書かれた資料は見つけにくいのかもしれないが)

差別語は、その言葉を話す社会やそこに属する人々の考えや偏見と密接な関係があり、その使われ方を通して、歴史として受け継がれてきた。差別語を検証することは、その民族のありかた、心性と正面から向き合うことになりそうだ。

20140210

楽しみを奪う日本のスポーツ報道(その2)


スポーツには勝敗があり、敵味方もはっきりしているので、見る方がどちらかに肩入れして見ることは多いかもしれない。それが醍醐味と言う人もいるだろうけれど、どちらにも肩入れせずに、ニュートラルな立ち場で試合展開を純粋に楽しむ、ということがあっても何の不思議もない。マッチョじゃない見方とでもいおうか。

不思議なのは国同士が対抗する国際試合では、いまだに大多数の人が自国のチームを応援することを当然としているように見えること。2006年、2010年のサッカーW杯では、わたしは韓国代表を主に応援していた。韓国という国と特に縁はないけれど、そのときのチームに可能性を感じ、好きだったからだ。でもそれを人に言うと、結構驚かれた。今年のブラジル大会でどこに注目するか、まだ決まっていないが、各国の選手に馴染みのある人が多いので、また好きな選手も何人かいるので、このスポーツイベントを非常に楽しみにしている。

去年の暮れに、朝日新聞で作家の星野智幸さんのオピニオン記事を読んだ。『「宗教国家」日本』というタイトルで、ここで宗教と言っているのは、自分が「日本人である」ことに対して絶大なる信仰をもっていることを指している。子ども時代、学生時代の旧友たちと久々に会った星野さんが、昔は政治に無関心そうだった友人たちが、こと韓国や中国のことになると激高したり、スポーツでの「日本人」の活躍を涙を流さんばかりに礼賛するのに出会い、びっくりしたという。

スポーツにおける「日本人」礼讃傾向は、日本のスポーツ報道でも顕著だ。その背後には、星野さんのかつての友人たちのような人がたくさんいて、その思想をバックアップしているからだ。それは変わった人などではなく、多数派の普通の人であり、「日本人信仰」をのぞけば気の置けない、むしろいい人たちなのだ。星野さんはどうしてそういう人たちが、この信仰にはまってしまうのかを書いていた。

報道を受ける人がそうだから助長するのかもしれないが、報道する側の「日本人信仰」も相当なもの、野放しでいいのかと言えばそうは思わない。かと言って、規制できるものでもない。事実と反する「おとしめる」ような記事を書けば、言われた人が訴えるということが起きうるが、事実と反しても「誉め上げる」ようなことであれば、誰も傷つかないだろうという意味で放置される。しかしスポーツ報道は地に落ちる。実際、テレビの実況も含め、新聞などのスポーツ報道では、すでにそういうことが日常茶飯時になっている。日本の話である。

欧州リーグのサッカーの試合を見ていて、日本の実況や解説者が「日本人信仰」の信者で、その試合に一人でも日本人選手がいれば(あるいはベンチで待機していれば)、その目線から試合のすべてが語られるとしたらどうだろう。当の選手の親であればまあ、仕方ない。親心ですべてを見、身びいきの判断をするからだ。でも実況者や解説者は、その選手の親ではなく恩師でもなく、ただ「日本人」というところで繋がっているだけだ。なぜそれほど過剰に、弁護したり、擁護したり、誉め上げたり、他の選手や監督を非難することでその「日本人」選手の正しさや優秀性を証明しようとするのだろう。

肩入れなしで見ているニュートラルな視聴者にとっては、いたく迷惑な話である。ぼんやり見ていたら、その実況や解説の目線に乗っかって試合の印象を受けとめてしまうかもしれない。たいがいそういう実況では、同じことを何度も繰り返し、まるで説得されているような気分にもなる。でもこんなことを言うのは、ごくごく少数派かもしれない。多くの人は、聞いていて気持ちよくなる、身びいきの実況や解説は大歓迎なのかもしれない。

最近、サッカー日本代表の本田選手が、イタリアのリーグの「歴史ある名門」ブランドのチームに移籍した。ブランド力は今もあると思うが、実力でいうと、ここ何年か下り坂で特に今シーズンは20チームの中位前後(しかも獲得ポイントは、首位と20点も30点も違う。イングランドリーグであれば、首位と最下位くらいの開きがある)、有力選手もめっきり減ってしまったというチーム。でも日本の新聞等の報道では、「あのミラン」「世界的な名門クラブ」にとうとう日本人が移籍できた、という最大級の扱いが連日続いていた。移籍、初ゴールともに新聞の第一面を飾っていた。スポーツ紙ではない。朝日のような全国紙だ。

日本のスポーツ報道がときに度を超したお調子者ぶりを発揮するのは、珍しいことではない。ロンドンオリンピックのとき、第一戦でスペインに勝ったときも、「あの無敵艦隊」に勝利、と新聞の第一面(タイミング的に夕刊ではあったが)で大変な浮かれようだった。そのときもちょっとびっくりした。一面に載るような記事か?と。オリンピックのサッカーは、23歳以下の大会で(男子の場合)、国によって力の入れ具合がわかれるし、A代表と呼ばれるW杯などに出場するチームとは全く違うものだ(因みに、この大会では金がメキシコ、銀がブラジル、銅が韓国/日本は4位)。23歳以下のスペインが「無敵艦隊」と呼ばれているのを聞いたことはない。またロンドンオリンピックのときのスペインは、結局一勝もできず、そればかりか一点の得点も上げられずにグループリーグ最下位で、早々に敗退した。日本に負け、ホンジュラスに負け、モロッコと引き分けた。おそらく、第一戦だったから様子がわらず、第一面トップにでかでかと載せてしまったが、すでのホンジュラスに負け、モロッコと引き分けたスペインとの第三戦であったなら、たとえ日本が勝利してもスポーツ面どまりの記事だっただろう。間違っても「あの無敵艦隊」に、とは書けなかったと思う。

これがそんなにいけないことか、と問われれば、あまりいいことではない、と答えたい。また罪がないとも思わない。あまりサッカーに詳しくない人を煽る、あるいは侮るような記事だと思う。意図してやったことでないところが、さらに悲しく情けない。本田選手の移籍後初ゴールの記事も、日本では全国紙第一面の記事だが、サッカーサイトgoal.comのイタリア語版のトップページでは、まったく記事になっていなかった。この出来事は「日本人にとってのみ」、大きな意味のあることだったと解釈するしかない。

こういうことの何に問題があるかと言えば、それは物ごとの判断を見誤らせることがあるからだ。今の時代、日本は日本の中だけで生きているわけではないのだから、ある程度の相対性をもってものを見ることが求められる。いわゆる国際感覚というのは、こういうことだ。日本人信仰に浸っていてはいけない、と思う。

以前にサッカーの中田英寿選手について書かれた本を読んだとき、その経歴説明に「ビッグクラブを渡り歩き」とあって驚いた。書いたのは小松成美さんというライターで、中田選手についての本を書く御用達ライターのような感じがちょっとあった。ペルージャ、ローマ、パルマ、、、ボルトンなど「ビッグクラブを渡り歩き」という記述には、首をひねった。わたしの感じでは、ローマはひょっとしてビッグクラブなのかもしれないが、その他は中堅から下位のチームで、下のカテゴリー(セリエBとかCとか、チャンピオンシップとか)にも出入りしそうなチームという印象。「ビッグクラブを渡り歩き」という記述は正確さに欠けるのでは、と感じた。と同時に、そのときは欧州サッカーをかなり見始めていたからそう気づいたけれど、もっと前であれば、ああそうなんだ、とそのまま理解納得していた可能性もある。そう考えると、「知らないと思って、ひどいじゃないか。読者にウソを教えないでくれ」という気持ちがわいてくる。

「悪気があったわけじゃない、中田選手の素晴らしさを理解してもらおうと、ビッグクラブと書いたんだ」と弁護するかもしれないが、それはちょっと受け入れがたい。中田選手の素晴らしさと、ビッグクラブにいたかどうかは、必ずしもイコールではない。読者は知らないはずと踏んで、都合のいいことを書いてしまうことは、ノンフィクションライターにとって命取りだと思う。大きく信頼を損なうだろう。

スポーツ報道において、日本人信仰がからむと、こういうことはいくらでも起きうる。ウソではなくとも、正確さに欠ける表現がよく現われる。二年前にサッカーの香川選手が、マンチェスター・ユナイテッドに加入したときも、スポーツ報道は過剰に浮かれ、「日本人信仰」の記者たちがウソではないが正確さに欠ける報道をあちこちでしていた。たとえば加入の際の監督と並んでいる写真は、日本の報道ではツーショットだったが、実際はもう一人新加入の若い選手がいた。その選手のところをカットして(トリミングして)載せ、一切その選手について、文章でも触れられていなかった。「香川選手だけの入団会見」に見せたかった気持ちはわかるが、それは事実とは違っている。また香川選手との契約交渉前に、当時のユナイテッドの監督ファーガソンが、香川選手の以前の所属チームの試合を見にドイツまで行った、という報道があった。「すごいことですねぇ、あのファーガソンが香川を見るために来ています」というのが、実況や解説者のコメントだった。しかし実際は他の選手と合わせて三人の視察に行った、と前回書いたファーガソンの自伝には書かれていた。またそのことが話題になった当時、海外メディアでは、ファーガソンがそのクラブの複数の選手を視察に行く、という記事を載せていた。おそらく日本の報道側はそれを知っていたが、他の選手のことは省いたのだろう。

「日本人信仰」に報道側が染まると、事実から目をそらしたり、知らなかったことにしたりして、都合のいいことだけ書こうとする現象がどうしても起きる。結果、視聴者や読者は、客観的事実を知らされないことになる。繰り返し語られている、戦前、戦中の間違った「日本大国」説、「日本有利」説の報道と、基本的な態度は同じだ。

ただ今は海外のメディアにも、言葉ができればアクセスできるし、外国からの記者で日本語でサッカー記事を書いたり、しゃべったりする人材も出てきている。彼らは「日本人信仰」に染まりにくいから、違う角度からの見方を得るのにちょうどいい。日本のスポーツ報道にかかわる人たちも、そういう在日の外国人記者や海外メディアの見方を視聴者・読者が知る機会があることを想定した上で、相対的なものの見方やニュートラルな立ち位置を示すようにしていかないと、いずれ困ったことになるのではないか。

それは報道の記者やスポーツ評論家だけでなく、たとえばそういう記事を扱うデザイナーも、一度ちゃんと考えておいた方がいい問題だ。「日本人信仰」に自分が陥っていないか、「日本人信仰」信者の上司やディレクターの言うがままに従っていないか。多くのスポーツサイト、新聞では、日本人選手が少しでも試合に出ていれば、写真を載せる場合、その日本人選手の姿を中心に置いた写真を使ってくる。

スポーツ報道の世界では、こういうことは日常茶判事だ。「だってたいていの日本人が望んでいるのは、それですよ。読者のニーズに応えなくていいんですか?」 日本人信仰の信者デザイナーはそう言うかもしれない。

日本人信仰の信者の数は少なくはない、マジョリティと言っていい。その人たちのニーズに従うのは、資本主義、商業主義では当たり前のこと。たとえ未来の子どもたちが、ガラパゴスの住人のような感覚しかもてなくなったとしても、トンチンカンな日本人の典型と言われようとも、大事なのは今のニーズに従ってものごとを動かしていく、ということなのだろうな。あーめん。