中心のない世界を生きる
ある朝ふと、これからの世界は中心のないものになるのかもしれない、と思った。これまでの世界には、常に中心があった。国家の中心、社会の中心、家庭の中心、学校の中心、評価の中心、、、 中心とは何かといえば、支配の構造を支えるもののことだ。
このことを思いついたきっかけは音楽だった。19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、調性音楽のルールが崩れ始めた。調性音楽というのはハ長調とかイ短調とか、中心になる音があり、それによってハーモニーが構成されている音楽のことだ。始めがあり、終わりがちゃんと終わりに聞こえる音楽(最後の音は中心の音だ)。音楽といったとき、調性音楽をふつう思い浮かべる。ここにはポップスも演歌含まれている。
そこから外れていった音楽というのは、調性が定まらなかったり、なかったりする音楽で、無調、多調などと呼ばれている。聞いた感じは、何コレ、前衛? メチャクチャ? メロディーがない、ふつうの音楽じゃない、といったものだ。無調の音楽には中心音がない。たとえば12音技法によって作曲された曲は、1オクターブ内のすべての音が平等に同じ頻度で、順番に扱われる。
何かと言うと中心音の存在が示され、最終的に必ずそこに帰ろうとする調性音楽から見たら、とても安定感、安心感のない音楽といえる。中心がない、あるいは固定化されていない、というのは、しっかりとした支配体制のもとに音がない(ように聞こえる)ということ。調性音楽のように、どの音も、常に中心音を意識し、常に中心を向いて動くという行動をとらない。
これを音楽以外のものに当てはめたとき、現段階ではそのまま当てはまるものはおそらくない。ただ例えば、今の世界の勢力構造を見たとき、昔ほど中心がはっきりしていない気がする。ヨーロッパが世界の中心だった時代、アメリカとソビエトが中心を争っていた時代、そしてアメリカが世界の警察を名乗って覇権していた時代。アメリカの大統領がトランプになって以降、アメリカは自国第一主義に方向を変え、覇権などしたくないように見える。そして中国やロシアといった国々が表舞台に現れ、主要国首脳会議もG7の時代からG20(G7に新興国11カ国を加えたもの)へと重要性が変わってきているとも言われる。また2000年以降、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の世界経済に及ぼす影響にも注目が集まる。
国際政治アナリストの田中宇氏によれば、世界は多極化の方向に進んでいるそうだ。
中心があることによって秩序立てられていた世界、つまり重要な存在(一極)があり、それを支える(あるいはお世話になる)形でその他が存在するといった構造が、これまでの一極主義だ。これはある意味、効率のいいシステムかもしれない。一極とその他では重要度が異なるので、その他は一極にひたすら従っていればいい。
しかしこの中心部分が希薄、または存在しなくなったらどうなるか。そういう世界観に対して、不安になる人は多いかもしれない。支配する側にも、支配される側にも、それぞれ不安分子は生まれるだろう。多くの「その他」の人々は、中心がある(いる)ことによって、安心して暮らしていけると考えている。
たとえば日本の皇室は実質的な中心とは言えないが、多くの日本人は「ある種の中心」と思っているかもしれない。天皇が変わったり、年号が変化したり、といったことをニュースのネタ以上のこととして受け止めている。年号は面倒だから西暦に統一してほしい、などという議論はあるのだろうか。天皇家の人々の人柄といったことと、天皇の存在、存続の意味とを分けずに考えている人は多いかもしれない。もし天皇がいなかったら、日本の中心は何になるのか、とか。中心は安倍さんと思える人は少ないだろう。
ものの評価についても同じことが言える。あること、ものに対する評価を考えるとき、定まった評価とあてにならない評価というわけ方があるかもしれない。中心のある世界には、定まった評価というものが存在する。たとえば朝日新聞、日経新聞、NHKといったものは、一定の定まった評価が与えられている、と考えられるメディアだ。それに比べると「沖縄タイムス」「琉球新報」は、偏向しているのではないか、などと本土の人間から言われたりもする。偏向という見方は、中心あっての考え方だ。
中心となる評価、定まった評価がなくなったら、一般人は何を指標にしていけばいいのか。と考えるとき、その中心を構成するものについて、その成り立ちについて、一度考えてみる必要がある。たとえばマスコミと言われるものは、どのようにして成立した(している)のか、とか。マスコミというのは利益構造の一つの典型かもしれない。大衆と言われる中心外の人々に、ある方向のニュースを特権的に大量に流すことによって、人々の意識を支配し、特定の層や組織に利益をもたらすといった。
前述の田中宇氏は、日本では、マスコミからのみ情報を得ている大多数の人は、世界がどのような状況になっているか、動いているかを正確に知る機会をもたないため、誤った認識をもつ可能性があると述べている。たとえば朝鮮半島は現在和解の道を歩んでいるが、それに伴い韓国から米軍が撤退する可能性が出てくる。朝鮮半島付近の政治、軍事状況が一変すると考えていい。そのとき日本の米軍はどうなるのか。といった話は、日本のマスコミではほとんど取り上げられない。
今年6月にシンガポールであった米朝首脳会談も、会談の成功によって(日本のマスコミではそう伝えてはいなかったが)、今後東アジアがどのようになっていくか、といった文脈で日本について語られたものは目にしなかった。それは日本のマスコミは、そういった方向性の分析をする立ち位置(立ち場)になく、そうする意味がないからだ。
世界情勢ではなく、もっと身近なことの評価についても同じことが言える。すごい感動を呼んだと言われている本、人気の高い映画やテレビドラマ、みんなが聞いている売れてる音楽、こういったものは一定の評価の結果だと考えられている。ある作品が評価されているかどうか、その目安として受け入れられている。しかし大量に消費され、受け入れられるものは、作品そのものに対する評価があったとしても、たいてい一定の仕組まれた利益構造の中で生まれている。つまり中心がある。そしてそれは評価が新たな評価を再生産するような構造にもなっている。売れてるからさらに売れる。みんなが見てるからさらに見られる。
しかしたとえば万人にとって手に取りたくなるような、あるいは読んで(聴いて)みたくなるような作品でなかったとしても、存在の意味がある本(音楽)はある。評価の対象になりやすいものだけが、価値ある作品とは言えない。マーケティング —> 商品企画 —> 製造 —> 販売 —> プロモーションといった道筋ではないところから生まれるものはある。制作されたあと、公開(販売)され、じっと手にしてくれる(評価してくれる)人を待っている作品。そういう作品は、世の中の評価とは別に、自分の評価基準を持ち、能動的に選択、行動する人との出会いを待っている。その作品は待っている間、1度も読まれず、1度も聴かれない間は、価値のないもの、あるいは「自己満足」という評価が下されるかもしれない。
しかしおそらく、評価のあるなし、低い高いは、数では還元しきれないのではないか。評価というものが一極集中型(中心発信型)でなければ、もっと違う出会いがあるように思う。たとえて言えば、書店(リアルでもネットでも)で平台(トップページ)に並べられた本(多くは新刊本)と、図書館の書棚やデータベース(新旧の本が混じり合っている)の違いのようなことだ。手に取る理由(評価)のもとが他者の意図(仕掛け)から生まれているのか、選ぶ人の中で生成された興味によっているのかの違いとも言える。
現状は、最初に書いた「中心のない世界になるのでは」という仮説と反対の実態かもしれないが、一つ思うのは、インターネットが日本で広がり始めた頃のYahooとGoogleの人気度の違いだ。当時Yahooはアメリカからやって来た人気の検索エンジン。ディレクトリ方式を採用していて、大分類から小分類へとジャンル分けされていた。たとえば「音楽」のディレクトリには「クラシック」「ジャズ」「洋楽」「Jポップ」「演歌」といった分類が並び、「クラシック」を選ぶと次に「交響曲」「オペラ」「ピアノ曲」と次の分類が出てくるような方法論だ。それに比べて新進のGoogleは、真っ白なページにGoogleのロゴとキーワードを入れる空欄があり、その下に普通のサーチかラッキーボタン(検索1位のページに直接行く)があるのみだった(基本は現在も同じ)。
どちらに人気があったかと言えば、日本ではだんとつYahooで、Googleを使っている人はまわりにあまりいなかった。この方式は日本ではダメだ、とまで思われていたようだ。Yahooであれば、選択方式で順番に項目を選んでいけば、どこかにたどり着けそうだが、Googleでは空欄をまず自分で埋めなければならない。自らの能動性が問われている=面倒だ、と思われていた節がある。またYahooは、スタッフが申請者のウェブサイトを審査して、そこを通ったものだけが検索結果に掲載された。だからYahooのディレクトリに採用されることは、サイト運営者にとって名誉なことだったのだ。Yahooのお墨付き。ここにはれっきとした「中心構造」がある。(本家アメリカもディレクトリ方式だったが、審査によって当落が決まる仕組だったかどうは疑問)
それに比べるとGoogleは、自社の定めたアルゴリズムによって、検索結果を導き出していた。今のようなコマーシャルの側面がなく、知りたい情報に高い確率で出会える可能性があった。しかし日本での人気はなかった。現在、検索に関しては、「ググる」という言葉が生まれたくらい、日本でもGoogleが圧巻していると思われる。Yahooにディレクトリ型の検索はなくなった。
インターネットの使い方に日本人が慣れてきた、ということだろうが、方向性としては、中心のない検索の世界へと足を踏み入れたように見える。データベースや検索は、中心のない世界観の一つの象徴だと思う。