20181226

中心のない世界を生きる


ある朝ふと、これからの世界は中心のないものになるのかもしれない、と思った。これまでの世界には、常に中心があった。国家の中心、社会の中心、家庭の中心、学校の中心、評価の中心、、、 中心とは何かといえば、支配の構造を支えるもののことだ。

このことを思いついたきっかけは音楽だった。19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、調性音楽のルールが崩れ始めた。調性音楽というのはハ長調とかイ短調とか、中心になる音があり、それによってハーモニーが構成されている音楽のことだ。始めがあり、終わりがちゃんと終わりに聞こえる音楽(最後の音は中心の音だ)。音楽といったとき、調性音楽をふつう思い浮かべる。ここにはポップスも演歌含まれている。

そこから外れていった音楽というのは、調性が定まらなかったり、なかったりする音楽で、無調、多調などと呼ばれている。聞いた感じは、何コレ、前衛? メチャクチャ? メロディーがない、ふつうの音楽じゃない、といったものだ。無調の音楽には中心音がない。たとえば12音技法によって作曲された曲は、1オクターブ内のすべての音が平等に同じ頻度で、順番に扱われる。

何かと言うと中心音の存在が示され、最終的に必ずそこに帰ろうとする調性音楽から見たら、とても安定感、安心感のない音楽といえる。中心がない、あるいは固定化されていない、というのは、しっかりとした支配体制のもとに音がない(ように聞こえる)ということ。調性音楽のように、どの音も、常に中心音を意識し、常に中心を向いて動くという行動をとらない。

これを音楽以外のものに当てはめたとき、現段階ではそのまま当てはまるものはおそらくない。ただ例えば、今の世界の勢力構造を見たとき、昔ほど中心がはっきりしていない気がする。ヨーロッパが世界の中心だった時代、アメリカとソビエトが中心を争っていた時代、そしてアメリカが世界の警察を名乗って覇権していた時代。アメリカの大統領がトランプになって以降、アメリカは自国第一主義に方向を変え、覇権などしたくないように見える。そして中国やロシアといった国々が表舞台に現れ、主要国首脳会議もG7の時代からG20G7に新興国11カ国を加えたもの)へと重要性が変わってきているとも言われる。また2000年以降、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の世界経済に及ぼす影響にも注目が集まる。

国際政治アナリストの田中宇氏によれば、世界は多極化の方向に進んでいるそうだ。

中心があることによって秩序立てられていた世界、つまり重要な存在(一極)があり、それを支える(あるいはお世話になる)形でその他が存在するといった構造が、これまでの一極主義だ。これはある意味、効率のいいシステムかもしれない。一極とその他では重要度が異なるので、その他は一極にひたすら従っていればいい。

しかしこの中心部分が希薄、または存在しなくなったらどうなるか。そういう世界観に対して、不安になる人は多いかもしれない。支配する側にも、支配される側にも、それぞれ不安分子は生まれるだろう。多くの「その他」の人々は、中心がある(いる)ことによって、安心して暮らしていけると考えている。

たとえば日本の皇室は実質的な中心とは言えないが、多くの日本人は「ある種の中心」と思っているかもしれない。天皇が変わったり、年号が変化したり、といったことをニュースのネタ以上のこととして受け止めている。年号は面倒だから西暦に統一してほしい、などという議論はあるのだろうか。天皇家の人々の人柄といったことと、天皇の存在、存続の意味とを分けずに考えている人は多いかもしれない。もし天皇がいなかったら、日本の中心は何になるのか、とか。中心は安倍さんと思える人は少ないだろう。

ものの評価についても同じことが言える。あること、ものに対する評価を考えるとき、定まった評価とあてにならない評価というわけ方があるかもしれない。中心のある世界には、定まった評価というものが存在する。たとえば朝日新聞、日経新聞、NHKといったものは、一定の定まった評価が与えられている、と考えられるメディアだ。それに比べると「沖縄タイムス」「琉球新報」は、偏向しているのではないか、などと本土の人間から言われたりもする。偏向という見方は、中心あっての考え方だ。

中心となる評価、定まった評価がなくなったら、一般人は何を指標にしていけばいいのか。と考えるとき、その中心を構成するものについて、その成り立ちについて、一度考えてみる必要がある。たとえばマスコミと言われるものは、どのようにして成立した(している)のか、とか。マスコミというのは利益構造の一つの典型かもしれない。大衆と言われる中心外の人々に、ある方向のニュースを特権的に大量に流すことによって、人々の意識を支配し、特定の層や組織に利益をもたらすといった。

前述の田中宇氏は、日本では、マスコミからのみ情報を得ている大多数の人は、世界がどのような状況になっているか、動いているかを正確に知る機会をもたないため、誤った認識をもつ可能性があると述べている。たとえば朝鮮半島は現在和解の道を歩んでいるが、それに伴い韓国から米軍が撤退する可能性が出てくる。朝鮮半島付近の政治、軍事状況が一変すると考えていい。そのとき日本の米軍はどうなるのか。といった話は、日本のマスコミではほとんど取り上げられない。

今年6月にシンガポールであった米朝首脳会談も、会談の成功によって(日本のマスコミではそう伝えてはいなかったが)、今後東アジアがどのようになっていくか、といった文脈で日本について語られたものは目にしなかった。それは日本のマスコミは、そういった方向性の分析をする立ち位置(立ち場)になく、そうする意味がないからだ。

世界情勢ではなく、もっと身近なことの評価についても同じことが言える。すごい感動を呼んだと言われている本、人気の高い映画やテレビドラマ、みんなが聞いている売れてる音楽、こういったものは一定の評価の結果だと考えられている。ある作品が評価されているかどうか、その目安として受け入れられている。しかし大量に消費され、受け入れられるものは、作品そのものに対する評価があったとしても、たいてい一定の仕組まれた利益構造の中で生まれている。つまり中心がある。そしてそれは評価が新たな評価を再生産するような構造にもなっている。売れてるからさらに売れる。みんなが見てるからさらに見られる。

しかしたとえば万人にとって手に取りたくなるような、あるいは読んで(聴いて)みたくなるような作品でなかったとしても、存在の意味がある本(音楽)はある。評価の対象になりやすいものだけが、価値ある作品とは言えない。マーケティング  —> 商品企画 —> 製造 —> 販売 —> プロモーションといった道筋ではないところから生まれるものはある。制作されたあと、公開(販売)され、じっと手にしてくれる(評価してくれる)人を待っている作品。そういう作品は、世の中の評価とは別に、自分の評価基準を持ち、能動的に選択、行動する人との出会いを待っている。その作品は待っている間、1度も読まれず、1度も聴かれない間は、価値のないもの、あるいは「自己満足」という評価が下されるかもしれない。

しかしおそらく、評価のあるなし、低い高いは、数では還元しきれないのではないか。評価というものが一極集中型(中心発信型)でなければ、もっと違う出会いがあるように思う。たとえて言えば、書店(リアルでもネットでも)で平台(トップページ)に並べられた本(多くは新刊本)と、図書館の書棚やデータベース(新旧の本が混じり合っている)の違いのようなことだ。手に取る理由(評価)のもとが他者の意図(仕掛け)から生まれているのか、選ぶ人の中で生成された興味によっているのかの違いとも言える。

現状は、最初に書いた「中心のない世界になるのでは」という仮説と反対の実態かもしれないが、一つ思うのは、インターネットが日本で広がり始めた頃のYahooGoogleの人気度の違いだ。当時Yahooはアメリカからやって来た人気の検索エンジン。ディレクトリ方式を採用していて、大分類から小分類へとジャンル分けされていた。たとえば「音楽」のディレクトリには「クラシック」「ジャズ」「洋楽」「Jポップ」「演歌」といった分類が並び、「クラシック」を選ぶと次に「交響曲」「オペラ」「ピアノ曲」と次の分類が出てくるような方法論だ。それに比べて新進のGoogleは、真っ白なページにGoogleのロゴとキーワードを入れる空欄があり、その下に普通のサーチかラッキーボタン(検索1位のページに直接行く)があるのみだった(基本は現在も同じ)。

どちらに人気があったかと言えば、日本ではだんとつYahooで、Googleを使っている人はまわりにあまりいなかった。この方式は日本ではダメだ、とまで思われていたようだ。Yahooであれば、選択方式で順番に項目を選んでいけば、どこかにたどり着けそうだが、Googleでは空欄をまず自分で埋めなければならない。自らの能動性が問われている=面倒だ、と思われていた節がある。またYahooは、スタッフが申請者のウェブサイトを審査して、そこを通ったものだけが検索結果に掲載された。だからYahooのディレクトリに採用されることは、サイト運営者にとって名誉なことだったのだ。Yahooのお墨付き。ここにはれっきとした「中心構造」がある。(本家アメリカもディレクトリ方式だったが、審査によって当落が決まる仕組だったかどうは疑問)

それに比べるとGoogleは、自社の定めたアルゴリズムによって、検索結果を導き出していた。今のようなコマーシャルの側面がなく、知りたい情報に高い確率で出会える可能性があった。しかし日本での人気はなかった。現在、検索に関しては、「ググる」という言葉が生まれたくらい、日本でもGoogleが圧巻していると思われる。Yahooにディレクトリ型の検索はなくなった。

インターネットの使い方に日本人が慣れてきた、ということだろうが、方向性としては、中心のない検索の世界へと足を踏み入れたように見える。データベースや検索は、中心のない世界観の一つの象徴だと思う。

20181211

未知の領域へのとびら


大人になればなるほど、自分の知らない領域に入っていくことは少なくなる、かもしれない。子どもや年齢の低い人は、基本的に、知らないこと経験のないことの方が多いという自覚がある。だから目の前に現れた未知のものに、素早く反応するし、意欲的だ。だけど大人だからと言って、なんでもわかっているのか、といえば実はそうでもない。世界のほとんどのことを知らないし、知っているように思っても、ほんの上っ面ということも多い。

自分はものを知らない、知っていることや経験したことはわずかばかりだ(あるいは特定分野に限られる)、と思えば、大人だって目の前が開けてくる。どんなジャンルであれ、その入り口に立ったとき、そこから先に果てしない世界が広がっていると知れば、好奇心が刺激される。自分の未熟さ、ものを知らないことにがっかりするのではなく、知らない分だけ、宝の量が増えたと思えばいい。

知らないことは恥ずかしいことか、そうではないかもしれない。恥ずかしいことがあるとすれば、知ったかぶりをしたり、知ることへの興味が低いことの方かもしれない。知ることへの興味がある限り、楽しい人生が送れる。知っていること自体にあまり価値を置きすぎると、その知っていることにあまり価値がなくなったり、すっかり内容や意味が変わってしまったことに気づかないことも起き得る。あるいは自分の知ることに固執し、それを守るために、新たな展開に抵抗しようとするかもしれない。

あることに興味をもちつづけている場合は、知っていることの内容や意味も更新されていくだろう。固定的な知識、というのは、あまり役に立たないのかもしれない。そういう意味で、経験ある大人、知識のある大人ほど、それを固定化しないためにも、未知の領域への興味をもちつづけることが大切ではないか。

いつの頃からか、生活上のことでも、知識上のことでも、自分が知らないということに喜びを感じるようになった。こんなこと知らないで、いままでよく生きてこられたな、という場合もある。それもOK。知らなかったことと対面するたびに、世界のとびらが一つ、開かれたような感覚をもつ。

わたしのような一般人にとって、専門的といえるジャンルはない。10年、20年とやってきたことで学んだこと、蓄積されたことはあっても、専門家といえるレベルではないし、それで1冊本が書けるほどの広がりも深さもない。しかしいくらかの蓄積してきたことをベースに、その方法論をもとにして、新たな領域に足を踏み入れることは可能だ。

そこで重要になってくるのは「興味の芽」のような存在だ。そういうものを自分の中に芽生えさせることができれば、未来はあかるい。しっかりとした充分蓄えのある芽であれば、その先の道はどんどん開けていく。興味の芽が、自分を未知の世界へと連れ出し、引っ張っていってくれるはずだ。

そういう興味の芽を自分の中で、常に培養しておくにはどうしたらいいか。一つは基本的な姿勢として、自分は知らない、ということを楽しく認めることかもしれない。自分は何でも知っていると思った途端、周囲にバリアを張ってしまうことになる。

もう一つは、ものごとを見たり感じたりするとき、できるだけ自分自身の正直な考えや気持ちに耳を傾けること。そして疑問があったら、できる限り調べてみることだ。すると意外な事実が判明したりする。一般によく言われていることと、まったく違う事実や分析と出くわしたりする。それをやるときは、注意深く調べる必要があるし、一つの言説によって決めつけてしまわない方がいいのはもちろんだ。ある意味、保留の状態にしておく。するとまた別の機会にそれに関連する、違う見方が出てきて驚かされるかもしれない。

そういうことを日常的に、ジャンルにこだわらずしていると、興味の芽が育っていることがある。知識や経験を絶対視しないで、いつでも更新できる状態にしておく。知性、感性、両方の面で固定化しない、ある意味、いつも保留状態というのがいいかもしれない。

以下は自分を例にとった具体例の検証。これにより少し考えてみようと思う。

わたしの目下の興味は、音楽。もう少し詳しく言うと、調性音楽が崩れはじめてからの音楽だ。そこから先の領域は、わたしにとってほぼ未知の世界だった。音楽ということで言えば、欧米から南米、日本にいたるポップスや世界各地の民族音楽(伝統邦楽をふくめ)、タンゴやジャズ、そしてクラシック音楽とそれなりの範囲で聞いてはきた。また10年、15年を超える期間、ピアノという楽器を弾いてきてもいる。さらには音楽理論を大学で学んだ時期もあった。しかしそれはどれも(民族音楽をのぞいて)ほぼ調性音楽の範疇に入るという意味で、同類だ。ベートーヴェンもピアソラもJポップもここにすっぽり入っている。

調性音楽というのは、ドミソ、ファラド、ソシレといったハーモニーに支配された、メロディーのある「普通の」音楽のことだ。常に中心になる音によって全体が支配され、音楽は終わった感のある終止で結ばれる。19世紀末期から20世紀初頭にかけて、これに当てはまらない音楽を書く作曲家が出てきた。ヨーロッパが元だと思うが、アメリカでもそれに影響を受けて、たくさんの「新しい」音楽を書く人材が出てきた。

この調性感のない音楽は、誰にとっても聞きなれないので、当時の聴衆から必ずしも支持を得ていたわけではない。またこの現代音楽と言われているものは、たくさんの方向性があって、それぞれ全く違うことを目指していたりするので、よけいわかりにくい。共通点は、いわゆる普通の音楽のようではない、聞きなれない音響による音楽だ、ということくらい。

中にはこれが音楽なのか??というものもある。音楽の定義を問うような作品だ。たとえばジョン・ケージというアメリカの作曲家の作品に、『4分33秒』という有名な曲がある。楽譜には「第1楽章:休み、第2楽章:休み、第3楽章:休み」とあり、演奏家はその指示に従って演奏する。多くはピアノで演奏される。楽譜の指示は「休み」なので休む(ピアノを弾かない)のが演奏になる。ふざけているというわけではなく、作曲者によると、演奏の場(ホールの内外など)の環境音に耳を集中させるということらしい。

これは現代音楽の中でも前衛に属するもので、極端な例ではある。しかし、もし「音楽というものをまったく聞いたことがない」という人が存在すれば(そんな人がいるとは思えないが)、「音楽」というものの感じ方は、ほかの人とかなり違ったものになるかもしれない。たとえば「風の音と音楽とはどう違うのか」とか「鳥の鳴き声と音楽の境界はどこにあるのか」といった疑問をもつとか。しかしほとんどの人は、音楽とは何かを経験的に知っている(と思っている)し、何らかの音楽(調性音楽)を聞いて育っているので、そこから外れた現代音楽は奇異に聞こえる。

調性のない音楽の理解には、耳で聞くことと、そこで何が行なわれているかを知ることの両方が求められると思う。知の部分、感性の部分、その両方を働かせる必要があるのだ。耳というのは舌と同じで、馴染みあるものしかなかなか受けつけない。その耳を慣らすには、たくさんいろいろなものを、長い時間かけて聞くしかないのではと思う。20年、30年、40年と聞き続けてきたもので、自分の耳(と感性)はすっかり出来上がってしまっていると考えた方がいい。とにかくたくさん聞くこと、とはアメリカの作曲家アーロン・コープランドも著書の中で勧めている。(What to Listen for in Music:音楽に何を聴くか)

コープランドは、聞きやすいもの、なんとか聞けるもの、聞くのが難しいものとして作曲家の名前をあげてもいる。とても聴きやすいもの (very easy) として、ショスタコヴィッチ、ハチャトリアン、プーランク、エリック・サティ、初期のストラヴィンスキーとシェーンベルク、ヴィジル・トマソンを。それなりに近づきやすいもの (quite approchable) として、プロコフィエフ、ヴィラ・ロボス、ブリテンなどの名を、そしてそれなりに難しい (fairly difficult) として後期のストラヴィンスキー、バルトーク、ミヨー、チャベス、ヒンデミットなどを。相当大変 (very tough) として中・後期のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、セッションなどをあげている。

ここに上げられている作曲家は、だいたい20世紀初頭前後に生まれ、20世紀半ば前後まで生きていた人々だ。その意味で、時代的には古いといえば古いが、そこまで昔ではない。この本は初版が1939年なので、それが基本になっているかもしれないが、コープランドは1990年まで生きていて改訂も行なっているようだ。これを参考にして、聴きやすい作曲家の作品から試しに聴いてみるというのも一つの方法だろう。

現時点でわたし自身が受けつけられるのは、調性音楽が崩れはじめた最初の頃の、あるいはその前兆が見える作品だ。その端境期にいて重要な仕事をした、と言われる作曲家にドビュッシーがいる。ただドビュッシーを現代音楽に入れる人はいないかもしれない。ラヴェルやフォーレはどうか、調性音楽の範疇ではあると思うが、作品はモーツァルトやベートーヴェンとはかなり違う。プロコフィエフは新しい響き(いまでは当たり前)をもった作品を書いていて、この人の音楽は最初聞いたとき衝撃的だと思ったが、その後もずっと好きで聴いている。そうは思っていなかったけれど、大きなくくりでいうと、プロコフィエフは現代音楽に入ってくるかもしれない。日本では一度ブームがあったので、サティの方が一般に広く好まれてもいるかもしれないが、生まれはプロコフィエフよりずっと前になる。

調性が崩れはじめる端境期のあたりから、未知の領域の音楽に耳を少しずつさらしていくことで、固定化した感性をゆっくり溶かしていき、作品の理解につなげたい。それと同時に、こういった音楽をつくる作曲家が何をしようとしているのか、知識の面でも知っていきたいとも思う。それを理解するには、音楽の歴史という長い長い時間をさかのぼることも必要かもしれない。どんなものも、急に生まれることはないからだ。どのような流れの中で、調性のない、あるいは拍子の定まらない音楽が生まれるに至ったのか。新しいものを知るには、古いものを前提とすることも必要かもしれない、と思う。

未知の領域を知ることがどんな具合なのか、その例として自分の最近の関心について書いてみた。

最後に音楽学者、岡田暁生の著書から音楽の聞き方について:
音楽は聴くものであると同時に、読んで理解するものである。そして音楽を正しく読むためには、「学習」が必要となってくる。文法規則を知り、単語を覚えなければならない。音楽には語学と同じように学習が必要な面がある…………….(岡田暁生著『音楽の聴き方』より)