楽しいzineづくり、間に合うかなブックフェアに
7月10日(金)ー12日(日)東京で開催されるインディペンデントとアートのブックフェア「
ZINE'S MATE」に合わせて、ただいま新作ジンを制作中です。葉っぱの坑夫がジンをつくるのは初めて。どんなものを作っているかというと。

左から:
「SMALL」(作・絵:島田雄一)
「NEZUMI KOZO」(写真:アリ・マルコポロス、テキスト:芥川龍之介)
「在日Koreanと南北朝鮮をよく知るための本と映画10選」(葉っぱの坑夫編)
「たった一つの、私のものではない名前」(テキスト:温又柔)
各ジンの内容は葉っぱの
ウェブサイトで紹介しています。
ジンづくりについて:
今つくっているジンはすべて同じA5サイズ、使用紙も同じ、とフォーマットを揃えました。ページ数は作品によって違います。同じ見え方の中に、違う内容のものを盛り込んでみたかったので。
紙はいろいろ研究、試作した結果、Bio Top Colorというオーストリア製のマットで少し嵩感のあるものを選びました。日本ではITOYAが輸入販売しています。この紙は色が豊富で、バニラとかサーモンとか微妙な色合いもあっていいのですが、白が1種類しかなく、しかも日本で好まれる「純白」のみ。ヨーロッパではナチュラルホワイトのようなクリームがかった色があるそうですが、日本では人気がないのか手に入りません。そこで今回は、白はやめて薄いグレーを使うことにしました。ジンはモノクロなので、モノクロの写真や絵、テキストにもこのグレーの紙はなかなかいい感じです。
一般に日本では印刷用紙として、白くて、光沢感のあるつやつや(つるつる)した紙が好まれるようです。マット系の紙も最近では好まれていると思うのですが、まだまだ少数派なのでしょうか。確かに表面がつるつるした紙の方が印刷したときの再現性は高いかもしれません。でも手にしたときの感触や、目で見たときのテクスチャーも大切ですし、好みはいろいろあるのですから、もう少しマット系、嵩感のある紙もあったらいいと思います。
嵩感というのは、同じ重さの紙でも、繊維が詰まっているかいないかで感触や厚みが変わってくることを言います。厚みといってもミクロンの世界ですが。日本では目の詰まった堅い紙が多く、一般にマットで嵩高い紙は高くなってしまうそうです。需要と供給の関係だと思いますが。今回選んだBio Topはヨーロッパの紙だけあって、嵩がややあり、柔らかな感触です。ジンは中綴じなので、あまり厚い紙は向かないので、80g/m2という紙を選びました。紙色によってはやや裏写りする場合もありますが、それはそれで面白く、手に持った感じでは100g/m2よりぴったりきます。特にページ数が30ページを超える場合は薄めの紙の方が良さそうです。
ジンというメディアは、「本をつくる」「書籍を企画する」よりも、もう少し気軽で、思いついたことをサッと形にする、といった即興性があるように思われます。それは出力の方法と関係していて、オフセットで印刷するなら最低でも500部くらいは作らないと割高になってしまうのに対し、フォトコピーで作るジンは基本的な単価は部数に関係なくほぼ一定です。だから最初20部くらい作っておいて、注文が来てからオンデマンドで作り足すことも可能。ただしKinko'sなどに依頼して作る場合は、単価的にはオフセットよりむしろ割高だと思います。でも1部400円かかっても、50部なら20,000円とポケットマネーで作れないこともないところが魅力。(ただしここで言うところのジンは、基本的にモノクロです)
フォトコピーと言っているのは、コピー機とレーザー出力が一体になったマシンで、紙原稿を用意してハードコピーするのも可能ですが、PDFなどのデータから出力する方がややきれいと聞きました。元になる原稿や作りたいテイストによってどちらにするか選べばいいと思います。いろいろ切り貼りした紙原稿を元原稿にするのも、仕上がり感に手跡が見えて楽しいものです。
フェアでは葉っぱの坑夫のジン以外に、"L'age de raison"というフランス語の小さな本もいっしょに置こうと思っています。アルザスに住む詩人Denis Emorineの作品で、寓話のような小話のようなごくごく短いお話です。英語訳の他、ポルトガル語、ルーマニア語、ドイツ語、ペルシア語、ギリシア語の翻訳リーフレットを用意しています。日本語版も間に合えば用意するつもり。英語のタイトルは"Age of reason." 小さな押し花がついた赤いカバーの本です。
それ以外には、葉っぱの坑夫の既刊本をブックフェア特別価格で販売しようかと考え中です。
オルタナティブなアートブックのフェア、ZINE'S MATEに参加
7月10日(金)ー12日(日)、東京の表参道と原宿の2会場で開催される
ZINE'S MATE: TOKYO'S FIRST ART BOOK FAIR 2009。内外のオルタナティブな本のディストリビューションで知られる日本の
ユトレヒトとイギリスの
PAPER BACK マガジンの主催で行なわれる、インディペンデント出版者(社)とアーティストの本の祭典、ブックフェア、第1回目。ニューヨークやソウルでこういうブックフェアが開かれていると聞いていたので、東京で始まるのは喜ばしいこと。東京国際ブックフェアの方は何回か行ったり、電子ブックのブースに参加したこともあるけれど、場所も規模も大きすぎてユニークな本との出会いの場、という雰囲気ではない。東京ビッグサイト、人の波、商業の場、そんな感じでした。
ZINE'S MATEの方は、主催者がインディペンデントの出版をやっていたり、それをディストリビュートしたりと、もともとがオルタナティブ思考。ビジュアルのアーティストたちとのネットワークがあり、ギャラリー展示や出張ブックストアも日本各地でたくさん企画、実施してきたところです。どちらかというとイラストレーションや写真など視覚系作品を介しているものが多いけれど、音楽系、テキスト系、ライフスタイル系、、、今を生きる人間の生活や思考を豊かにするものなら、それもオルタナティブなアプローチで、それを広い意味でのアートと捉えているのではないかな、と思います。
まだまだオルタナティブな本は出会いの場が少なく、またそういう出版者どうしが一つ所に集まることもないので、このフェアは新しい局面を開いてくれそうな予感がします。またアーティストたちにとっても、年に1回自分のつくったアートブックを発表する恰好の場になるのではないかと思います。葉っぱの坑夫も出展を決めてから、このフェアに合わせて新しい本の企画をいくつか考えてきました。今回は初めてzineをつくってみることにしました。フォトコピーによる、簡易な体裁の、つくる人の思いがシンプルに形になった、小さめのワンテーマ、一息、スピーディなプロセス、安価に買える、、、そのような本をジンというのではないか、と思っているのですが。スイスのNievesがジンで人気を集めたので、イラストや写真などビジュアルブックのことを指すのだと思っている人も多いと思いますが、元々はアメリカでパンクの人やミュージシャンやポエット、政治的に何か言いたい人、旅人、ユニークな暮らしをしている人、面白い発見をした人、自分の見方をもっている人、悩める人などなどが、主としてテキストで自己主張する場として生まれたメディアだったようです。
Sweet Dreamsという音楽&カルチャーマガジンの主宰者から教えてもらって、わたしも目から鱗でした。そして実際に様々なジンを借りたり取り寄せたりして手に取ってみて、なるほど、、、と思うところ多々ありました。
今、葉っぱの坑夫が準備しているのは3つのジン。写真+テキストのジンが一つ、絵のみのジンが一つ、テキストのみのジンが一つ。もう少し形になったところでこのジャーナルで紹介できると思います。
ZINE’S MATE
TOKYO'S FIRST ART BOOK FAIR 2009
開催日:2009年7月10日(金)〜12日(日)
(7月9日夜にに招待制のプレビューあり)
会場:GRYE, Vacantほか
GYRE:
gyre-omotesando.comVacant:
www.n0idea.com*葉っぱの坑夫はVacantの方に出展します。
オルタナティブメディアの勝利、ワールド・サッカーの世界
ヨーロッパのサッカー・シーズンも5月で終わり、ここからしばしの休憩に入る。08/09シーズンはCS放送でかなりたくさんの試合を見た。特に終盤になってからは重要な試合は、スケジュール帳に放映日をメモして見逃さないようにしていた。見るのはほとんどがJ SPORTSというスカパーやケーブルTVで見られるスポーツ専門放送局。これのおかげで主要なゲームがかなり見られる。NHK BSでもいくつかの試合は見られるし、地上波の民放ではフジテレビが深夜に放映することがたまにあるけれど、全体からみたらごく一部。たよりになるのはJ SPORTSである。放映する試合数だけでなく、放送内容のクォリティにおいても、ユニークさにおいても、既存の放送局と比べて勝っていると思う。
わたしがテレビでサッカーを見るようになったのはここ10年くらいのことだと思うが、見るのは100%ワールド・サッカー。つまりワールドカップであったり、ヨーロッパのクラブチームのゲームを見ている。最初は4年に一度のW杯くらいしか見ていなかった。それがだんだんクラブチームの試合やヨーロッパ杯にあたるチャンピオンズリーグまで見るようになった。なぜ欧州のサッカーかと言えば、そこがいま、世界のサッカーの中心地になっているからだ。日本をはじめ、南米、北米、それぞれにプロのクラブチームはあり、選手の行き来もある程度はあるが、ヨーロッパの人的交流の密度と層の厚さ、定着度と比べるとかなりの差があるだろう。
人的交流の密度が濃い欧州サッカー、世界中からクォリティの高い選手が集まり、その才能が世界最高の舞台を得て花開き、テレビ中継によってほぼ全世界に配信され、様々なメディアに流れ、信じられないような名プレイや伝説的エピソードも生まれる。。。そのような場となっている。
J SPORTSはジェイ・スポーツ・ブロードキャスティングという会社による専門放送局で、前身はイギリスの衛星放送局スカイ・スポーツと関係があるらしい。現在日本での試聴可能世帯は800万世帯弱。ケーブルや直接受信での有料放送である。スタートは1990年代(SKY sportsが1998年の開局)ということなので、日本がワールドカップ本大会初出場を果たしたフランス大会の1998年と重なり、ほぼわたしのテレビ観戦の経験とも重なる。
800万世帯、と言えば、テレビの世界で言えばオルタナティブに属するだろうし、実際の視聴者数はもっと少ないことが予想される。CS放送の契約はスカパーでもJCOMでも、普通は複数チャンネルのパックで申し込むことが多く、映画、ドラマ、ニュースなどと共にJ SPORTSの一部がスポーツチャンネルとしてパックの中に含まれている。だからJ SPORTSを見たことがない人も「視聴可能世帯」の中に数として入っているはずだ。
また知名度から言っても、J SPORTSと言って知ってるという人は、日本でマイナーなスポーツを見ている人がほとんどではないかと思う。バスケットボールとか、アイスホッケーとか、モータースポーツとか、サッカーとか。
わたしが見るのはワールド・サッカーのみなので、サッカーの番組について言うと、このオルタナティブ放送局の番組づくり、実況アナウンサー、コメンテーターはなかなかユニークなものが多い。同じゲームを見るならば、まず民放のフジやNHK BSは選ばない。民放はまずコマーシャルが多すぎるし、実況が無駄に騒がしく、その上ゲスト・コメンテーターも含め、感情移入の多い発言に時間を取られ、実況にともなう情報、データが視聴者に充分知らされない。NHKはそれほど騒がしくはないが、特に面白いところもない。J SPORTS(1、2、ESPN、Plusの4局)も、実況アナウンサーやゲストによってバラツキはあるが、何人かの非常にユニークなパーソナリティがいて、楽しく見ることができる。それらの人々は試合実況において、豊富な知識とデータをクールに素早く提供し、選手や監督、クラブの状況、スタジアムの歴史、ときに背景にある文化状況やその国のサッカー史についてもさらりと教えてくれる教養の高さがある。また実況だけでなく、いくつかある試合前のプレビューショー、トーク番組などの情報番組でも活躍している。
たとえばフリー・アナウンサー倉敷康雄さんによる「FOOT/World Soccer News」だとか、スポーツコメンテーター西岡明彦さんによる「E.N.G.ーイングランドサッカー情報番組」などは、見ていて面白いし、サッカーを取り巻く世界の様々な出来事、情報を伝えてくれて、サッカーから世界情勢をのぞきみるような側面もある。ゲストとして呼ぶコメンテーターにもユニークな顔ぶれが多く、共通しているのはどの人もサッカーを非常によく知っていること、だから発言がすっきり、クール、それでいてトピック豊富。それらの人々には元プレイヤーだったりやサッカー専門誌の編集者だったりする人もいて、言語能力に優れ、スペイン、ブラジルなど海外に拠点を置いて、そこからのレポートやプレイヤーへのインタビュー映像などもしばしば送ってきたりする。ものの見方、視点の置き方、興味の方向性に自然に世界性が備わっていて、海外プレヤーたちとの会話もフレンドリーかつ的確。低予算から取材スタッフの数はごく少数と思われるが、内容的にも、インタビューする相手との距離の取り方も、地上波民放やNHKのスポーツ番組では見たことのないレベル、感じの良さである。
オルタナティブ放送局だけあって、スタジオのしつらえから取材スタッフの要員数まで低予算であることは見ていてわかる。でもその分、コマーシャルが少ないので番組を落ちついて見ていられるし、いろいろ面白い点もある。たとえば「FOOT」では話題として取り上げている該当の試合の映像が(放映権がないため)流せないことが多々ある。そういうときは、絵に描いたもの(イラスト)で見せるのである。テレビに静止画! しかもスポーツ番組で!! 最初は奇妙な感覚と映像が見られない苛立ちがあったものの、慣れてしまえばそれはそれは。しかも「いつものように、内巻敦子さんのステキなイラストでご紹介します」と倉敷アナウンサーに楽しそうに言われてしまうと、苦笑しつつも納得。毎回見ていると、なるほど、と内巻さんのイラストにも親近感が湧いてくる。
「FOOT」にゲストコメンテーターとして時々登場する木村浩嗣さんは、サッカー専門誌「footbalista(フットボリスタ)編集長で、セビージャ(セビリア)在住。なんとこの雑誌(日本語による日本の雑誌です)、週刊だそうで、定期購読の方法の一つとして、朝刊といっしょに発売日の水曜日に配達される、というディストリビューションの方法もあるそうでユニーク。最近の木村さん登場の「FOOT」ではセビージャでの暮らしぶりやスペインのメディアの話、言語にまつわる話など、ゲームの話題だけでなく、サッカーとサッカーの地の文化状況についてもごく自然に語られていた。
ワールド・サッカーの面白さは、ダンスの舞台を見るようにゲームやプレイヤーのアートと言ってもいい世界レベルのクォリティを楽しむこともあるが、それに加えて多種多様な人種、民族、言語の混合、サッカーの背景にある歴史やそれぞれの国の文化状況、さらにはグローバル投資家たちのマネーゲームの実体まで見えてきて、わたしたちが住む世界のリアルを実感するきっかけにもなる。そういうポイントを的確に拾って、解説したり、紹介したりできる人材が、日本のオルタナティブな放送局、スポーツ専門チャンネルに存在することは、日本のブロードキャストも捨てたものではない、と思えて嬉しい。
イギリス人による北朝鮮のサッカー・ドキュメンタリー映画
ワールドカップ・サッカー南アフリカ大会が来年に迫り、アジア地区の予選も最終予選の何試合かを残すところとなっている。今のところ日本はグループAでオーストラリアに次ぐ2位、グループBでは韓国、北朝鮮が1、2位で入っている。ワールドカップに北朝鮮が参加しているとは知らなかったし、韓国と僅差で出場枠に収まっていることにも驚いた。先月1日にソウルで行なわれた韓国対北朝鮮戦は、日本のテレビでも放映された。結果は1−0で韓国が勝ったが、初めて見る北朝鮮のサッカーの戦いぶりはなかなか迫力あるものだった。中でも川崎フロンターレに所属する、在日三世の鄭大世(チョン・テセ)が放った強烈なシュートは、ビデオ画像では確かにゴールラインを割っており、審判は韓国キーパーのセーブと見なしたけれど、ゴールでもおかしくなった。
この試合について、当の鄭大世は、「韓国は強く、守備重視で戦ったけれど最後にやられてしまった。本大会に韓国とともに出場したい」と述べている。Wikipediaによると鄭は愛知県生まれで韓国籍、なぜ北朝鮮代表で出られるのか、そのあたりの事情はよくわからない。4月1日の試合ではモヒカン風のヘアスタイルで登場、そのときは在日コリアンとは知らなかったので、北朝鮮にもこういう若者がいるのか、と興味をもって見ていた。北朝鮮代表ということでいうと、もう一人、安英学(アン・ヨンハッ)という在日、朝鮮籍のサッカー選手がいる。新聞のインタビュー記事などで見る安選手は、広い視野でものを見る好青年という印象で関心をもっていたが、4月1日の代表戦には出場していなかった。ソウルでの4月1日の代表戦については、韓国代表の、そして現在ヨーロッパ最強と言われるイギリスの名門クラブチームで活躍する朴智星(パク・チソン)選手も朝日新聞のインタビューにこう答えている。「政治的なことは忘れて戦った。北朝鮮とはしゃべる言葉が同じで、家族みたいな感じもある。W杯に一緒に行ければいいとは思う」 何気ない言葉の中に、日本、オランダ、イギリス、と言語、文化の違う国々をサッカーで渡り歩き、多国籍の選手の中でもまれ、かつ成功してきたアスリートのセンスを感じる。また鄭、朴二人の話から、アートや文学と同様、スポーツというものが現実の世の中でどのように作用しているか、そこに関わっている一人一人は何を考えているのか、をかいま見る思いがした。
さて前置きが長くなってしまったが、北朝鮮を取材した2002年のサッカー映画「The Game of Their Lives/奇蹟のイレブン」について。これは1966年、ワールドカップ・サッカー、イングランド大会での、北朝鮮の活躍と当時のメンバーのその後を追った80分のドキュメントである。プロデューサーであり監督であるダニエル・ゴードンはシェフィールド出身のイギリス人映像作家。子どもの頃からのサッカー好きが、地元クラブについての本を出版したり、衛星テレビ、スカイ・スポーツでプレミアリーグなどのドキュメンタリーを制作する中で、この企画を実現した。8歳くらいのとき、父親から贈られた1966年のW杯のビデオ、その中で見た、まったく未知の国、顔つきも違えば言葉も違う北朝鮮チームが巻き起こした旋風、奇蹟的な出来事、そのことがずっと心に残っていた、とDVDのインタビューの中で語っている。
そしてもう一人のプロデューサー、ニコラス・ボナー、北京在住のイギリス人アーティスト、この人の1993年の北朝鮮への旅が映画のもうひとつのキーポイントになっている。ボナーは北京のイギリス大使館がつくる草サッカーチームで当時プレイしていた。そのときのチームメンバーに北京在住の朝鮮人がいて、ボナーともう一人のイギリス人ジョッシュ・グリーンは彼と交遊をもつ。それがきっかけとなって、ボナーとグリーンは北朝鮮への旅を企画する旅行会社をつくる。何度かの北朝鮮への旅の最中でボナーは、1966年のW杯ベスト8進出のエピソードを耳にする。1997年、ボナーはTVプロデューサーのダニエル・ゴードンから連絡を受け、1966年W杯のときのメンバーを探せないか、との依頼を受ける。二人のサッカー好きのイギリス人が、別々に出会った1966年の出来事、そして30年後に起きた二人の出会い。それがこの映画制作の始まりとなった。
ここからチームメンバーを探し、映画を撮影するためにクルーが平壌入りする許可を得るまで、4年の歳月が流れる。ダニエルは言う。北朝鮮についてはまったく無知だった。分断国家であることは知っていたが、歴史的なことや政治的なこと、朝鮮戦争についても映画を撮ることになってから学んだ。そしてこの映画で何を語るべきか考えたが、スポーツ・ドキュメンタリー作家として、中立的なスポーツ映画として撮ることが最善だと思ったし、そういうものとして撮ったことがいい結果を生んだのだと思う、と。1966年と言えば朝鮮戦争からわずか13年後。朝鮮戦争の映像は映画の冒頭で流されるが、その惨状には目を奪われた。戦後復興の中でのW杯出場がいかに市民に希望を与えたかは想像できる。ヨーロッパからの真夜中の実況放送に熱狂した市民のエピソートも語られている。ダニエルはこの映画が南北朝鮮の両方の国で公開されることも重要なことだった、と言う。朝鮮戦争後、というか停戦中のまま、平和条約が結ばれることなくここまで来てしまった両国。とくに北朝鮮は冷戦構造が崩れた中で、世界からの孤立度を深めている。
わたしはたまたま読んでいた「北朝鮮の人びとと人道支援」(2004年/日本国際ボランティアセンター)という本でこの映画のことを知った。そしてDVDが出ているのを見つけ、購入して見た。映画は日本でもシネカノンで公開されたようだ。映画のあらましを言うと、W杯最終予選の対オーストラリア戦の模様を当時の映像で紹介するところから始まり、7人のチームメンバーの現在のインタビューを折り込みながら、本大会の模様へと進んでいく。北朝鮮チームはまずイギリスへの入国許可のところでつまずくが、FIFA(国際サッカー連盟)が開催地の変更を検討し始めたところで、イギリスは国交のない北朝鮮の入国を許可する。1966年当時、世界は冷戦構造下にあり、北朝鮮をどう扱うは多くの問題を含んでいた。国家の対応というのは常にそのようなものだけれど、北朝鮮チームを迎えたホストタウン、ミドルスブラの人々は違った。地元チーム「ミドルスブラ」はイングランドでは上位のチームではなかったが、サッカーに愛情をもつ人々は、アジアからやって来たW杯初出場の北朝鮮チームを暖かく迎え、途中からはそのプレイに感嘆し、熱狂をもって応援、サポートしたという。ミドルスブラというイギリス中東部の小さな町の人々との間にチームメンバーは友情を築き、ミドルスブラの人々にとってもこのW杯は語り継がれるエピソードとなった。
7人のチームメンバーは、映画制作終了後の平壌でのバーベキューパーティで、イギリスを懐かしく思う気持ちが膨らみ、再訪したいとプロデューサーに夢を語り、それは実現する。映画には北朝鮮のメンバーだけでなく、当時を知るミドルスブラの町の人々(全員のサインをもらったと誇らし気に語る、元少年など)や当時記事を書いたジャーナリスト、放送関係者たち、また対戦相手でベスト8進出を北朝鮮に阻まれた優勝候補の一角イタリアの当時の監督などがインタビューに応じている。北朝鮮、イギリス、どちらの人々の話からも、1966年当時、そこで起きた語るに足る出来事、サッカーが起こす奇跡をともに体験した熱気のなごり、そして人と人の結びつきが残したもの、友情、希望、、、そういったものが伝わってくる。
DVDのインタビュー映像の中で、ダニエルは最後にこう結んでいる。この映画のメッセージは、パク・トゥイク選手の言葉に集約されていると思う、と。「サッカーは互いに見知らぬ人々を親密に結びつけることができる」
参考:
1.「奇蹟のイレブン 1966年W杯 北朝鮮VSイタリア戦の真実」(2006年/東北新社)のDVDはamazonで扱っています。
2.Nicholas Bonner and his North Korean films(英語)
http://www.danwei.org/people_nicholas_bonner_and_his.php3.ダニエルがこの映画を作るために会社をやめ創立した映画会社VeryMuchSo Productionsのウェブサイト。
http://www.verymuchso.co.uk/
粟津潔さんのこと
グラフィックデザイナーの粟津潔さんが亡くなられたという記事を読んだ。80歳だったそうだ。新聞記事に川崎市内の病院で、とあったので、多分いまも生田の星の見える天井の家に住んでおられたのだろうと思った。
もう随分前のこと、わたしが20歳をちょっと越えたくらいの駆け出しコピーライターだった頃、不動産会社のPR誌の編集をいくつかしたことがある。当時不動産業は上り調子で景気がよかったが、土建屋的なイメージがダサイということからか、環境破壊の元凶というありがたくない印象を払拭するためか、こぎれいで文化的なPR誌をつくるのが企業のはやりだったからか、いくつものPR誌が次々に創刊されていた。そのページを構成する一要素として、巻頭で文化人、作家、アーティストなどにインタビューしたり、原稿を書いてもらったり、という客寄せ的なことがよく行なわれていて、もしかしたらそれはその頃のPR誌の発明品だったのかもしれない。
というのも、当時席を置いていた銀座の広告代理店で、作家年鑑などの住所録をたよりに無手勝流に作家の自宅に電話しまくる二十歳そこそこの駆け出しは、まわりのクリエーターたちからやや奇異な目で見られていたから。なんだコイツは、と。粟津さんにインタビューをお願いした経緯は、たしか建築雑誌に載っていた粟津邸を見てのことだったと思う。小田急線の生田だったか読売ランドだったか、最寄りの駅は当時、新宿から3、40分の距離にもかかわらずかなり田舎のイメージで、駅を降りてからもこんなところに家があるのかという山道をえんえん同行のカメラマンと登っていった記憶がある。
そうやって辿り着いた粟津邸は、建築雑誌に載るくらいだから当時建って間もなかったと思われ、外からドーム型のガラス天井が見えるモダンな白い建物だった。粟津さん自ら迎え出てくれて、玄関からリビンクに向かう廊下の天井が星が眺められるガラスのドームになっていることを楽し気に話してくれた。今考えれば、粟津さんはまだ40代だったのかもしれない。もちろんすでにデザインやイラストレーションで世に認められた人ではあったけれど。
印象的だったのは、ソファに座って話し出す前に、窓の外を見せながら、あそこは木々のきれいな森だったけれど、伐採されて造成地になってしまって窓からの景観が変わってしまった、と話されたこと。なぜかそのことはよく覚えている。コーヒーを出してくれた奥様もまじえて、いろんな話を気さくにしてくれた。その内容は当時のPR誌でも引っ張り出してこないことには覚えていないが、とてもカジュアルな雰囲気の中で質問のひとつひとつに真摯に答えてくれて、また温かみと優しさを感じさせる人柄にも感銘を受けた。何十年もたった今も、そのときの粟津さんの雰囲気はふんわりと記憶の中に残っていて消えることがない。川崎の同じ多摩丘陵に越してきた何年か前に、散歩の折りに粟津邸を記憶の地図をたどりながら探したことがあった。直線距離なら徒歩30分圏かと思われたが、辿り着けなかった。
不動産のPR誌の取材というと、進歩的な文化人やアーティストからはときに蔑みの目で見られたり、依頼の電話口で説教のような講義を受けることもあった。そのどれもが面白かったし、断られる場合もそれぞれの作家のものの言いように個性があって興味深かった。そんな中で粟津さんは、借りものではない自分の視点で社会を鋭く見据える人であると同時に、現在進行形の「現実」、今起きていることのあり方に対してもある種の敬意を払っている人のように見えた。だからなのだろうか、森の伐採の話が心に残っているのは。窓の外の森の話をされたとき、残念そうではあったが、強い非難の調子はなかったと思う。不動産業者のいわば太鼓持ちをするPR誌編集者に対しても、現在という点の中からではなく、もっと広い視野からの話をしてくれていたのかもしれない。
粟津さんのオフィシャルHPを見ていたら、こんな文章があった。
作品をつくるということは、何を見ていたかということである。ここでいう見るということは、記憶と、これからあろうとする情動の衝突である。
Thinking EYE=「思考眼」 ......ものを創りだす仕事は、ひとつの作業であり労働でもある。思考は、その中で生れてくる。
この二つは、わたしの中でピタリと収まりどころがある。二番目のものは、この文章を送ってあげたい人のことを思い起こさせた。
粟津さんはまたこうも書いている。
私はこれまでに幾度か、「出合い」という言葉を用いてきた。これは二つ以上の因子が交叉するという意である。ある人は、これを偶然性とよんでいる。何かひとつのものを見つめていきたい。そうすると、ひとつの事情は、見つめれば、見つめるほどあてどなく広がって行く。出合いはそんな時現われてくる。
出合いはそんな時現われてくる。か。わたしが今日、粟津さんの死によってこうして粟津さんの文章に触れているのも、出合いによるものなのだろうか。
粟津潔さんのHP
Kiyoshi AWAZU .com*contactのページにある写真は、粟津邸の廊下の「星が見える」ドーム型の天井だと思います。Englishページには、アーティストのものとしても珍しく、長いエッセイに至るまですべての英訳が揃っています。さすがですよ、粟津さん!!
Englishes, 星の数ほどある英語たち
前回のポスト「語学とスポーツ選手」の終わりに、国境の消えたEU内で移動する人々の英語選択率が高いことはある程度自然の流れ、今の英語一極化を従来の植民地主義や覇権主義だけでは説明しつくせない、ということを書いた。では何故、英語だけがこれほどまでに選択され続けているのか。「多くの人に使われてきた、使われている」からさらに使う人が増えるのだ、というようなことを何か(水村美苗「日本語が亡びるとき/英語の世紀の中で」だったか)で読んだ記憶があるが、それだけではどこかすっきりしない。自分の感触としては、英語は他の言語と比べて、単純で取得しやすいからではないか、という気がしていた。そういえばスペイン語と英語を教えている友人(母語はスペイン語)も、英語を教える方がずっと楽、こんな簡単な言語はない、と言っていた。
英語が簡単な言語であるかどうかは議論のあるところかもしれないけれど(スペルと発音の一貫性のなさなどはよく言われている)、英語がコンピューターにフィットしやすいことからも、ある単純化はされている気がする。同じラテン文字言語でもフランス語やドイツ語はアクセント記号のつく文字があり、abcの26文字に収まらない。葉っぱのコンテンツでフランス語やスペイン語、あるいはヘブライ語などの表記が必要になると、フォントのインストールやキーボードの設定をしなければ文字が打てない。コンピューターを発明したのが英語圏の人間だったからさ、と言う人がいるかもしれないが、逆に言えばコンピューターの思想はより単純な言語の話者によって初めて生まれた、と言えるのかもしれない。
言語学者の鈴木孝夫によると、英語は17世紀以降、話者数を世界に広げる中で言語としてもまれ、結果外国人(非英語圏の人)に「学ばれる言語」としての成長があったという。(鈴木孝夫、C・Wニコル著「ことばと自然」) 1600年頃、シェークスピアの時代には英語を話す人口は400万人しかいなかった(イギリス)。それがイギリスの膨張、つまり侵略による植民地化の中で英語話者を増やし続け、現在は14億人が日常的に英語を使い、英語を母語とする人だけとっても4億人もいるらしい。この膨張の歴史の中で、英語は各地域でローカライズされ、地域ごとに特長のある(発音においても語句の使われ方や表現法にしても)英語が生まれ育っているのだ。どのような英語を話すかで、その人のアイデンティティを表明することができる。たとえば、鈴木孝夫によると、ヤーコブソンというハーバード大の言語学者は、ロシア生まれのユダヤ人で、フランス語を学んだ後アメリカに亡命したという履歴の人で、話す英語はフランス語風味のロシア語なまりだという。
この言語学者の英語のしゃべりはハーバードでも有名だそうで、しゃべる言葉が個性や人格のひとつとして認識されているのではないか。言葉というのは元々そういうものであるし、またそれが人それぞれのしゃべる言葉の魅力にもなっている。英語を話す際、自分の母語の臭いを気にして必死に消し去ろうとするのは、アイデンティティや自分の歩いてきた道を消そうとする行為かもしれない。人に伝わりやすいクリアーな英語を話す努力をするのは、特に英語が母語でない人々との会話をスムーズに運ぶために、ある程度したほうがよいと思うが、日本人が「ネイティブのように」「アメリカンのように」話す必要や意味はほとんど見つけられない。
自分の経験でいうと、英語が便利な言葉だと思うのは、非英語圏の人々と話すときにより強く感じられる。朝鮮語や中国語、ベンガル語、フランス語、ドイツ語ができなくとも、相手が英語が少しでも話せれば会話することができる。コミュニケーションがとれる。旅した国々で、あるいはメールで、さまざまな言語話者たちと英語を通じて話ができたことはかけがえがない。それぞれのお国なまりや不思議ないいまわし、母語と英語のちゃんぽんによる会話は、英語話者とのコミュニケーションとはまた違った面白さや風味を記憶にとどめる。
同じ国民同士が、英語によって言葉をつないでいる例もある。アフリカ諸国などでは、地域ごとにローカルな言語が多数あって同国人同士が英語を共通語とするというような。ケニアやザンビアのように、共通語を持たないところにイギリスの植民が始まると、英語がその国の超地域的な言葉、共通語となるケースが多いようだ。同様にトーゴなどフランスが植民していた国では、フランス語が共通語、公用語になっている。中国にも地域語がたくさんあり、イギリスの植民を受けていた香港では英語が公用語の一つになっていた時期があるが、中国全土として見るならマンダリンと言われる北京語に近い標準語が共通語の役割を果たしているらしい。香港に遊びに行ったとき(イギリス植民時代)、街角のバーでテレビを見ていたら、英語のドラマに2種類の字幕がついていたのを見て不思議に思ったことがある。香港の人は日常語としては広東語を話す。バスの中で英語で熱心に話しかけてくる青年がいて、降りるまで話すはめになったことがあるが、特に達者というわけでもなく、香港の人にとって英語は公用語ではあっても外国語なのかなあと思った。
Englishes、という言い方があって、Englishはふつう複数形にしないが、世界にはいろいろな英語があるという意味でsを付けて言うことがあるらしい。constellation of English(英語の星座)とかgalaxy of English(英語の銀河系)という見方もある。上記の鈴木孝夫さんの本にあった記述。
英語そのものからは少し離れるかもしれないが、関係の話題として。最近日本の雑誌などで、日本人の名前を英語(ローマ字?)表記する場合、名字、名前、の順で記すことが多くなっている。ふりがなのつもり?と思ったが、使われている箇所、ケースを見ると、必要からというより、主としてデザイン処理として英文字を入れているように見える。ウェブサイトやメールの名前などでも名字、名前、の順の人は増え続けている。わたしも15年くらい前に一時的にそうしていたことがあるが、短期間でやめた。理由は二つあって、一つは英語のコミュニケーションの中で使う場合、混乱が起きやすいから。こちら側に「日本人だから日本名の順番で表記したい」という意図があっても、それが相手に伝わらなかったり、姓名、名姓の二つのケースが混在していると、いったいどっちがどっちなのか判断に困るからだ。二つ目は、姓か名か、と言えば名の方が個人を表わすもので、名字はfamily nameというように家族の名前。日本において家族名の後に個人の名前が来ているのも、封建制度の名残りではないかと思っている。英語表記でYamada Hanakoとするより、むしろ日本名をこそ花子山田としてもいいときが来ているのではないか。
語学とスポーツ選手
元サッカー選手の中田英寿が、テレビの旅番組で地元の子どもたちと道ばたでボール遊びをしているのを見たことがある。だいぶ前のことでどこの国だったか覚えていないが、アメリカやイギリスなどの英語圏ではなく(風景や子どもたちの様子から)、でも子どもたちと中田が英語で話していたから、元宗主国が英語話者の国だったのかもしれない。セリエAにいた中田英寿がイタリア語がよく話せることは知っていたが、英語を話すかどうかは知らなかった。地元の子どもたちとの会話以外に、インタビューのような形の質問を英語で受け答えしていた様子からも、普通に自分の意志を自分の言葉で相手に伝えられるくらいのレベルにあるように見えた。
あとで聞いたところによると、中田はイタリアでプレイしていた頃から英語のレッスンを受けていたという。セリエAの後にイギリスのボルトンというクラブで2年くらいプレイしていたから、というより、イタリア時代から英語圏の記者には英語でインタビューを受けていたとも言われている。またイタリア語については、高校時代から学んでいて、最初にイタリアに行った時点であるレベルに達していたらしい。
高校時代からイタリア語を勉強していたのは、イタリアでプレイするという目標があったからに違いない。またイタリアでプレイするうちに、外国人記者に自分の言葉で直接(通訳抜きで)意志を伝えるには、英語も取得しておいたほうがいいと思ったのかもしれない。イギリスのプレミアリーグに後に行っているわけだから、行きたい、行くことになるかもしれない、という目標があった可能性もある。イタリアのクラブチームは、イギリスやスペインと比べると、自国人が多いという印象がある(トップのインテルを除く)。イタリアにずっといるつもりなら、イタリア語ができれば事足りるように見える。
イギリスやスペインの一部リーグの現在の状況を見ると、外国人選手の割合はかなり高く、国籍も中南米、アフリカの各国、オーストラリア、そしてオランダ、ドイツ、フランス、ときに東欧も含めたヨーロッパのプレイヤーももちろんたくさんいる。各国選手が入り混じったクラブチーム、そこではどんな言語が話されているのだろう。
もう一人、ヨーロッパのトップリーグで活躍する数少ないアジア出身のサッカー・プレイヤーに、韓国の朴智星(パク・チソン)選手がいる。朴選手の場合は、プロ生活を日本、オランダ、イギリスで持ったことから、この三つの言語が話せるという。自身の著書によると、日本語は日本に来てから学んだもので、約2年間の選手生活の中で取得したものだそうだ。クラブチームの寮で生活していたことで身近に言葉を覚える機会があったことに加え、自習で毎日テキストブックを丸覚えするような学習をしていたとのこと。日本語について何もわからなかったからそうしていた、と本人は書いているが、その方法で半年目くらいから面白くなってきてどんどん進歩したという。YouTubeで朴選手が日本語でインタビューに応じているのが見たことがあるが、まったくその通り、かなりのレベルの日本語話者だった。
朴選手がオランダ語でインタビューを受けている映像はまだ見たことがないが、短いインタビューであれば問題なくこなせる、と本人は書いていた(自著)。オランダはもともと、オランダ語の話者が世界的に少ないことから、英語を話す人が多い国と言われている。それに加え、オランダ・リーグも外国籍の選手が多い(ここを経て、プレミアやスペインに移籍するというマーケット的存在でもあるらしい)ことから、チーム内の言語がオランダ語と同時に英語も使われている可能性もある。監督も(オランダに限らず)、クラブチームの同国人とは限らない。朴選手のいたときのオランダのPSVの監督は、2002年W杯の韓国代表の監督として知られるフース・ヒディンクでオランダ人、ただしインタビューなどパブリックなところでは英語で話すことが多いようだ。朴選手はオランダ時代、オランダ語の勉強と共に英語の勉強も平行してしていたそうだ。現在籍在中のイギリスのマンチェスター・ユナイテッドは、監督も英国人(ただしスコットランド訛りが強く聞き取りに苦労するらしいが)であるし、チームメンバーはポルトガル、アルゼンチン、ブルガリア、セルビア、フランス、オランダ、ブラジルなど多岐にわたるので、英語が共通言語と思われる。朴選手は今も英語の勉強を毎日2、3時間のペースで続けているという。メディア関係の英語によるインタビューも何回か見たことがある。イギリスに来た当時から、早く言語に慣れるようにと、通訳なしでずっと来ているそうだ。あらゆる面において選手のサポートが万全なマンチェスターではもちろん、朴選手のために通訳を用意していたようだが、丁重に断ったとのこと。
中田、朴両選手とも、語学に対してかなり自覚的で、早くから積極的に学んでいたことがわかる。朴選手は言語によるコミュケーションはサッカーにとって重要とも著書に書いている。たしかにサッカーは野球など他のチームプレイによるスポーツと比べて、コミュニケーションは重要な要素となるのかもしれない。そういう面から見ると、野球は、投手捕手の関係以外は、言葉のない(必要ない)世界にも見えてくる。個々の人間が打たれたボールを追い、他のプレイヤーに渡すけれど、それは「やりとり」というよりは、各ベースへの投球ということなのかもしれない。そういう意味ではほぼ一方通行。それに比べるとサッカーは、プレイヤー同士のパスのやりとりがそのままコミュニケーションであるし、シュートひとつするにも何人かのプレイヤーの連携が上手くいって初めてゴールを割るケースが多い。フィールド上でのコミュニケーションは、それ以前の練習中の、ミーティングでの、あるいはドレッシングルームや普段の何気ないコミュニケーションが上手く取れていて成功するものなのかもしれない。
最近はたくさんの日本人野球選手が大リーガーとなって活躍しているけれど、英語で話すことを求められる機会は少ないのではないか。イチローはかなり上手に話せると聞いたことがあるけれど、メディアで見たことがあるのは、だいぶ昔に記者会見場で「that's it!」とひとこと言うところくらい。プレイをする上でそれほど必要性がなければ、語学を自習することもないのだろう。野球選手の場合は、移籍といっても、プレイできる国が少ないし、最高峰がアメリカと決まってしまっているので、自分を常に(言葉も使って)アピールしている必要もないかもしれないし、チームメイトにしても監督にしても人の混じり具合が限られているのだと思う。
サッカーの場合、たとえプロリーグや立派なクラブチームが自国になくても、サッカーという球技自体はさまざまな国や地域のストリートで遊びとしても広まっているし、4年に一度のワールドカップという一大イベントもあるから、テレビがあって放映されていれば、サッカー少年やサッカーファンはどこにでも生まれる。結果、夢をいだいた子どもたちが、世界中からプロとして活躍するために、クラブチームのある国にやって来るわけだ。そしてサッカーに関しては、今はヨーロッパが最も市場として大きいので、多くのプレイヤーがヨーロッパ、今なら中でもイギリスのプレミアリーグやスペイン・リーグなどを目指す。そのプレミアリーグにはありとあらゆる国籍の選手が集まって来ているし、スタープレイヤーの数も多い。その人たちのかなりの数が、英語を取得しているようにインタビューを見ていると思える。
他のスポーツはどうか。テニスについてはかなり昔から選手は英語を取得していた可能性がある。世界ランキング上位の選手であれば、試合後にインタビューを受ける機会も多いが、英語での受け答えは特別なことではない。古くはドイツのシュテフィ・グラフ選手が17才でナブラチロワを破って、全仏オープンで初優勝したときのインタビューは英語だった。1987年、今から20年以上前のことである。現在も活躍するスイスのロジャー・フェデラー選手がウィンブルドンを初制覇したときも、インタビューの言語は英語だった。英語を話す人口がそれほど多くないと言われるスペインのプレイヤー、フェデラーのここ数年の宿敵であるラファエル・ナダル選手もインタビューは常に英語だ。日本では一線での選手生活が長く、ダブルスなどで外国人選手と組むことの多い杉山愛選手が、英語によるインタビューを受けている。
フィギュアスケートの選手も、母語が英語でなくても、インタビューを英語で応じている人がそれなりにいるようだ。韓国のキム・ヨナ選手も、日本でのインタビューは英語になるようだ。それほど達者ではないように見えたが、それでも英語で受け答えをしていた。フィギュアスケートも、コーチが自国人ではないケースも多く、それがロシア人であっても、その人が英語話者であれば、コミュニケーションは英語で行なわれるケースもあるのだろう。技術習得と同時に、語学教育もアスリート育成のプログラムに入っているのかもしれない。日本のスポーツ界に、語学への真剣な取り組みがあるのかどうか、あるいは選手個人が個別に取り組んでいるケースはどれくらいあるのか、そのあたりは興味がある。一般に高いレベルでの活躍があり、世界をまわって競技している選手は、語学が達者なようだ。プロスポーツの世界は、フィールド内のアピールだけでは済まないということかもしれない。
ところで以前から面白いと思って見ているのが、外人力士の日本語能力。モンゴルやハワイ、ときにブルガリアなどからやって来た力士のほとんどが、テレビでインタビューを受けるくらいまで番付が上がってきたときには、すでに達者な日本語を話している。それも「外人の日本語」という風にも聞こえない、かなり日本語のしゃべりに順応した「自然な」(この言い方は差別用語ではないか、と作家の多和田葉子は言う。その可能性はあると思う)日本語をしゃべる。これは若くして日本に来て、その後ずっと、親方の部屋で他の弟子たちと共同生活しているせいなのか。語学の能力はさまざまな側面があるから、ひょっとしたら読み書きの能力はそれほど高くないかもしれない。とはいえ、漫画週刊誌などを練習後の部屋で楽しんでいそうな気もしているのだけれど。もっと言えば、漫画から日本語をたくさん学んだということもあり得そう。
と、ここまで書いてサッカー選手にもどると、ひょっとしてヨーロッパはEUが根付いてから、少なくともヨーロッパ地域内の意識としては、どこでプレイしても選手にとってあまり国境を越えたという実感がなくなっているのではないか。と思って外国人枠についてWikipediaで調べてみると、サッカーについては、1995年以降、EU加盟国の国籍を持つ選手は、EU内のクラブチームでは外国人とみなされないそうだ。それでイギリスを筆頭に、EU内の選手が自由に動き、またクラブチームも自由に能力のある選手を取ることができるのだろう。ただし、そのせいで市場が大きく裕福なヨーロッパとその他の地域の戦力差が広がり、しばしば問題になっているという。しかし外国人枠を設けたりすると、それはそれでEUの原則である人の移動の自由を妨げることになり、原理的な問題、EUの思想の否定にもなりかねないことから実現は難しいようだ。ひとたび自由化して国境をなくした以上、その方向に進むしか道はないのかもしれない。そして国境の消えた地域内で何語が多く話されていくのかは、ある程度自然の流れによるものと言えそうだ。なぜ英語が多く選択されるのかを、植民地主義や覇権主義だけで説明しつくすのは難しいかもしれない。