20181109

閲覧・ 試聴・試乗? それとも所有?


先月末からアマゾンがプライム・ワードローブというプライム会員向けのサービスを始めた。ワードローブ、つまり服や靴、バッグなどの商品を取り寄せて、試着し、気に入れば購入、気に入らなければ返品することができるという仕組らしい。クーリングオフのように一旦購入したものを期限内に返すわけではなく、試着の注文を出すだけ。サービス利用時点での購入手続きはない。

サービス期限内(7日間)に返品すれば、すべてクリアされる。1回のオーダーは最低3点、最大で8点。購入を決めた商品は、返品しなければ自動的に支払いとなる。体験者の話では、返品伝票がついていて、簡単に返品作業はできるようだ。もちろん返品の場合も送料は着払い。いっさい費用はかからないということらしい。返品は送られてきたときの箱に商品を入れ、コンビニなどへの持ち込み、自宅への集荷のどちらもできる。

この仕組、アメリカのアマゾンのサービスを日本にも適用したもので、サービス内容はほぼ同じようだ。オンラインでの服の注文は、ときにうまくいかないこともある。特に靴などはサイズは合っていても、微妙にフィット感が悪いなどよくあること。家でゆっくり試せるので、自分のもっている服や靴との合わせを確認することもできる。そういう意味で、オンラインの服の注文がもっていた欠点を、かなりの率で解決できそうだ。

アマゾンの事業方針は、常に消費者目線と言われているが、このプライム・ワードローブもその一つになるのだろう。

なぜこのサービスが気になったかと言うと、今の世の中、無料で試せることが重要なのだなということと、自分のものとして所有することと、一時的に保持すること(試着、試聴、試し読みなど)の違いは何かということ。

商品を購入するのではなく、利用する権利を買う「定額制サービス」はいろいろな分野で活発だが、個人的にはこれまであまり利用することがなかった。毎月自動更新で、利用してもしなくても料金を取られるところにハードルを感じていた。最初にそのハードルを超えたのは、IMSLP(国際楽譜ライブラリー)への年間$22USDのサブスクリプションだった。去年の9月に登録し、今年更新している。IMSLPは無料でも利用できるクラシック音楽全般にわたる楽譜(多くはパブリックドメインになったもの)を閲覧(ダウンロード、印刷を含む)できるサービス。音源も無料で利用(試聴)できる。 

サブスクリプションは「購入」というより、非営利組織であるIMSLPへの活動支援の側面が強く、その意味でも(初めての定額制の利用としては)なんとなくハードルが下がった気がした。それは楽譜の閲覧や印刷で、普段からかなりお世話になっていることがあり、一種の感謝の気持ちがあるからかもしれない。さらにサブスクリプションをすると、Naxosというクラシック音楽のレーベルのCD、レコードなどの音源にアクセスできる。無料だと音源のバラエティは少ないので、サブスクリプションの価値は大きい。

IMSLPで楽曲を検索すると、該当ページが出てきて、Naxosの音源がいくつか(ものによっては20種類くらいのCD、レコードが出てくる)、さらにフリーで聴ける音源、楽譜(たいてい数種類/非常に古い楽譜、手書き楽譜なども出てくることがある)がページに表示される。楽曲を次々つづけて聴くことができないので、バックグラウンドにかけておくのには適さないかもしれない。交響曲など複数楽章あるものを選べば、30分、40分は試聴できるが、小曲の場合2、3分で終わってしまうからだ。

IMSLPでの1年間を経て、最近iTunesのApple Musicのサービス(3ヶ月無料)の利用をはじめた。3ヶ月無料、とはちょっと驚いたが、それくらい使ってみれば良さがわかるということか。このサービスのいいところは、かなりの広範囲にわたる楽曲(とは言ってもサービスに該当しないアルバムもある)が利用できて、試聴するだけでなく、ダウンロードもできること。つい最近、葉っぱの坑夫の新シリーズ「インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家たち」の第2回で紹介したポール・ボウルズによる『Music of Morocco』というアルバムをダウンロードした。これはCDだと4枚組のボックスセットで、日本では7000円以上の価格になっている。1960年前後に、ボウルズが現地で集めたモロッコのローカルミュージックの集大成で、2016年に発売されたものだ。 

こういうものをポンと7000円出して買うのは難しい。どんなものか一通り聴いてみたいが、いつも、ずっと聴くものでもないかもしれない。それがApple Musicのサブスクリプションでは、気軽にすべて聴くことができ、ダウンロードも可能。わたしは散歩の際、iPhoneで音楽を聴くことが多いのだけれど、ストリーミングではなくダウンロードしたものを聴いている。その意味でも便利なのだ。

すごく古いアルバムなどはiTunesにそもそもないこともあるので、そういうものはIMSLPで探す。まだ両方を使いはじめて間もないので断言はできないが、この二つは補完し合う関係になるかもしれない。どちらか一方だと足りないけれど、二つあればカバーできるといった。

Apple Musicをサブスクリプションしたときは、これはすごい! 無料期間終了後も、絶対継続するだろうと思った。3ヶ月使ってみて、来年1月にどういう判断をするか、今はまだなんとも言えないが。ちなみにサブスクリプションの価格は、980円/月である。

ところでこのダウンロードしたApple Musicのデータは、契約を続ける限り自分の端末に保存されているだろうが、ひとたび契約を解除したら、すべてきれいに消え去ると思う。これはアマゾンのKindleの読み放題などと同じだと思う。

つまり定額制サービスというのは、「所有」することとはちょっと違うのだ。図書館の本を借りるように、一時的に自分のところに保持、あるいは保存してある状態と言ったらいいか。ダウロンロードしても、その時点で保有して自由に閲覧、試聴できるだけ。契約が切れたら返すということは、本当の所有ではないということか。(購入した音源の場合は、iTunesの変換機能で他のファイル形式に置き換えたり、それをデスクトップに移して音楽ソフトを使ってショートバージョンをつくるなど加工もできる)

では所有とは何か。自分のものとして自由に使え、場合によっては人にあげることもできる。購入によってそれを手に入れた場合は、代金は支払い済み、あるいは将来のある時期に支払い済みになることが決まっている。そしてモノは永遠に自分の手元に残る。また加工も可能。そんな感じだろうか。

ではウェブ上で閲覧できる本は、どういう存在になるだろう。日本ではウェブ上で無料で読めていたものが、本として発売されると、多くの場合、消去されて読めなくなる。本が売れなくなる、という考えの商習慣からくるものだ。『えんとつ町のプペル』という絵本を出したキンコン西野は、発売後にウェブ上で全編無料公開したことで、大非難の嵐にあった。こちらは書店や出版社ではなく、読者や制作者の立ち場からの反発だったようだ。

しかしウェブ上で全編読めるということは、その本を購入することとイコールなのだろうか。本を購入した場合は、自分の本棚に一生でも置いておけるし、人にあげることも可能。ブックオフで売るのも自由。自分の気持ち次第だ。代金も払ってあり、本が途中で消える心配をしなくてもいい。いつでも好きなときに取り出せる。

ではウェブ上にある本はどうか。これは「閲覧」であって「所有」ではないので、提供者がデータを消してしまえば、手元には残らない。いつ行ってもあるという保証は、無料閲覧の場合ない。また人に作品のアドレスを教えるなり、SNSで紹介することはできても、あげることはできない。紹介はプレゼントすることとは違う。

こう考えると、ウェブ上にある作品は、図書館で本を借りて読む行為に近い気がする。図書館は本を借りる場所なので、普通は無料で貸し出しされる。しかし自分のものにして、いつでも手元に置いておきたいと思えば、購入することになるだろう。図書館で読んでおけばそれで足りる本と、購入して手元に置きたい本とは、重要度において、あるいは自分との関係性が違うのではないか。 

わたしは図書館でも本をときどき借りて読むので、本を購入する場合との違いはいろいろある気がする。とりあえずどんな本か見てみたい場合や何千円もする高い本は、まず図書館で探す。図書館で借りて読んでいた本が、非常にすばらしい場合、読むのをやめて購入しようかと迷うこともある。それは手元に置いて、好きなときに再読したいから、あるいはただ持っていたいから。その本を持っていることに意味があるから。その本を持つことで、書いた作家との関係性を感じられるから。あるいはその作家を応援したいから。などなど。

本を買って所有することと、ウェブ上で閲覧することの間には、やはり大きな違いがあると思う。どちらの場合も、ある種の出会いがあって、その本にたどりつく。本屋さんで出会う場合は、まずその本屋さんを選ぶ、行くという動機があり、そこで並べられている本の中からある本に出会う。ウェブの場合は、SNSで紹介されていたとか、ブログや書評で読んだなどの経緯があり、あるいは作家の名前やある出来事の件名を検索していて出会う、ということがあるだろう。

ウェブ上で出会った本が、電子メディア化されていれば、パソコン、スマホ、Kindleなどのデバイスですぐに読みはじめることもできる。(電子書籍の黎明期には、デバイスを手に、書店に出向いて本のデータを入れてもらう、という方式だった)

アマゾンの「なか見!検索」は優れた仕組だと思うが、昔に比べて(特にアメリカのアマゾンと比べて)閲覧できる量が減っているように思う。数年前にアメリカのアマゾンの「Look Inside」で小説を読んだときは、5章ある中身の第1章がまるまる読めた。面白かったのでそこまで読んでから、その本を購入した。本が面白かった場合、第1章をまるまる読んだからといって、もう買わなくていいと思わない。図書館で借りて面白いと思った本を、購入しようか、と思うのと似た心理ではないか。

人は心からいいと思ったものに対して、何かしたい、関わりたいと思うものだ。その意味で、「読まれてしまったら買ってもらえない」というのは、商売をする側の危惧に過ぎない可能性がある。ウェブ上で読んでいて素晴らしいと思った作品が本になれば、それを購入しようとするのは自然な行為だ。好きで読んでいたブログが、出版されることになったときなど、すでに読んだものでも買おうとする人がいる。おそらくブログの場合は、過去ログをすべて消してしまうことはないのではないか。そのまま置いておいた方が、将来にわたって読者を獲得できる率があがる気がする。 

とすると、やはりウェブ上の作品と、モノとしての本とは分けて考えていいように思う。

絵本ナビという子どものための本を集めたネット上の情報サイト/書店がある。絵本に関する幅広い情報を提供して本選びに悩むお母さんを支援し、絵本の世界を広めるという目的でできたもののようだ。ここで注目したのは「試し読み」ができる仕組で、それも本によっては「全編試し読み」が1回に限りできるとあったこと。1回に限りというのが引っかかったが、それでも他であまりない仕組だと思った。

間もなく発売予定の絵本『ワニ戦争』をここの「全編試し読み」の仕組をつかって公開できたら、と思った。サイトに問い合わせしてみると、これは読者のための絵本ナビによるサービスというより、出版社のプロモーションのためのプログラムで、利用するにはかなりの金額をサイトに対して払うことになるようだ。アマゾンの「なか見!検索」とは、まったく違う日本的商法による発想から出たものとわかった。最初に見たときは、「全編試し読み」に参加する版元が少ないのは、「なか見!検索」がかつてそうであったように、版元や著者が中身を見せるのをためらっているせいだと思っていた。それもあるかもしれないが、お金がかかるプロモーションであることがネックになっているのかもしれない。

『ワニ戦争』は11月中にはアマゾンを中心に、日本のいくつかの書店で発売したいと思っている。これはフルカラーの紙の絵本で、Kindleにはあまり適さないので、Kindle版はつくらない。電子メディアとしては、Web絵本の形で公開できないかと考えている。広く本を知ってもらうためだ。どのように電子化&絵本化するか、どこで公開するかなど現在、試行錯誤中である。

*葉っぱの坑夫のKindle既刊本全13タイトルが、12月1日より「読み放題(Unlimited)」に参加します。アマゾンのサイトで「葉っぱの坑夫」で検索すると、全タイトルの一覧リストが出てきます。この機会にぜひ、過去に出版された葉っぱの本を読んでいただければと思います。

*今日(11月9日)の東洋経済オンラインで、自動車メーカーのトヨタが、複数の車を定額で利用できるサブスクリプション型のサービスを開始する、という記事を読んだ。今後の車の形態(EV化やAI搭載の自動運転化)の進化を想定してのアイディア、というか大方向転換ということのようだ。利用者は車を所有するのではなく、サブスクリプションすることで、必要に応じて車種の違う車、たとえばセダンであったりスポーツタイプであったり、を選んで乗ることができる。不必要になれば返却する。カーシェアリングなどと関連する考え方かもしれないが、自動車メーカー自らが進める車の月額サブスクリプションはちょっとショッキングだし、もう所有の時代じゃないという状況を端的に表しているように感じた。


20181019

わたしたちの肉食のこと、再度考えてみる


ここ2、3年の間、動物をめぐる環境について、動物園や畜産工場などの問題に触れながら、様々な側面からの見方を取り上げてこのブログに書いてきた。その一つは今年の初めから4回に渡って掲載した「野生と飼育のはざまで」シリーズである。

その中でアメリカの畜産工場について、その改善策として、工場の設計に関わっている動物学者のテンプル・グランディンのことを紹介したりもした。動物福祉の一つの方法として、即時的、直接的な改善策として、理解できるものだった。動物が置かれている状況から、苦痛を除くという意味で、その成果は評価の対象になっている。

今回再度、畜産や肉食について考えてみようと思ったのは、環境倫理学という視点からこの問題を論じている学者の文章を読んだからだ。(Synodos:熊坂元大『肉食と環境保護――非菜食主義の環境倫理学者が言えること』、2018.9.28)

環境倫理学という学問があることは知らなかった。どういうものかというと、人間にとっての利益とは無関係に、自然環境や地球環境がどう扱われるべきかを、倫理として探求するものらしい。倫理として、というのは人間が自然や地球に対して、どう振る舞うべきかの指針を考えることだと思う。そのとき人間にとっての利益や不利益は、除外して考えられる。

たとえば捕鯨問題について言えば、動物福祉や動物倫理学の立場では、捕獲したりその肉を食べることは、動物に対する態度として倫理的に問題があると見る。しかし環境倫理学では、クジラやイルカの捕獲が、地球環境に与える影響が大きいかどうかを見ていくわけだ。たとえば動物にとって問題があったとしても、捕獲数の制限などで地球への影響が小さく保たれていれば、倫理的には正しいということになる。

こういったことから、動物倫理学と環境倫理学の間には、対立が起きることもあるらしい。この両者が同じ方向を見ていると思われる問題として、熊坂氏は、家畜についての議論を例としてあげていた。

熊坂氏は論文の副題にもあるように「非菜食主義」、つまり肉を食べる人である。この文章を書いているわたしも同様。肉食をしている。しかし肉を食べること、その肉がどこからやって来て、その動物が生前どのような暮らしをしていたか、に関心をもったり疑問をもったりもしている。それが何の役にたつのか、という疑問に対しては、肉食にかぎらず、自分の生活習慣に自覚的であることは、間接的ではあっても、人間全体の考えやひいては社会を変える原動力になり得るはずと信じているからだ、と答えたい。白か黒かにしか回答はない、とは思わない。これは論文を読むかぎり、熊坂氏の考えや態度と一致する。

熊坂氏の論文を読んでまず目を惹かれたのは、地球上の食料不足や飢餓に関する構造の解明だった。アフリカなど途上国で食料不足に陥っている原因は、土地の気候など自然の限界からくるものだと思っていた(なんとなく)。あるいはそれらの地域では人口抑制が不十分で、採れた食料では賄いきれず不均衡が起きているといった。

しかし原因はそこにはないことを知った。

世界の穀物生産量は約25億トンにのぼり、そのほかに野菜や果物が栽培されていることを考えると、世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている。(『肉食と環境保護』より)

これは本当のことなのか。ではなぜ実際に食料不足が起きているのだろう。環境倫理学から見た問題点は、資源利用の不公正であり、これは環境学や開発学でも常に取り上げられている問題だそうだ。資源利用の不公正? その一つが収穫した穀類などの食料を、人間ではなく家畜を育てるために回しているからだという。

熊坂氏によれば、家畜に飼料として穀物を与える場合、たとえば牛の枝肉1キロのためにトウモロコシなどの飼料が10キロ以上必要になる。牛ステーキを家族3、4人で食べようというとき、牛の飼料10キロ分を必要とするということだ。牛肉は確かに高いし、豚や鶏肉だって安くはないが、それは生産の構造上、贅沢なものだからだ。
*枝肉とは:頭部・内臓や四肢の先端を取り除いた部分の骨付きの肉。食肉はここからさらに骨など余分な部分が取り除かれる。


そういう構造の上に肉食が成り立っていることに気づかされる。極端な言い方をすれば、肉食をすることによって、地球上で生産されている穀物などを過剰に摂取していることになる。そのせいで、途上国などで充分に食料が行き渡らず、栄養失調や飢餓が起きているとしたら、「自分のお金で肉を食べるのは勝手」と言っていられるだろうか?

実はこの構造上の問題は、最近発見されたものでも何でもない。2、30年前になるが、イギリス人の知り合いが、同じことを言っていたことを思い出す。その人はガールフレンドともども菜食主義で、いっしょにレストランに行っても肉を食べなかった。当時、(彼に勧められたのか)肉食が環境に及ぼす影響について書いた本を買っている。今書棚を探したところ見つからないが、『ぼくが肉を食べないわけ』という本だったと思う。著者のピーター・コックスはイギリス人なので、やはり当時、その知り合いから勧められたのかもしれない。

その本を真面目に読んだのか、ただ買っただけだったのか、覚えていないが、いずれにしてもその本の影響を強く受けたという記憶はない。菜食主義にもなっていない。当時、菜食主義というのは、(特に日本では)それほど聞く話ではなかったように思う。少数者がこだわりをもって実行している生活習慣、といった認識だったかもしれない。

しかし時代は変わり、地球上で、あるいは世界で起きている様々なこと、負の遺産につながることが明らかになってきて、一般の人もそういった出来事を身近なこととして受けとめるようになってきた。いま起きているグローバルな問題は居住する地域の問題でもあり、自分の生活習慣につながっていると思えるようになってきたのだ。

すると肉食の問題も、縁遠い話として聞いていたときは違った受け止め方になる。わたしにとっては、「世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている」という事実は(それが事実だとすれば)衝撃的だった。食料は十分生産されているのに、家畜の飼料として消費されているから、すべての人に食べ物が行き渡らない、というのは計算上のことなのかもしれない。しかし実際に起きている状況や関係性そのものを表しているのではなかったとしても、参考になる数字として考えることは可能だ。少なくとも、ある地域の飢餓や栄養失調の理由を、気候や人々の生活習慣のせいとして理解することからは逃れられる。

また牛や豚などの家畜を維持するには、大量の穀物が必要であることも理解できるし、肉を食べるところまで行くには、食料の投資が必要で、間接的に大量の穀物をわたしたちが消費しているということもわかる。贅沢というのは、単に肉の値段が高いことを表しているのではなく、肉を手にするまでに、たくさんの投資が行なわれていることも示しているわけだ。

肉を食べるかどうかについて、どのような議論がいま可能だろうか。未来において地球規模で食糧危機の問題が起きるとすれば、食料生産は効率的に行なう必要が出てくるだろう。家畜を育ててそれを食べるという方法は、贅沢なだけでなく、効率の悪い食料生産方法だと熊坂氏は書いている。その意味でも、肉を多量に消費する生活習慣は、いずれ問題が出てくるかもしれない。

こういった食糧問題にかかわること以外にも、肉食をすることのマイナス・イメージはある。もし自分の食べている牛や豚、鶏が、問題のある環境の中で育てられているとしたら、それをリアルに見たり感じたりしたら、食べることへの意欲が失われるかもしれない。知らないから食べられているだけだとしたら。。。この問題の捉え方は、動物福祉や動物倫理学の立ち場からのものと一致するだろう。

大部分の牛や豚は、日本でも、牧歌的な農場で育っているのではない。家畜工場と呼ばれる「集約畜産経営」の環境と方法で生産されている。たとえば「妊娠ストール」と呼ばれる狭い檻があり、雌豚は種付けと分娩のとき以外、そこから出ることができない。EUではすでに使用が禁止されていて、アメリカなどでも禁止の方向に向かっているらしい。日本では90%近い業者がこれを使用している、という調査報告が出ているようだ(熊坂氏の論文より)。ストールの大半は60~70cm幅の檻で、豚が身動きする自由がない。90%近い業者がこれを使っているとすれば、少なくとも国産豚としてスーパーなどで売られている豚肉は、このような環境のもとからやって来たと想定できる。

こういうことを一つ一つ確認していくと、肉食の問題はさらに深刻なものとして感じられるのではないか。そういうことには目をつぶって(みんながそうやって生きているのだから、わたしも)、生きることは、肉食以外のことにも影響を及ぼしはしないだろうか。

つまり自分の生活習慣、日々の生き方の中に、他者(動物や環境など)に多大な影響を与えていることがある場合、それに目をつぶって生きることは、その他のことにも目をつぶって生きることに繋がらないだろうか。これはこれ、あれはあれ、という生き方ができるものなのか。

ではできることは何か。たとえば肉食の回数や量を、食事の工夫で減らすことはできるかもしれない。それを続けることで、また新たな視点が生まれてくることもあるだろう。自分の食べている肉が(購入している肉が)どこで生産され、どのような環境で育ったものか、知ろうとする努力をしてもいいかもしれない。たどろうとしても、全くたどれないものなのか。たとえばスーパーの肉売り場の人に声をかけて聞いてみるとか? 「国産牛とありますけど、どういった場所から送られてきたんですか?」と。そんなことはわからない、と言われるかもしれないが、聞かれた人はそのことを覚えていて、意識するようになるかもしれない。また最近はお客さんがみんな、どこの工場で育ったか聞きたがる、という小さなムーブメントを起こせるかもしれない。

わたし自身のことを言えば、肉食は減らす傾向にあり、食べるのは豚と鶏、牛はほとんど食べない。豚は平田牧場というところのものを生活クラブ生協を通して買っている。平田牧場のHPのビデオや、生活クラブの取材記事などで、豚が劣悪な環境で育っていないことは一応確認している。また豚の食料も地元の減反田や休耕田を有効利用して、平田牧場自ら飼料用の米を栽培しているという。平田牧場の肉はかなり以前にも長期間食べていたことがあり、途中何年間か抜けて、ここ数年またここの肉を食べるようになった。抜けていた期間は近所のスーパーで肉を買っていた。理由はその間、生活クラブに入っていなかったから。再開したのは個人配達を生活クラブが始めたことと関係している。

このように自分自身も、そのときの生活状態や生活習慣によって、消費行動が変化し、いつもいつも理想的な行動をとっていたわけではない。ただ何らかの意識があるかないか、は大きいものだ。まったく無関心に消費や生活を送っていては、変化のきっかけも逃してしまうだろう。この記事を読んだ人が、何か感じて、肉食をめぐる現在の状況を頭の隅においていれば、ちょっとしたきっかけが、行動の変化を促すことにつながるかもしれない。そんなことを思って、肉を食べることについて書いてみた。

20181005

出版のかたち色々。開いていくのか閉じたままか。

前回のポストで新刊のことを書きました。ペーパーバック(POD)、Kindleともに入稿が済み、間もなく発売できそうです。葉っぱの坑夫の出版にまつわる考え方を以下に書いてみようと思います。


ウェブサイト、PODによる少部数印刷、オフセット印刷、アマゾンPODのペーパーバック、電子書籍。一つの素材をさまざまな方法(メディア)で形にして出版することは、葉っぱの坑夫がスタート時から取り組んできたことです。

一番最初は、ウェブに掲載した英語ハイク集を、オンデマンド印刷の少部数の本にしたことでした。その後、ウェブに掲載したものでない、アート作品を紙の本だけで出版したこともあります。アマゾンのPODのシステムができ、Kindleでの出版が可能になってからは、ウェブに加えて、ほぼこの二つの出版メディアをつかって本を出してきました。

日本では、一つの素材を多様な方法で発表することに対して、どうも抵抗感があるようです。版元や販売者だけでなく、読者の側にも「よくないこと」と認識されている感がありました。特にサイトでは無料で読め、本の形になったものは有料というやり方に対して、どうにも納得がいかない人々が一定数いるようです。葉っぱの坑夫の本で、アマゾンのレビューに、「本を買ってから、無料で読めるサイトを見つけた。買う人は気をつけたほうがいい」といったことを書く人もいました。つまり無料で読めるものを、有料で売っていることへの抵抗感、あるいはお金を出して本を買ったら、サイトで無料で読めた、損をした、というようなことだと思います。

葉っぱの坑夫でやっていることは、一つの素材を、違う形で出版することであり、それぞれのメディアに適した方法での出版をしています。たとえば写真家の大竹英洋さんの『動物の森 1999-2001』は、ペイパーバック(POD)とKindleで出版していますが、元は葉っぱの坑夫サイト内のコンテンツでした。グラフィック・デザイナーのアガスケさんによる、フラッシュをつかったコンテンツで、横スクロールのインデックス(もくじ)にある動物名をクリックすると、小さなウィンドウが開いてその動物についての文章が読めます。日本語の「ライチョウ」をクリックすれば日本語の文章が、英語のgrouseをクリックすれば英語の文章が表れます。日本語の文章を読んだあと、英語でも読みたいと思えば、そのウィンドウの下にある「English」をクリックすればそのまま英語に移動できます。その逆も可能です。

このコンテンツはフラッシュで作られているところが読書体験として面白く、ズルーっと横長のもくじは、>>にマウスを当てれば右方向に、<<にマウスを当てれば左方向へと滑るように移動します。そうやって移動しながら、自分の読みたい動物名をクリックして日本語で、英語で読んでいくのがサイト版の『動物の森』の楽しみ方です。元々葉っぱの坑夫はどのコンテンツも無料で提供しているので、販売用の本になってもならなくても無料です。これはスタート時からの方針です。インターネットというメディアでは、無料でコンテンツを楽しめることがベースだと思ってきたので、それを続けています。
『動物の森 1999-2001』ウェブ版
http://happano.sub.jp/happano/into_the_wood/index.html

『動物の森 1999-2001』も、英語ハイク集の『ニューヨーク、アパアト暮らし』や『ぼくのほらあな』も、サイトでの見え方と、本になったときの見え方ではかなり違います。内容はほぼ同じなので、確かに文章に関しては、メディアを変えても新しい発見はないかもしれません。ただウェブであれば主としてパソコンの前で読む(最近はウェブも携帯デバイスで読む人が多いとは思いますが)わけですし、紙の本やKindleであれば、電車の中やカフェで、あるいはベッドの中で手にすることもあるでしょう。読むときの環境が変わると、読書体験も変化します。いずれにしても読むメディアを選択できて、読む場所や環境を選べるのはよいことだと思います。

『ニューヨーク、アパアト暮らし』ウェブ版
http://happano.sub.jp/happano/pages/tenement/tenement_index.html
*著者ポール・メナのパートナー、写真家のメロディー・メナのモノクロームの写真が入っている。Yoshimiのデザインもクール。

『ぼくのほらあな』
http://happano.sub.jp/happano/pages/moyayama/moyayama_index.html
*美しいウェブデザインはYoshimi。

サイトのコンテンツは葉っぱの坑夫では無料です。登録などなしで、誰でもその場で読めます。インターネットの初期に、面白く、珍しいコンテンツを無料でたくさん楽しんできた自分の体験が、ネットでは無料で、につながっています。ネットで作品を公開する場合も、実際には様々な費用がかかっているので、その意味では、無料公開は赤字活動になります。ただその費用は、主としてサイトを維持するための基本的な経費で、一つ一つのコンテンツごとに出費が重なるわけではありません。そこが紙の本などと違うところです。

紙の本の場合は、1作品ごとに費用がかかります。オフセットやあらかじめ印刷しておくプリント・オン・デマンドの場合は、初期費用がそれなりにかかります。300部、500部と初版刷り部数が少ないため、印刷費を部数で割ると、1冊ずつの販売単価がそれなりに高くなってしまいます。以前にスイスの出版社と共同出資でアートブックをつくったことがあります。小型の32ページのフルカラーの本で、zineのような見映えですが、アートディレクターのセンスで表紙の紙に、裏表素材感も色も違うボール紙のような面白い素材をつかったり、色校正を編集とデザイナーが印刷所に詰めてしっかりやりったりと、zineとしてはそれなりに手をかけて作ったものでした。しかしアマゾンのレビューでは、「びっくりするほどチープ」「このつくりで1900円は高すぎる」と書かれてしまいました。確かに32ページの本で1900円はないだろう、という気持ちはわかりますが、500部、1000部といった刷り部数の場合、単価はがんばっても高くなってしまいます。「シンプルであっさりした作りの本」と書いてくれた人もいますが、その人も少し高いのでは、と書いていました。

大手の商業出版では、まず32ページなどという本は作りませんし、刷り部数も500部、1000部ということはないので、このような問題は起きにくいと思います。こういった事情は一般の人は知らないと思うので、小さな出版社や非営利の出版社が、小さな薄い本をなぜ高い値段で売らなければならないのかの理由はわからないと思います。

現在このアートブックは、アマゾンで1101円(税込)で販売しています。元は1900円+税でした。出版から10年たったので、いくつかのアートブックを6割くらいまで値段をさげたのです。今年の春に価格を改訂しました。(このように価格をさげることも、ときにクレームの原因になったりします。以前に高い値段で買った人が、あとで安くなると自分は損をした、と思うらしいのです。一般に日本の人たちは、このような心理傾向が強いように思われます。自分の買った本が、サイトでは無料で読めることに気づいたとき、損をしたという心理と同じです)

キングコングの西野亮廣さんが、去年『えんとつ町のプペル』という絵本を、ウェブ上で全ページ無料公開しました。そのときネット上でかなりの炎上を引き起こしたようで、主たる反対意見や抗議は「こんなことをされたら、クリエーターが食えなくなる」というものと、「買った人の気持ちはどうなる」だったようです。絵本は前年に発売されていて、その翌年にネットで無料公開されました。西野さんによると、2000円という値段は小学生には高くこづかいで買えない、と聞いてのことだったとか。誰でも読めるようにしようと、と公開に踏み切ったと当時の本人のブログにありました。

『えんとつ町のプペル』は今も、ネット上で無料公開されています。わたしは絵本の実物は見ていないので、比べることはできませんが、ウェブ上のバージョンは、絵とテキストを順番にずらずらと並べ、スクロールして読むようになっています。デザインとかレイアウトの工夫は特にないですが、どんな内容か知るには充分でした。

一般に、日本(あるいは日本語)では、無料で読んだり見たりできるコンテンツは少ないです。新聞各社の無料登録会員が読める範囲も、非常に少ないです。朝日新聞は1日に1件、日経新聞は1ヶ月に10件です。また過去の記事のアーカイブもここ近年のものしかなく、たとえ正会員になっても、アクセスできる記事は限られています。海外の英字新聞にも有料登録制がありますが、こちらは20世紀初頭の記事など、100年前まで遡って読むことも可能なものがあります。また無料で読める範囲も広く、その範囲内で、かなり古い記事(1990年代など)へのアクセスができたりもします。

アメリカもバリバリの商業主義の国だと思いますが、日本はそれ以上の印象があります。アメリカは商業主義の一方で、非営利活動も盛んで、何もかも、何であれお金を取るという風ではないように見えます。お金を取らないものに対して理解を示し、お金を取るものとの共存を、人々が認めています。上記にあげた日本のような反発も、あまり聞いたことがありません。ウィキペディアなどの活動は、商業主義の発想とは違うところから出発しています。そして人々の(その中には日本人も入っています)役に立っています。日本でも、ウィキペディアに対しては、あんなコンテンツを無料公開してヒドイ、商売の邪魔をしている、というような意見はあまり聞きません。(百科事典の出版社などでは、ひょっとしてあったのでしょうか?)

また日本では、ウェブで連載されていたものが本になると、ウェブのコンテンツは消去してしまうのが普通です。本を発売するのにウェブで読まれてはかなわない、本が売れなくなる、という版元の意向でしょう。ほぼ例外なく消去してしまいます。昔、小熊英二さんが『牛とコンピュータ』という本を出しましたが、元々のサイトのコンテンツはそのまま残しました。それが唯一の例外といっていいかもしれません。当時、小熊さんはいまのように、一般に知られてはいませんでした。またサイトのコンテンツも、デザインは特になく、小さな文字で読みやすいとは言えないページでした。個人のホームページのような作りでした。それが理由で、出版後も削除されなかったのか、それとも小熊さんが削除の必要はないと考えたのか、そのへんはわかりません。

ただで読めるものを載せると、商売があがったりになる、という日本における常識は本当にそうなのか。はっきりとした検証がされてのことではないように思います。おそらくそういうこと(売上が減る)が起きないように、という日本人らしいリスク管理なのでしょう。しかし、今の常識、中でもネットをめぐる常識でいうと、必ずしもそれが正しいとは言えないと思われます。シンガーの宇多田ヒカルさんが長期休業中、YouTubeですべてのPVを公開していたことが、後にiTunesで発売したアルバムの世界ヒットに繋がった、という記事を読んだことがあります。YouTubeで見て(聴いて)ファンになった人が、新作の購入に動いたということでしょう。松田聖子時代のうまくいかなかった「アメリカ進出」とは全く違う手法で、意図せずにこういうことが起きるのも、iTunesもYouTubeも国の境界がないからでしょう。世界中の視聴者と繋がっているというわけです。

このことからも、あまりに狭い範囲で近視眼的に商売を見ていくのではなく、もっと読者や視聴者とダイレクトに、作品を通じて繋がる道を探していってもいいのではと思います。少なくとも、試す前から「商売の妨げになる」と決めつけることはないでしょう。何がプラスに働き、何がマイナスになるのか、10年、20年前と今では変わってきていると思います。たとえばアマゾンのレビューも、良い評価、悪い評価両方あっても、それを参考にする消費者がかなりの数いて、全体として役に立っているとすれば、そして売り上げにも繋がっているとすれば、その手法は成功と見ていいと思います。(日本では初期のころは、レビューを書いても即座にサイトに載りませんでした。アマゾン側がチェックした後、掲載していたのです。今では投稿後すぐサイトに反映されています。経験の積み重ねの結果でしょう)

20180920

葉っぱの坑夫、秋の新刊。

この夏準備していた2冊の新刊について紹介します。一つは絵本、もう一つは小説です。どちらも葉っぱの坑夫のサイトで連載していたもので、絵本の方は、元になっている本が『南米ジャングル童話集』のタイトルで、全8話収録のテキスト中心のものとして去年出ています。今回の絵本版は、その中から『ワニ戦争』のみをとりあげた、絵を中心にしたものです。小説の方は今年の6月までサイトで連載していた『ディスポ人間』で、この全訳を紙の本と電子書籍(Kindle、Kobo)にします。

『ワニ戦争』はミヤギユカリさんの絵、角谷慶さんのデザインで、40ページ前後のフルカラーの本になります。オンデマンド印刷でフルカラーの本は初めての試みで、どのような仕上がりになるかの実験の要素もあります。アメリカのアマゾンにつづいて、日本でも最近になってフルカラーの印刷が可能になったので、これを試してみたいと思いました。ミヤギさんの絵は、ハーフトーンの少ないくっきりしたメリハリのものが多いので、うまく印刷されるのではないかと期待しています。 

『ディスポ人間』は、当初から、サイト上での連載が終わったら、本にしたいことを著者のエゼケル・アランに伝えてありました。ですので連載終了直後に、ペーパーバックと電子書籍にする話を再度もちかけ、合意事項を記した簡易な契約書をつくり、あとは出版の準備をすればいい状態になっていました。サイトで連載していたときは、翻訳もそのときそのときのものになりがちだったので、すべてをプリントして、改めて読み直すことから始めました。(通しですべてを読むこともそうですし、また画面で見ているのと、印刷した紙面で読むのでは、違う発見があります。言葉の足りないところ、誤字だけでなく、かなりの変更、微調整をしました)

『ワニ戦争』は角谷さんにデザインを任せてあるので、レイアウトや素材の扱いなど、形にする作業はありませんが、テキストを短縮する作業が最初にありました。絵本版は絵を中心に、というコンセプトなので、テキストは必要最小限にしたいと思いました。オラシオ・キローガのテキストはそれなりに長いので、思いきってバサバサッと削っていきました。絵と言葉の組み合わせで、効果が出るよう、新たなテキストをつくりました。

『ディスポ人間』の方は、読み返すことで、連載時には気づかなかったちょっとした誤訳や勘違いが2、3ありました。見つければ、サイトの方もその時点で修正を入れました。ひとたび修正の入ったテキストは、InDesignというアドビのアプリケーションで、レイアウトしていききます。文字数を数えると、26万字とかなり多く、概算で350ページ前後になるだろうと思われました。判型を小さくすると、ページ数が増え、オンデマンド印刷の場合、コストが上がってしまうので、小説にしては大きいかなとは思いましたが、『イルカ日誌』と同じサイズ(横15.6cm、縦23.4cm)にしました。これはアメリカの本の定型サイズ、6’14”、9’21”をそのままつかっています。組みが横組みなので、そして定型の方がアマゾンの機械にフィットしやいすいのではと思い、このサイズにしました。印刷機はおそらく、アメリカのものも日本のものも、ほぼ同じではないかと思います。

InDesignレイアウトは、『イルカ日誌』でつかったものをマスターとして、ほぼ同じレイアウトにしました。余白の取り方や柱のたて方といったものは、そのまま流用しました。『イルカ日誌』からマスターページを引いてくることができるので、スピーディーに作業ができます。ただ本文の書体は、今回、ゴシックを選びました。「横書きでゴシック」などという小説は、日本では他にないかもしれません。ゴシックを選んだ理由は、今回の小説は、日記や詩、手紙、民話など引用文が非常に多く、そちらは明朝体の方がふさわしいと思ったからです。また原著の『Disposable People』も、本文は太めのゴシックでした。小説のテイストとして、語りの口調として、ゴシックはふさわしいと思われました。

葉っぱの坑夫の本は、これまで出したもののほとんどが、ペーパーバックでもKindleでも横書きです。日本で出版されている日本語のほとんどは、本の種類によらず縦書きです。たとえば英語に関する本など欧文が出てくる本であっても、縦書きが優勢で、本をくるくる回しながら読むことがあります。なぜ横書きにしないのか、わたしには理由がわかりません。欧文が文中に出てくることは、最近の本では珍しくありません。一定量欧文がある場合は、横書きにした方が、読者に対して親切かなと思うのですが。しかし読者の方も、いや、日本語は縦書きで読みたい、という人も多いらしいので、多少不合理でも、縦書きが多くなっているのかもしれません。葉っぱの坑夫の考え方としては、「横であれば多くの言語が日本語と同じ並びで表記できる」ということで、合理性から横組みを選んでいます。

『ディスポ人間』はInDesignで組んだのち、CreateSpaceという米国アマゾン傘下のPOD(オンデマンドブック)制作会社のサイトに行って、ファイル(InDesignから印刷用PDFに書き出したもの)をアップロードします。翌朝にはデジタルプルーフがあがっていて、モニター上で校正や、外観のチェックができます。葉っぱの坑夫では、念のため、仕上がり状態を見るため、印刷したproofを注文しています。アメリカのアマゾンは、制作コストは日本と比べて非常に安く(ほぼ実費ではないか)、ただ海外輸送のため送料と時間がかかります。印刷と紙代で(ページ数により)250円〜600円くらい、送料で(スピードにより)2000円前後くらいです。

紙に印刷されたproofをまた最初から読み、何かあれば赤字を入れて修正します。画像が荒れていないか、大きさは適切かといった点についても、本として見た観点からチェックし、修正の判断をします。今回は、1回目のproofをとった時点で、表紙は仮のものだったため、もう1回、proofをとることにしました。その到着が9月末なので、アマゾン・ジャパンのエージェントへの入稿は、その後になると思います。エージェントは、KindleとPODとそれぞれのものがあり、別々に入稿します。

ところでKindle版の方は、Wordをつかってテキストと画像を配し、それをボイジャーのRomancerというネット上の変換システムでePubにします。これはとても便利なもので、無料ですし、簡単に変換ができます。Wordはパソコンに備えていないので(Macユーザーなので)、Office365というアプリケーションを月単位で購入してつかいますが、費用はかかっても、使いがいは充分あります。Romancerのことは、何年か前に知り合いが勧めてくれて以来、Kindle版制作につかっています。

Romancerで変換したePubは、Kindleに合わせるため、KindleGenまたはKindlePreviewerというソフトをつかってmobiファイルに変換します。これは自分で簡単にできます。ただ今回、いつもつかっているKindleGenがうまく作用せず、しかたなくKindlePreviewerをダウンロードして、こちらで変換しました。特に問題はなかったです。変換したmobiファイルは、自分のKindleデヴァイス(Paper WhiteとKindle Fire)に送って、表示や動作を確認します。ここをちゃんとチェックしておけば、販売されるKindle本はOKということになります。

『ワニ戦争』絵本版は、現在、デザインの仕上げにかかっています。日にちはまだわかりませんが、10月か11月には出版できるのではと思っています。『ディスポ人間』は10月初旬に出せそうです。

20180907

WorkとJobとLife

ワークライフバランスという言葉を最近よく見かけるようになった。仕事(主として会社などに雇われて外で働くこと)と自分の個人的な生活のバランスを取った方がよい、という考え方だと思う。そこでここで使われているワークとライフという言葉について、考えてみようと思う。

まずワーク(work)という言葉について。ワークとは何か、と考えるとき、似た言葉としてジョブ(job)があることに気づく。workとjobはどこが違うのか。workという言葉は、会社などで雇われて働くこと以外に、プロジェクトや研究、勉強など、自主的に取り組んでいる活動にも使われる使用範囲の広い言葉だ。それに対してjobの方は、会社での業務、任務など第三者から与えられた仕事というイメージが強い。またワークには必ずしも「仕事(労働)に対する報酬」はないが、ジョブは「報酬あっての仕事(労働)」とも言えそうだ(すべてではないにしても)。

その意味でいうと、今言われている「ワークライフバランス」は、「ジョブライフバランス」に近いようにも見える。

さてではライフ(life)の方はどうか。日本語でライフと言うと、生活を意味している割合が多いが、lifeには人生とか生涯といった意味もある(命という意味もある)。翻訳をしていて、lifeを何と訳すか迷うことがある。意味としては「人生」でも「生活」でも通るとき、どちらの言葉を当てるか、考えるケースがある。日本語では人生と生活では、指している範囲がかなり違うように思えるが、おそらく英語で言うlifeには、そこまでの区別がないのかもしれない。

「ジョブ」が対価が得られる労働というイメージが強いのに対し、ライフも日本語では、日々の生活、実質的な暮らし方のほうに重点が置かれている。人生と生活の間には、イコールでは結べない、心理的な仕切りのようなものがあるのだろうか。あるいは視点の違い、より近視眼的に見るのが生活で、少し距離を置いて客観的に見るのが人生なのか。

ワークライフバランスは、本来は「人としての生き方」と「自分が取り組む仕事や責務」のバランスを目指しているのかもしれないが、現在使われている言葉の方向性や範囲を見ると、もっと狭い意味を指しているように思える。

「働き方改革」と言われているものも、残業時間の削減といったことがまず目標にあげられる。確かに日本の会社員の多くが長時間労働をしている(あるいは強いられている)ことは、データでもよく挙げられている。海外の従業員と比べると大きな差がある、といった。しかしたとえばヨーロッパの会社員が、まったく残業をしないわけではない。ドイツ在住のフリーライター、雨宮紫苑氏によれば、ドイツ人も仕事が立て込んでいるときは残業をするという。それはドイツでなくとも、どこの国であれあり得ることだろう。

ただ日本との違いは、「必要に迫られれば」「仕事の進行状況に対応して」ということであって、仕事のないときも、遅くまで会社に残っているわけではないという。勤務時間の長さが評価に繋がるのではなく、あくまでも仕事の成果が問われているわけだ。日本では仕事のあるなしに関係なく、部署の人間が残っていれば、あるいは上司がいる間は、自分ひとり家には帰れない、という同調圧力があることはよく知られている。

また仕事のペースや、ミーティグンの時間設定などが、定時に終えることを無視して組まれていたりもする。どうせ皆9時、10時までいるんだから、と。また誰かが思いついた突然の夕方からのミーティングも、拒否する人はあまりいないかもしれない。今日は妻と外食する約束があって、、、とは言わず、妻に「急に会議はいっちゃって、ゴメン」と言って済ます。今だにそうなのか、と思わされるが、劇作家の鴻上 尚史氏も最近の新聞の記事で、日本社会の中の同調圧力について触れた際、定時に家に帰れない理由として、周囲の空気を挙げていた。

会社にいる間は、自分は自分であって自分でない。そこでは自分をなるべく消して、周囲の環境に馴染ませることを心がける。自分で判断して自分だけ何かする(たとえば仕事を終えていれば、定時になったらさっさと帰宅する)ことは、社内の空気を乱す行為であり、空気の読めない人間と思われる。日本の学校教育の中で、「協調性」が強く求められるのも、協力して何かを成し遂げる喜びを学ぶというより、ひとりだけ外れたことをして、皆に迷惑をかけないことが大事だからだ。「協調性」と「人に迷惑をかけない」ことを日本では小さな頃から教え込まれる。

そのようにして育ってきた子どもたちは、昔も今も、組織の中で外れてしまうことを何よりも恐れる。集団の中で、自分で判断して行動することをためらう。そんな調子でよく仕事ができるな、と思うかもしれないが、皆がそうであれば問題ない。

日本の会社員が残業するのは、残業代がないと暮らしていけないからですよ、と言う人もいるだろう。残業代がつかないと、普通の生活が送れないくらい基本的な給料が低い、という状況や会社の自分への評価の低さに甘んじている、とも言える。組織の中で、そこにある状況にどうにも抵抗できないというのは、言葉を変えれば、自己評価が低いことだ。そういった自己評価の低い人間が集まった組織は、会社としての成果も低くなるだろうが、才能やスキルはあるが集団としての合意から外れやすい(あるいは抵抗をする)人間の集団よりずっと、御しやすい。

ジョブを中心に考えれば、収入を失って(あるいは減らして)はいけないので、そのためにライフが犠牲になってもよしとする、という考え方が成り立つ。しかしワークとライフを中心に考えれば、違うアイディアが浮かぶかもしれない。

どんな暮らし方、生き方をしたいか、どのように自分の能力を発揮したり、自分を成長させながら仕事を続け、進化していきたいか、という視点から考えたとき、ライフもワークも、まったく
違う顔つきで目の前に現れるかもしれない。そんなの理想論だよ、現実は厳しいんだから、と言う人の顔が見えるようだ。自己評価が低く、自分自身を、自分の周囲を変えるアイディアや勇気に欠けている人だ。

働き方改革とかワークライフバランスなどの言葉で、社会が変化してくれば、自分もそれに従う人たち。でもそれは周囲の環境や社会の考え方が道を示しているからそうするのであって、自らの発意や欲求からの行動ではない。自分は基本的に何も変わらない。もし揺り戻しが起きれば、すぐにでも元に戻るだろう。

2、3年前に、電通の社員が過酷な労働が原因で自殺する事件があった。現在の日本の社会で起きていることは、同調圧力によって会社に滞留させられているだけでなく、実質的な過重労働によるものがかなり多いらしい。特に若い世代の人々の仕事量は、今の管理職が若かった時代と比べて、かなり多いのではないか、という意見もある。また電通社員の事件後に、会社が残業をつけることを禁止したため、残業時間のすべてがサービス残業になってしまった(仕事量が多く定時に終わらない)というコメントも聞いた(東洋経済オンラインの『日本人の「サムライ型」労働は、もはや限界だ』の記事に対する読者のコメント)。

常時、やりきれない程の仕事を押しつけられ、毎日遅くまで会社に残って仕事しなければならない勤務状況、というのは普通に考えて問題があるのは明らか。そんな状況で会社を運営していることに問題があるのはもちろんだが、それに抵抗できないでいる労働者にも問題がないとは言えない。そこにはやはり自己評価の低さがあり、会社には(あるいは上の者には)従うしかないと考えている弱さがあると思う。また皆がそうであれば、自分もそうするしかないという考えに逃げることも容易で、これは他者への同調圧力として働くだろう。

同じ日本国内でも、外資系の会社となると全く状況は変わるようだ。わたしの知る2、3の外資系勤務の人は、勤務時間や勤務場所にしばられる割合がかなり低い。仕事成果主義なので、どこで(たとえば自宅で)仕事しようと、何時まで(あるいは何時から)仕事をしようと、本人の自由意志でコントロールできる部分が多い。しかし成果に対する評価は厳しいようだ。ジョブに対する評価とは、本来こういうものだと思う。日本は長い間、終身雇用の考え方でやってきたので、仕事の成果より、社内で滞りなく過ごすことの方が重視されてきたのだろう。

外資系で長く働いてきた人が、日本の会社に転職し管理職となったが、定時に誰も帰ろうとしないのを見て驚いたという。周りからはいろいろ言われても、仕事本位でさっさと帰り、部下にもそうするよう指導しているそうだが、他の環境を知らない若い人は周りを気にして、それができないそうだ。上司が勧め、自ら実行していても、まだできないとしたら、それはかなり重症ではないか。おそらく自分の上司の行為が、社内で否定的に見られているから、そちらに従っているのだろう。

自分が属している集団内で、それが学校であれ会社であれ、人と違うことをするのは確かに簡単ではないと思う。同じことをしている分には理由はいらないが、違うことをするときは、その行動に対して理由が求めれらる。その理由が一般論として正しいと思われることであっても、あるいは会社や学校の規定にあったとしても、だからと言って「それはそうだね」「そっちの方が正しい」とはならない。だとすれば、自分の中にはっきりとした価値判断がないと、それを通すのは難しくなる。自分で物事の価値判断ができるということは、自己評価がそれなりにあり、自分の考えや判断を外に向かって主張できるということだ。

こう書くと、人間として当然もっているべきことに思えるかもしれないが、多くの人は自分で物事の価値判断を実はしていない。そのことが同調圧力を生む、大きな原因の一つにもなっている。ワークライフバランスを考えるとき、具体的に残業を減らすことは大事かもしれないが、残業時間を少しでも減らすことができれば問題は解決する、とも言えない。基本的なところで、ライフとワーク(ジョブ)のバランスを取るのであれば、自分という個のあり方を中心に据えて、ライフに対して、ワーク(ジョブ)に対して、自分なりの価値判断をする習慣をつけていく必要がありそうだ。

そういうことが出来る人間になるには、教育の現場でも(学校や先生が子どもを扱いやすくするための)「協調性」ばかり評価するのではなく、子どもが自分を積極的に評価できるよう、自分の価値を見出せるよう、励ましながら指導することが大切だ。「協調性」と同様に「人に迷惑をかけない」などというあまり意味のない指針も、控えめにする方がいい。これは家庭でも、父母が、子どもの自主性や自己評価を促進させるために、あまり口にしない方がいい言葉だと思う。

こういった今実際に行なわれていないことを実行するのは、実は簡単ではない。周りが違えば、それだけで不和を呼ぶ。協調性や人に迷惑をかけないことより、自己評価を高められるよう子どもを育てれば、先生からは不評を浴び、クラスでいじめられるかもしれない。こう考えると、鶏が先か卵が先か、のようなことになってしまう。それに歯止めをかけるのは、やはり個々の人間の気づきであったり、自覚であったりする。会社に行く年齢になったら、親もあまり助けられないだろうが、子どものうちは、まだ手をつくし、励まし、よりより道を見つけてやることはできるだろう。

間もなく親になる人、すでに小さな子どもをもつ親である人は、ワークライフバランスにおいて、非常に重要な役割を担っている。


20180824

ラジオ体操の音楽学


夏の朝、早起きして窓をあけると、どこかから微かなピアノの音が聞こえてくる。耳を澄ませてみると、ラジオ体操の音楽だ。夏休みだから、近くのどこかに子どもたちが集まって、ラジオ体操をやっているのだろうか。そういうものが今もあるのだな、と。

しばらく聞いていると、この音楽、間違いなく日本のものだという気がしてきた。西洋音楽でありながら、日本の文化の香りがとてもする。まずは拍子。聞いていたときはてっきり2拍子(4分の2拍子)かと思ったが、あとで楽譜で確かめたら4拍子(4分の4拍子)だった。確かに音の連なりを見れば4拍子に作曲されている(服部正作曲)のがわかるが、ぼんやり音を聞いていると2拍子の感じがした。 

4拍子と2拍子、どう違うかと言えば、4拍子は一つの小節に強迫が二つある。1拍目は強く、2拍目は弱く、3拍目は少し強く、4拍目は弱く。2拍子は1拍目が強い。2拍子は強弱、強弱、強弱といった単純な拍の繰り返しによるリズム。行進のときのような感じと言ったらいいか。右左、右左、右左、、、のような。4拍子の方は、もう少し複雑で、音の流れに循環があると思う。1、2、3、4、の4は弱音だが、次の1につなげるため、引き上げて次の1で落とすような感じだ。4拍目にはアウフタクト感がある。

小さく聞こえてきたラジオ体操のピアノ音楽は、演奏の仕方が2拍子に近い感じがした。おそらくNHKのラジオのものだと思うが、標準的な演奏法ではないだろうか。一般に知られているラジオ体操はNHK発ということだから。そしてその2拍子っぽい演奏法は、体操の振りからきているのかもしれない、と思った。1、2、3、4、いちにーさんしィー、いちにーさんしィー、という循環する流れはあまり感じられない。1、2、3、4、いち、に、さん、し、となっていて、いち、に、いち、に、とあまり変わらない。

もし体操の振りが4拍子的だったら、演奏も4拍子らしいものになっていたかもしれない。ただラジオ体操が老若男女、日本のだれにでもマスターできる体操を目指していたとしたら、2拍子の方が適していたと考えられる。それも今の時代ではなく、20世紀前半にラジオ体操が始まった、という歴史を考えればなおのこと。振りを考案したのは遠山喜一郎さんという、ベルリンオリンピックにも出場した体操選手だそうだ。

そう聞けば、なんとなくなるほどと納得できる。体操競技とラジオ体操の動きには共通するものがあるかもしれない。ダンスではなく体操なのだ。

日本の元々の音楽、民謡や邦楽には西洋音楽でいうところの拍子の感覚はないと思う。日本には手拍子というものがあるが、あれは1拍子ではないだろうか。ラジオ体操の音楽も、1拍子と取れなくもない。手拍子と掛け声で、ラジオ体操ができそうだ。2拍子の場合も、頭の強拍をきちんと取ることが大事、といったイメージだ。

ラジオ体操が考案された約100年前の日本のことを頭に描けば、洋服はすでに入ってきてはいただろうが、まだふつうに着物をきて下駄や草履をはいていた時代。とすれば、ラジオ体操が手拍子調であったとしても不思議はない。ピアノやバイオリンより、三味線や琴、あるいは浪曲や民謡に親しんでいた時代だ。

ラジオ体操は4拍子で書かれているが、1拍子か2拍子のような趣きがある。今もそれがつかわれているということは、時代が変わって、普段聴いている音楽が変わっても、からだに馴染み深いものとして定着しているということなのか。日本人のリズム感は今も昔も変わらないということか。

そういえば、小学生がラジオ体操をダラダラやっているのを見た覚えがある。NHKのお手本の人がやっているようなテキパキした動きではなく、体操にあまり見えないような、一応振りをやってるフリのような。あれはいろんな意味で、「自分たちに合ってない」から「できない」という信号のようにも見える。

ラジオ体操ができた頃は、運動とかスポーツといったものがまだ一般に馴染みが薄く、日々の労働とは別に、健康のためにからだを動かすことはよいことだ、という考えに注目が集まったのかもしれない。そして誰もが簡単に真似できて、戸惑うことなく実行できるには、日本人のからだの中にあるリズム感である必要があったのだろう。

しかし今の子どもたちにとってはどうなのか。ダラダラやっているのも、ダサい、動きがヘン、音楽が軍隊みたい、と思ってのことかもしれない。昔ながらのラジオ体操はそのままにしておくとして、今の日本人のからだや音感に合った、ストレッチやウォーミングアップ、エクササイズに通じるラジオ体操があってもいいように思う。現在のラジオ体操のはじまりは、冒頭からテキパキしているが、もっとゆっくり始めるものでもいい。その日のからだの調子や感覚を確かめながら、筋肉のストレッチからゆっくり入り、からだが温まってきたら動きを軽快にしていくとか。

音楽も、今の子どもたちのリズム感に合ったものが作られていい。単純な2拍子の繰り返しではなく、3拍子とか、8分の6拍子とか、ときに変拍子など取り入れても面白いかもしれない。一つの曲の中で、体操の振り、動きが変わるごとに、リズムの変化があれば、一つ一つの動きがより際立ってくるかもしれない。小さな子でも、リズム変化の面白さに反応するということもあり得る。ラジオ体操(ラジオダンス? いや、ラジオでもないのかも)という考え方が基本にあったとしても、今の時代のバリエーションはいくらでもできそうだ。

テキパキ、きちっとした2拍子的な動きだけでなく、柔らかな屈伸、しなやかな伸び、シャープなステップ、緩急のある跳躍といったものを、様々なリズムの音楽にのってからだで表現することは、楽しいことではないか。

一つ一つの動きにイメージを持たせるのもいいと思う。たとえば「宇宙にむかって何か伝える」イメージで、からだを大きく、しなやかに伸ばすとか。「地面を這う小さな生き物を追いかける」イメージで、ステップを踏むとか。頭脳(イメージ)とからだ(運動)がより強く結びつけば、運動効果はあがるかもしれないし、体操に意味が生まれる。からだから脳への刺激にもなりそうだ。脳の活性化を、イメージとからだの動きによって起こす。 

現在のラジオ体操に見られるような、機械的な動き、音に合わせて揃って動かすことが主な目的の軍隊調の運動ではないものの方が、今の時代を生きていく上で、応用が効きそうだ。たとえば一見関係ないように思える、外国語の習得などにも、2拍子調ではない、柔軟性のある体操の方が役立つかもしれない。

余談になるが、面白いと思ったのは、ラジオ体操の動画をYouTubeで見ていたら、ある小学校の校庭で実施されていたものは、子どもと大人が混ざっていて、その中の女性たち(上下ジャージ姿)が揃って、ラジオ体操第1の冒頭の「伸び」の次の運動(両手をサイドに振り上げながら足を開脚屈伸する)を、足を閉じて屈伸していたこと。日本人の女の人の感覚からすると、今の時代にあっても、「足を開脚」して屈伸という格好はあり得ない、またはあまりしたくない、ということか。何となくわかる気はするが、体操のときもそうなのか? トレパンはいてても? 

そう考えると、1930年代、1940年代といった古い時代に、ラジオ体操で女性たちに「足(股)を開いて屈伸させる」動きは、革命的な意味があったとは言えないか、などと深読みしてしまう。スポーツとか運動というものには、女だからこういうマナーで、女性らしさを失わず、などいうものは基本的にはないはず。ある民族の持つしぐさというのは、思っている以上に意味深いのかもしれない。

20180809

W杯をつたえるメディアについて


W杯ロシア大会について、何回かつづけて書いてきた。最後にイベントを扱うメディアについて考えてみたいと思う。

W杯のような国際的な大きなイベントでは、人も動けば、大きなお金も動く。であれば当然、イベントをめぐるメディアもこぞって参入してくる。日本では、日本代表に関することが報道の多くを占めていたようだが、海外のメディアを見れば、W杯全体を把握しようとしているものが目についた。

わたしが大会前、大会中をつうじてよく見ていたのは、イギリスの新聞ガーディアンが特集していた『2018年W杯736選手完全ガイド』。

各国32チーム、総勢736人の選手の紹介ページだ。メニューから国を選ぶと、その国のFIFAランクと大会リーグ戦のグループ名、簡単なチーム紹介(強みと弱み)が出てくる。その下に、選手のプロフィールを担当した外部のライター(主としてチームの国の人)の名前とツイッターへのリンクがある。ちなみに日本代表のプロフィール・ライターは、イギリス人で大阪在住のサッカー・コメンテイターのベン・メイブリーと、サッカーライターの川端暁彦の2人。

その下に、ゴールキーパー、ディフェンダー、ミッドフィルダー、フォアワードの順番で選手の顔写真が並べられている。その顔写真にカーソルを合わせると、選手の詳しい情報が読めるようになっている。所属クラブ、代表キャップ数、ゴール数、年齢とあり、その次に今大会における各試合ごとのレートがつけられるようになっている。たとえば全試合に出場した日本代表の柴崎岳であれば、7、7、4、7。4はポーランド戦だ。最後の7はベスト16のベルギー戦。10点満点なので、概ね高評価ということだろう(この評価は、ガーディアン側でやっているものと思われる)。

試合前に出場選手名が発表されたあと、このメンバー紹介を見れば、どこのクラブに所属し、代表ではどんな活躍をしてきたかがおおよそわかる。このようなアーカイブをすべての国について、サブも含めた選手全員載せていることには価値がある。このプロフィールは、試合のあとに更新されることもあるようで、日本対コロンビア戦の翌日、録画でこの試合を見ていて、ハーフタイムのときにガーディアンの選手紹介を見ようとしたところ、カルロス・サンチェス(ハンドで退場になった選手)のところに、

….but his reflexive handball against Japan left the team with 10 men for 87 minutes and means he is banned……….
(しかし反射的に動かした手がハンドをとられ、残り87分間を10人で戦うことになり、サンチェスは処分を受け、、、)

とあり、あわててページを閉じた。試合結果に触れられていたら困ると思ったのだ。のちに再度ページを開いて読んでみた。プロフィールには「このポジションで彼ほどのクォリティの選手はいないし、メンバー表にまず記される選手であることに変わりない」というようなことが書かれていた。担当者が、これは書いておかなくてはと思って更新したのだろう。サンチェスはコロンビア国内で、ハンドのことで非難もされていたようなので。わたし自身、サンチェスを気の毒に思いながらも、他にまともな選手はいなかったのか、と思いそうになっていたので、これを読んで考えを改めた。サンチェスはプレミアリーグにいた頃、プレーを見て少し知っていた。このコメントで、ハンドを犯してしまったが、コロンビア代表にとって重要な選手だったのだ、と理解した。

次にNHKのワールドカップ見逃し配信について紹介したい。『2018 FIFA ワールドカップ』というコンテンツをNHKはつくっていて、その中で、全試合の映像を無料で見れるようにしていた。これは本当に素晴らしいものだった。大会期間中に見ることはなかったが、終わってから、気になる試合を再度見たりしていた。(ウェブサイトは7月31日まで、iOSのアプリも現在終了している)

何が素晴らしいかといって、全試合配信ということもあるが、その映像が画期的だ。ストリーミングもスムーズだし、映像のクォリティも高い。パソコンのフル画面で充分に楽しめる。またマルチアングルを選ぶと、戦術カメラ、ワイヤーカメラ、4分割A、4分割Bのオプション画像が見れる。

戦術カメラというのは、ゴールサイド斜め上からのピッチ全体が入る映像で、それにより両チームの選手がどのような配置で、どんな動きをしているか、俯瞰で見ることができる。ワイヤーカメラというのは、ピッチ上部に吊ったワイヤーからの映像で、戦術カメラより、個々の選手の動きがよく捉えられている。戦術カメラAは、画面が「試合」「戦術」「選手(Aチーム)」「監督(Aチーム)」に分かれていて、4分割の状態で試合を見ることになる。戦術カメラBは、「選手」「監督」のところがBチームに入れ替わる。

試合の進行を見ながら、応援するチームの選手や監督の表情を追うという忙しい見方になる。しかしスポーツ記者など、役に立てる人もきっといるだろう。試合中にタッチライン際で、選手と監督が話をしていた、などというコメントも耳にした。今のサッカーは世界標準のチームでは、試合中にどんどん戦術を変更していくのが普通だというから、重要なやりとりをしている場面が、カメラに捉えられていてもおかしくない。

このアプリによる映像はNHKがつくったものではなく、FIFAが全世界に配信しているものを、日本ではNHKが購入したと思われる。あるいは全試合の放送権を買った局には、付いてくるとか? そのあたりはザッと調べたところ、いまのところ不明。

もう一つ、この見逃し映像で素晴らしい点は、映像の長さだ。試合だけを配信しているわけではない。カメラは選手がスタジアムに到着し、ピッチに現れウォーミングアップするところからずっと追っていく。その前に、まずスタジアムが上空高いところから映し出される。カメラをぐっと引いて、スタジアムの周辺の街の様子、川が流れていたり、団地のようなビル群があったり、というかなり遠景をていねいに捉える。見ているものは、そこがどんな場所で、スタジアムはどんな形で、ということをリアルな感覚で得ることができる。

そしてカメラはスタジアムの中のサポーター、観客の様子、表情もゆっくり拾っていく。まだ席は埋まっていない状態だ。そういう映像を見ていて、これから始まる試合のことに思いを馳せ、ワクワクしていくというわけだ。少しするとどちらかのチームのゴールキーパー3人(主力1、サブ2)が、キーパー・コーチとともに現れる。客席に向かって、拍手を送りながら出てくる選手もいる。引き締まった、でも期待で胸をふくらませているようなキーパーたちの表情。ときに笑顔も見られる。そしてウォーミングアップ開始。キーパーはこういうウォーミングアップをするんだな。もう一方のチームのキーパー・グループも出てきて同じことをする。まずキーパーが出てくるのは、どこのチームも同じ。

少ししてフィールドプレーヤーも現れ、ウォーミングアップを始める。走り込みをしたり、円になってボールをまわしたり、いろいろなことをする。映像はカットされることがないので、延々、試合が始まるまでつづく。人が埋まってきたスタジアム内の様子、観客の表情もときおり混ぜる。何も起こらない映像としては、かなり長い。試合が始まるまでに小1時間はあるかもしれない。

試合後の映像も、テレビで映される以上の長さがある。試合後の両チームの選手の交換、抱き合い、互いを称え合う場面、選手が客席にいる友人や家族のもとに歩み寄るシーンなども映される。全試合をこの調子で見ていたら、大変な時間がかかるだろう。でも気になるチームをカットなしの全編で見るのは、またとない機会となるだろう。

FIFAの公式ページにも行ってみた。コンテンツは充実していたが、日本語版はなかった。英語の他にはオランダ語、スペイン語、中国語、フランス語、キリル語、アラビア語(と思われる)があった。各国語を話す国が権利を買って訳しているのだろうか。英語版で読んだ記事の中では、ロシア代表の監督のインタビューが面白かった。ロシアは開催国であるだけなく、今大会、代表チームは驚きの活躍を見せた。日本語の報道では、ロシアへの興味が一般に薄いのか(あるいは日本の政治的偏向によるものなのか)、大会をつうじてロシア関係の記事は少ない印象だった。 以下に代表監督スタニスラフ・チェルチェソフの言葉を紹介する。FIFAのインタビューによる。

「(今大会の成功の理由は)まずは運営が信頼に足るものだったことがある。開催地としてロシアを選んでくれた国々に対して、正しい投票だったことを示す必要があった。すべての運営が非常に高いレベルに設定され、実行された。これは我々自身が言っているだけでなく、海外からワールドカップを見にやって来た人々がそう話していたことだ。これは大きな鍵であり、このことなしに、我々あるいはどんな国であれ代表チームがいいプレーを見せることなどできない」

日本ではこの発言を、やはりロシアは全体主義的だから、こういうコメントをするんだ、と受け取る人がいるかもしれない。わたし自身はそうは思わなかった。理由は、多くの海外メディアが、元日本代表監督のオシムさんも日本のスポーツマガジンで、そして前回紹介した日本人ベテラン・サッカーライターの後藤健生さんも、これを裏付ける記事を書いているからだ。後藤さんは、過去12回生観戦したW杯の中でも最高の運営だったとしている。スタジアム内はもちろん、スタジアム間の交通、街のサービスに至るまで、訪れた人々が快適に過ごせるようプラン、管理されていたという。

W杯の1年前、コンフェデ杯(W杯主催国で開催される、大陸間で王者を決める大会)を戦い、ロシアが自分たちの弱点を知ったことは大きな助けになった、とチェルチェソフ監督は言う。選手選考においても、怪我人を多く抱えながらも、選手たちを競争させてよりよい人選になるよう努力したという。そしてオープニングの試合では、ただ勝つだけではだめだ、人々を納得させる戦いをする必要がある、そうすれば我々代表チームを国民が信頼してくれるはず、と考えた。実際、初戦のサウジアラビア戦を終えたあとには、国民の熱はおおいに高まったし、ファンとチームが一体になれた。そう語っている。この試合でロシアはサウジを5−0というスコアで圧倒した。

相手が(今大会最下位のロシアの次の)サウジだったから勝てた、とは誰もが思ったかもしれない。第1戦を見たときは、わたしもそう思った。しかし第2戦のエジプト戦でも、ロシアは強さを見せた。3−1の勝利だった。世界的な、と言ってもいいエースのモハメド・サラー選手は怪我あけであまり動けていなかったものの、失点はそのサラーによるPKの1点のみ。チェルチェソフ監督は、ベスト16でスペインに勝って次に進んだことは大きかったが、このエジプト戦こそ完璧な試合ができた、と述べている。

つづくウルグアイ戦で3−0で負けたことは衝撃だったようだ。わたしも、実力はここまでかと思った。しかし決勝トーナメント第1戦のスペイン戦では、監督いわく「うぬぼれてるように聞こえるから、自分の口では言いたくないが、自分の考えでは、この試合はフットボールとしても、試合の緊張感としても、今大会最高の試合だったと思える」 そう述べている。「我々はそれまで(ウルグアイ戦も含め)5バックで戦ってきた。この試合では4バックにした。W杯前は4バックでもやっていた。スペインはこれに少し戸惑って、うまく対応策が取れなかったのではないか」

ひょっとして、チェルチェソフ監督は、第2戦でグループリーグ通過を決めていたので、ウルグアイ戦ではあえて5バックのままで戦い、ベスト16に備えていたのかもしれない。ベスト16の相手となるスペインかポルトガルをあざむくために。ロシアはベスト8のクロアチア戦でも積極的な攻めを見せ、2−2でペナルティに持ち込んでいる。4得点とハイスコアを出したチェリシェフ選手など、得点力も高いチームだったのだ。

ロシア代表の戦いぶりを見れば、チェルチェソフ監督の発言にある種の客観性があることを認めないわけにはいかない。このインタビュー記事はW杯終了後の7月20日に、FIFAのサイトに掲載された。大会後にもこうして、何が起きていたのかを知るための記事が載せられ、読めることは素晴らしい。こういった監督への直接のインタビューは、どこの国の記者でも、興味さえあれば可能だったのではないか。決して強豪国ではないロシアが、この大会のために何をどう実行してきたかを聞くことは、同じく日本のような強豪国ではない代表チームにとって、役立つことはありそうだ。もっと関心をもってもよかったと思う。

日本のメディアが大会中、大会後に何を報道していたかを見てみると、大手メディアについてはあまりこれといった良い点が見つからない。地上波民放の実況放送では、試合の前後に1時間、ときに2時間もの「紹介プログラム」が組まれていた。しかしその内容は、ほぼ日本代表に関するもので占められていた。それが日本の試合でなかったとしてもだ。「今日の日本代表の動き」というようなタイトルで、それほど素材はないのに、練習風景やそこまでの試合の日本の得点シーンを何度も流し、あとはスタジオにいる大勢のタレントや芸人、元選手たちのトークで埋めていた。サッカーに関係する実のある話は少ない。戦術に関する話もなく、日本代表のゴールに感動した話で盛り上がっていた。

NHKの実況放送は、元代表選手や現在のアンダー世代の選手をゲストに、多少はサッカーの内容についての話はしていた。アンダー世代を呼んだのは、2020年の東京オリンピックのアピールを兼ねてのことだろう。しかしやはり番組の前後を飾るのは、日本代表に関する情報。そのとき実況するチームについて、もっと取材があってもよかったと思う。何人ものスタッフが現地入りしているのだから。基本的によそのチームに興味がないという「日本の事情」は、報道においても、いかんともしがたい。

こうした大手メディアではなく、ネット上で展開されていた動画によるトークや、若手サッカー解説者による戦術分析には、見るべきものがいくつかあった。その中心にいたのは、元サッカー選手の戸田和幸さんである。一つはSportsnaviのロシア大会特集の中で、テキストと図版により日本代表の戦いを細かく分析していた。ところいま、そのページにアクセスしようとしたところ、「7月31日をもって大会特集は終了」となっていて、読むことができなくなっていた。

こういうことは日本のメディアでは非常に多い。掲載期間が極端に短いのだ。また大手新聞社などでも、記事をアーカイブし一般に開放する期間は短い傾向がある。すべてのサービスは、有料会員のためにある、と言わんばかりだ。日本は一般にコマーシャルで動いている部分が多く、アメリカも近いところはあるが、それでも非営利運営的な思想が発達しているので、コマーシャル一辺倒にはならない。日本では非営利活動の地位が低いので、多くのものやことがコマーシャルベースの中に飲み込まれてしまっている。

戸田さんの試合レビューの動画版に、「THE OPINION」というネットでのトーク番組があった。こちらは今でも視聴できる。「サッカーにまつわる様々なテーマについてディベートする」とあって、スペインサッカーに詳しい小澤一郎さん、元サッカー選手の中西哲生さんなどが参加している。ここでロシア大会の日本代表の戦いを、試合ごとにテーマにして取り上げていた。1時間くらいのトーク番組になっていた。またここでは、鼎談者が40歳代ということで、彼らより年長のサッカーを語る人々とは少し違った印象だった。どこが一番違うかというと、事実の見方に関する客観性の占める割合だ。

岡田武史さん(元日本代表監督)や山本昌邦さん(元オリンピック代表コーチ)など60歳代のサッカーの論客は、経験も見識もあるはずの人々だが、「大人の振る舞い」を意識しているのか、日本代表を客観的に見て語る部分は、40代世代と比べると少なかった。8割は良いことしか語らない。本当に起きていたことに、細かく触れていくことがない。スポンサーや放送局の求めることを知ればこそ、そうなってしまうのだろうか。その背後には、そういうトーンの報道や解説を求める国民のマジョリティがいる(あるいはいると想定されている)わけだが。

「THE OPINION」で、日本の初戦コロンビアとの試合について、戸田、中西、小澤の3氏が、他では全く取り上げていなかったことを話していた。この試合を振り返る中で、司会役をつとめる中西哲生さんが、コロンビア選手のハンドボールに対して、レッドカード(一発退場)とペナルティキックの両方が出たことについて、あれはどうだったのかという疑問を投じた。レフェリーの判断は適正だったのか、と。これに対して小澤一郎さんが、今のレギュレーションでは、ペナルティキックを蹴らせるのであれば、カードはイエローでしょうね、と答えていた。中西さんも同じ認識があるようだった。

わたしもこの試合を見ていて、レッドカードが出たときは非常に驚いたので、この話は納得のいくものだった。戸田和幸さんは、「どういうたぐいのファールかにもよるでしょうけど、ただ、手の平でこうやって(とやってみせる)止めたわけではなく、少し広げた腕の上腕部にボールが当たったものだったから(戸田さんとともに、小澤さんもジェスチャーで腕の動きを示していた)、これについての判断は分かれるのでは」というような話をしていた。コロンビアは中盤の重要な選手を開始3分で失い、87分を残りの10人で戦うはめになり、さらにペナルティキックによる1点も先取されてしまった。日本にとってはこれ以上の幸運はないが、試合としては壊れてしまった、と見ていたわたしは感じた。

レッドカードについて、このトーク以外の日本のメディアで話題に上ることはほぼなかったと思う。しかしこの10対11による87分間の戦いは、この試合のほぼすべてだったと思う。勝った=日本は強かった、ということにはならない。しかしコメンテーターとして、その後の中継に出ていた岡田武史さんなどは、「相手が少ないとかえってやりにくいんですよ」といったコメントに終始していた。確かに、2014年のブラジル大会、日本の第2戦でギリシアと戦った際、38分にギリシアが2枚目のイエローで退場となった試合では、相手が残り時間固く守り、0−0に終わった、ということはある。その試合を今回のコロンビア戦にそのまま当てはめることができる、と岡田さんは本気で思っているのだろうか。

もしこれが逆のケースだったら、日本が一発退場+ペナルティキックを取られていたら、そして負けていたら、黙ってはいなかったのではないか。「現在のレギュレーションではレッドではなくイエローのはず」と憤懣やるかたなかったかもしれない。多くの日本のメディアや解説者が、その論調で取り上げることはあり得る。

相手側に不利に働いたときは黙っていて、自分の側が不利を被ったときのみ発言する、というのでは、発言者の判断や発言の信頼性は著しく低くなってしまう。その意味で、「THE OPINION」の3氏が、日本の勝利を喜び、祝い、よかった点をほめながらも、起きたことを公平な視点から論じていることは貴重だと思った。こういうことがないと、「専門家」や「経験者」の話や意見に、きちんと耳を傾けることは難しくなる。そのことが若手の(と言っても40代だが)コメンテーターたちは、よくわかっているのだ。

今大会、マスメディアではないところで、戸田和幸さんを中心に、きちんとした分析が行なわれていたことは、日本のスポーツメディアにとって大きかったと思う。こういう小さなメディアへの視聴者、読者の反応が影響力をもつようになれば、大手メディアも太鼓持ち的な報道ばかりしていられなくなるし、太鼓持ち的コメントばかり言っている人たちは追いやられ、仕事を失うだろう。そういう流れをつくっていくのは、一般の視聴者、読者であるわたしたち受け手の役割でもある。一人一人が自覚をもつことで、メディアを変えていくことが可能になったのが、今という時代だと思う。

東京オリンピックのサッカー競技や次のW杯のときには、このようなオルタナティブな、ネットをつかった解説やトーク番組が、もっと活発になり支持を得るようになるかもしれない。


*YouTubeには、スカパーで放送した岩政大樹MCによるW杯日本代表戦のレビュー・シリーズがアップされていた。登録者はテレビ局自身のようだった。スカパーではW杯の放映はなかったが、こういうレビュー番組をつくっていたのだ。地上波大手がやらないので、意味あることだと思う。

THE REVIEW #4-(1) | コロンビア戦レビュー…前半全体を振り返る

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