20180710

W杯日誌(ベスト8、ベスト4)

ベスト8 2018.7.5記

W杯が始まって4週間、残りあと10日ほどで決勝を迎える。ここまでに出場32チームの中からベスト8が出揃った。

ウルグアイ、フランス、ロシア、クロアチア、ベルギー、ブラジル、スウェーデン、イングランド

こうやって見てみると、ロシアのところにスペインが、スウェーデンの代わりにスイスが入っていてもおかしくはないものの、ほぼ順当と言えるのではないか。アルゼンチンやドイツがここに入ってないのは、珍しいことではあるけれど、試合を見た感じでは、それもありと思える。

開催国枠で出場したロシアは、グループリーグ敗退かとも予想されたが、意外にも、ブラジル大会以降に相当な進化をさせてきた結果なのか、ベスト8まで勝ち進んだ。4年前の大会では引き分け2の勝ち点2で、グループ3位でリーグ戦を敗退している。面白みの少ない、堅いチームだなという印象をもった。しかし調べてみると、当時、意外なことにFIFAランクは19位だったようだ。今回は(65位)と32チーム中最下位での出場。

ロシアは開催国のため予選の試合がないので、大会前にブラジル、アルゼンチン、フランス、ポルトガルなどの強豪チームとの強化試合を組み、そこで負け続けてきたという。それが65位という順位に影響しているのかもしれない(予選がなかったため試合数が少ないことが基本にあったとしても)。しかし本大会の成果を見れば、順位が落ちるのを気にせず、強豪チームと対戦してきたことが、生きているようにも見える。去年の11月にはスペインとの親善試合を3−3の引き分けに持ち込んでおり、ロシア大会でのベスト16では、そのスペインと当たり1−1のPK戦で勝っている。

ロシアは堅い守りとカウンター攻撃のチームと思うが、グループリーグではサウジアラビアに5−0、エジプトに3−1と勝ち、ウルグアイに0−3で負けている。ウルグアイ戦を見て、このあたりが限度かと思ったが、決勝トーナメント第1戦のスペイン戦はPK戦に持ち込んだ。ここまでの得点は9、失点5で、得失点差は+4。アルゼンチンと決勝Tで打ち合いをしたフランスが+3、手堅いスウェーデンが+4だから、それほど悪くはない数字だ。因みに失点の少ないウルグアイ、クロアチア、ブラジルは+6、得点の多いベルギーは+8となっている。

ロシアがベスト4を競う相手はクロアチア。グループリーグではナイジェリア、アルゼンチン、アイスランドに勝ち、勝ち点9の1位通過だった。アルゼンチン戦では相手GKに大きなミスがあり、運も味方した。クロアチアはそこそこスタープレイヤーのいるチームで、印象的なプレーをしていると言う人もいるようだが、わたし自身の感想としては、今大会、さほど冴えたプレーを見た記憶がない。しかし期待していたナイジェリアが、クロアチア戦で非常に劣って見えたのは、クロアチアが抑えていたせいなのかもしれない。第2戦のアイスランド戦後半では、ナイジェリアは良い戦いをして、2−0で勝っているのだから。やはり相手によってチームの見え方は大きく変わるので、複数の試合を見ないと実力や特徴はつかみにくい。

ロシアとクロアチア。実力や選手層からいえばクロアチアに分があるだろう。クロアチアはここまでに失点2と守備も堅いようだ。調子の乗らないアルゼンチンではあったが、得点0に抑えてもいる。ロシアはこのクロアチアに対して、得点するのは難しいかもしれない。勝ち目があるとするなら引け分けに持ち込んで、PK戦で勝負するか。それとも何か特別なオプションをもっているかどうか。

ベスト8に進んだチームの中で、ロシアとともにやや意外だったのはスウェーデンだ。ヨーロッパ予選を2位で通過し(フランスが1位のグループ)、イタリアとのプレーオフに勝って本大会に進んできた。イタリアを破ったホーム&アウェイの2試合はテレビで見たが、しぶとい戦い振りだった。それがW杯本大会でも十二分に発揮されている。

グループリーグでは、初戦韓国にはPKの1点で勝ち、ドイツ戦では1−1のロスタイムに1点入れられて負けてしまったが、終始しぶとい戦いを見せていた。第3戦でメキシコに3−0で勝ったときは驚いた。メキシコは初戦でドイツに勝っていたから、メキシコは強く見えた。ドイツ、メキシコ、スウェーデン、韓国のグループFで、スウェーデンが1位通過するとは想像していなかった。ドイツとメキシコが通過すると思っていたのだ。

スウェーデンは準決勝をかけてイングランドと対戦する。イングランドの印象は、選手層が厚く、平均年齢が低いこと。スタープレイヤーもいて、スピードがあり、守備も統率が取れている。決勝トーナメント第1戦のコロンビア戦では、うまくコロンビアを抑えていたように見えた。コロンビアはキープレイヤーのハメス・ロドリゲスを負傷で欠いていたが、基本的にはアグレッシブでスピードもあり、強いチームという印象がある。グループリーグ第2戦の3−0で勝ったポーランド戦を見て、相当強いと感じた。FIFAランク8位のポーランドは今大会、まったく冴えない試合ばかりしていたが、守備はそれなりに堅いと思うので。この試合の解説をしていた戸田和幸さんが、コロンビアの強さに驚嘆し、日本戦では退場者が出ていてよかった、とポロリと口にしたくらい。11人対11人であれば、日本はとても勝てそうにないチームに見えた。やはり短期決戦のW杯では、運が大きく作用することも多いということか。

イングランドはこのコロンビアに1ー1で引き分け、PK戦(4−3)で勝った。イングランドの試合中の得点は、相手ファールによるPKだった。コロンビアはコーナーキックからのセットプレーで1点を返した。試合全体の印象としては、イングランドがコントロールしているように見えたが、コロンビアの時間もそれなりにあったと思う。

このようなイングランドとスウェーデンのベスト8の戦いはどのようなものになるだろう。イングランドはこれまで勝ったことのなかったPK戦を制したことで、自信を高めているかもしれない。監督のサウスゲートが、PK戦の練習を含め、入念な準備をしてきたという。得点の取れる前線のプレイヤーで言えば、イングランドはスウェーデンに優っている。前線のタレントはたくさんいるし、スピーディーで得点力も高い。

ベスト8のダークホースと見られるロシアとスウェーデン、この二つのどちらかが準決勝に進めるかどうか。どちらも守備に重心を置いた粘り強いチームだ。高さもある。いずれかのチームが勝ち進むようなことがあれば、今大会のサプライズになることは間違いない。 

今大会で一つ注目してきたのは、守備に重心を置いたチームだ。攻撃に優るチームと守備に優るチーム、どちらが有利に試合を進められるものなのか。あるいは実力で劣るチームは、どちらに重心を置いた方がより勝てる可能性が高まるのか。

アジアからの出場ではイラン代表に注目していた。アジアで1番の順位(34位)をこのところ保ち、グループリーグで勝ち点4を取ったイラン。スペイン、ポルトガルという強豪グループに入ったのは不運だったかもしれない。勝ち点4を取りながらグループリーグを敗退した。グループHの日本は、同じ勝ち点4、得失点差0で決勝トーナメントに進むことができたのだが。勝ち点4で決勝トーナメントに進めたのは日本とアルゼンチンのみ。勝ち点4で進めなかったのはイランと、日本と最後に通過を競い、フェアプレーポイント(イエローカードなどの枚数によるポイント)の差で負けたセネガルの2チーム。

日本とイランの得点と失点を比べると、チームの性質の違いがよくわかる。(グループリーグで)日本は得点4、失点4、イランは得点2、失点2。イランは8年前からポルトガル人のカルロス・ケイロスの元でチームづくりをしてきた。特徴としては守備に重心を置いていて、得点力はあまり高くない。前大会は1分け2敗で、勝ち点1、得点1、失点4(得失点差ー3)でグループ最下位。一方日本も同じく1分け2敗で、勝ち点1、得点2、失点6(得失点差ー4)で最下位。

しかしイランは今回少しだけ進歩したのかもしれない。モロッコ戦の1得点は相手のオウンゴールだったが、スペイン戦ではよく守り、前半は0−0。スペインに後半1点を入れられると、イランは方針転換、突如攻撃型のプレーに入った。見事な変身ぶりで驚いた。あれ、こんなプレーできるの?! 得点を取りにいくプレーを手の内に隠し持ちながら、守備に重心を置いて戦いつづける姿勢、その精神のあり様に感心した。するとイランがついに1点を入れる。ゴールの歓喜にわくイラン。ところがVARの判定によりオフサイドとなり、この得点は取り消された。

イランはもしここでスペインと引き分けられていれば、次のポルトガル戦でも引き分けているので、グループリーグ突破が可能だった。第3戦が現状と同じであれば、スペインは勝ち点3で敗退し、イランは勝ち点5でグループリーグを突破した。イランは得点力に問題があるのは変わらないと思うが、攻撃の形はもっていてそれなりの威力はありそうなので、前大会から見れば少し進歩があったのではないか。

日本の進化については判断が難しいかもしれない。前大会は史上最強のチームと言われ、ザッケローニの元、期待を背負ってブラジルへ。しかし結果は1分け、2敗、勝ち点1しか取れなかった。今大会は初戦でコロンビアに勝ち、セネガルに引き分け、ポーランドには負けたものの、決勝トーナメントではベルギーに善戦。ということになるのだが、コロンビア戦は87分間、ほぼ試合の全体を退場者を出した10人の相手チームと戦う、という幸運があった。攻撃に威力のあるコロンビアから、全開のパワーを受けることを避けられた。セネガル戦は点を取られては追いかけるという展開だったが、がんばってよく追いついたという意味で価値が高い。第3戦のポーランド戦は引き分け(以上で)なければならない試合だったが、0−1で負けてしまった。直前のスイスとの親善試合に似て、こういう(ヨーロッパ型の)守備のチームには日本は弱いのかもしれない。たとえばグループFに入って、初戦をスウェーデンと戦っていたら、勝つことは難しかったかもしれない。日本と実力の近い韓国は、このグループを1勝2敗で敗退している。

ベルギー戦では、日本は後半すぐに2点先取したものの、最終的に3点取られて負けてしまった。このパターンはブラジル大会でも、2006年のドイツ大会でも見た風景だ。ブラジル大会では、第1戦のコートジボワール戦で、前半1点先制していたのに、後半になってドログバが投入されると、その2分後に立て続けに2点入れられ負けてしまった。第3戦のコロンビア戦でも、前半に相手に1点入れられたあと追いついたのだが、後半ハメス・ロドリゲスが投入されると、彼のアシスト二つとゴール一つの計3点を入れられ負けてしまった。ドイツ大会のときもオーストラリア戦、ブラジル戦ともに先制しながら、相手に3点、4点と入れられ負けている。特にオーストラリア戦で、1−0で勝っていた試合の最終盤、わずか数分間のうちに3失点した衝撃は大きかった。このような負け方を第1戦ですると、第2戦で日本は0−0の堅い試合をすることが多い(ブラジル大会のギリシア戦、ドイツ大会のクロアチア戦)。

2010年の南アフリカ大会のときは、岡田武史監督の元、急仕立ての超守備的な戦いをして勝ち点6(得点4、失点2)で決勝トーナメントへ進んだ。数字的には、日本としては理想的といっていい成績。ここでは上記のようなパターンには陥らなかった。今大会、解説者としてテレビに出演していた岡田さんの話では、第3戦のデンマーク戦で、超守備的な戦いはこの辺でやめ、本来の攻撃的な戦いをしようとしたが、すぐに危なくなって元に戻した、ということだった。デンマーク戦では、本田と遠藤が前半に直接フリーキックを決め2点を先取していた。試合終盤にPKを取られ、その流れで1失点しているが、そのあと日本が追加点を入れて勝ちきっている。2010年には陥ることのなかったパターンに、2006年、2014年につづいて今大会もはまってしまったのだろうか。それとも今回の敗戦は、違った種類のものなのか。

サッカーでは守備も攻撃も両方するわけで、守備的、攻撃的と簡単には分けられない。しかし戦い方のプランのベースには、このどちらかがあるに違いない。中堅〜弱小チームに限っていえば、一般に守備をベースに置くチームは、失点は少ないが得点も少ない。攻撃にベースを置くチームは得点はできても、失点が多く、時に失点が得点をうわまわる。つまり負けてしまうということ。日本は気持ち的には攻撃をベースに戦いたいチームだと思うが(選手もサポーターも国民も)、このやり方だとどうしても失点が多くなる。2010年の南アフリカ大会では、超守備的な戦いをあえてして、数字的には2勝、1分け、1敗という日本サッカー史上、W杯で最高の成績を残した。しかしこのやり方は良しとされなかったのか、このときの経験が、現在に至るまで生かされているとは言えない。

間もなく、準決勝をかけた戦いが始まる。サッカーは点を取り合うスポーツだから、得点能力の高いところが最終的に優位に立てるのか、それとも失点が少ないほど勝つ確率が高くなるのか。ベスト8で見ていくと、失点が少ないのは、ウルグアイ、ブラジルがここまで1失点、クロアチア、スウェーデンが2失点。得点が多いのは、ベルギー12得点、ロシア、イングランドが9得点となっている。


ベスト4 2018.7.10記

ベスト4をかけた全4試合を見た。準決勝に残ったのは、ベルギー、フランス、クロアチア、イングランド。

この4試合の中で、ロシアの戦いぶりは印象的だった。ロシアは今大会の最大のサプライズと言っていいかもしれない。ベスト4をかけたクロアチアとの戦いは、PK線にもつれこんだ。予想とは違い、ロシアは最初から積極的だった。やはりこのステージでは、先に点を取ることが重要と判断したのか。そして1点を先制。しかしすぐに1点を入れ返される。それはそうだろう。クロアチアが黙っているわけはない。そしてそのまま延長戦に。そこでクロアチアが追加点をあげたときは、やはり、と思った。ところがロシアは入れ返して同点にしたのだ。しぶとい戦いぶりだ。守るだけでなく得点力も示した。プランがしっかりしているのか、状況を見極めての選手交代も早かった。強さだけでなく、実質的な技術もあるチームに見えた。

そしてPK戦。PK戦は必ずしも実力を示すものではないが、しかしクロアチアが制したのは順当だったかもしれない。ロシアは2人が失敗した。3番目に蹴って枠を外してしまったのは、延長戦で同点ゴールを放ったフェルナンデスだった。そしてクロアチアの5番目のキッカーはラキティッチ。バルセロナでプレーする優れたミッドフィルダー。ラキティッチは落ち着いてこれを決め、クロアチアがベスト4に進出した。

ロシアの全5試合の戦いぶりは、プランも実力もあり、見事だったと思う。開催国枠での出場やグループリーグの優遇(自国がポッド1にいることで、最強のチームがいなかった)はあるものの、ベスト16だけでなく、ベスト8まで進んだことは大きな成果なのではないか。怪我でストライカーを1人欠いていたので、攻撃面での影響はあったかもしれないが。

スウェーデンも、もしベスト4に入ればサプライズのチームだったが、イングランドに2−0で負けて敗退した。スウェーデンもロシアと同様、このステージでは攻撃に積極性を見せていて、それまでの戦いぶりと少し印象が違った。しかし前半早い時間にコーナキックから失点し、さらに追加点を取られ、難しくなった。イングランドはコロンビア戦のPK戦あたりから評価をあげていたゴールキーパーのピクフォードが、スウェーデンの攻撃を好セーブで何度も止めて勝利に大きく貢献していた。

ということでダークホースの2チームは、ベスト8の戦いで、攻撃に少し重心を移したプランを実行していたように見えたが、やはり実力差が出たのか、勝ち切ることはできなかった。

ベルギー対ブラジルは、早い時間の失点(ブラジルのオウンゴール)が影響したのか、前半にもう1点追加点を奪われたブラジルが、形勢不利のままの試合を強いられた。失点の少なかったブラジルが、得点の多いベルギーに負けた形。

ウルグアイ対フランスは、なんといっても、ウルグアイに負傷者が出て出場できず(フォワードのカバーニ)、前線のパワーが半減したのが大きかったかもしれない。その前のベスト16の試合で、スアレス+カバーニの威力を見せつけられただけに、この2人のいるウルグアイとフランスとの戦いが見られなかったのは非常に残念だった。

準決勝は7月10日、11日(現地時間)、フランス対ベルギー、クロアチア対イングランドが戦う。ベルギーは1986年以来のベスト4(最高位)、クロアチアは1998年の(クロアチアとして)初出場での3位(最高位)以来の好成績となる。優勝経験のあるフランスは1998年の優勝(自国開催)、2006年の準優勝以来のベスト4以上、イングランドは1996年の優勝(自国開催)、1990年の4位以来のベスト4以上となる。

戦績で言えば、フランスが初めて自国以外の大会で優勝する可能性が高いように見える。ベルギーやクロアチアが優勝すれば、サプライズになるだろう。イングランドの優勝も、それに近いものがある。近年の成績を見てみれば、ベッカムやオーウェンがいた時代に、ベスト8まで行ったくらいで、強豪国とは言えない状態が続いていたからだ。

フランスが優勝するには、ベルギーに勝ち、決勝でイングランド、クロアチアの勝者に勝つ必要がある。エムバペ、グリーズマン、ジルーといった強力な前線が機能すれば、ルカク、アザール、デ・ブライネのベルギーに勝てそうな気がする。どちらもスピードとパワーを兼ね添えたチームだから、いずれにしても面白い試合になることだろう。

20180628

テクノロジーの進化とW杯ロシア大会



サッカーW杯ロシア大会がスタートした。2010年の南アフリカ大会、2014年のブラジル大会につづいて、なるべくたくさんの試合を観戦しようと思っている。すべての試合が地上波のNHKと民放で放映される予定だ。

サッカーの何がそんなに面白いの?と聞かれることがある。答えは展開や結果が予測できないから。八百長試合でもないかぎり、短期決戦のトーナメント戦では、強豪チームと弱小チームがマッチアップする場合でさえ、やってみないことにはどのような試合になるかは誰にもわからない。そこが面白い。

90分という時間の中で、両チームが何をし、どのような策を練り、それをどう実行していくか。負傷や退場など、思わぬハプニングも起こる。そのすべてが予測不可能。だから試合を見る前に、結果を知ってしまうことはあってはならないこと(平気な人もいるらしいが)。時差のある地域の試合をすべてライブで見れるわけではないので、録画で翌日見ることになり、結果の情報が入らないようにするには、ネットの閲覧をコントロールする必要がある。

情報というのは、今や手に入れることより、制御することの方が難しいかもしれない。ネットを閲覧していれば、速報を含め、逐次試合結果が流れてくる。うっかりGoogleで、検索ボックスにどこかの国名を入れただけで、W杯の試合結果が表示される可能性もある。たとえば「サッカー」とか「W杯」と書かなくても、今なら「セネガル 日本」と入れただけで、試合結果が出てくる可能性はとても高い。

ウィキペディアでも、たとえばテニスの四大大会などの結果は、対戦中にリアルタイムでどんどんアップデートされる(英語サイト)。テレビで見られないときは、これを見ていれば、試合の進行が最速でわかる(大会のオフィシャルページの更新とさして変わらない早さかもしれない)。逆に録画で試合を見ようと思っているときは、絶対にサイトに行ってはダメだ。情報の遮断をする。

スペイン・サッカーに詳しいコメンテーターの小澤一郎さんという人が、W杯開会前に気になることを言っていた。今回の大会は今までのものと、かなり違ったものになるだろう、というのだ。何が違うのだろう、とずっと考えていた。そして思い当たったのは、今大会からFIFA(国際サッカー連盟)が導入した、V A Rとリアルタイム・データ配信のシステムだ。W杯では、毎回なにかしら新しい技術がピッチの内外で披露される。

2010年の南アフリカ大会のときは、映像技術において様々な試みがされていた。以下は葉っぱの坑夫サイトに掲載したときの記録から。

<中継映像 1>
FIFA制作の中継映像が、放映権を得た各テレビ局によって流されている。プログラムのアイキャッチ映像、各チームの紹介プログラム(競技の進行に従って、各試合に即した新しいものが現場でつくられている)、実況中継、この三つが提供される主な内容である。これを基本に各テレビ局では、解説者やゲストを迎えての分析や感想を加えて番組にしている。今大会の映像で気づいたことは、何台ものカメラによるアングルの多彩さ。中でもかなり高い位置からのピッチ全体を見下ろす俯瞰の映像は圧巻だった。一斉にゴールに向かって走り出す攻守のプレイヤーたちを野生動物のように美しく捉えていた。ゴールネット隅の背後から捉えた、ゴール瞬間の映像も迫力があった。再生映像では、プレイの直後に数種類のアングルから捉えたものを畳み込むようにスピーディに流したり、ズーム・インで捉えた決定的瞬間の選手の動きや表情をストップモーションや超スロウ再生で映し出したり、高度な技術とアート性を感じた。前者は見る者にこのスポーツへの理解を深めさせるのに役立つだろうし、後者は文学や音楽や演劇などで人間が表そうとしているものを瞬時の判断で見事に一つの映像に結晶させていた。


超スロウ映像の多用については、ちょっとやりすぎではないか、大事なライブ映像を逃してしまう、という批判もあったようで、それ以降の大会では、もっとシンプルな映像になっている。2010年はひとつの試みであったと想像される。悪いことはではない。今大会でも、ここはというシーンでは、選手の表情のクローズアップなどがスロウ映像で捉えられている。

2014年のブラジル大会では、ゴールライン・テクノロジーのシステムが導入され、ボールがゴールラインを割ったか(ゴールマウスの中に完全に入ったか)を、必要に応じて判断基準に取り入れることになった。テニスでもそうだが、ボールがラインから完全に離れていること、つまりボールがラインに触れていないことが基準になる。サッカーではボールが見た目、ゴール内に入っているように見えても、ラインの内側とボールがわずかでも触れていればノーゴールになる。これをレフェリーが目で判断しかねるとき、映像データシステムをつかってゴールかどうか決めるのだ。この技術が出てきたときは、試合が中断されるなどの理由で賛否両論だったが、今ではヨーロッパのいくつかのリーグで導入されているようだ。

そして2018年ロシア大会で導入されたのが、V A Rとリアルタイム・データの配信だ。V A Rとはヴィデオ・アシスタント・レフェリーのことで、危険なファールやハンドなどカードの対象になるようなプレー、ファールによるPK(ペナルティキック)やオフサイドの判定など得点にからむシーンで、レフェリーが見逃したり、死角で見えなかったりしたプレーを、ヴィデオの映像を使用して判断の助けとする仕組。これも試合が中断されるなどの理由で反対意見がかなりあったようだが、採用の仕方の改善などもあって、ロシア大会でこれまで行なわれたものについては、さほど大きなストレスは感じなかった。親善試合などのテスト期間で見たときは、レフェリーがその場でプレーを止めて、ピッチの外にあるモニターを見にいき、そこでセンターとやり取りする、というやり方で時間がかかっていた。

ロシア大会では、プレーはそのまま続行し、判定に問題があるかもしれないと判断された場合のみ、レフェリーがピッチ外にセッティングされたモニターの前まで走っていき、映像を確認する。そこに至るまでは、試合を止めずに進めている。問題の提出はレフェリーからモスクワにあるセンターに委任されるのか、それともセンターからレフェリーに連絡がいくのか、その両方なのかわからない。V A Rセンターの側にも各国のレフェリーがいるので、そのレフェリーの映像確認によって問題の箇所が通達され、ピッチ内の主審レフェリーがそれを見た上で判断するのではないか。ここまで見た試合でV A Rを利用したケースでは、V A Rの映像が判定結果につながっていた。グループリーグ第2戦、白熱した0ー0状態のブラジル対コスタリカ戦では、レフェリーにより「ファールによるPK」といったん判断されたものが、V A Rの映像確認によって覆された。 

主審レフェリーが映像確認して裁定を下すまでの時間は、それほど長くはない。これにより公平性が高まるのであれば、V A Rの使用は多くの人が納得するのではないか。(グループリーグ第3戦のポルトガル対イランの試合では、レフェリーの質の低さから、V A Rの使用時にも混乱があったが)

レフェリーが駆け足でピッチを離れ、設置されたモニターに一人向き合っている図は、なにか面白いものがある。不思議な光景というか。アドレナリンが多量に放出されている熱い戦いのさなかに、クールな風がヒョロヒョロと通り抜けていったみたいな。それが理由で試合の邪魔になるという人もいるかもしれない。それはそれで理解できる。ただ完璧にとはいかないまでも、可能なかぎり裁定に公平性をという意図は、それはそれで正しい。技術を手にしたとき、それを使うかどうかは人間の判断に任さられる。しかし手にしている技術を使わない、という判断を下すこともそれはそれで難しい。

人間がやっている遊び(スポーツ)なのに、公平性のためだからと言って、機械を入れることはサッカーをつまらなくする、という考えもあるかもしれない。レフェリーが、100%、間違うことなく正しい判断をするのは、人間の能力を超えることだ。人間の限界を理解し、機械で補う。どう考えるかは人によると思う。ただ判断基準はあるのだから、機械の力を借りれば、判断の精度はあがり、レフェリング全体の技術の向上にもつながるかもしれない。

ただ一つ思ったのは、V A Rが当たり前になったとき、どんな判定もV A Rさえ通せばお墨付きの決定事項となり、誰も異を唱えられないかもしれない、ということ。今大会のベルギー対チュニジア戦で、少し疑問に感じたことがあった。試合開始後まもなく、ベルギーのスタープレイヤー、アザールが猛スピードでチュニジアのゴール前(ペナルティエリア)に走りこもうとした。チュニジアの選手がそれを猛追し、ファールが起きた。画面で見ていた感じでは、ファールが起きたのはペナルティエリアの線の外に見えた。すぐに鋭いホイッスルが鳴り、レフェリーは迷いなく即座にペナルティキッックを指示。すぐにテレビの再生映像が様々な角度からその場面を映し出した。それを見た感じから言うと、足がかかった場所はエリアの外に見えた。PKを蹴る前にV A Rで確認ということになり、レフェリーがモニターに走ったが、一瞬で判断してピッチに戻ってきて判定どおりのPKを指示した。えーっ!という感じだった。外でしょ? (いや、V A Rの診断には、人の目では捉えられない、何か特別な基準があるのかもしれない?) 試合後のハイライト映像を流しているとき、番組MCの一人も「外でしょ」と小さくつぶやいていた。微妙な位置だったことは間違いない。

試合はその後、ベルギーが勢いづいて次々に得点し、5ー2の大差で勝利した。確かにベルギーは強いし、実力はチュニジアの比ではない。このような結果になれば、あのPK判定のことは皆忘れてしまうだろう。チュニジアの選手以外は。そしてベルギーの揺るぎない強さが絶賛される。しかしあのPKの1点は最初の得点であり、意外にもそこまでベルギーがチュニジアに結構攻め込まれていたことを考えれば、あのPKはベルギーにとって天からの恵み。サッカーというのはこんな風にして流れが変わり、試合を決定することがある。

何故わたしがこの判定にこだわるかと言うと、同じグループの第1戦、イングランド対チュニジア戦で、実力差があるはずのイングランドがチュニジアに攻め込まれ、追加点に苦労していたからだ。チュニジアに得点を許したイングランドは、1ー1のまま試合を終えそうだった。最後の最後、アディショナルタイムにやっと1点入れ返し、まあこれが実力の差かもしれないが、この試合でイングランドが勝利するために苦労したことは確かだった。世界ランクでいうと、チュニジアは21位とアフリカ勢で最高位、一方イングランドは最近調子がいいと言っても12位。10位分の差だ。「チュニジアは弱小チーム」という一般的なイメージは当たらない。あれだけ攻め込んでいたのもわかる。

そんな試合の流れだったので、評判の高かったイングランドの実力を疑う人もいたようだが、わたしはむしろチュニジアの実力の程に関心が向いた。ベルギー戦を見れば、ある程度わかるだろう、というつもりでその試合を見ていた。だから試合開始まもなく、疑わしいPKの判定が下されたことにはがっかりした。V A Rにより判定が決定したことで、このファールの位置は問答無用になった。V A Rはもし意図して使おうと思えば、そのように(ダメ押しとして)も使えるのではないか、という疑問が起きた。意図としてはもちろん、正確さや公平性を保つため、誤審を減らすためにあるのだが。小さなささくれのようなものが残った。

次は今回取り入れられたもう一つのテクノロジー、リアルタイム・データの配信について。メディアや実況などでまだあまり取り上げられていないが、今大会から、F IF Aがピッチで行なわれている試合からデータを収集し、それを各チームに2台ずつ配ったタブレットに、リアルタイムで配信するというシステムのことだ。「コーチングの目的で情報収集を行ない、そのデータをベンチに送ること」をF IF Aが許可した、ということらしい。タブレットを配ったり、情報を配信しているのだから、F IF Aはこれを推進しているようにも見える。あるいはすでにデータ利用に着手している国もあるようなので、いずれ広まるということでコントロールしようとしているのかもしれない。


データの内容はどんなものかというと、選手の位置データやパス、プレス、スピード、タックルなどをトラッキングしたものの統計や、30秒遅れの試合映像といったもののようだ。このデータをアナリストが分析し、コーチや監督、あるいは医療スタッフに提示するとか。これを元に、監督は目で見た試合状況だけでなく、データから得た情報によって戦略を変更したり、選手交代をしたりするのだろうか。どこかの国のチームでは、スタンドにいるアナリストとベンチの監督とのやり取りがスムーズにいくか、大会前にシミュレーションしたと聞いた。

ここまで試合を見ている感じでは、監督やコーチが表だってタブレットを手にしている姿は見られない。どのように利用しているかは、チームのIT技術の進度や理解によるのかもしれない。しかしこういうものが出てきたということは、4年後の次の大会では、話題としてもっと出てくるのではないか。今大会でいい成績をあげたチームが、有効利用していたなどということになれば、なおのこと。


この記事の草稿を書いているとき、レフェリングについて、2010年の南アフリカ大会のときの記録をいくつか確認してみた。V A Rのない時代のレフェリングについて。

<レフェリー>
ルールに則って行なわれることであっても、一つ一つの判断は個々のレフェリーの裁量によってなされ、解釈されるわけで、ときに事実との食い違い、誤審や微妙な裁定も下される。今大会でも決勝トーナメント1回戦のドイツ、イングランド戦でのゴール判定、アルゼンチン、メキシコ戦でのオフサイドの見逃しが大きな話題となった。どちらも誤審だったことが再生映像によりFIFAによっても認められた。誤審のあったプレイは直後に、スタジアムの大型スクリーン上で繰り返し再生され、観衆もそれを見ていた。判定はくつがえらなかったので、誤審のまま試合は進んだ。
(「ドキュメント<2010年南アフリカの小宇宙> サッカーW杯全試合観戦記」より)

2010年の大会ではV A Rは導入されていなかったものの、スタジアムの大型スクリーンではリプレイされ、観衆もテレビで見ている人もそれを目撃していた。このとき思ったのは、誤審は問題だが、レフェリー(人間)が間違うことがあるという事実を、見ている人全員が共有していることの大事さだった。おそらくこのような誤審を避けるため、今回のV A Rが導入されたのだろう。しかし2010年の時点で、リプレイ画像によって「事実」の情報の一部は提供されていた。目でリアルタイムで一度だけ見たものではなく、様々な角度から撮った再生映像によって事実確認する、という方法論は、すでにこの時点で示されていたことになる。

今回映像で気づいたことがもう一つ。これまでの大会では(少なくとも2010年のスカパーでは)、テレビ放映される映像はF IF A提供の国際映像だったのではないか、と思うのだが、今大会ではローカライズされたものが流されていた。日本、セネガル戦を見ていて、日本目線の映像ばかりなので、それに気づいた。日本向け映像(カメラマンが日本人、または日本のサッカー事情を知る者でないと撮れない)というのを購入できるのかもしれない。このあたりは調べてみないとわからない。日本では世界標準のものより、「日本向け」映像の方が「気持ち的に」ずっとウケるし、共感しやすいのだ。日本人選手の姿や表情を中心に捉えるだけでなく、スタンドに来ている「久保くん」の顔を捉えていたのでわかった。日本で久保くんは、子ども時代にバルセロナF Cのカンテーラ(下部組織)にいたことで有名人の仲間入りしている。サッカーでまだ何を成したというわけではないのに、すでにW杯中のテレビコマーシャルで単独起用されるほどの売れっ子ぶりだ。16歳になった久保くんの顔を認識しているのは、日本にいる日本人と日本のメディアくらいだと思われる。

2010年の大会はC Sのスカパーで全試合を見た。あのときのスカパーのW杯全試合放映のテーマは「世界標準」だった。だから国際映像を採用していたのかもしれない。2010年のときも民法やNHKでは、日本戦については、ローカライズされた映像を流していた可能性もある。わたしはもし選べるなら、日本の試合も国際映像で見たい。せっかく国際大会を見ているのに、日本人目線の映像でそれを見る理由はない。今回の日本、セネガルの試合の場合も、日本の選手はよく知っているわけで、むしろセネガルの選手の表情や姿をもっと見たかった。

多分こういった感想はまったく一般的でないとは思う。多くの人にとってどうでもいいことかもしれない(日本在住のセネガル人は別にして)。しかし気になる者にとっては、実況のコメントを聞いていても、(日本戦に関しては)自分が目で見ているものと違うことが話されていることも多い。コメントの方向は「良い面を強調し、批評、批判はしない」。不思議なもので、このようなコメントを素直に聞いて見ていると、自分の目で見た映像もその方向で修正されていく。情報というのは、このような入り方をして人々の脳に浸透していき「事実」となる。


20180608

Wスポーツの楽しみ(ロシアW杯まもなく!)


まもなくサッカーのワールドカップがロシアで開催される。6月14日(現地)スタートなので、ちょうど1週間後だ。7月15日までの1カ月間かけて、サッカーの世界一を競うことになる。サッカーはグローバルスポーツの一つで、地球上のあらゆる国で遊びとして、スポーツとして楽しまれている。

たとえば南米。南米は昔からサッカーが盛んな国が多く、ストリートや広場、海辺で裸足の子どもたちがボールを蹴っている姿は、一度は見たことがあるだろう。最近はブラジルでも、このような姿は減って、サッカーのうまい子は早い時期に、地元の有力クラブの教育システムに吸収されてしまうと聞いたことがある。とはいえ南米からは、多くの才能がつねに「発掘」され、ヨーロッパの主要リーグのトップレベルでたくさんの選手が活躍している。なぜヨーロッパかと言えば、それはそこに莫大な資金が投下された、世界最大の巨大マーケットがあるからだ。

さて今回のW杯では、南米の出場国に少し変化があった。常連のブラジルやアルゼンチン、そしてここ最近強さを取り戻しているウルグアイやコロンビアは出場枠にはいった。しかしチリ、パラグアイといったW杯によく登場する力のある国は、外れてしまい、前大会出場のエクアドルも外れ、ペルーが1982年以来の久々の出場となった。南米はW杯予選の激戦区と言われ、またアウェイの地が高地であったりもし、アルゼンチンですら、予選を戦い抜いて出場を決めるのは簡単ではないように見える。

今回出場のペルーはサッカーにおいてどんな国か、と見てみると、5月18日付けの世界ランキングでは11位に入っている。そんなに強いのだろうか?? ウルグアイやコロンビアより上位にいる。ウィキペディアで選手をあたってみると、ほとんどが地元南米かメキシコのリーグでプレーしていて、よく知られた名前は見当たらない。予選の結果は第5位で、ニュージーランドとのプレーオフにまわっている。予選ではボリビアやエクアドルといったW杯出場を逃した国には勝っているものの、上位の国に勝てているわけではない。

ロシア大会ではグループCに入り、そこにはフランス、デンマークがいるので、決勝トーナメントに進むのは難しいかもしれない。オーストラリアには勝てるかもしれないが、グループリーグ突破を図るには、フランスかデンマークのどちらかと引き分ける必要があるだろう。

次にアフリカを見てみよう。アフリカ諸国も南米同様、ストリートや草地で子どもたちがサッカーをする姿がよく絵になっている。南スーダンからの難民キャンプがある、ケニアのカクマ難民キャンプでも、サッカーは子どもたちの娯楽のメインになっている。南スーダンのロスト・ボーイズと呼ばれる内戦を逃れて旅を続けた子どもたちは、逃亡の道筋で、食べるものがないときも、靴下をまるめたボールでサッカーをしていた。どんな状況に置かれていても、人間には楽しみが必要なのだ、そこから得られるものは小さくないと知った。

アフリカも、南米と同じように、ヨーロッパのリーグへの優秀な選手の「補給」源になっている。青田買いのような形で、ヨーロッパのエージェントたちが、才能ある子どもを探しにアフリカ各国をまわっている、と聞いたことがある。南米もそうだが、アフリカも多くの国が貧しさにあえいでいる。子どもたちにとって、また家族にとっても、スポーツ選手になって大金を稼ぐことは、大きな希望になる。

ロシア大会では、アフリカ勢の顔ぶれはかなり変わった。前大会の出場国で今回も出ているのはナイジェリアだけ。出場5カ国の中でブラックアフリカは、他にセネガルのみで、あとは北アフリカの国になった。モロッコ、チュニジア、エジプトの三つで、どの国も久々の出場になる。このような入れ替えがあるのは、競争が激しいのか、国の事情、経済の問題などから代表チームの安定性が保ちにくいからなのか。ほぼ指定席が決まっているアジアとは、大きな違いだ。

アフリカの出場国の中で注目を集めているのは、エジプトとセネガルだろう。5月26日に決勝戦を終えたばかりの、ヨーロッパのクラブ1位を決めるチャンピオンズ・リーグ、まさにその決勝の舞台に、この両国から選手が出ていた。エジプトのモハメド・サラーとセネガルのサディオ・マネ、それぞれ25歳と26歳だ。やはりこのような世界最高の舞台に出場するような選手を輩出していることが、その国の現在の代表の力の一端を表しているのだろうか。サラーとマネはイングランドのプレミアリーグ(リヴァプール)でのチームメートであり、前線でサポートし合う3人のフォワード(攻撃的ポジション)のうちの2枚という役割を担っている。今シーズンの世界指折りの3トップと言われている、3枚のうちの2枚なのだ。

この二人はともにイスラム教徒で、試合開始前に両手を天に向けて祈ったり、ゴールのあとに大地にひざまずき頭を地に付けて、神への感謝を表している。もしこの二人の代表チームが勝ち上がったとしても、決勝まで当たることはない。チームの実力から言って、まずそんなことはあり得ないだろうが、もし、エジプトとセネガルが決勝で当たることになったら、と想像してみることはそれはそれで楽しい。グループリーグでエジプトは優位にたっているかもしれない。それは開催国出場枠ロシアのグループに入ったからだ。予想では、このグループではウルグアイとエジプトが勝ち抜ける可能性が高いのではないか。

ただチーム1番のエース、サラーは現在負傷中で、W杯のメンバー入りはしたようだが、初戦から出場できるかどうかはわからない状態。上に書いたチャンピオンズ・リーグの決勝戦で、相手チームのディフェンダーに腕をからまれたまま落下し、肩を痛め退場した。サラーはリヴァプールにおいてもチーム1のエースであり、最大の得点源。サラーがいなくなったことで、リヴァプールはストロングポイントを失い負けてしまった。サラー選手の怪我は、エジプトにとって一番恐れていたことだろう。しかしサッカーでは、特にチャンピオンズ・リーグ決勝のような大舞台で、最も危険な選手が激しいディフェンスを受けること、そしてそれが負傷につながることはあり得ることではある。それが起きた。とても残念なことではあるが。

サラー抜きのエジプトは、上に進む確率が格段に落ちることは間違いない。サラー以外にもイングランドのプレミアリーグなどでプレーする選手は何人かいるが、サラーが欠けることは、普通のチームになること、エジプト人の意気消沈はどれほどのものか。出場が可能になった場合も、どの程度までコンディションを戻せるかが焦点になるだろう。

一方セネガルのマネは、チャンピオンズ・リーグの決勝でサラー退場後、そして1点入れられてビハインドになった数分後に、ゴールを決めて同点とし、力を見せつけた。この選手がスーパーであることは、これを見ても間違いのないことだ。W杯でセネガルの属するグループHは、ポーランド、コロンビア、日本が入っている。セネガルは日本に勝てるだけの力はもっていると思うが、ポーランドとコロンビアに対しては未知数だ。決勝トーナメントに進めるかどうかは、半々くらいではないか。

チュニジアとモロッコについては全く知識がない。しかしチュニジアは世界ランク14位につけており、モロッコは42位。ちなみに日本は60位である(5月18日時点で)。チュニジアの選手を見てみると、地元チュニジアのリーグ以外には、サウジアラビアやフランスでプレーする人が多いようだ。ただ知られた名前は見当たらないし、監督もチュニジア人で、選手時代にヨーロッパでプレーした経験もないようだ。W杯の経験としては、過去に出場は何回かあるものの、決勝トーナメントに進んだことはない。そういったチームがどのようにして世界ランク14位という地位を確保しているのか、よくはわからない。14位というのはメキシコやコロンビア、ウルグアイの少し上なのだ。

北中米では今回、アメリカが外れた。この地域はアメリカとメキシコともう1カ国という感じだと思うので、少し驚いた。今回アメリカの代わりに入ったパナマは初出場の国。どんな選手がいるのか見てみると、地元パナマのリーグか、南米あるいはアメリカのリーグでプレーする人が多いようだ。名の知られた選手はいない。メキシコはW杯の常連で、つねに決勝トーナメントまで進んでいるチーム。ただその先まで進んだことは、最近はない。またスーパーな選手がいるかといえば、いるわけでもない。名を知られた選手は少しいるものの、全体として年齢があがっていて、有望な若手選手が出ているようには見えない。

次にヨーロッパを見てみよう。今回わたしは、W杯のヨーロッパ予選のいくつかはテレビで見ている。また2016年開催のユーロ(欧州選手権)も見ているので、多少は各国チームの力は知っている。楽しみなチームとしては、ユーロでベスト8までいったアイスランドだろうか。W杯は初出場ながら、予選ではクロアチアをおさえてグループ1位で通過している。2年前のユーロも初出場にしてベスト8まで進んだ。ベスト16でイングランドに勝ったあと(そしてベスト8でフランスに負けてしまったあとも)、サポーター席の前に選手全員が並んで、サポーターとともにやった「応援感謝の手拍子パフォーマンス」は圧巻だった。あれをまた見てみたいものだ。

もう一つヨーロッパで期待する国を選ぶとしたら、イングランドかもしれない。サッカーの母国と言われるイングランドだが、前大会はグループリーグ落ちだったし、近年はそれほど強豪国とは見られていない。しかし今シーズンのプレミアリーグを見るかぎりでは、なかなかのメンバーが揃い、ある程度の成績は残せるかもしれない。若い有能な選手が各ポジションに出てきていて、2014年とは違うチームになっている。若手ではケイン、アリ、スターリング、ラシュフォードなどが注目だ。

オセアニアは前大会につづき、今回も出場国を出せなかった(枠は0.5で、プレーオフでペルーに負けた)。出てくるとしたら、ニュージーランドなのだが。最後にアジアを見てみよう。枠は4.5で、イラン、オーストラリア、日本、韓国、サウジアラビアの5カ国が出場権を手にした。オーストラリアはシリアとのプレーオフを勝っての出場だった。この地域は、ベスト16を突破するのがどの国にとっても難しい。前大会はどこも散々な成績だった。勝ち点でいうと、オーストラリアが0、日本が1、イランが1、韓国が1。勝ち点1というのは引き分けた試合が一つあったということ。それ以外は敗戦だ。わたしの贔屓チームは日韓大会以来、韓国なのだが、あの大会でベスト4となった後は、日本とほぼ同等の成績しか残せていない。今回はプレミアリーグで活躍するソン・フンミンという若手の攻撃選手がいるが、ドイツ、メキシコ、スウェーデンというグループに入ってしまったので、ここを抜けて勝ち進むのは厳しいのではないか。決勝トーナメントに進むための2位争いは、メキシコとスウェーデンになるだろう。

こうして見てみると、出場国は32カ国にかぎられるが、地球上のさまざまな地域から予選を勝ち抜いた国々が集まるという意味で、W杯はその名の通りグローバルな大会と言っていい。傾向としては、サッカーの歴史の長いヨーロッパと南米の国々に強豪国が集中している。そこから優勝国が出るはずだ。ドイツ、ブラジルといった国が優勝する可能性は高い。トーナメント表を見ると、この両国が決勝であたる可能性も高い。面白い試合になるだろう。

スポーツはなんのためにあるのか、と考えてみると、ゲームとして競い合うことで、互いのことをよりよく知るということがある。相手を知る、相手の国のことを知る、そのためにはいろいろな方法があるだろうが、ゲームをする中で知り合うというのも一つなのだ。競技において対戦相手の分析をすることは、欠かせないこと。W杯のようなグローバルな大会では、どことどこが当たるか、その二つが対戦するとどんな試合展開になるか、ということを予測する楽しみがある。それはあまり当たったことのない国同士が、試合で対面するからだ。

とはいえ、W杯に出てくるような国の選手は、国籍に関わらず、ヨーロッパのクラブチームで活躍していたりもするので、チームメートと国を分けて対戦することも起きる。試合のあとで、クラブのチームメート同士が、互いの健闘をたたえ合い、ユニフォーム交換をしている姿もしばしば見られる(試合後の映像にも注目してほしい)。こんな風に、サッカーというスポーツのもつ広がりや混合を目にすると、ますますこの競技の楽しさ、面白さ、意味を感じるようになる。

サッカーのW杯には、自国の試合以外のところにも、たくさんの発見や興奮があることを多くの人に体験してほしいと思う。今大会も、NHKと民放各局ですべての試合が放映されることになっている。

*追記:この草稿を書いたあとで、YouTubeで、今行なわれているW杯前の各国親善試合のハイライトをあれこれ見てみた。試合をやっている国のどちらかのTV局から(おそらく違法で)キャプチャーしたもので、言語も様々で、スペイン語、朝鮮語、アラビア語などの実況で見ることなる。そこで気づいたのは、どの国のものも、試合の放映方法に関しては、ほぼ標準的なやり方が取られていたこと。標準的な放映の仕方というのは、試合前に、両方のチームのメンバー表を提示することだ(先にホーム、次にアウェイ)。当たり前のことだが、これが日本のテレビ放送では多くの場合、成されていない。試合前にメンバー表が提示されるのは、日本のチームのみ。対戦相手のメンバー表は試合が始まって少ししてから、チラッと出てくるだけ(例外はスター選手が相手チームにゾロゾロいる場合)。わたしたちは対戦相手を事前に知らされることなく、試合に臨まなければならない。これは何を意味しているのだろう。日本人は日本人にしか興味がない??? 対戦相手のメンバーなど誰だって関係ない??? これはサッカーというスポーツにとって、非常に「非サッカー的」な観戦の仕方だと思う。もう一つ気づいたことは、他の国の放送では、どちらのサイドに点が入っても、「Gooooooo..............al!!!」と実況が叫んでいて、どこのTV局が放映してるのかわかりにくいこと。日本の放送ではこういうことはない。実況は日本のみ応援しているので、相手にゴールがあった場合は、「あーーーーー、やられてしまった!!!」となるし、相手がゴールに迫ったときは「あぶないっ!!!」となる。日本人にとっては、こういうことは当たり前かもしれないけれど、世界的に見ると特殊な国なのかもしれない。スポーツを愛国心から観戦することしか知らない、スポーツ後進国に見えてしまう。

20180525

感性と論理:音楽の場合、文学の場合


いつ頃のことか覚えていないが、感性と知性というのは切り離せないものだ、と気づくようになった。おそらく30歳より前ということはないと思う。仕事上で得た体験からなのか、音楽を学んでいる中で得たことなのか、はっきりとは言えない。その両方かもしれない。

ダン・タイソンというベトナム出身のピアニストが、一般にアジアのピアニストたちは直観や感性で弾く傾向が強く、論理が少ない、と言っているのを本で読んだことがある。論理=知性ではないが、知性の一部ではあると思う。西洋の音楽家は、論理を演奏に反映させているのだろうか。そのとき論理とは何を指しているのか。

非常に感性が優れている場合、それとほぼ釣り合うような知性の裏づけがあるのではないか、また知性が非常に高いと思われるときは、たいてい感性もそれに見合うように備わっているのではないか、そんな感じがする。感性といわれるもの、知性といわれるものは、ある能力の一面を指している、という気がする。

たとえば感性を磨きたいと思う人は、何をしたらいいのか。知性を高めたいという人は何をとっかかりにするべきなのか。いやこれらのことは結果であって、目的とすべきことではない、ということかもしれない。

音楽を例にとってみよう。西洋の古典音楽とかかわる場合、他人の演奏を聴く、他人の楽曲を自分で演奏する、自分で楽曲をつくる、といった行為が思い浮かぶ。この中の他人の楽曲を自分で演奏する、を考えてみよう。ピアノを習う人は、何からはじめるのだろう。楽譜の読み方、指の使い方、まず最初は片手から。右手をやって、左手をやる。それがうまくいくと両手を合わせる。こんな順番だろうか。ハ長調からはじめて、ト長調、ニ長調と#の数を増やしていき、違う調性の曲を弾く。長調の次に短調も学ぶ。このあたりのことは、小学校の音楽の授業でもやるだろう。 

わたしの子どもの頃の経験でいうと、だんだん難しい曲集へと移っていき、ソナチネという小さなソナタ形式の曲を習うようになる。ソナチネの曲集には、簡単なソナタも入っている。ハイドンとかモーツァルトもいくつかは混じっているだろう。ここから何を習うか。基本は初期の練習と同じで、楽譜を読み、それを弾く。先生が音や拍の間違いを指摘するかもしれない。また強弱記号のところで、フォルテとあれば「ここは強く」と言うかもしれない。しかし練習の仕方は初期の頃と大きくは変わらない。楽譜を読む、それを弾く。

こうやって弾くことがピアノを弾くということなのか、音楽を勉強するということなのか。わたしの場合、とくに疑問をもたずにこのようにして続け、中学生になってからやめた。多くの子どもも、このくらいの年齢でやめているかもしれない。やめるまでの数年間で覚えたことは、楽譜を読むこと、指の使い方を覚えて曲を弾くこと、繰り返し練習してときに暗譜で弾けるようにすること、このようなことだ。この中のどこに音楽があったのか、、、と考えてみる。もちろん音楽を演奏しているのだから、音楽はあっただろう。では音楽の知性の部分、論理を学ぶことはあっただろうか。

今考えると、子ども時代の音楽修業は、音楽というものの輪郭をなぞっただけだったように感じる。とはいえ、その基礎訓練は後になって、まったく役に立たなかったというわけではない。複雑な楽譜を瞬時にグラフィックとして読み取る能力、鍵盤と指の親和性、指の強さ、柔軟さ、機敏さ、音の高さを聞き取る聴力といったピアノを弾く上で基本になることは、充分役にたつと言えると思う。もし大人になって初めて、楽譜を読むことから、指を鍵盤に置くことからはじめていていたら、と想像すれば、役に立っていたことを認めないわけにはいかない。

しかし、そこで音楽の何を学んだか、どのような論理を音楽の中に見つけたか、という知の側面に焦点をあてれば、答えられることはあまりない。ピアノを操ることは学んだけれど、音楽を探求するところまではいかなかった。大人になってから、もう一度ピアノを学んでみようと思いたち、先生を探した。どういうという具体的なものはなかったが、音楽教育やピアノ専門誌などを見てヒントを得ようとした。そしてこの人ならという作曲家で、ピアノ教師をしているO先生をみつけた。

O先生のところで学んだのは、ピアノを弾く技術に加えて、音楽の中身でもあった。というか弾く技術とは、音楽の中身のことでもあった。最近までそれが「音楽の論理」だとは気づいていなかった。しかし音楽の論理について考えはじめ、振り返って考えてみると、当時習っていたのは音楽の中身=論理だったのだと思う。それはO先生が作曲をする人であったことと、やはり関係があったと思う。

何が論理だったか、と言えば、それはハーモニーであり、リズムに関することであり、曲の要素や構成についてだった。O先生のところで学ぶ者は、音大のピアノ科の卒業生であっても、初めの一歩から、つまり片手の練習からはいる。ゆっくり片手ずつの練習からはじめる。ハーモニーやリズムを学ぶために、白紙に近いからだの状態が必要だからだ。ピアノを長年弾いてきた人ほど、いろいろなものをその弾き方の中に付着させている。一回それを取り払うために、片手からはじめる。すでにピアノが弾けてしまう人ほど、ピアノの弾き方を知らない状態にもどすのは難しい。無意識にやってしまっていることがたくさんあるからだ。

片手ずつ、ゆっくり、一本一本の指を素直に鍵盤におとす、その音を聴く、聴いて修正する、というようなことからわたしも始めた。ハーモニー(和声)の論理、それに伴う感覚というものを、O先生のところで学ぶまで、強く意識したことはなかった。それは実にシンプルなことなのだ。I(ドミソ)の和音、IV(ファラド)の和音、V(ソシレ)の和音をどのような響きで弾いたらいいか、ということなのだが、こんな単純なことを実践の中で、論理としても感性としても学んだことがなかった。言葉であらわすなら、ドミソの和音は、非常に安定性のある落ちてそこにとどまるような響き。ファラドの和音は、広がりのある解放性を帯びた響き。ソシレは引き締まった緊張感のある響き。たとえば曲の最後でメロディが「シー・ドー」で終わるとき、Vの緊張からI の安定への運動の中で大きな解放が生まれる。音楽用語で「解決」と言っているものだ。なーんだ、そんなこと聞いたことある、という人がいるかもしれない。しかしこれを実践の中で、ピアノを弾くことの中で、どれくらいわかってやっているかは問われることだ。

バイエルのようなやさしい初歩の曲集をやることで、こういった西洋音楽の論理を身につけていく。バス(左手で弾く一番低い音)の響きをよく聞いて、意識しながら、その上に右手のメロディを響きから外れないように乗せていく。このとき、右手のメロディは意識的に歌わせるのではなく、バスを聴きながら探るような気持ちでそっと乗せていく。この方法でうまく弾けるようになると、ハ長調のごく単純な曲も、一つの作品として美しく弾くことができる。初歩の段階では、響きを探しながら弾くということがとても重要なのだ。右手はメロディであることが多いので、気をつけないと、旋律に引っ張られて、何らかの「表現」をしようとして、押しつけたような弾き方になってしまいがちだ。これをやらないようにして、ただただバスに耳を澄ませ、どんな音を上に乗せるのが適切か探り弾きする。ピアノを始めたばかりの人にとって簡単なことではないが、10年、20年、ピアノの訓練を受けてきた人にはさらに難しい場合もある。

もう一つ、リズムについて見てみよう。西洋の古典音楽には3拍子、4拍子、といった拍子がたいていある(もっと古い時代にはなかったし、20世紀以降にはないものもあるが)。日本の古典音楽にはこのような拍子によるリズムの刻みは基本的にみられない。日本では、このリズムは、元々文化的な意味で人のからだに備わっていないものなので(ハーモニーもそうだが)、意識して身につける必要がある。知の部分、論理が必要になってくる。 

日本の手拍子や伝統音楽では、始まりの1拍目はなんの予告もなくはじまる。パンッ。ポンッ。しかし西洋の古典音楽では、1拍目がはじまる前にすでに音楽が循環しているようなところがある。アウフタクトといって、曲の始まりの第1拍目が強拍(下拍)でないものがある。3拍子の曲の第3拍目が頭にきているような場合、ン、1、2、3のようにはじまる。ンのところが前の小節の3拍目にあたる。楽譜の1拍目、2拍目には音がないが、からだの中でその部分を演奏していて初めて、第3拍目の音にはいれる。その3拍目を、最初の音だからといって1拍目のように強拍(下拍)で演奏したら、そのあとがうまく流れなくなる。アウフタクトはドイツ語で、英語だとupbeat(上拍)といい、上向きという意味がある。アウフタクトの曲では、ンのところで上げておいて、第1拍目(下拍)でストンと落ちてくるというリズムになっている。

これが西洋の古典音楽の基本リズムになっているが、子ども時代どれくらいこのことを意識してピアノを弾いていただろう。もしかしたら教わったかもしれない。でも認識として残っていない。音楽の論理として身にはついてなかったと思う。知識として、論理として知らなかった場合、実践はおぼつかないものになる。一見、楽譜はなめらかに弾けているようでいて、リズムの循環はまわっていないことになる。これも当たり前のことのようでいて、ピアノ教室などで案外実践されていないことかもしれない。教師にアウフタクトの知識があっても、子どもに教えるときに、どのように実践させるかはまた別の話だったりもする。

わたしはO先生のところで学ぶようになって、初めてアウフタクトを意識し、それを実践する練習をした。すぐにはできなかった。簡単なものからはじめて、だんだんという感じだったと思う。

このようにハーモニーとかリズムといった、古典音楽の論理を知識として知るようになり、それを練習によって実践、取得したところで、音楽のもっている感性の部分に触れることができるようになったのだと思う。

一般に「感性」という言葉は、あいまいな使われ方をしていることが多いかもしれない。何かを感じとる力が感性だとすれば、それは何によって養われるのだろう。知覚は誰もがある程度もっているとして、それは認識と結びついているだろうか。聞こえていることと、聞きとることは同じなのだろうか。

最近経験したことを一つ例にとって紹介したい。『ソニック・デザイン:音と音楽の特質』というアメリカの現代作曲家が書いた本を手に入れた。理由は、著者の1人(ポッツィ・エスコット)に興味をもったこと、そして音楽の論理を幅広い実例の中で学べそうだったから。グレゴリオ聖歌から現代に至る西洋音楽を基本にしてはいるものの、中国やインド、インドネシア、日本、アメリカ先住民など、普通このような理論書では同じ枠組の中で語られない音楽作品に対しても、同じやり方で(西洋音楽の解析法ではないやり方で)探索されているところに惹かれた。

その序章で扱われていたのが、ショパンの『前奏曲 第20番』だった。たまたまこの曲は、この1、2年よく弾いていた。この本の解析を読んで、第一段目の4小節で使われている特徴的な旋律の線とリズムが、2段目の5小節以降の内声部に隠れていることがわかった。それを意識する練習法として、ピアニストのコルトーの助言が添えられていた。それに従って何回か練習してみたところ、耳に聞こえてくるものが明らかに変化した。

この曲は終始、上下(右手・左手)6つの和音が重なったままゆっくり動いていくもので、一番上の(高い)音が旋律になっている。こうした場合、6つの音の重なりは耳に「聞こえて」はいるが、意識は主に一番上のメロディーに引き寄せられている。コルトーの練習法によって、2段目を繰り返し弾いてみたところ、ついに、6つの和音を重ねたままで、上から二つ目の内声部の音がくっきりと「聞きとれる」ようになった。そして1段目の特徴的な旋律とリズムを、その中にはっきり意識した。これは聞きとる耳が変化したことと、それにより演奏も変化したことの証しだ。耳が変わることで、演奏も変わる。

このような経験から、感性は、論理の影響を大きく受けるということがわかる。論理=知によって耳が変わり、その聞きとりによって感性に影響が及ぶ。『ソニック・デザイン』は訳せば「音(波)の設計」といったところだろうか。教材となっている楽曲を五線譜だけでなく、方眼のグラフィックの中に音を置いて、どのような音域がつかわれているかを視覚化したり、各声部がどのような線の動きを見せているか、音のフィールドがどう動くかなどの検証をしている。音を空間認識の中で捉えるという方法は、わたしにとって初めて出会うものだ。

また音域ということに対して、この本を読むまであまり意識していなかったことが判明した。『ソニック・デザイン』で取り上げられていた『前奏曲 第20番』は、ピアノの音域の約半分しか使われていない。音程でいうとC1~E♭5までということになる。実はこの音程の呼び方も、この本を読むまで知らなかった。ピアノの一番低い音はA0(Aはハ長調のラ)、一番高い音はC8(Cはハ長調のド)。よってC1はA0から白鍵で3つ上のドにあたる。『前奏曲 第20番』はC1を最低音として、ほぼピアノの下半分の領域で弾くことになる。この本では、楽曲における音域の重要性を理解するため、同曲を2オクターブ高いところで弾くよう指示がある。ピアノのほぼ上半分(右半分)で弾くことになる。これをやってみると、まったく違う曲となってこの曲が立ち現れ驚いた。どの音域をつかうかが楽曲にとっていかに重要か、ということを身をもって、知の面、感性の面両方で知った出来事である。

音楽のような一見抽象的で捉えにくそうなメディアも、適正なやり方を踏めば、見えてくるもの、得られる論理はたくさんありそうだ。その方法は、これまでの西洋音楽理論の法則からだけ見いだせるものではないのかもしれない。音楽は感覚だけで出来上がっているわけではない。アメリカのある現代作曲家は、演奏家志望者は作曲を、作曲家志望者は演奏を、それぞれもっと学ぶべきだと言っている。19世紀には作曲家と演奏家は同じ人間であることも多く、演奏家は曲ができる道筋にもっと意識的だったらしい。20世紀以降の演奏家は、楽器の熟練者になることばかりに力を注ぐ傾向がある、と言いたいようだった。

感性と知性の関係性は、音楽にかぎらず、あらゆる創作について言えることかもしれない。平野啓一郎の『本の読み方:スロー・リーディングの実践』では、ゆっくり、探索するように、解析しながら本を読むことを勧めている。そしてその実践方法を夏目漱石、森鴎外、カフカ、そして自作もまじえた著作を例に紹介している。これは直観や感性だけで読むのではなく、論理を探したり、言葉の意味や文法を確認しながら、知の要素をつかって認識を深め、読書をしていく方法論だ。作者の視点で読む、という言い方をすれば、上の段落に書いた演奏家も作曲を、というアプローチと符合するところがある。

自己流の読み方から、改めて読書の方法そのものを考えてみることで、これまでとはまったく違った発見があるかもしれない、と著者は書いている。「構造の全体を視野に入れて読むこと」「言葉の迷路をさまようことを、方向を持った探求に転じる」というロラン・バルトの指摘を、大江健三郎の小説から紹介していた。

冒頭の知性と感性の問題にもどると、やはりこの二つは、互いに補完し合い、刺激し合う存在だという思いが再び湧いてくる。音楽や文学に近づく際、論理を煙たがったり面倒がったり、軽視する傾向があるとしたら、そのことが感性を低めることにつながる可能性がある、ということを改めて考えてみた方がよさそうだ。

最後にアメリカ出身の作曲家(そして作家)ポール・ボウルズ(1990年ー1999年)の言葉を引用する。

知性で音楽を理解できなかったら、感情など得られないですよ。そうじゃないなら、ただ音楽を浴びてるだけになる。それは音楽の聴き方じゃない。頭の中をただ通すだけのこと。一瞬一瞬なにが起きてるか正確に理解できたら、もっともっと楽しみは大きくなるでしょうね。感情であれなんであれ得るものは大きくなる。(シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィーによるインタビューから)



20180504

インターネット時代の音楽の楽しみ


インターネットの普及によって、本の買い方、選び方はかなり変わってきたと思うが、読み方については、日本では紙の本が優勢で、デジタルネイティブと言われるネット世代であっても、その傾向はあまり変わらないようだ。以前より増えているとは思うが、kindleなどの電子メディアが読書の標準になっている人は、まださほど多くない。

一方音楽については、購入の仕方も使用メディアも(おそらく世代を通して)画期的に変化したのではないか。スマートフォンの普及が一つにあると思うが、簡便に安く音楽が聴けるという点で、データのダウンロードによる購入が主流になっていると思われる。電子ブックと違い、端末のデバイスを買う必要がないのも大きい(いや、実際はkindleの場合も、iPadやスマートフォンなどでアプリを使って読めるのだが)。

スマートフォンが音楽のデバイスとして普及する前には、iPodが人気商品となり、このスタイルでの音楽聴取の導入になっていたと思われる。そうやって過去をたどれば、もっと前に、SonyがつくったWalkmanというポータブルオーディオプレイヤーがあった。最初はカセットで、のちにCDウォークマン、MDウォークマンができ、現在はフラッシュメモリ型のものになっているようだ。わたし自身、カセットタイプ、MDタイプどちらも使っていたことがある。ウォークマンには録音機能があって、インタビューの際や旅先で環境音や祭りの音楽など記録するのに使っていた。

昔のメディアをたどっていけば、CD(コンパクトディスク)の前にLP(long playing:SPに対して)やSP(standard playing)のレコードがあった。CDは今でも流通しているし、LPもアメリカなどではvnyl(ビニール)の表記で結構流通しているように見える。新曲をDL(ダウンロード)、CD、Vnylと3種類のメディアで発売する例もあるようだ。持っている再生機器や音質によって選択するためだろう。

CDはドライブのついたコンピューターをもっていれば再生できるが、LPの方はLP用のプレイヤーが必要だ。もちろんスピーカーもいる。わたしは何年か前に、1万円くらいでアナログ・プレイヤーを買った。LPでしか聴けない録音というのも(昔の録音のもの)あるにはあるからだ。

こうして考えてみると、そして比べてみると、データをダウンロードして聴く音楽の簡便さは際だっているように見える。スマートフォン一つあればOKという世界。しかし「空気中」に音を流して音楽を聴きたいとなれば、スピーカーが必要だ。わたしはどちらかというと、空気中派で、スピーカーもCD(ネットワーク)プレーヤーも持っている。

他の「空気中派」は知らないが、わたしの場合は、プレーヤーにCDを入れて聴くことはめったにない。パソコン(iTunes)にある音楽データをネットワークでプレーヤーに送って聴いている。最近購入したものでないCDは、iTunesに読み込みしていないので、プレーヤーに入れて聴く。たまに聴く程度だが(CDの整理が不十分なため、探すだけで手間….)。iTunesは便利なのだが、2台あるコンピューター間でうまく連携(ホームシェアリング)ができていない(ONにしてあるのに有効にならない)。スマホの方はケーブル接続で同期していて問題はない。

またカセットWalkmanで録音した昔の音源や、カセットにしかない音源をデジタル化することもある。もっているプレーヤー、変換機器、パソコンをつないで入力し、そのデータをiTunesを使ってデジタル化する。取り込んだデータを、Sound Studioという(ちょっと古い)アプリで編集してからデジタル化することもある。ちょっとした知識と簡単な機器やアプリがあれば、誰でもできる。この方法を使って、7月から始める音楽プロジェクトで、サンプル音源により音楽を紹介していこうと考えている。

デバイスの話はこれくらいにして、音楽の中身、音源はどのようにして見つけるか、手に入れるのかを考えてみたい。現在、多くの人がそうであるように、わたしもここ数年(それ以上か?)は、ダウンロードまたはストリーミングで音源を手に入れている。たまーに、昔の音源を買うときに、CDで手に入れることもある。最近は古い音源でも、ダウンロード対応されているものが増えてきたように思う。

ストリーミングの話をすると、わたしがよく使うものにIMSLPとYouTubeがある。IMSLPというのは国際楽譜ライブラリー(ペトルッチ楽譜ライブラリー)プロジェクトのことで、楽譜という名はついてはいるが、音源も豊富にある。もともとは、19世紀に編纂されたバッハ協会によるバッハ全集の楽譜すべてを図書館としてアーカイブするために設立された機関らしい。

ウィキペディア日本語版によると、2006年に18歳の学生(ニューイングランド音楽院で作曲を、ハーバード・ロー・スクールで法律を学んでいたエドワード・グゥ)が創設とある。「18歳だったある冬の寒い日、ぼくはIMSLPをスタートさせ、そこからずっとこれを楽しみながら発展させてきた」と、IMSLPの紹介ページで述べている。

IMSLPにある楽譜の多くは、すでにパブリックドメイン(著作権消失)になったものが利用(PDFで閲覧、DL)できるようになっている。サーバーがカナダにあることから、その法律に準拠して、著作権者の死後50年が著作権消失の基準になっている。しかし(ウィキペディアによると)、発足翌年の10月、著作権消滅期間が70年であるヨーロッパのある出版社から、著作権を侵害していることを理由に、サイトの停止通告を受けた。当時学生だったエドワード・グゥは、支援者や法律家と議論を重ねた結果、資金的にも労力的にも、自分がこの問題を乗り越えることは難しいと判断し、プロジェクトの閉鎖を決めた。

しかしグゥは議論のためのフォーラムをネット上に残した。そこでの議論や支援者たちのサポートにより、翌年、IMSLPは再開にこぎつける。フォーラムでは、プロジェクト・グーテンベルクのディレクターや、著作権に関する法律専門家たちからの助言が多数あったようだ。こうしてネットの先輩やプロたちの支援によって、過去の貴重な遺産、楽譜を広く公開するという創設者のアイディアが生き返ったことは、素晴らしいことだと思う。

その後IMSLPは順調にアーカイブを発展させ、2010年には録音ファイルの収録もはじめた。このプロジェクトでは、利用者が楽譜や音楽データ(自分でスキャンした楽譜や録音したファイル)をアップロードすることもできるシステムをとっている。IMSLPは非営利組織だが、2016年から、Naxosというクラシック音楽系のレーベル(及び配信サービス)を利用可能にしている。わたしは2017年秋にこの仕組に気づいて、IMSLPにUS年額$22の支援金を寄付することでメンバーとなり、Naxosの音源ライブラリーに自由にアクセスできるようになった。

IMSLPではNaxos以外の音源については、メンバーでなくとも聴くことができる。しかしメンバーになってからは、ほとんどの場合、Naxosで音源を探している。たとえば「ショパン 前奏曲」で検索をかけると(ベースは英語だが日本語にも対応している)、Googleの検索システムにより結果が表示される。トップにきているのは、『Preludes, Op.28 (Chopin, Frédéric) 』。そこをクリックするとIMSLPの該当ページに行く。

「演奏」が「楽譜」の前に来ていて、この楽曲ではRecording登録が15、Naxosがアルバム12枚、さらにMIDI音源も数個アップロードされていた。Naxosでは該当曲が含まれるアルバムがビジュアルで表示され、その中から聴きたいものを選ぶ。ショパンの前奏曲では、サンソン・フランソワ、ルドルフ・ゼルキン、ダニエル・バレンボイムなど知名度の高いピアニストによる演奏も聴ける。比較的古い年代のピアニストのものが多いが、アルゲリッチなど現存の巨匠や若い演奏家のアルバムもそれなりにある。アルバムごとに表示されるので、思わぬ発見もある。サンソン・フランソワのアルバムはショパン曲集で、CD2枚分が収録されていた。前奏曲以外には、『ノクターン』が1番から19番まで(遺作を除く全曲)聴ける。ときに、ある楽曲を探していると、コンピレーション・アルバムの中にある場合があり(たとえば「フランス近代作曲家歌曲集」とか「サティとその仲間たち」といったような)、探していた曲以外のものと出会う機会もある。

この曲をこの演奏家で、という要望がある場合はiTunesなりで購入して聴くしかないが、演奏家より楽曲そのもの、作曲家に興味がある場合は、IMSLPは応用が効く。たとえば同じ楽曲を様々な演奏家で聴き比べするなど。案外聴いてみれば、自分の好きな演奏は、未知の演奏家のものという場合もある。そういう意味で、演奏家と出会える場所とも言えそうだ。また調べものをしたいときにも便利だ。購入することなく、楽曲がフルで聴ける。

Naxosではなく、RecordingとなっているものはIMSLPが収集したものか、投稿によるものと思われる。演奏家の個人名(ピアニストなどの場合)のみの場合もあるが、公開者情報として美術館やレーベル名が添えられていることもある。以前にモーツァルトのソナタだったか、Recordingの中にあるものから聴こうとして、演奏者名のところをクリックしたら、韓国のティーンエイジャーだったことがあった。詳しいバイオグラフィーが書かれていて、興味深く読んだ。こういうものに偶然あたったとき、「素人のものを聴かされて」とは思わない。どんな人で、どんな思いで演奏しているのだろうと想像しながら楽しんだ。(投稿の場合、審査があると書かれているのを読んだ記憶がある) 練習を積んできた曲を録音して、公的な機関に投稿するという行為は、演奏者にとって励みになるかもしれない。演奏を録音することは、発表会で演奏するのと同じくらい、腕をあげることにも繋がる。

ここでふと思いついて、IMSLPの創設者エドワード・グゥ(名前からして中国系なのだろうか?)が、自作を投稿しているかもしれないと思って検索してみた。ニューイングランド音楽院で作曲を専攻していたのだから。そうしたら1曲だけあった。『Ballade for Saxophone and Piano, Op.20』というサキソフォンとピアノのための楽曲で、2005年11月に作曲されたものだった。ピアノ、サキソフォンのパート譜もアップされている。録音、楽譜ともに「Creative Commons Attribution Share Alike 3.0」と記されており、クリエイティブ・コモンズのルールに従って、他の人が利用できるようになっている。個人の投稿者は、この表記がされていることが多いようだ。備考に「Recorded Oct. 2006」とあり、エドワード・グゥがまさにIMSLPを創設した年に録音しているのだ。DLしてみたところ、現代音楽のスタイルだが比較的聴きやすく、なかなか悪くない。ファイルはFLACという形式で保存されていて、ダウンロードして聴くようになっている。FLACは調べたところ、フリーで提供されている「可逆圧縮音声ファイル・フォーマット」だそうで、MP3のように音声の劣化が少ないとか。音声情報を失うことなく圧縮ができる技術のようだ。

ここで音質のことを少し考えてみたい。MP3(またはMP4)はiTunesなどで聴く際の標準圧縮技術で、多くの人が日常聴いているのはこの圧縮技術による音源だと思う。前段落でFLACについて音声の劣化が少ないと書いたが、MP3、MP4の場合はファイルを軽くするため、かなり音質を劣化させているようだ。soundengine.jpというサイトの説明では、容量を小さくするために、「重要でない」データを消しているとあった。重要でないというのは、たとえば小さな音量の音であったり、大きな音と同時に鳴っている小さな音であったり、人間の可聴領域から外れる音といったものを指すようだ。

この話を読んで思ったのは、CDが出てきたときに、アナログ音源(LPなど)と比べると、鳴っている音の幅がかなり狭い(多くの音がカットされている)ので、よい音質で音楽が聴けない、と言われていたこと。しかしLPの時代は去り、CD全盛になった。そして今はMP3の時代。とするとLP → CD → MP3と、再現される音源の幅はどんどん狭くなり、音質はどんどん落ちている、それをわたしたちは受け入れてきたことになるのか。

音質がどんどん下がっていく分、普及率は高まり、安く簡便に音楽にアクセスできるようになった、と言うこともできるだろう。音楽の市民化、あるいは民主化なのだろうか。一部の人間が、質も高いが値段も高い機器をもち、値段の高いアルバムというメディアを買って音楽を独占する時代から、誰もが1曲150円~250円で気軽にスマホから購入して、どこにでも携帯する時代へと。その際、MP3は音が悪いから、などと不平を言う人はほとんどいない。

だいたい聴くときのシチュエーションがプレーヤーとスマホでは違う。プレーヤーで聴く場合は、バックグラウンド的に流して聴くこともあるだろうが、オーディオの前で「さあ聴くぞ」という態度で聴く場合もある。街中でスマホで音楽を聴くときは、それなりの音量にしないと、まわりの騒音にかき消されてしまう。メディアによる再現性以前に、環境的にも小さな音を聞きとれる状態にはない。その意味では、MP3で充分ということになる。おそらく何を聴くか以上に、今はどういう状態で音楽を聴くかの方が重要なのかもしれない。自分の家でさえ、家族といっしょにいる間は、自分の好みの曲を部屋中に響かせることはあまりないのではないか。つまり音楽を聴く行為は、今の時代、かなりプライベートなことなのだ。その意味で、スマホでMP3の音源を、どこにでも携帯するスタイルの方が合っている。

多分この聴き方は、何を聴くかにも影響を及ぼしていると思う。どのように音楽を購入しているか、人に尋ねたことはないが、アルバムごと買うより、気に入った曲だけ買う方が標準的なのかもしれない。そういえばDLミュージックが出てきたころ、アルバムで一つの作品として作られているのに、バラで聴かれちゃ、、、というアーティスト側の反発を聞いた覚えがあるが、今はそのあたりどうなっているのだろう。

わたし自身はバラでも確かに買うことはあるが、これと思ったものはたいていアルバムで買う。楽曲を一つ二つと買うというより、あるミュージシャンの意図にアクセスするような感じがある。最近購入したものでいうと、Anna & Elizabethというデュオの新作アルバム『The Invisible Comes to Us』をDLで$9.99で買った。CDで買えば$14.98、LPなら$24.98。CDやLPの場合、アメリカからの輸送費が加わる。アマゾンでも買えるがCDで2400円くらいする。これはクラシック音楽ではなく、ジャンルとしてはアメリカンフォークだろうか。サウンド的には新しく、斬新なアレンジが施されているが、歌自体はトラディショナルな楽曲(old songs)のカバーのようだ。スミソニアン・フォークウェイズという非営利の音楽レーベルのもので、ここではときどき面白いアルバムを見つけて購入している。イラク出身のウード奏者ラヒーム・アルハジの『Letters from Iraq』を買ったのもここ。ウードと弦楽四重奏の美しく、エキゾティックなアルバムだった。おそらくこのどちらも、単品でバラで購入することはなかったと思う。聴くときはアルバム単位で聴くことが多い。

しかしこれについては、現在はiTunesの場合、1、2曲買ったあとで、コンプリート版を買うことにしても、損することはない。すでに単体で払った分はアルバム代金から引いてくれるので。これなら1曲単位で購入する場合も、気にすることなくバラで買える。その方が結局はアルバム購入にもつながるのではないか。

インターネット時代の音楽の聴き方、過去の習慣からの変化について、思いつくまま書いてみた。そして改めて思ったのは、たまにはCDやLPで音楽を聴いてみようかな、ということ。耳はもう完全にMP3、MP4対応になっているが、圧縮の少ない音源を聴くことで、何か気づくことはあるだろうか。

20180420

人の一生を語ること:自伝、評伝、CV(経歴書)


「伝記」というとエジソンとか野口英世とかの偉人伝のようなイメージがあって、最近はあまり耳にしない気がする。しかし意味するところは人物伝、ある人間の一生を追ったノンフィクション、あるいはストーリーである。日本語では「一代記」という言い方もあったかな。英語では一般にbiography(バイオグラフィー)と呼ばれている。

このバイオグラフィーという言葉、略してbio(バイオ)は、インターネットを始めてから、ずいぶん身近に感じるようになった。インターネットの英語サイトを見ていると、あらゆるところにこれが登場し、「わたしは(あるいはこの人間は)これこれこういう者である」ということが紹介されている。日本語では「プロフィール」あるいは「自己紹介」と言われることが多い。

これはわたしの印象だけれど、日本では自己紹介文を書くのが苦手という人が多いように思う。就職などのときに書く履歴書とも違う、文章で自分の出身やこれまでの活動について書くのが自己紹介。あまりそういう機会がないためか、慣れないのだと思う。また日本の社会では、他者に自分を知らせるため、自分のことを客観視し、それを述べること自体にもある種の苦手意識があるかもしれない。「わたしは○○で、、、」と自分から出発して、自分を語らなければならないからだ。

しかし英語でバイオと言われる自己紹介文を読んでいると、「彼女は1990年、イリノイ州シカゴに生まれ、、、」と三人称で書かれていることが多い。編集者など自分以外の人が書くこともあるだろうが、自分で書くときも、普通に「彼女は、、、」「彼は、、、」と表現している。日本語をつかう日本人からすると、不思議な感覚かもしれない。

このように他人のことを書くように自分を表現すれば、もっと楽に自己紹介文が書けるということはないだろうか? 個人ではなく、会社や団体の場合は、サイトではよく「About」とか「About Us」という自社紹介ページが見られる。日本語のページでも、この用語はインターネットのサイトでは普通に使用されてきた。しかし自社紹介がないものも、日本のサイトにはかつてよくあった。団体レベルでも自己紹介が苦手なのだろうか。市民団体や何かの活動グループなどは、日本でも、積極的にこのAboutを載せていることが多い。それは自分たちのことを伝えないことには、活動にならないからだろう。英語のサイトでは、Aboutだけでなく、mission(目的、目標、使命など)として、これこれこういうことを目指しますといった項目もよく見かけた。(最近はそれほどないかもしれない。インターネットというメディアや場、空間が、万人に認識され、信用されるまでの間、必要なものだったのかもしれない)

外に向かって、不特定多数の人に、つまり未知の人々に語りかけるという行為は、インターネットでは普通のことだが、これもどこか日本語を話すわたしたちには馴染みにくいのかもしれない。かつてはmixi、いまならFacebookといった、「公(おおやけ)」よりもう少し小さな、知り合いや知り合いの知り合いといった集団での発言の方が心地いいのだ。つまり携帯電話でのやりとりの範疇とその周辺(日本ではインターネットより携帯の方が広がり方が早く大きかった)。知り合いの間であれば、自己紹介をわざわざする必要もない。自己紹介に対する苦手意識というのは、この辺りのこととも関係しているかもしれない。

それとは別に、いわゆる自伝とか評伝といった、何かを成した人についての書物があるが、(これも印象でしかないが)どちらかというと、日本ではそれほど人気がないように見える。日本人のサッカー選手が海外のチームに入団するまでの記録、あるいは海外移籍先での生活を綴るといった短期的な話題を本にしたものなら、それなりにあるとは思う。あるいはタレントや俳優の半生記(生きている人のここまでの人生の記録)とか。タレント本のジャンルに入るような、写真を多用したスタイルのものとか。

もう少しジャーナリスティックなもの、ある人物の研究者や作家が書いた評伝などは、あるにはあるが、どちらかというと地味な存在かもしれない。わたしは自伝、評伝の類はけっこう好きでよく読む方だと思う。日本語でも英語でも読むが、どちらかというと英語で、あるいは翻訳物でというケースが多い。海外ではこのジャンルが活発でバラエティがあるからかもしれない。最近読んだものでは、フランスのソプラノ歌手、レジーヌ・クレスパンの自伝がかなり面白かった。タイトルは『On Stage, Off Stage: A memoir』で、本人がフランス語で書いたものを、友人のジャーナリーストが英語訳していた。

クレスパンは1927年生まれで、2007年にすでに死んでいる。自伝は1997年出版(英語版)で、晩年にさしかかった頃に書かれたものだ。メモワール(回想記)と副題にあるように、子ども時代からオペラ歌手として成功するまでの道のりを、たくさんの印象的なエピソードの集積により記している。この自伝の面白さの理由には、クレスパンの好ましい性格、オープン(開けっぴろげ)な語り口が影響していたと思う。そのせいで読者は、語り手の真実に触れることができ、心情につられて一喜一憂させられたりする。

20世紀を代表するような、著名な指揮者や作曲家とのエピソードも豊富で楽しく読んだが、なんといっても文章のうまさが光っていた。ユーモアとウィットに満ちた表現、深刻な出来事にも笑いの要素を織り交ぜることを忘れないセンス、それは彼女の人柄とも言えるのだろうが。書くことにおいての正直さ、真摯な態度は、文章のうまさに繋がっているように感じた。また本全体の構成力(ものを語っていく順番やトピックの分け方)も型通りではなく、よくできていた。何が大事か、何を言っておきたいか、といったことがはっきりとしていて、潔く、爽快だった。

オペラ歌手というものがどういうものか、よく知らずに読んだのだが、脚本の読み込みに相当な時間をかけるということからも、オペラ歌手というのは、音楽の表現者というだけでなく、演技者としての側面もかなりあり、役になりきる、ストーリーを具現化するといった創造性が求められるのではないかと想像した。そしてそういった訓練で養われた能力が、文章を書くことに生かされていると思った。

クレスパンとの出会いは、YouTubeでフォーレの歌曲をうたっているのを聴いたことから。その後、2枚組のベスト盤CDを買って、よく知らないままにオペラのアリアなども聴いている。自伝を読んだことで、その人物がよく理解できたので、歌を聴くことがさらに楽しくなった。

自分がここまでに読んできた自伝や評伝をあげてみたら、はっきりとした特徴が見えてきた。二つのジャンルがあり、一つは音楽家たち(ダンサーを含む)。もう一つはサッカー選手たち。音楽家の方は、現在、作家であり作曲家であるポール・ボウルズの評伝を読んでいる。『An Invisible Spectator』というタイトルで、Christopher Sawyer-Lauçannoというジャーナリストが書いたもの。本の前書きで、ボウルズの音楽を聴き、スコアを手に入れて演奏もしてみた、とあって、数ある評伝の中からこの本を選んだ。最も早い時期に出されたポール・ボウルズの評伝の一つだと思う。(ボウルズ本人による自伝がこれより早く出ており、その後にも2冊追加で出ている)

音楽家の評伝としては、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルのものも面白かった。二つあってどちらもアメリカ人によって英語で書かれたもの。一つはBenjamin Ivry著『Maurice Ravel: a Life』(こちらは日本語訳が出ていたと思う)、もう一つはラヴェルの死後まもなくに書かれたもので、Madeleine Goss著『Bolero – The Life Of Maurice Ravel』。まだラヴェルの弟エドワルドや友人たちが生きていた時代に、直接話を聞いて書かれたものだ。ラヴェルについて書くために参考資料として読んだので、とびとびではあるが(すべてを読み通したわけではない)、どちらも面白かった。日本語の本では、木琴奏者・平岡養一の評伝『木琴デイズ』(マリンバ奏者の通崎睦美の著作)が本格的な評伝として楽しめた。日本語で、こういうものがもっとあっていいと思った。

サッカー選手の自伝(半生記=まだ現役中の選手によるものが多い)には、けっこう面白いものがある。読んだものでベスト3は、韓国のパク・チソン選手(2冊出している)、ウルグアイのルイス・スアレス選手、スペインのアンドレス・イニエスタ選手のものだろうか。前者二つは日本語で、最後のものは英語版で読んだ。パク・チソン選手以外は今も現役。自伝が出たときは、みんな20代だったと思う(人生30年未満の自伝とは!)

ルイス・スアレスの自伝は、二人の英国人ジャーナリスト(ガーディアンやデイリーメールで記事を書いている)との共同プロジェクトのような形で進められた著作のようだ。二人ともサッカー業界で活躍する有能な記者で、ゴーストライターとしてではなく、本の扉にはスアレスとともに名前が記されていた。片方のライターはスペインのリーグを取材することが多いようで、スペイン語は堪能なのだろう。しかしこの本はライターたちの母語、英語で出版されている。「著者」がスペイン語を母語とするウルグアイ人なのに、である。amazonのスペイン語サイトを見てみたら、確かにこの本のスペイン語版はあったが、翻訳者の名前が添えられていた。つまり英語版がオリジナルということ。

出版当時スアレスが、イングランドのプレミアリーグのクラブ「リバプール」に所属してからなのだろうか。しかしその後すぐにスペインの「バルセロナ」に移籍したのだが。ウルグアイの人々はおそらくスペイン語版を読むだろう。しかしamazonのスペイン語サイトを見る限り、(kindle版はなく)紙の本しかないし、レビューも一つもない。マイナーな感じだった。

想像するに、二人の英国人ライターが中心となってプランを進め、スペイン語、英語を交えてスアレスに話を聞き書き記した部分と、本人が(二人の助けを借りて、おそらくスペイン語で)書いた部分が混ざっているのかもしれない。しかし全体として、非常によくまとめられているだけでなく、選手のパーソナリティや声が聞こえるような仕上がりで、「自伝」といって問題ないものだと感じた。

イニエスタの自伝も、ジャーナリストの助けがあって書かれたもののようだ。こちらはバルセロナFCの生え抜きの選手で、生まれもスペイン。オリジナル版は二人のスペイン語ライターによるもので、名前も扉に記されている。そして、英語訳はスアレスの本の英国人ライターコンビだった(わたしが読んだのは英語版)!

こちらも非常によくできた「自伝」で、読んだ印象は強烈だった。それまでそれほど詳しく知らなかった彼のことが、そのパーソナリティを通じてよく理解できた。いくつか好きなエピソードがあって、そういうものには、イニエスタという人間、サッカー選手としての魅力が深く表現されていた。テキストの英語訳もみごとで、スペイン語のもつエモーショナルな感じがうまく訳されていて、その文章ととともにこの著作が印象づけられた。おそらく英国人ライターコンビは、優秀な「自伝」ライターなのだろう。この本はスアレスの本が出てから2年後に出版されている。つまりイニエスタがスアレスとバルセロナで同僚になったあとのことだ。この2冊の本は(イニエスタの本は英語版については)同じイギリスの出版社から出ている。

アレックス・ファーガソンというイングランドのマンチェスター・ユナイテッドで長く監督を務めた人の自伝も、日本語版が出る前に、英語版Kindleで読んだ(Kindleだと世界発売と同時に読める)。ちょうど香川真司選手がマンUにいた頃のことで、それもあって日本でもこの本は話題になった。しかし香川選手のことにはそれほど触れられていなかった。実況番組で解説をするサッカーライターなどが、これは「暴露本」の一種という言い方をしていたが、それは全く当てはまらないと感じた。どちらかというとオーソドックスな自伝の書き方で、1500試合目となる監督最後の、衝撃的な終わりを見せたゲームのことに始まり、出身地スコットランドでの選手生活と話はつづく。確かにズバズバと明快に選手の批評をする部分はあったが(ファーガソンらしい)、一読に値する人物評もあり、暴露本というのとは違う。日本のサッカーライターがしきりに、なぜあれほどの人が暴露本など書くのかと言っていた意味が、正直わからなかった。まだその頃は日本語訳が出ていなかったので、原著を読むことなく、英国内の一部の評判を聞きかじっただけで言っているのでは、と疑った。確かに、日本では「自伝といえば暴露本」という流れもありそうだ。 

『SOLO』というタイトルのアメリカの女子サッカー選手ホープ・ソロ(GK)の自伝もKindleでもっているが、途中まで読んで気持ちが外れてしまい、そのままになっている。少女時代の頃のことから書かれていて、面白くなかったわけではないのだが。機会をみつけて再読しよう。アルゼンチンのセルヒオ・アグエロ選手はファンなので、自伝が出たとき読みたいと思ったが、Kindle版の英語版サンプルを読んでみて、今ひとつで購入をやめた。本人が書いていないのは構わないが、全体の作り、文章にイマイチ惹かれるところがなく、購入に至らなかった。前書きで、友人で同じアルゼンチン人のリオネル・メッシが、少年時代の二人の出会いを書いている部分はワクワクした。

自伝や評伝を読む動機づけとして、まずは書かれている人物への興味があると思うが、評伝の場合、書かれている人への興味ではなく、書いている人への興味で手に取ることもある。富岡多恵子の『釈迢空ノート』という折口信夫の評伝はそういう理由でもっている。が、読まないまま書棚にあり、今回あらためて取り出してみた。ひょっとしたら読んでみるかも。なぜこのこの本を著したかが書かれている「はじめに」を読んでみて、書き手の視点を面白いと感じたからだ。

ある人物の生涯を知るというのは、どういうことなのだろうか。葉っぱの坑夫を始めた頃に、メアリー・オースティンというアメリカのナチュラリストの本に出会い、強く惹かれるものを感じた。カリフォルニアのシエラネバダ山脈付近の沙漠地帯に住み、その土地の自然や野生動物、鉱夫やインディアンなどの地元民についてたくさん書いている。最初に『The Basket Woman』という童話集を訳した。ウェブ版では『インディアン・テイルズ』、紙の本版では『籠女』のタイトルで出版した。その頃、オースティンの自伝『Earth Horison』を見つけ、手に入れた。日本ではほとんど知られていない作家なので、どういう人なのか、この本で初めて詳しく知ることができた。ワクワクする体験だった。

やはり自伝や評伝を読む動機として、対象となっている人物への興味は第一要因になるだろう。ポール・ボウルズのように、自分で書いた自伝以外に多数の評伝や回想録が書かれ、出版されている人も(英語圏などでは)いるようだ。伝記・評伝など一つあれば事足りそうなものだが、そうではないのだろう。書き手の対象への迫り方、独自の視点の示し方、人物像の提示など、その書き手にしか書けないものを書こうという野心があるにちがいない。ボウルズの10を超える評伝と、本人による三つの自伝をすべて読んだら、いったいどこに行き着くのか。専門の研究者でもないかぎり、そこまでする人は少ないだろう。しかしそういう読書のあり方も面白いかもしれない。

自伝や評伝を書くのは大変だが、ショートバイオ、経歴書あるいは英語でCV(curriculum vitae)と言われるものを、必要がなくとも、書いてみるのは面白い行為かもしれない。何か発見があるのでは。わたし自身は他人(アーティストや作家など)のバイオをウェブで紹介するため、かなりの数書いてきた。日本語でも英語でも。ちょっと面倒なところはあるものの、やってみれば面白い作業である。資料が豊富で、経歴も長ければ、どの部分を取り上げるかなど、書き手の腕次第のところもある。

自己紹介文、経歴書、CVといったものを、何年かに一度、書いてみるのもよさそうだ。数年の間にアップデートする出来事はあるはずだし(少なければ、停滞してることになるかも)、書くときの視点も変わってくる。また目的や読み手を想定することによっても、書き方は大きく変わるはずだ。書いてみれば発見もあるだろうし、なんかのときに役立つかもしれない。

インターネット上では、アーティストなどが、自分のCVをダウンロードできるようにしていることがよくある。自分のキャリアをアピールして、仕事やプロジェクトへの誘いや依頼に役立てようとしている。日本人の感覚だと、履歴書、経歴書を誰もがダウンロードできるようにする、という行為はあまりしたくないことかもしれない。自サイトに英語ページをつくっているアーティストなどは、日本人でも普通にCVを載せている。

自分のことを不特定多数の人のいる場(社会)にさらしていく行為は、生きている現実(人生)そのものは変わらなくても、それを見る視点が変わるという意味で、創造的なことなのかもしれない。

20180406

画像引用について考えてみた

葉っぱの坑夫を始めて以来、著作権について考えることはよくある。まずはテキストだが、翻訳する場合、本でもサイトの文章でも元テキストの著作権者を調べなければならない。どんなに面白いものでも、そこがはっきりしない限り、翻訳に手をつけるわけにはいかない。 

パブリックドメインになっている著作(著作権の切れたもの、もしくは放棄されたもの)は、そのまま翻訳できる。著作権が生きているものは、著者か権利者に、翻訳・出版の許可を得る。そういったケースでは、最初から代理店やエージェントに問い合わせるのではなく、まずは著者をネットなどで探して、メールであいさつや著作の感想、こちらの気持ちを伝えることが多かった。著者にまず自分の気持ちや翻訳の意味を伝えたかったし、できれば直接交渉で進めたかったからだ。しかし海外の作家の場合、半分くらいは、エージェントを最終的に通すことの方が多かったように思う。

ときに著者サイドの希望で、海外の代理店と関係をもつ日本の代理店を通すこともあった。日本の代理店もおおむね親切に対応してくれるが、そういうところは、大手出版社との付き合い方が主なので、こちらが著者に支払う際の送金手数料などの経費をなんとか安くしようとするやり方には、戸惑いもあったとようだ。コストを下げるため、任せてもらえる部分はこちらでやらせてもったりもしていた。

海外のエージェントは、小出版社や非営利出版に対して、それなりの理解があったように思う。いろいろ細かく相談しながら進め、費用のかからない方法をとることを承認してくれたりもした。作家の方にも理解があったように思う。とはいえ、エージェントも作家もそれぞれで、対応の仕方、され方は一つ一つ違う。案外、著名な作家の方が、小さな儲からない出版への理解があったりするものだ。エージェントの考え方次第で、厳しく要求してくるところもあり、しかしそれが有名作家や人気作家であるとは限らない。そういう場合、話はそこで終わってしまうことが多い。

ここまで書いてきたのは、著作権者の承認を得ての再利用の話だが、作品の一部を借りてくる「引用」について、今回は考えてみたい。ここでいう引用とは、著作者の許可なく使用することを指す。

このブログでも、テキストの引用はたくさんしてきた。基本的な理解としては、引用部分が自分の書いている地のテキストと比べて、量的に少ないこと、出典を明らかにすること、引用箇所を地の文と区別して表示すること、などがあった。引用の量とは、主従関係において「引用」部分が従であることを意味する。どれくらいの割合になっているか、自分のこれまでのブログで確かめてみよう。

2018年3月9日の『野生と飼育のはざまで(4)』の<スポーツハンティングが野生動物を救う?>では、全体の文章が7273文字、テンプル・グランディンの著書から引いた部分が161文字、小林聡史教授の論文からの引用が188文字、日本自然保護協会サイトからの引用が146文字となっていた。どれも200文字足らずなので、おおよそ36から40分の1くらいの割合だろうか。

もう一つ、引用の多い記事を調べてみると、『文章の質について考えてみた』(2017年12月1日)は全体の文章量が6404文字、『李朝滅亡』という書籍からの引用が167文字、238文字と二ヵ所あった(全体の16分の1)。また『「反日思想」歴史の真実』という本からは、180文字分引用があった。その他ウィキペディアからの引用が数カ所あったが、こちらはクリエイティブ・コモンズのところで、別途書くことにする。

テキストの引用のルールとしては、はっきりした決まりはないものの、おおよそ10〜15%以内にとどめることになっているようだ。これまで文字数を数えながら引用をしたことはなく、だいたいの感覚で判断してきた。15%というのは、自覚としても、かなり割合的に多いと感じられる量ではないだろうか。

さてでは画像の引用はどうなのか。これまで画像について「引用」を適用したことはないと思う。テキストに比べて、引用という概念が湧きにくいことが一つにある。しかし調べてみると、基本の考え方は同じであるようだ。それは音源についても同様だと思う。

画像の引用は、感覚的にいうと、してはいけないこと、できないこと、という受けとめ方が多いかもしれない。わたし自身もそう思ってきた。しかしよく考えてみれば、テキストならいいが、絵や写真はだめ、という法律は理論上つくりにくいかもしれない。著作権は創作物に対してかかるという意味で、文章も絵も写真も音楽も同じだからだ。

では画像を著者の許可なく引用したいという場合、どのような条件をクリアしたらいいのだろうか。ここまでに調べたところでは、以下のことが判明した。(これはテキストや音源にも当てはまる)

・一般に公開された著作物である
・引用を行なう「必然性」がある(報道、批評、研究での利用など)
・オリジナルの文章(創作物)が「主」で、引用部分は「従」である
・引用部分は、ハッキリと他の部分と区別されている(引用マークなど)
・引用部分を勝手に改変していない
・出典元が明記されている

引用とは、公表されている著作物を他の者が利用できるよう、「著作権に制限をかける」ということのようだ。何もかも利用はだめ、というのではなく、一定の条件を満たしていれば、その範囲内の使用は認められるということだ。

引用を行なう必然性ということに関して、テキストの場合は関係のない文章を引用することはまずないと思われるが、画像の場合は少し事情が違うかもしれない。引用先の記事や著作物と引用元の画像の関係性に、「必然性」が求められるとき、たとえばイメージ画像としての利用は難しい、という判断になるかもしれない。

たとえば『被災地である◯◯町の現在』という文章で、その◯◯町の被災現場の写真を1枚引用させてもらうのは、一定の必然性が認められるのではないか。しかし『この春はのんびり温泉旅行』という休暇の提案に関する文章で、どこかの温泉地の風景を撮った写真を引用させてもらうのは、難しいかもしれない。必然性という意味で、その写真でなければならないという特定性がないからだ。文章と写真の関係が薄く、直接的ではない。こういったイメージとしての写真というのは、必然性が低いと判断されるかもしれない。

以前に一度書いたことがあるが、画像直リンクという手法が日本で問題になった。観光案内サイトで、メインに使われているイメージ画像が直リンクによるものだった場合、著作権を侵している可能性があるかもしれない、というものだ。以下は過去のブログからの引用(2017.07.14『引用・コピペ・再編集文化』)
ネットの観光地案内のサイトなどでは、他サイトから直リンクで画像を「引用」している場合があるようだ。直リンクとは、画像のURLをコピーして、自サイトのコードにそのURLを貼り付けて画像を表示させる方法のこと。画像にコピーガードのかかっていないサイトに行き、画像をポイントして右クリック(またはコマンド+クリック)すると、「画像アドレスをコピー」という項目が出てくる。それを自サイトのコードにペーストする。すると著作権者の許可なく、目的の画像を使用できる。 
これが違法かどうか微妙なのは、他者の画像をダウンロードして自分のサーバーにもってきているわけではなく、画像はそのまま相手のサーバーに置いたまま、画像アドレスを使うことで「引用」しているからだ。だから盗用の範ちゅうには入らない、という考え方が成り立つ。画像は「盗んでいる」わけではない、というわけだ。 
しかしわたしはこの考え方に疑問をもつ。YouTubeやツイッター、インスタグラムなどは、著作権者が投稿する時点で、というよりそのサービスに登録してIDを得た時点で、おそらく作品の利用権を投稿先に許可しているはず。だからシステム内外での引用が許されており、拡散が行われる。しかし一般のサイトでは、サイト保有者または著作権者と、画像直リンク利用者の間には関係が成り立っていない。あるのは直リンクという技術だけだ。よって許可なく直リンクで画像を引いてくれば、無断転載と同じような結果になる。少なくとも、著作権者にはそう見えるだろう。これは心理的に理解のできることだ。

これを書いていた当時、画像の引用というものがあり得るかどうかについては、考えが及んでいなかった。直リンクの場合も結局のところ、方法論ではなく、法律で示唆されている引用の範囲に収まるかどうか、が問題になるのではないか、と今は思う。

同じ写真でも、人の顔が写っている場合は、また別の点で気をつけなければならないだろう。写真を撮った人の著作権ではなく、被写体の人の「肖像権」が侵されていないかが問題になるかもしれない。「肖像権」で調べてみたところ、そのものは法律で規定されていることはないものの、「人格権」の一部として判例があるようだ。もう一つ「パブリシティ権」というものがあり、有名人などの肖像や名前から生じる経済的な利益を指すという。どちらの場合も、被写体の人の利益を損なった場合(写真を使っての名誉毀損や、顧客を呼び寄せるために肖像を引用するなど)、問題が起きる要因となるのではないかと思われる。

今回なぜ画像の引用について調べてみようと思ったかについて、少し書いておきたい。この7月から、20世紀に活躍したアメリカの現代音楽作曲家のインタビューのプロジェクトをスタートさせる。オリジナルはアメリカのブロードキャスターが、主として1980年代、1990年代にラジオで放送したインタビューを、のちに文字化してサイトで公開したものである。葉っぱの坑夫のプロジェクトでは、膨大な音楽家たち(作曲家だけでなく、ピアニストや歌手、指揮者など)のインタビューの中から、アメリカの20世紀の作曲家を何人か選んで、日本語に翻訳する。

テキストに関しては、ブロードキャスター本人に連絡をとり、企画への賛同と翻訳の許可を得ている。しかしインタビューのページで使用されている写真については、彼が権利をもっているわけではない。いくつかの写真については、インタビューの際に、音楽家自身から借りたもののように見えるものもあった。しかしそれ以外のところから「引いてきた」ものもあるようだった。インタビューのサイトには以下のような断り書きがあった。
多くの写真はあちこちのサイトで見つけたものですが、もしこのサイトで掲載するべきではないということであれば、わたしに知らせてください。すぐに削除します。あるいはクレジットをつけてほしいということであれば、お知らせいただければ付けます。(日本語訳)
インタビューした本人が、必ずしも音楽家の写真をもっていないのは、放送があったのはかなり前のことで、文章化したのはそれからだいぶ時が経ってからのことだからだろう。当時すでに晩年期を迎えていた音楽家の中には、サイトに載せる時点ですでに亡くなっている人もいる。

わたしがこの断り書きを読んで感じたのは、このような対処法があるのだな、ということ。撮影者の著作権に触れることはあるかもしれないが、被写体本人とかなり長いインタビューを過去にした者が、それを文字化して(商業ではない)自サイトに載せるとき、写真を使用することは自然なことに見える。写真はかなり古いもの(若い頃のもの)も多く、30年前、50年前と撮影者を追跡するのは難しいことかもしれない。スナップ写真のようなものは、撮影者を特定すること自体が困難ということもあるだろう。

インタビュー記事でインタビュイーの写真がないケースの方が、例として少ないかもしれない。顔写真があった方が、読む方もより楽しいし、顔だちや表情からパーソナリティを理解することもできる。このインタビュー記事の被撮影者である音楽家は、(すでにどこかで公開されている)写真を、ここで使われることに不満はないのではないか。とすると、写真の利用によって起きる侵害や不幸、損害は最小限と見積もることができる。

(オリジナルのサイトにはないものだが)葉っぱの坑夫の日本語バージョンでは、インタビュー記事に、音源のサンプルも付けようと思っている。それはアメリカに限らずだが、現代音楽の作曲家の作品というのは、一般にほとんど知られていないから。あまり聴かれることがない。いったいどんな音楽なのかさえ、読者は想像すらできないかもしれない。インタビューのページでは、ぜひ音源のサンプルを使って、作曲家たちの音楽も紹介したいと思った。

音源についても、引用の規定は他の著作物とほぼ同じと思われる。その作曲家の特徴をよく表していると思われる楽曲を、あるいは今聴いて興味を引きそうな作品をみつけ、音源のあるサイトへのリンクや、YouTube、あるいはその楽曲を購入した上で、一定時間分のサンプル音源をつくるなどして紹介しようと思っている。

最後にウィキペディアとクリエイティブ・コモンズについて。まずウィキペディアに掲載されている記事は、どのような扱いが許されているのか。「Wikipedia:著作権」によれば、
ウィキペディアのコンテンツは、他の人々に対して同様の自由を認め、ウィキペディアがそのソースであることを知らせる限りにおいて、複製、改変、再配布することができます。それゆえにウィキペディアの記事は、永遠にフリーであり続けるでしょう。
ここに書かれている「他の人々に対して同様の自由を認め」というのは、自分が利用した文書や画像を(さらには改変した場合はそれも含め)、他の人が同様に、自由に利用することを指している。つまり独占的に利用することはできない、という意味だ。さらに二次利用については次のような説明があった。

ウィキペディアは「フリー百科事典」ということを掲げており、掲載している文章や画像等は、各種表示等を条件に自由に二次利用することができます(無断転載など)。この文書は、ウィキペディア上の素材を、ウィキペディア以外の場所で二次利用されることをお考えの皆様に対し、その二次利用方法についての解説を提供することを目的としています。
「他の人々に対しても同様の自由を認め」という考え方は、クリエイティブ・コモンズの考えとしても、古くから知られている。自分がありがたく二次利用するのなら、他の人が、自分の著作物の中のその部分を使うことも許さねばならない、ということだ。クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)とは、「インターネット時代のための新しい著作権ルールで、作品を公開する作者が<この条件を守れば私の作品を自由に使って構いません。>という意思表示をするためのツールです。」としている。

現在の著作権法の多くの部分は、インターネット時代以前に定められたものだ。インターネットの普及によって著作権の考え方は大きく変化している。傾向としては、「著作権の制限」の方向へ動いているのではないか。また「シェア」や「共有」という考え方が、「所有」や「独占(排他的権利)」より一般的に受け入れられいてきているように思う。YouTubeやインスタグラム、ツイッターなどは、「著作権の制限」や共有の思想のもと広まったものだ。

自己の利益のためでなく、世の中を豊かに、楽しくするための共有という思想と、他者の権利を侵害したり、傷つけたりしない方法での引用は、近いところにあるのかもしれない。著作権について「侵害したら大変なことになる」という恐怖の側面からだけ見るのではなく、倫理的に正しいやり方を考え、議論しあい、著作物をリサイクル(再循環、資源再生)して有効利用していくことは、未来に向けて大切なことかもしれない。