20120625

PODで本をつくる(アメリカと日本のアマゾン比較)その1


一つのPDFファイルで、日米両方のアマゾンで本をつくってみた。アマゾンが提供するPrint On Demand(以下POD)のシステムをつかっての本づくり。PODの仕組とは、本のプリントデータを印刷所(この場合アマゾン)が保管し、注文があったときに1冊ずつ印刷機にかけるというもの。印刷機の進歩もあって、仕上がり、コストともに充分使えるものになってきたようだ。

PODの利点は何かといえば、版元が在庫をもたなくていいこと、絶版がないこと、本をつくるのに予算やコストを考えなくていいこと、本の発送はコストも含めてアマゾン側が請け負ってくれること、望めば一つの印刷元データで世界中で印刷が可能なこと、などが上げられる。ある意味、本づくりの根本が変わるようなことである。これまでのように、ターゲットとなる層を想定し、印刷部数を決め、売れた場合は重版をし(あるいは品切れ、絶版状態のまま保留し)、ということがない。ひとたび本をつくれば、半永久的に世の中に残る。また資金のない著者や小さな出版社も、本をつくるプランさえあれば、誰もがつくりたい本を世に出すことができる。

欠点は何か、と考えると、それほど売れない可能性もあり、ロイヤルティから換算しても大きな利益にはなりにくいということか。根本的に、大手出版社が新刊発売のときにやっているような、マスメディアをつかっての広告宣伝やパブリシティ、書店やギャラリーなどでのイベントを通して、最初のところでなるべくたくさん売る、という方法論とはかなり違う出版となる。刊行したところで、作者や版元がネットでニュースを流すこと以外は、検索にかかって人々が本を見つけてくれるのをじっと待つ、というスタイルになる。そのかわり、本が売れるきっかけは、売り出しのときのみということもない。のんびり、まったり、でも十年後、二十年後でも在庫してますので、いつでもどうぞ、という世界だ。

現在の商業の流れから見ると、ずいぶん外れているように見えるかもしれないが、将来はわからない。それに「こういう本をぜひとも世に出したい」という人にとっては、利益を目的としていないかぎり、目的は達せられる。本づくりについての研究、勉強は必要だけれど、「○○万円であなたの本をつくります」的な、他人を儲けさせる出版をしなくてすむ。

具体的にどうやったらPODで本が出せるのか。アメリカのアマゾンと日本のアマゾンでは、かなり違う部分がある。考え方、もっと言えば思想がまったく違うようにも見える。それはアメリカ社会と日本社会の違いから来るもの、と言うこともできそうだ。

アメリカのアマゾンでは、PODのプログラムは、すべての人に開かれている。唯一の条件は、amazon.comのIDを持っていること。本を買うときにつくるアカウントだ。有名無名も、作家かどうか(作家であるかどうかを証明するのは難しいが)も、出版社とつながりがあるかどうかも、まったく関係ない。個人、インディペンデントな個人で充分。むしろ初めて自分の本を出版しよう、という人にあらゆる説明の基準を置いているようにも見える。本を出すにはどうしたらいいか、まだ書きはじめていないのなら、どのように本の体裁をまとめればいいか、など懇切丁寧で、あらゆる質問に答えるべく待機しているように見える。いわば「本づくりの学校」みたいな感じ。

日本のアマゾンの方は、一見、出版社という法人だけでなく個人の著者にも開かれているように見えるが、実際は、出版社通しのようにもサイトからは見える。個人が出版する、ということが「想定外」なのかもしれない。アマゾンのトップページの一番下に、「すべてのサービスを見る」という項目があるので、そこをクリックする。次ページの真ん中あたりに、「出版社および著者、著作権者向けプログラム」という項目があり、そこに「プリント・オン・デマンド」とあるから「詳細はこちら」に行く。詳細ページの下の方に、資料請求・お問合せとあるので、そこから連絡をとる。その下あたりに、「著者の方は、出版社を通じてお申し込みください。 」と書いてあるのは、どういう意味なのだろう。出版社から本を出した人は、版元の許可を得てから申し込むように、ということか。では出版などしたことない人、「プロの作家」ではない人は、このプログラムに参加できるのか。そこのところはわからない。葉っぱの坑夫の場合は、すでに出版社としてアマゾンで本を売ってきているので、純粋な個人が受け入れてもらえるのかどうか、試す機会がなかった。ただ、葉っぱの坑夫も、最初の連絡はここのページのフォームをつかっている。少しして担当者からメールで返事が来た。すでにアマゾンで本を売っていたからなのか、ISBNをもっているからなのか、そういうことに関係なく、受け入れてもらえたのか、わからない。非情に丁寧な対応で、PODを進めるにあたって、担当の人には随分助けてもらった。

POD出版する際に、個人にとってネックになりそうな点は、しいて言えば、ISBNの取得と税金関係の申請をアメリカのIRS(The Internal Revenue Service/米国国税庁)にしてEINのナンバーを取得するという2点か。ISBNの方は、日本図書コード管理センターに申請して、管理料などを払って取得する。特に資格はいらない。2、3年に1回、更新料を支払う必要があるが、個人でも払える金額だ。IRSの方は書類がすべて英語なので、慣れない人は少し苦労するかもしれない。でもネットを探すと、経験者が自分の書類を例としてあげて説明していたりもするので、そういうものを参考にしてつくればいいと思う。EINを取得することによって、アメリカで本を売っても課税の対象にならない処置ができる。日本のアマゾンでPOD出版する場合も、この処理がいる。葉っぱの坑夫はここで少しつまずいて、余分な時間を取られてしまった。海外の事務処理では、郵便局の小切手などでもときどきあることだが、慣れない名前(日本語の)を間違ってタイプしてくることがよくある。これが起きた。IRSから来た、EINが取得できましたという知らせの名前が、WEB PRESS HAPPO-NO-KAFUとなっていた。何回訂正の手紙を送っても、変わらず何回もWEB PRESS HAPPO-NO-KAFUでまた返ってくる。怒り心頭であったけれど、ふと冷静になって、名前が間違っていても、特に障害がなければいいじゃないか、この名前で本を出版するわけではなく、ただの税制上の処置なのだから。と考え、そのままでいくことにした。

おそらく、この二つが整えられれば、日本のアマゾンでもPODで個人が本を出版することは可能ではないかと思う。なぜならアマゾン側にとっても、特に不都合なことはないだろうと思えるから。日本の会社といっても、元はアメリカの会社。普通の日本の企業とは、基本が違うのではないかと想像する。一般に日本の社会では、「個人」は「消費者」であることだけが望まれている。法人が仕切っている世界に、個人が首をつっこむことは望ましくないことになっている。

日本語だけで書かれた本を出すのであれば、日本のアマゾンでPODを始めるのがいいと思う。英語やバイリンガル、ビジュアルの本であれば、アメリカのアマゾンで本をつくることも一考してみたい。日本のアマゾンでは、表紙以外は今のところ、モノクロ印刷しかできない。アメリカのアマゾンでは、フルカラーの本も作れる。絵本や写真の本も出版されていた。試しにカラーの絵本を購入してみたが、印刷はきれいだった。これならカラー印刷と言っていいと思える。ただし刷り見本を出しての色校正はできない。画面上でプレビューを見るだけだ。そこは割り切るしかないだろう。PODの本は、アメリカでも日本でも、サイズやページ数についてはかなり自由度が高い。大きさで言うとA4サイズくらいまで、ページ数は800ページくらいまで印刷が可能。

アメリカのアマゾンで本を出すと、希望すればヨーロッパのアマゾンでも販売ができるように最近なった。イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどである。アメリカに提出した書誌データ(本の概要を伝えるもの)や参照画像が、イギリスではほぼ自動で向こうのサイトに反映されていた。フランスなどのサイトは言語が違うので、商品説明が載らない。画像登録や、中味検索で個別に補うしかないだろう。それでもヨーロッパでも本が売れるのは素晴らしい。

アメリカのアマゾンPODは、その仕組からして日本のものとは異なる。出版に関する実務を担当しているのは、アマゾンが買収したCreateSpaceという個人出版支援プログラムの会社。使ってみて、いろいろな点で優れていると思った。本をつくるための方法もヴァラエティーに富み、様々なツールが用意されていて、こちらの能力や好みで選ぶことができる。(次回につづく)

20120604

北朝鮮へ旅した二人の話


先月から今月にかけて、北朝鮮を旅した二人のライターのレポートを読む機会があった。一人はイギリス出身の歴史学者、テッサ・モーリス-スズキ。日本近代史が専門で、「北朝鮮へのエクソダス」など戦後在日朝鮮人の身に起きたことを記した本などの著書がある。もう一人はフリーの国際政治解説者、田中宇。米国の覇権体制を主軸に国際情勢を分析して記事を書き、インターネットなどで発表している。

田中氏の方は今年の4月末に、親朝的な交流組織「日朝友好京都ネット」の訪朝団に参加しての旅。朝鮮関係の研究者や大学院生で構成される、60人くらいの訪朝団だったそうだ。テッサさんの方は、行ったのは2009年のことで、中国をよく知るイギリス人の友人と自身の姉との3人の旅。100年前の1910年に、この地を中国から鴨緑江を超えて旅したエミリー・ケンプというイギリス人の足跡を追って、旅を進めている。1910年と言えば、日本が朝鮮半島を統治していた頃。鴨緑江は中国風に発音すると、ヤールーチアンとなるらしい。

葉っぱの坑夫で2005年に連載を始めた「ヤールー川はながれる」(ミロク・リー著)は、この鴨緑江のことであり、時も同じく日本が統治していた時代の話である。もちろん南北の分断はまだなかった頃のこと。わたしが朝鮮半島及び北朝鮮に関心を持ち続けているのは、この作品を訳したからでもある。そしてなぜこの作品を訳したのかと言えば、日本が朝鮮半島で何をしたのか、向こう側の視点を通して知りたかったからだ。2002年に金正日書記長が日本人の拉致を認めた後から始まった、日本社会で起きた大バッシングに、違和感をもっていたことも関係している。そういったわけで、2000年代の前半あたりから、北朝鮮に関する記事や本、映像作品などに機会あるごとに接してきた。

テッサさんの旅は2009年のことであるが、旅の本が出版されたのは先月末のこと。元になる英文の本があり、それを日本の読者向けにアレンジしたものと言う。本は「北朝鮮で考えたこと」というタイトルで集英社新書から出ている。この旅はテッサさんが現在住んでいる、オーストラリアの書店で買った1冊の本に端を発している。エミリー・ケンプというイギリス人女性が、友人のマクドゥーガルとともに、1910年、中国大陸から朝鮮半島に入り、平壌、ソウル、釜山、金剛山、元山とまわったときの紀行文だ。「北朝鮮で考えたこと」には、旅の途上で描かれたケンプの絵が、テッサさんの姉サンディによるたくさんのスケッチとともに載っている。

エミリー・ケンプについては、テッサさんも本を読むまで全く未知の人だったそう。東北アジアの旅と言えば、イザベラ・バードの本が有名だ。わたしも「朝鮮紀行」を手にとったことはある。バードの旅は1894年から3年間に渡って4度に渡る旅だった。

現在の北朝鮮の旅は、ビザの発行から当地での行動の不自由さまで、政治体制による規制があり普通の観光旅行のようにはいかない。しかしここを旅する人は、そのことも含めて現在のこの国のありよう、社会の状況がどうなっているのかに好奇心をそそられるようだ。田中宇氏とテッサさんの研究取材目的には、特に共通点がないように見えるが、二人が北朝鮮で見たもの、感じたことにはいくつかの共通項がある。

旅の中で、平壌から開城への高速道路を田中氏もテッサさんも通っている。開城市は38度線近くにある街で、韓国との合弁で作られた「開城工場団地」がある。南北合同の委員会で運営されている工業団地だそうだ。田中氏によると、平壌から開城に行く高速道路は舗装はされていたがガタガタだったとか。市内から工業団地に向かう道だけ格段によかったそうだ。平壌から開城までは2時間半程度、途中農村風景を目にしたが、トラクターは少なく鍬などで作業していた、とのこと。道中目にした車の台数は、行きが30台、帰りが80台だったそうだ。テッサさんによると高速道路は幅広くて走行はなめらかだったが、不気味なほど閑散としていたそうだ。交通量は事実上皆無、とも書いている。2009年から3年の間に、多少の変化があったのだろうか。

また田中氏、テッサさんともに、平壌のボンス教会について触れている。田中氏によると牧師も信者も、金日成バッジをつけていなかったそうだ。外ではつけていても、教会に入るとき外すらしい。北朝鮮ではキリスト教は弾圧されてきたので、ボンス教会の信者は外の世界の目をあざむくためのもの、と決めつける国外のメディアもあるらしい。田中氏は、教会にいた信者すべてがニセモノではなく、本物もいたのではないかと感じだそうだ。また教会に来ないで家庭で礼拝する信者も多いのではないか、と予測している。テッサさんは無神論を標榜する国の中心地に、いくつもの教会がある不思議さを書いている。ボンス教会と並ぶ平壌市のもうひとつのプロテスタント教会は、金日成の母の村七谷のにあり、その母は祖父とともにキリスト教徒だったと言う。

田中氏によると、北朝鮮に滞在している間、「見せ物」的な印象を受けることがたびたびあったそうだ。たとえば金日成総合大学は、建物は美しく、コンピューターがずらりと並ぶ電子閲覧室があったが、なぜか学生が少なくがらんとしていたそうだ。学生を学外の勤労奉仕に参加させているためではないか、と書いている。また「ハナ音楽情報センター」は、市民がデジタル録音された音楽を、自由に検索して聴ける図書館としてつくられた施設だが、ここも市民の姿はほとんどなかったと言う。どちらも外国人の旅程の中に組み込まれている場所らしい。

とは言え、田中氏は時間の許す限り、街を歩き、地下鉄に乗り、市民の本当の生活や姿をのぞこうとしたようだ。以前は許されていなかった一般市民との自由な対話も、今回は問題がなかったそうで、田中氏はいくつかの場所で対話を試みている。平壌市内を毎日散歩し、平壌駅の裏に行って、道端でおばさんたちが野菜や衣類を売る「にわか自由市場」を見学したりもしている。政府が市場経済の導入を拒否している、とは言え、末端の暮らしではこういうものの存在が黙認されているわけだ。また案内人なしで、地下鉄やバスに乗り、市民と話すことができるのは嬉しい驚きだったとも田中氏は書いている。このレポートには町の様子や人々の日常が写真でも紹介されていて、テッサさんの旅がスケッチ画で綴られているのと対照的だ。テッサさんによれば、絵はカメラより警戒心を起こさせないという利点だけでなく、土地の人々の興味をひき、親しくなる手段にもなったそうだ。

断片的に紹介した二人の旅人の話だけでは、北朝鮮の現在がどのようなものなのか知ってもらうのは難しい。もし興味がわいたという人がいれば、以下に紹介するそれぞれの原典に当たっていただければと思う。テッサさんは、本のあとがきでこのように書いている。「わたしがもっとも強く望むのは、わたしがエミリー・ケンプの本に刺激されたように、あちこちでこの本を読んだ人たちが刺激をうけて、鴨緑江へ、そのむこうへ、金剛山のそびえたつ峰々へと発見の旅にでること、それによって、時と場所を旅した何百年、何千年にわたる巡礼者たちの数がさらにふえることである。」

テッサ・モーリス-スズキ「北朝鮮で考えたこと」(集英社新書)

田中宇「北朝鮮で考えた(1)(2)(3)」