20160718

フゥー‼︎ 非言語コミュニケーションの威力

今年のユーロ(UEFA欧州選手権、6月~7月)で試合とは別に、印象に残るパフォーマンスを見た。それは最初アイスランド代表チーム(とサポーターの間)で起き、その後トーナメントに入ってから、他の代表チームにも伝染していった。拍手(手拍子)と声による応援という形でまず、アイスランドのサポーターたちの間で起きたものだった。

両手を肘をのばした状態で肩幅より広くかかげ、その姿勢で一定の「間」をとったのち、「フゥー!!」という息を吐き出すような掛け声と同時に両手を頭の上で合わせて打ち鳴らす。手拍子のあと手を元の位置に戻し(広げて掲げ)、また一定の間をとり、同じように「フゥー!!」の掛け声とともに両手を打ち鳴らす。それを繰り返すのだが、手拍子と手拍子のあいだの「間」を徐々に縮めていくことで、アクセルを踏んだような、音楽用語でいうアッチェレランドの効果を生み、興奮を高め早る心をぐんぐん回転させ、最後は手拍子の連打になだれこみクライマックスに到達する。

わたしがこのパフォーマンスに気づいたのは、グループリーグの第3戦、オーストリア対アイスランド戦の試合後だった。このときにはまだ、このパフォーマンスのことはほとんど話題にのぼっていなかったように思う。このグループ(F)は大会前にそれほど注目された組み合わせではなかったが、優勝したポルトガル、ここ最近FIFAランキングを10位とあげてきたオーストリア、W杯などではなじみはないものの20位とそれなりのハンガリー、それにユーロ初出場の新顔アイスランドの4チームでの争いとなった。グループリーグの結果は、意外なことにハンガリーが1位、アイスランドが2位、ポルトガルが3位という結果で、この3チームが決勝トーナメントに残った(3位はA~Fの各グループから、上位4チームが進出)。第2戦が終わったところで、ハンガリーが抜けていたが、他の3チームはどこが残れるかまったくわからない状態だった。

ここまでのアイスランドの戦いは、ポルトガル、ハンガリーそれぞれに引き分けており、勝ち点合計は2だった。残りの2チームもそれぞれ勝ち点2と1だったので可能性は十分あったが、第3戦で負ければ敗退となっただろう。引き分けであればまだ可能性はあったが、確実なのは勝って勝ち点を2+3=5とすることだった。第3戦の相手はオーストリア。メンバー的に言えばオーストリアはバイエルンミュンヘンの選手がいるなど、アイスランドを凌いでいた。そんな中、アイスランドは素晴らしいプレーぶりを見せ、観衆やサポーターをおおいに沸かせて勝利した。決勝点となったゴールは終了間際の94分(追加タイム)だっただけに、その興奮度はそこで頂点に達した。

ゴール直後に試合終了のホイッスル。抱き合い喜ぶ選手や監督、チームスタッフ。選手たちがアイスランドのサポーター席の前まで行って陣形をつくって並び、「フゥー!!+ 手拍子」がはじまった。最初、選手たちが観衆の方に向いてそろって並び、両手を掲げている格好を見て、何をしているのだろう、と思った。そしてはじまった手拍子パフォーマンス。しかしそのときは、なんか変わったことをやっているな、で終わった。

そして決勝トーナメントの第1戦。初出場でグループリーグ抜けしただけでもサプライズだったアイスランドが、優勝候補の一角とも言われていたイングランドと対戦した。試合がはじまってすぐにイングランドにPKを与えてしまい失点したものの、アイスランドはその2分後には同点打。さらに前半のうちに決勝点となるもう1点を追加し、それを最後まで守りきって準々決勝に進んだ。試合終了後、呆然とピッチに座り込むイングランド選手たちを尻目に、アイスランドの選手たちがスタジアムのアイスランド・サポーター席の前にずらりと陣形をつくって並んだ。そのときオーストリア戦で見たあのパフォーマンスのことが蘇った。あれだ! あれがはじまる! 選手たちがピッチで、そしてスタジアムのたくさんのサポーターが立ち上がり、両手を掲げる。第1打が打たれるまでの間が、異様に長く感じられた。今回は明らかに、長いあごひげのチーム・キャプテンが音頭をとっているように見えた。そのキャプテンが両手を掲げ、第1打をうつ間をはかり体勢を整えた。間を十分にとっているように見えた。

フゥー!! バン!..................... フゥー!! バン!................. フゥー!! バン!............

予想外の快進撃(多くの人がイングランド有利と思っていただろう)を果たしたこの瞬間、これほどピタリとくるパフォーマンスは他に思いつかない。

フゥー!! バン!........ フゥー!! バン!.... バン!バン!バン!バン!バン!

海外のメディアはもちろん、日本のメディアや放映をしていたWOWOWのハイライト番組でも話題になり、WOWOWのアナウンサーや解説者が番組終了時に「ではみなさんもごいっしょに」といってこのフゥー!! バン!を揃ってやってみせたほどの感化ぶりだった。

このフゥー!! バン!は、Icelandic viking thunder clap(アイスランドのバイキングのカミナリ手拍子)のように呼ばれ、オリジナル探しが海外メディアを中心にはじまった。フゥー!!という掛け声やどこか原始的なムードをかもしだす一連の手拍子から、フォークロア的なものと予測されたのかもしれない。いずれにしても言語や文化の違いを超えて、この非言語パフォーマンスが多くの人々の心に響いたことは間違いない。それはそのパフォーマンスが行われた状況、アイスランド代表チームの素晴らしい活躍を抜きには起こり得ないことだと思うが。面白いのは、このパフォーマンスが他の代表チームにも「伝承された」あるいは「伝播した」ことだ。アイスランドの準々決勝の相手、ユーロ開催国であるフランスも、アイスランドに勝ったあと、サポーターや選手がこのパフォーマンスをやっていた。ユーロ初出場のウェールズも準々決勝でベルギーに3-1で驚きの勝利をし、このパフォーマンスをやったと聞いている。

これは勝利のパフォーマンスなのか。いや違う。アイスランドはフランスに負けたあと、同じようにサポーター席の前に集合し、陣形をつくり、フゥー!! バン!をやって、応援感謝の意を表した。どうするのだろうと思っていただけに、それもまた感動的なシーンとなった。一方、フランスは決勝戦でポルトガルに負けたあと、落胆からか、このパフォーマンスをすることはなかった。

アイスランドがはじめたこの特徴あるパフォーマンス、声と手拍子という単純な構成ながら、観衆と選手、チームが一体になれたフゥー!! バン! やりたいひと誰もが参加でき、敵対する相手でさえやってみたくなる、自分たちのヴァージョンでやってみようとするパフォーマンス。この広がりを、広がり方をとても新鮮なものに感じた。

のちに英語圏のメディアを調べたところ、この応援手拍子の元は、スコットランドのクラブチームMotherwellのサポーターの応援パフォーマンスにあった。アイスランドのクラブチームStjarnanがスコットランドに遠征試合に行ったとき、サポーターがこれを見て、自分たちのチームに取り入れた。それが代表チームに伝わったものらしい。「古代のバイキングの戦闘前の儀式」ではないかと思われていたものは、スコットランドから伝わったものだった。そしてユーロという4年に一度のヨーロッパ王者を決める大会で、フランスやウェーズも巻き込み、2016年のユーロの注目の出来事の一つになった。

人間のコミュニケーションにおいて、さらには動物全体のコミュニケーションにおいても、このような言語を介さない伝播は広くつかわれている。動物の場合は「言語」といったとき、人間的な視点からはそれを言語と呼ぶか議論が分かれる場合もあるかもしれないが、人間の場合は、言語といえば、発声されたり書かれた言葉、あるいは手話による言葉を指している。非言語コミュニケーションにはいるものは、身ぶりや視線、表情、からだの体勢、声のトーン、大きさ、イントネーション、呼吸などで、服装や髪型もこの中に含められるそうだ。服装は、ウィキペディア英語版によれば、「もっとも普通に見られる非言語コミュニケーションの形」であると定義されている。

非言語だからといって、それが言語や文化の影響を受けないということではない。場合によっては言語と同等の違いや境界をあらわす。たとえば欧州や南米のサッカーの試合で、何かのきっかけで選手同士が敵対意識をあらわにするとき、頭と頭を付き合わせることがある。手をつかうと(相手をたたくなど)反則をとられる、ということもあるかもしれないが、この対決(攻撃)体勢は欧州を中心とする文化圏の非言語コミュニケーションとして成立しているのだと思う。

服と同様にタトゥー(刺青)も、非言語コミュニケーションの一部かもしれない。世界中にタトゥーの文化はあるが、その意味は地域によって異なるようだ。日本ではヤクザのものというイメージが定着していたので、今もその名残りが強く、温泉や銭湯ではその部分を隠すことになっていて、従わないと入場拒否されると聞いている。欧州や南米ではタトゥーはそれほど反社会的なものではないようだ。女性がファッションとして腕や首などにしているし、サッカー選手にいたっては片腕まるまるといった大掛かりなカラーのタトゥーをしている人も多い。あのメッシも腕と足に「袖」か「タイツ」のような全面タトゥーがある。アジアの選手にはほとんどいないが、中国の選手には南米なみのタトゥーの人がいる。わたしの知る中でもっとも意外性のあるタトゥーの主は、ポルトガルのピアニスト、ジョアン・ピリス。クラシックの演奏家で現在70歳を超えている。ブラジルに移住し、NHKのピアノレッスン番組でユニークな教授法を見せて人気だった人だ。この人がどちらの手首か忘れたが、片手首に小さな黒いタトゥーを入れいている。何かの思い出なのか、誰かに捧げるものなのか、クラシック音楽という文脈の中で見ると、なおのこと印象的で神秘的だ。


このように言語を介さない非言語コミュニケーションの場合も、普遍的な伝わり方をするとは限らず、その受け止められ方は文化や社会の影響を強く受ける。そう考えると、あのアイスランドの応援&感謝パフォーマンスが、文化や言語の違いを超えて伝わり、一気に広がったのは稀有なことに思える。ある限定された時と場とシチュエーションが、人々の心をダイナミックに統合した理由かもしれない。そこに見たものは、おそらく「一国の枠内におさまる伝統や美意識」といったものとは対極にあるものではないか。だから伝播したのだ。

20160704

変えてもいい? 国旗とか国歌とか

サッカーの国際試合を見ていると、各国の国歌を聞いたり、国旗を見たりする機会が増える。この6、7月でいうと、南米各国と北中米の一部の国によるコパアメリカという大会があり、またヨーロッパでも、予選通過国24ヵ国によるユーロが開かれている。このような大会では、試合前に必ず国旗の提示と国歌がうたわれる。試合ごとに毎回あるので、勝ち上がっていく国の歌は繰り返し聞くことになる。

南米の国々、あるいはメキシコ、ヨーロッパではイタリアなどはいつも、整列した選手たちが胸に手を当て、あるいは肩をくんで大声でどなるように国歌をうたっている姿が見られる。それぞれの国の歴史と、国歌や国旗が制定されたときの状況やその意味によって、国民の感情は変わるのかもしれないと思う。メキシコなどはワールドカップを見ていても、スタジアムの観衆が楽しげに大きな国旗をひろげ、お祭り気分で声を張り上げて歌っているのが印象的だ。独立革命をへて勝ち取った自国という意識からか、うらやましいくらいのオープンさだ。

日本の国旗、国歌はどうだろう。日の丸と君が代、近年は問題にされることも少なくなったが、快く受け入れらない人々が、日本(及びアジア諸国)には少なからずいる。日本の国歌、国旗は長らく法律で定められていなかった。現在のものが使われてはいたものの、法制化されたのは1999年とごく最近のことだ。それと前後して、あるいはそれ以降の教育現場での強制や、これに従わない教師への処分などが報道され、日の丸や君が代は暗いイメージにおおわれた。こういった強制や処分が起きたことで、日本の国歌や国旗に反発を抱く人々も生まれたと思う。ただ大半の日本の人々は、あまり疑問を感じることなく、君が代や日の丸を認めてきた。

最近、新聞の報道で、戦争を体験している沖縄の人が、今も「君が代」を聞くと怒りで胸がふるえる、と発言しているのを読んだ。沖縄の人にとっての「君が代」や「日の丸」が、本土の人間の意識や感情と大きく違っていても不思議はない。基地問題に関して、沖縄人と本土人の問題意識が大きく違うことと似ているかもしれない。

「君が代」を聞いて、別の意味で胸がふるえる、と発言しているのは、元日本代表のサッカー選手たちだ(コパアメリカに関連したスカパーのトーク番組)。ほとんど例外なく、試合前の「君が代」を聞くと、感動で胸がふるえ、鳥肌がたち、背筋がのび、やってやるぞという気持ちが湧いてくる、というような意味のことを語っている。いま現役の選手たちはどうなのだろう。印象としては、1999年の法制化前後のときより、多くの選手たちがこだわりなく声を出して歌っているように思う。口を開かずに聞いているだけの選手が多かった時期が、過去にはあった。歌うかどうかで迷っている、あるいはなんとなく居心地悪そうに見えたりもした。選手たちが歌わないことが問題化された、という話も聞く(ウィキペディア)。

各国の国旗をウィキペディアで見ていて、過去から現在まで、歴史的な事件やそのときの為政者の意向によって、国旗というものはかなりめまぐるしく変わるものなのだ、と気づいて驚いた。フランスの国旗を例にとれば、フランス革命のときに王国時代のものから三色旗に変わったようだが、現在のものとは青と赤の位置が逆だ(赤が左)。フランス第一共和制の旗となって現在のものと同じ並びになった。イタリアは王政から共和制に変わった1946年に国旗、国歌ともに現在のものに変わっている。国歌の内容は連帯で、イタリア代表選手の歌いぶりを反映するような内容だ。メキシコはスペインからの独立が承認された1821年に、現在の国旗のベースが制定されているが、その後何度も中央の白地の上の国章は変わっている。独立前の旗は宗主国スペインの国旗がベースだった。ドイツは戦後の1949年に現在のものに制定されているが、その前のナチス政権時代は鉤十字旗である。現在のものはナチス政権以前のヴァイマル共和国のものとほぼ同じだ。

日本の国旗は制定が1999年だったこともあり、変遷はまったくない。日の丸のみである。しかし各国の国旗の変遷を見ていると、問題のある(一部の人々に受け入れられていない、あるいは反感をもたれている)日本の国旗を変えるということが検討されてもいいのではないか、と思った。ドイツがナチス時代の国旗をやめたように、フランスが王政を倒したあと三色旗にしたように。本来なら(国旗、国歌がたとえ法的に制定されていなかったとしても)、戦前・戦中に日本がしたことの過ちを認め、新たな憲法を掲げて再出発したのなら、敗戦後に成されるべきことだった。新たな憲法と、日の丸、君が代の思想は相反するものだ。現在の憲法前文と安倍政権が変えようとしてる前文を比べると、その主語の違いによって、改正案が日の丸、君が代方向に進もう(戻ろう)としていることがよくわかる。安倍政権改正案では、「日本国民は」が「日本国は」に変更されているのだ。現憲法では国民に主権があることが強調されているのに対し、安倍改正案では「日本国は、.... 天皇を戴く国家」という表現に変えられている。テンノウヲイタダクコッカ? 「戴く」という言葉には、「主君として戴く」など上の者として敬い仕える、という意味がある。 

このような状況を見れば、安倍政権下での新たな国旗、国歌への変更は、100%無理だとわかる。もっともっと日の丸を強化し、もっともっと大事なものとして扱う、そういう国になろうとしている。国民はどうか、と言えば、おそらく90%以上の人がいまのままで全く問題ないと答えるのではないか。憲法前文の主語の変更と、国旗、国歌の意味を結びつけて考える人がどれほどいるか。それが日本における現在の民主主義である。

わたしの考えでは、今からでも、未来の日本を思うなら「君が代」「日の丸」を変えたほうがいいと思う。理由の一つは、日の丸が好んでつかわれるシーン、日の丸を掲げる集団、というものを思い浮かべると、ヘイトスピーチの団体や軍歌を大音量で流す右翼団体による街宣活動だったりするからだ。ヘイトスピーチにとっては、「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人、殺せ、出ていけ、朝鮮人」などの言葉とともに、日の丸は街宣運動に欠かせない存在だ。憲法改正や原発の反対デモ、人権擁護の活動に日の丸がつかわれることはない。それは何故なのか。日の丸が(契約関係が成立すれば誰もがなれる)「開かれた日本の市民」を表すものではなく、天皇(とその臣民=「古代から連綿とつづく純粋な」日本民族)のためのものだからではないか。ちなみに「市民」とは、<国家と契約関係にある個人>のことだ。ここでは安倍政権が好きな「愛国心」の有無は、前提として問われない。愛国心は国民が国とともに成したことの結果として(自然発生的に)現れるものだ。安倍さんは国民に教えたり強要しないと生まれないと疑って、日本の伝統や愛国心を植えつけようとしているのかもしれない。

いや、安倍さんがそれほど心配しなくとも、日本の人々の「自然な」愛国心はどこででも見られる、とも言える。前述したようにサッカーの元日本代表選手たち(40代後半〜50代)の多くが、君が代に胸ふるわせる経験を話していたが、彼らは極端に偏向した人では全くなく、どちらかと言えば、スポーツの楽しみを広く伝えようとしている、それなりの見識も良識もある人々だ。スポーツの国際大会でスタジアムを埋める観衆も、日の丸を掲げて応援しているが、「天皇陛下万歳!」と言っているわけではない。テニスのATPツアー(イタリア国際2016)を見ていたら、ジョコビッチ、錦織戦で、スタジアムにいる錦織選手の両親の姿が映し出された。お母さんは大きな日の丸旗を掲げ、泣きなから息子を応援していた。錦織のような国際的と言っていい選手を育てた親が未だに日の丸か、と意外に思ったことを覚えている。つまり日の丸に感動し、国旗を振る人々は決して特別な人々ではないとも言える、ということだ。ただ無意識、無頓着なだけだ。

今の時代、無意識、無頓着であることは、ときに罪深い。次のようなことを耳にしたらどう思うだろうか。君が代、日の丸を何の疑いもなく愛し、心震わせ鳥肌をたてて感動する人々は、日本国の「臣民」にふさわしい。「臣民」とは、<君主国において君主に支配される存在としての民>であり、日本では旧憲法下の国民を臣民としていた。

いろいろ考えてみての結論は、君が代、日の丸は、やはり「天皇を戴く国家」の臣民のものとしてふさわしい存在だということ。

*これを書き終わって今日の新聞を見たら、森喜朗(東京五輪・パラリンピック組織委員会会長)が「国歌うたえぬ選手は日本代表ではない」と発言したと書いてあった。リオ五輪の選手団壮行会でのあいさつでのこと。なぜ揃って声を大きくあげて国歌をうたわないのか、口をモゴモゴしているだけじゃだめだ、というような内容だった。国歌をきちんと歌っていた選手の見本として、サッカー女子日本代表がW杯で優勝したとき澤選手たちが涙を流しながら歌っていた姿、ラグビーの五郎丸が涙を流しながら歌っていた姿、をあげていた。

森喜朗の壮行会での苦言映像:
http://www.asahi.com/articles/ASJ735KMZJ73UTIL021.html