20130325

<8>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える


血のつながり=家族である、という考えに縛られて、他人の子を自分の子として家族に迎え入れることを思いつかない、あるいは嫌だと思ってしまうとしたら、それは残念なことだと思います。人間が自分の子どもを産んで育てるのは、他の動物同様自然なことです。でもそれが不可能なとき、そしてそれでもなお子どもをもちたい、育てたい、というときに、「血のつながり」が譲れない線だとするなら、一度なぜ自分がそれほど血のつながりにこだわるのか、考えてみた方がいいかもしれません。

中国や韓国では、戦争など国の状況悪化のために、多くの国際養子が行なわれてきました。アメリカやヨーロッパに家族の一員として渡っていった子どもたちが、万単位でいると聞いています。わたしの友人のカナダ人も十数年前に、中国の女の子を養子にしました。自分たちが産んだ子どもはいません。カナダ人の両親に中国人の娘。白人と黄色人種の親子です。

自分の子どもがいてなお、中国から養子をとったアメリカ人夫婦もいます。自分の子どもが4人、養子の子どもが1人。この夫婦は中国にルーツがある娘にとって、生まれた場所のことを知っていた方がいいと考え、娘が2歳のとき、他の2人の子どもを連れて、家族5人で中国に数年間住むためにやって来ました。数年間の滞在で、3人の子どもたちは揃って、中国語が土地の人のようにしゃべれるようになったそうです。また、この夫婦は、友人になった中国人たちの協力も得て、渡米するまで養女のいた里親の村も訪ね、村の人々と交流をしたそうです。

子どもとは何かと考えるとき、こうした例を聞くと、血縁に必ずしも縛られるものではないのだ、と思えてきます。そういう考えが基盤にあれば、不幸な状況に生まれた子どもたちも、親となる人を見つけて生きていくことが可能になります。また自分の産んだ子どもがいる人も、「自分の子どもの幸せ」にだけ縛られることなく、この世に生まれた子どもたちにとって幸せとは何か、と考えることができるようになります。

それは一種、家族からの解放とも言えますし、より広い意味で家族への発展とも考えられます。

20130309

<7>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える


「日本の伝統」に根ざした、教師と生徒の絶対的上下関係や軍隊式教育は、安部首相が良しとする、戦争以前の教育の中にだけあるのではありません。戦後においても、戦前の思想を引き継いだ非人道的な教育は日本のどこにでもありました。戦後2、30年は都市部と地方の格差が大きかったので、地方ほどその傾向は強く残っていた可能性があります。学校での頭髪や制服の厳しい「検閲」と違反したときの処罰の暴力性、学校給食での様々な強要(嫌いなもの、食べられないものを無理強いする等)、とかなり酷い教育環境の中で、子どもたちが育った経緯があります。

そういった「日本の伝統的教育」は、諸外国からの影響や、「戦後レジーム」の影響もあって、民主的な思想を国民が徐々に自分のものにしていく過程で、減っていきました。日本の伝統が、外の世界からの影響を受けて、少しずつ変化したのです。

このように伝統というのは、何かピンと張った一本の線のようなものではなく、アメーバのようなもので、状況に応じてまわりのものを取り込んで変化していく混沌としたもの、と捉えた方が間違いがないように思います。

前回「家族」を例にあげて、日本の伝統の中にある負の側面について書きましたが、家族という他では代替がききにくい関係性も、それゆえに間違えれば檻のようなものになってしまうと思ったからです。また、家族というものを「絆」などの言葉で、唯一無比のものと考えすぎると、血のつながりのみを重要とする排他的な思想につながる危険性もあります。

家族は通常、血のつながりを主軸にした関係性、そのコミュニティを指します。結婚によって他の家族とつながり、それにより血のつながりのない親類もできます。しかし家族=血のつながり、を固定的に考えすぎると弊害もでます。日本では血のつながりを重視する「家族観」が近代以降強いせいか、養子の子どもはそれほど多くなく、そうだとわかると学校などでいじめられたりもしてきました。身体的な問題で夫婦に子どもができない場合も、親に恵まれない子を自分の子どもとして育てるより、排卵誘発剤を使うなど何とか「血のつながりのある」子をもとうとします。

20130302

<6>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える


日本が取り入れた漢字は、古い時代のものなので、今の中国の簡字体とは違います。それでも漢字を使って、中国の人と筆談をすることはある程度可能です。漢字という東アジア圏の表記法を共有している、つまり同じ文化圏に属し、共有する伝統を生きているわけです。

伝統という言葉は、こういう場面でこそ、より意味を持つと思われます。伝統というと、「誇りにできるもの」を指すことが多いですが、たくさんの負の出来事や慣習もまた、伝統の中には含まれます。いいことも悪いことも、分ちがたくあるのが伝統である、とも言えると思います。

たとえば「家族」を中心に国が成り立っているのが日本の伝統だ、とするとします。家父長制という伝統が日本にありました。家族への権限が家長、つまり父親に集中している制度です。その次に偉いのは長男です。そこから次男、三男、と下っていきます。母親や娘など、女性の家族内の権限は低かったとされています。この感覚は今でも、地域や家庭によっては多少残っているかもしれません。日本の伝統的家族において、男女や年齢による明確な不平等があったのは事実です。

「家族」というものを語るとき、こういう負の側面を抜きに話すのは理に合いません。昔の日本人はよかった、家族が一つの強い絆で結ばれていて、今のように殺伐としていなかった、子どもは親の言うことをよく聞いたし、尊敬もしていた、というのは一面的な見方です。問題が問題とならないような考えの中でのみ、言えることです。息子が父親に反抗すれば殴られたとか、娘が家庭の外ですることが家長に制限されていた、ということが、「昔の日本の家庭では当たり前のこと」だったために、問題としては扱われなかっただけのことです。

最近問題になっている学校での体罰の問題も、「日本の伝統」に根ざしたものだと言えます。厳しい上下関係、学校での軍隊式教育、上の者に逆らえば暴力をもって「鍛えられる」ことが許されている。そういうものが日本の社会の伝統にあったのは事実です。