20141020

わたしのMOOC(ムーク)体験記<4>(9月~11月/近現代のアメリカの詩1⃣)

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前回紹介した「音楽家としての能力を延ばす」が終わる8月末くらいから、新たな四つの講座の受講を始めた。9月の始めに、ビートルズの講座と同じジョン・コヴァチ教授のHistory of Rock(ロックの歴史)、デューク大学のSports and Society(スポーツと社会)、ペンシルベニア大学のModern & Contemporary American Poetry(近現代のアメリカの詩)がスタートし、その後少ししてサンジャシント山大学のCrafting an Effective Writer(効果的な書法を学ぶ)が始まった。

今回はペンシルベニア大学のModern & Contemporary American Poetry(近現代のアメリカの詩)について書いてみたい。実はそれほど大きな期待をもって始めたわけではなかったが、最初の授業からグッと惹きつけられた。授業は11月まであるのでまだ半ばだが、大きな影響を毎回のクラスで受けている。

この講座は略してModPo(モドボ=モダンポエトリー)と呼ばれている。先生はAl Filreisという中年の男性で、体格のいい声がよく響く、精力的な教授。大学敷地内にあるケリー・ライティングハウスという「詩を楽しみ、学ぶための家」で、数人の学生とともにディスカッション形式の授業が行なわれる。ケリー・ライティングハウスは教授のアルも、創設者の一人らしい。大きなテーブルを囲んでいっしょに学ぶのは、マックス、モリー、アンナ、デイブ、アマリス、アリー、エミリーらのクラスメート。

さて、わたしはコーセラの授業をビデオレクチャーを中心に受けているのだが、この授業では、それだけでは済まない感じで、Google Hangoutを利用したライブのセッションがしょっちゅう開かれている。メールで東海岸時間の〇〇時からどこそこでやります、というお知らせがよく来る。日本からだと14時間くらい時差があるので、開始時間が向こうの夜だったとき、1回だけ参加したことがある。主にケリー・ライターズハウスで開催されているが、他の場所のこともある。近くに住んでいるいる人は、会場に行って参加することもできる。

ビデオレクチャーは、この講座ではビデオディスカッションと呼ばれていて、実際先生が一人で話すのではなく、毎回生徒とテーブルを囲み、取り上げた詩について、ディスカッションを繰り広げる。先生は道案内という感じ。声のよく響く朗読向きの、やや剛腕にも見えるアル先生だが、もちろん民主的に授業を進める。一つの詩を解釈するのに、先生が自分の持論を繰り広げるのではなく、そこにいる学生に考えさせ、それぞれの見方や意見を言わせることで、課題になっている作品に迫ろうという趣向だ。それぞれのビデオディスカッションごとに、ネットの学生たちが参加できるボード上のディスカッション・フォーラムも設定されている。これも(わたしはなかなか時間がなくて、行く暇がないが)、どうも生徒がやるべき基本のセットアップのように見える。いかに詩について議論することが、つまり生徒がそれぞれ考え、意見を言い合うことが大事か、ということなのだろう。

さてこの授業の題目は、アメリカの近現代詩だ。最初の週に登場したのはエミリー・ディキンソン(1930 - 1986)とウォルト・ホイットマン(1819 - 1892)。ここからアメリカの近代詩はスタートした、ということだろうか。まず最初にディキンソンの "I dwell in possibility"を読んだ。可能性の家に住んでいる、という詩だ。ここでワクワクしたのは、詩を読んでいくときに、一つ一つの言葉の意味を入念に探っていくことだった。詩の言葉として、そしてわたしにとっては母語ではない言語の言葉として、どちらの意味でも冒険だった。possibilityとは何のことだ、fairとは、windowとはdoorとは、chamberとは何か、cedarは何を意味するのか。そうやって一語一語見ていく。これがまたとない勉強になる。詩の言葉の、そして英語という言語の。

たとえばchamberには部屋という意味があるが、この詩で言ってるchamberとは寝室のことらしい。それはわたしも読んだとき感じた。英和辞典には、私室から集会場までたくさんの意味が載っている。過去に日本語に訳されたこの詩を見ると、無難に「部屋」としているものが多いようだった。cedarはヒマラヤ杉だが、このクラスでの解釈では、部屋の壁であったり、チェストといったものに(防虫効果があることからよく使われるという)まで目を広げている。

第二週はタイトルが「Whitmanians & Dickinsonians」となっていて、ウィアム・カルロス・ウィリアムズ、アレン・ギンズバーグ、ロリーン・ニーデッカーなどの詩人の作品が取り上げられた。しかしここでは、タイトルにあるように、ホイットマンとディキンソンの詩というコンテクストを基に詩を読んでいくことになる。この授業では、それぞれの詩人の作品を、単独に、その作家の個性として読んでいくというより、アメリカの近現代詩という大きな流れの中で、その詩が何を果たしたか、何をしようとしたか、それは抵抗だったり革命だったりするのだが、そのことが重要事項として扱われる。

ディキンソニアンやホイットマニアンの対比として置かれるもの、それはそれ以前のビクトリア時代のものの考え方だったり、作品のあり様だったする。いわゆるトラディショナルなものへの異論であり、抵抗や革命なのだ。このあたりのものの見方、歴史観は西洋がいつも基本とする弁証法的な論理ということになるだろうか。日本ではあまり根づいていない考え方だと思う。しかしこのことがわかっていないと、近代以降のアメリカのどんな詩も、理解を間違う恐れがある、と気づいた。

第三週、四週のウィアム・カルロス・ウィリアムズ、ガートルード・スタインの詩を読んだ際には、それらが前の時代への違和感から生まれたものだという認識がないと、全く違った作品として読んでしまう可能性があると感じた。イマジスムの詩人として知られるウィアム・カルロス・ウィリアムズの詩は、第三週のほとんどを使って解析された。

中でも印象的だったのは、その作品がメタ詩として解釈されていたことだ。授業もそこがポイントだったと言ってもいい。メタ詩(meta poem)という言葉が、そもそも日本語で使われることがあるのか。グーグルでざっと調べた感じでは適切なものが出てこない。メタ小説というのは聞く。メタフィクションという言い方もある。それは小説についての小説、小説を括弧でくくってそれを批評するという態度から書かれた作品、ということになると思う。メタ詩というのも同じで、詩についての詩、詩というものをその書き方やスタイルを批評的な目で見て、詩という形にした作品ということになるか。

ウィリアムズの詩を授業でいくつか読んでいるときに、日本語に訳されたものがあるか、ネットで調べてみた。そしてのメタ感覚が、訳にどれくらい生かされているか見たいと思った。たとえばThe Red Wheelbarrow(赤い手押し車)という詩がある。最初にいきなり、so much depends / uponというフレーズがあった。何を言い出すのか、という感じだ。これがメタ詩であることを知れば、なるほどと思う。このフレーズのあとに、雨に光る赤い手押し車の短い描写がある、そういう詩だ。わたしが一行目、二行目を訳すとしたら、「こうも効果 / 的なのは」とでもするだろうか。つまり最初にそう言うことで、そのあとに出てくる描写を括弧でくくっている。しかしいくつかの日本語訳を見てみたら、「思わず / 見とれる」(思潮社『ウィリアムズ詩集』)、「こんなにも かけがえの / ないものなんだ」(京大の生徒か先生の論文)というように、 そのあとに出てくる描写を強調する、作者のエモーションの表現になっている。新潮社『現代詩集Ⅱ』では「あまり沢山 / のっかっている」とあり、それはまた別の解釈(depends uponの)ではあるが、次に出てくる赤い手押し車を描写しているという点では同じだ。

一つだけ違っていたのは、評論社『アメリカの現代詩 1900̶1950』で、そこでは「こんなにも 周囲(まわり)がひき立つものか」と、最初の二行がそのあとの内容を括弧でくくる役割を果たしている。もし日本語にメタ詩という言葉や考えがないとすれば、訳者が詩の「内容」を訳すことに専念したとしても無理はないと思う。しかしアメリカの近現代詩を日本語で読む上で、大きな問題をはらんでいる可能性がある。それはウィアムズのThis Is Just To Sayという詩でも感じた。いくつかの日本語訳を見た感じでは、やはり内容を括弧でくくる意識はあまりないように思った。この詩は妻が冷蔵庫にとってあったプラムを書き手の詩人が食べてしまった、ということを妻にメモ書きした風の(キッチンのメモのように)詩で、こういうスタイルでも詩は成立するか、という問いの作品ではないかと思う。わたしが見つけたいくつかの日本語訳は、どこか二人の関係性に注目している風で、その関係の甘さを表現したいように見えた。訳がほとんど昔のものなので、当時の日本人からするとわざわざメモを妻に残すなどというのは特別なことで(新婚の夫婦という解釈もあるようだった)、その内容こそが言いたいこと、と解釈したのかもしれない。しかしわたしの受けた印象で(そしてモドポの授業の流れで)言うと、言葉自体はメモ書き文体、あまりニュアンスが込められたものではなさそう。キッチンのメモなのだから。

メモ書きのようであっても、題材が美しい山や川、きれいな娘や愛でなくとも、つまりプラムや鍋やスコップでも詩は成立する、ということをモダニストの詩人たちは言っているのだと思う。(今では当然すぎることではあるが)

この授業では、詩というものを単独の作品として見ていくだけでなく、詩の歴史、詩人の歴史の中に作品を置いたとき、どのような意味と位置づけになるかを理解する、その方法論を学んでいる。詩というのは内容を読むもの、と思っていたところがあるので、目を覚まされたような気になった。また詩を書くという意味でも、詩はなんらかの感情を書くものだと思っていたが、アメリカの近現代詩では主として、詩のあり方も含めた思想を伝えるメディアなのだ、という印象を受けた。それはかなり新鮮な発見だった。



20141006

わたしのMOOC(ムーク)体験記<3>(6月~9月/音楽家としての能力を延ばす)

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バークリー音楽大学で、音楽の実技科目を受けてみた。ネットで実技科目? 可能なのだろうか、と思う人もいるだろう。

前回紹介した「ビートルズの音楽」とともに、この期間にもう一つ受けていた授業、それがバークリー音楽大学のDeveloping Your Musicianship(音楽家としての能力を延ばす)。少し慣れてきたので、二つ同時に受けても大丈夫かな、と始めた。わたしは毎日、朝食前に授業を受けているのだが、15分×2でだいたい30分くらいの時間だ。毎日とは言え、それほど大変ではない。

さて「音楽家としての能力を延ばす」のクラスだが、これは実技がいろいろあって、新鮮で楽しかった。先生は胴回りが樽のように太い、黒人のジャズピアニスト、ジョージ・ラッセルJrという人。ステージ上にグランドピアノを置き、そこに座ってピアノを弾きながら、ヘイ、ガイズ、なんて声をかけながら授業を進める。実はバークリーの生徒たちも、その場にいることがあり、はい、やってみてと、彼らに歌わせたりすることもあった。また週末にはいつも、ジョージがセレクトした学生たちのパフォーマンスのビデオがアップされた。

この授業を受けるのに、特別な音楽訓練の経験や知識、スキルはなくて大丈夫、そう最初の案内に書いてあった。音楽を愛する人が、自分の音楽の能力をさらに向上させるために、いくつかの必要なことを学んでほしい、そんなアプローチだったと思う。確かに、スタートはかなり入門的なことから始まった。

まずC major(ハ長調)の音の並びを譜面と対比させながらピアノの鍵盤上で見ていったり、どことどこが半音で、どことどこの間が全音か、などをピアノを弾きながら教えてくれる。♪whole step, whole step, half step, whole step, whole step, whole step, half step(全音、全音、半音、全音、全音、全音、半音)と歌いながらピアノを弾きながら、それを伝えていく。すべてがジョージの弾むビートや即興のメロディーで表されるのが楽しい。生徒はできれば鍵盤楽器が身近にあるのが望ましいが、ない場合はネットにあるヴァーチャルキーボードを使うようにと、その案内がある。わたしもビデオを見ながらのときは、それを使った。たとえばここにあるような。

それからMajor 2nd、Major 3rd intervals、つまり長二度、長三度を学んだ。こういった音楽用語は、英語で音楽を学んだ経験がなければ、中身は知っていても、それをどう言うかは知らなかったりする。そのあと長四度、長五度、長六度、長七度(Major 7th)と進み、minorの音程(intervals)も覚える。またそれを耳で確認できるようにするレッスンもあった。長二度の音程、長三度、長四度の音程、とジョージがピアノで弾いたものを当てるのだが、それをear trainingと呼んでいた。これはクラシックのピアノを習う人も、やる練習の一つだから経験のある人もいるだろう。ジョージの教え方がユニークだと思ったのは、これが三度、これが四度、とピアノを弾きながら教え、そのときに誰もが知っている音楽の冒頭部分を参照させて弾いてみせること。たとえば四度であれば、結婚行進曲のドッファッファファーの部分をチラッと弾いてみせながら、これが四度と教える。五度であれば、キラキラ星の冒頭のドドソソララソをジャズ風に聴かせたりする。

六度、七度となるとさらに判別は難しくなるので、それぞれたとえばこんな歌でといった風に案内してくれる。非常に実用的でこんな風な覚え方があるとは、今まで気づかなかった。絶対音感のない人も、簡単にマスターできる方法だと思った。ハーモニーとは何か、という定義や、tonal centerつまりある曲の中心音、主音を探す練習もした。これも耳の訓練の一つ。主音がCあるいはFの曲を5曲探しなさい、といった宿題もあった。

またtraid(三和音)、C Major(1)主和音、F Major(IV)下属和音、G Major(V)属和音なども、ジョージの軽快なピアノに乗って覚える。Major traidはhappyで、Minor traidはちょっとdarkだね、とジョージは言っていた。そのあとminor pentatonic scale(短調五音階)を学び、そこからブルースへ、即興演奏へと進んでいく。どんなときもジョージはピアノを弾きながら、歌いながら教えていく。たとえばマイナー・ペンタトニック音階は、ワン(1=C)、フラットスリー(♭3=♭E)、フォー(4=F)、ファイブ(5=G)、フラットセブン(7♭=♭B)、ワン、とバークリーの生徒たちと一緒に歌わされたりする。はい、歌って歌って、と。それを歌っていると、バークリーの生徒たちの一部が「it's a pentatonic scale」などと合いの手コーラスを入れてくるし、ジョージはピアノで即興しつつ手を打ち鳴らしたりする。まことに音楽的、レッスンそのものが音楽。

C major seventh chord(ド、ミ、ソ、シ)を習ったあとに、左手で根音のドを弾いた上で、右手でその展開形を乗せる、つまりシ、ミ、ソの和音を乗せる、一番上の音シを展開して下に持ってくる、ジョージはこれを735 voicingと呼んでいた。通常の並びより、ちょっとジャズっぽい響きになる。こっちの方が好きなんだ、いい響きだろう、そうジョージは言っていた。それをFやGでも同じことをやってみせていた。教え方はていねい、ゆっくり。そしていつも歌いながら、ピアノを弾きながら。

最終週、ジョージはいつものチョッキスタイルではなく、スーツを着てピアノに座っていた。毎回のレッスンが六週間の間、とても楽しかった。週末ごとのクイズもほぼやって、まずまずの成績だった。12小節から成る簡単なブルースの進行や、それを使った即興演奏のやり方もだいたいわかった。big endingとジョージが呼んでいた、ブルースの最後につけるシャレたエンディング(クラシックでいうカデンツみたいなもの)も覚えた。譜面に書けと言われれば書き、ピアノで練習するようにと言われれば、出来る範囲でやった六週間だった。(ジョージは毎日15分ピアノを弾くように、と言っていたけれど)

授業の中で印象的だったのは、あるとき、バークリーの生徒たちが、ジョージの弾くピアノのブルース進行に乗せて、即興で一人ずつペンタトニックのメロディーを歌いついでみせたとき。違う声、違う個性、女性、男性、それぞれのメロディー。あるルールの中で、即興の楽しさと音楽の自由さが花開いた瞬間に見えた。いつも授業の前に、ジョージが弾くちょっとした短い即興演奏。気軽に弾いているけれど、ある瞬間グッと集中度が高まりエモーションが濃くなる。ジョージ先生は音楽の基本とルールを説きながらも、そのからだと演奏で音楽とは何かを知らせていた。