20060410

アン・リー(李安)監督の映画

今年のアカデミー監督賞で話題になったアン・リーの「ブロークバック・マウンテン」。台湾出身のリー監督がアメリカの牧場に働く二人の男の友情と恋愛を描いたという。興味をそそられる。アカデミーの授賞式の模様をテレビで見たが、監督の風貌とスピーチは印象的だった。アメリカに長く住みながら、とくにアメリカナイズされることもなく、コスモポリタンとして生きながら台湾人であることも忘れていないといった感じだった。受賞の瞬間、奥さんと喜びあう様子もほほえましく、その奥さんがまた印象的だった。黒い地味めのスーツ姿でそのまま仕事に行けそうな感じで、これまたアメリカナイズされていない。「台湾の堅実な主婦」のようにも見えたが、Wikipedia(英語版)によると分子生物学の学者だそうだ。この世界フリー投稿辞書によると、アン・リーはニューヨーク大学時代にスパイク・リーと同級生で、リー(後のほうの)の卒業制作フィルムの手伝いもしたとか! 他にも面白い解説がいっぱいあるのでお薦めだ。

アン・リーの1994年の作品をビデオ(DVDではない)で見た。「Eat Drink Man Woman/飲食男女/恋人たちの食卓」。台北が舞台で、料理人の父と三人の娘たちが織りなすそれぞれの生き方+家族+料理の物語。なかなか楽しい映画だった。言葉はChineseとあるが台湾語だろう。台湾の映画会社のプロデューサーに招かれて(アメリカから)、ホームタウンで撮った作品という。冒頭の大通りをバイクの群れがいっせいに走り出すシーンなど、台北を訪れたことのある者なら懐かしい風景だが、これもアン・リーが外部の視点をもって故郷を描いているから生まれたシーンではないかと思った。他の作品も(ハリウッド作品も含めて)いろいろ見てみたい映画監督の一人だ。

20060408

「国語力」って?

「国語」をめぐる問題、パート3。今回は呼び方ではなくて、国語の意味するものや置かれている状況について。
最近、英語を小学校でも取り入れるべきか否かの議論の中で、「国語力」という言葉がよく使われている。たとえば今朝の新聞には、石原東京都知事が、「自分の国の言葉を完全にマスターしない人間が、外国の知識の何を吸収できるのか」などの発言したそう。完全にマスター? これってどういう意味なんだろう。どこまでできていれば完全にマスターなんだろう。そういえば、漢字の能力検定のようなものが一時はやったことがあったな。言葉の能力って、その言葉の習熟度からのみ計られるものなんだろうか。日本では一般にそう考えられているのかもしれないが。

こういう話を聞いたことがある。ある年配の音楽家が海外で自分の研究課題を英語でレクチャーをすることになり、英語に少しでも慣れようと国際交流のグループに参加した。そこには「英語ネイティブ」のボランティアがいて、参加者はその人と自由に話をすることができた。その音楽家の人の英語の能力はあまり高くない。グループにはバイリンガルに近い人がいたり、全般にその人より英語でしゃべることがうまかったそうだ。英語はうまくない音楽家の人が他の人と違ったのは、違う文化の人と話す「内容」をたくさんもっていたこと。だから音楽家がつまりながらも話をはじめると、「英語ネイティブ」の人は熱心に耳を傾け、なんとか言っていることを理解しようとしたそうだ。二人の話は濃く、長くつづき、核心にふれる互いの理解、深いコミュニケーションに達することもしばしばだったという。言葉のもっている大きな側面の一つは「内容」である。表現が稚拙であっても(母語でない言葉でしゃべると、言葉選びのバランスが悪かったりして一般に幼稚に聞こえることがあるが)、言葉の能力はけっして低くないということはあるのだと思う。いかに「流暢に話すか」が言葉にとっての最大の課題とは思えない。英語の能力をきくとき、「ぺらぺら」あるいは「流暢」という言葉がよく使われるのも、日本では一般に言葉の能力がそのように捉えられているからではないか。

石原都知事はまたこうも言ったそうだ。「若い人の国語力は低下している。人間の感性や情念を培うのは国語力だ」。 石原氏は国粋主義的な発言が非常に多い政治家だが、作家でもあるはずだ。言葉についての、今の時代の言葉についての認識がこのように狭いもので人に伝える作品が書けるのだろうか。日本語で書いている、というだけで、世界の文学の潮流からこんなにも外れたところにいてはたして作家と言えるのだろうか。(日本語で書いていることが、世界の潮流から離れることではない)

「人間の感性や情念を培う」のは別に「国語=国家言語、単一の公用語」でなくてもいいはずだ。それに、現実はかならずしもそうはなっていない。たとえば、最近葉っぱの坑夫から本を購入していった南アフリカのアーティストは、アフリカーンスという現地語と英語の両方の話者だ。アフリカーンスの家で育ち、学校で英語を学び、今は仕事や日常生活では主に英語つかって暮らしているそうだ。アフリカーンスを話すのは、両親や兄弟と話すとき、と言っていた。南アフリカにはアフリカーンスや英語をはじめ、11の公用語があるそう。彼が「人間の感性や情念を培った」のは何語だったのだろう。それはアフリカーンスであり、英語であったのではないか。なぜならそれを場面や話す相手に応じて使いわけ、その言葉をつかって成長してきたのだから。母語が一つで、そのただひとつの言語を完全マスターしていくことのみが感性を養うこととはとうてい思えない。南アフリカが特別なわけではない。こういう言語背景をもつ人々は世界中いたるところにいるはずだ。

二つの言語を混ぜて話す、スパングリッシュとかジャパングリッシュなどの言葉づかいも、少しずつ市民権を得てきているようだ。たとえばアメリカのチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の作家、ルドルフ・アナヤはスパングリッシュで書くことで知られた作家だという。英語だけで、あるいはスペイン語だけで話す以外に、ある友人とはスパングリッシュで、ある友人とはジャパングリッシュで話すというわたしの友人は、「ごちゃごちゃじゃない!」と言う。相手によって、話によって、もっとも適切な言葉や表現を瞬時に選択しながら話す言葉だ、ということなのだろう。わたしの近くにも、日本に生まれ、言葉を覚え始める段階から、日本語と台湾語の両方で育っている、すなわち「人間の感性や情念を培っている」男の子がいる。まだ2歳に満たないその子の中では、日本語と台湾語の境界線はまだないという。

最近なんとなく思うのは、グローバリズムなどの方向性によって一つの言語(英語)に世界は統一されていくという考えは、当たらないかもしれない、と。経済や政治など高位オフィシャルなところではそうなったとしても、市民レベル、文化レベルではむしろジャパングリッシュのような混成言語が広まっていくのではないか。言葉としての面白さ、フレキシブルな使用法、混成による多重性など、その豊かさや固定的ではないエネルギーによって、人々から広く受けいれられていく可能性もあるのではないか。

そういう中に「人間の感性や情念を培うのは国語力だ」という主張を置いたとき、どのような見え方をするのか、そういうことをもっと考えていきたい。

*アフリカーンスは、南アフリカに移住してきたオランダ人がしゃべっていたオランダ語方言が発展、進化したものだそうです。