20101026

二人の中国人作家、そして中国という国

ここのところ劉暁波(リュウ・シャオボー)のノーベル平和賞受賞、尖閣諸島問題、それにともなう反日デモと、中国の話題が絶えない。そこで今読んでいる中国人作家ハ・ジン(哈金)について書いてみたい。

ハ・ジンの長編小説「自由生活」(A Free Life/2007年) を読んでいる。日本語版はこの秋に出版されたばかりで、上下2巻で900頁を超える大著(原典は1冊本で672頁)だ。ハ・ジンは中国北東部出身で、1984年にアメリカに渡った。現在はアメリカ国籍を取得しているようだ。まだ上巻の終わりの方を読んでいるところだが、読み始めてすぐにこの小説と著者に惹きつけられた。未知の作家だったが、何かを調べているとき、多分アメリカのamazonで見つけたのだと思う。amazon.comは多くの本が「なかみ検索」できるので大変便利だ。日本語でも出版されているのを知って、こちらで読むことにした。(駒沢敏器訳、NHK出版:人名の表記法や非ネイティブである主人公の英語のしゃべりの訳に工夫があり、印象的)

「自由生活」は中国から家族3人でアメリカにやってきたウー(武)家の物語だ。主人公のウー・ナン(武男)は中国では大学を出て将来を嘱望されたインテリだったにもかかわらず、アメリカに来てからは守衛でも給仕係りでも、生きていくためにはどんな仕事も厭わない一介の労働者である。ナンはアメリカでの大学院終了を放棄したが、詩を書くことを夢見、中国語の文学雑誌の編集に関わったりもする。ナンの周囲にはいつも、中国からやって来た知人、友人、先輩(母国に対する反体制活動家も含め)などがなにかといる。上巻の半ば過ぎには、住んでいたボストンを離れ、妻のピンピンと息子のタオタオを連れてアトランタへ居を移し、やがて小さな中華レストランを経営するまでになる。タオタオは6才のときにアメリカにやって来た。天安門事件以降の中国政府の規制のせいで、ピンピンとともにナンを追って渡米することができず、3年間両親と離れ、中国の祖父母の元で暮らしていたのだ。このタオタオがアメリカの生活や言葉になじんでいく過程も興味深い。

「自由生活」は移民文学の一つと言っていいと思う。何が面白いといって、英語がそれほどできないアジア人が、そして社会的に何の身分保障もない不安定な移民の人々が、どうやって未知の土地(unaccustomed earth)で生き延びていくかが、率直に描かれているからだ。また中国本土のことが、外からの目で、政治、体制批判も含めて語られているのも興味深い。
*"Unaccustomed Earth"は、インド系アメリカ人作家ジュンパ・ラヒリの小説集のタイトルでもある。こちらも、状況は多少違っているが、アメリカへの移民の物語で、率直にして文学性の高い素晴らしい作品集だった。インド系ということを超えて、小説として多くの人々に訴える力をもった仕事だと思う。

ハ・ジンは初のエッセイ集"The Writer as Migrant"(2008年)の前書きでこう書いている。ーーー亡命(exile)と移民(immigrant)を区別するのは難しい。ナボコフは移民であり、同時に亡命者でもあった。わたしも自分を亡命者であると見ているが、移民でもある。多くの重要な文学は主として亡命を扱ってきており、移民はマイナーなテーマである。それを扱うことは文学の伝統へのひとつの回答になりうるだろう。ーーー 最近、ラヒリを始め、移民文学(自国を離れ言語や文化の違う他国へ住み着いた人の書いた作品、そういう内容を扱った作品。移民先の言語で書かれることが多い)を読むことが多いが、文学全体として見れば、まだマイナーなテーマなのかもしれない。"One World"という短編アンソロジーを読んだことがあるが、それほど有名ではないアフリカやアジアからの若手の移民作家の作品を集めたもので、他にあまりないという意味でも興味深かった。ジンバブエ、ナイジェリア、マレーシア、プエルトリコ、バングラディッシュなどに出自を持つ作家たちが、母語ではない英語で書いた作品だ。

ハ・ジンに話を戻すと、生まれは1956年である。そこで思ったのが先日ノーベル平和賞を受賞した劉暁波(リュウ・シャオボー)。天安門事件を若い時期に体験している二人は同世代かもしれない、と思った。調べてみると、二人の誕生には2ヶ月くらいの誤差しかなかった。劉は事件の年、研究者としてコロンビア大学にいた。そして事件を知ると民主化運動に参加するため、即座に帰国したという。一方ハ・ジンは、アメリカに残った。「自由生活」の主人公と作者に重なる部分があるとしたら、この事件によって国に帰らない決心を強めたともいえる。

劉暁波(リュウ・シャオボー)は作家といっても小説家ではない。詩集を出したことがあるらしいが、主として思想書などのノンフィクションで、中国の民主化にかかわる本を書いているようだ。現在は「08憲章」を発表したことで中国で服役中である。「08憲章」とは、今回のノーベル平和賞受賞のきっかけともなった声明文で、中国の政治、社会体制を民主的なものにするべきという主張が、303人の作家の連名でインターネット上で2008年12月に発表されたものだ。その303人の签署人(署名者)の中には、ハ・ジン(金哈=中国では姓、名の順でこう表記)の名前もあった。金哈(美国、作家)として。中国本土の他に、台湾、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどに散らばる中国出身者たちが署名に参加している。
「08憲章」日本語版

中国を母国とする人の、中国政府の権威主義や社会制度への不満は、ハ・ジンの小説からも読み取れる。そこには国への絶望感や不信感と個人的な感情が入り交じり、自分の人生と未来が国家の翼下から逃れられないいらだちを見せる。ハ・ジンの小説の中国語版はすべて台湾で出版されているようだ。中国では手に入らないということなのではないか。そうだとすると、台湾というnationの意味と位置づけには違った側面が見えてくる。現在は分離しているが出自の等しい文化圏にあるものが、もう一つの地域の負の部分を補っている。

広大な領土、13億の国民、多岐にわたる言語、民族、自治区独立の問題、それに加えて冷戦構造の消滅、共産主義の敗退、近代化、グローバリズムの波、と急速に状況が変化していく中で、中国が一つの国家としてまとまっているのは奇跡にさえ見えてくる。強権と独裁政権によってかろうじて保たれている結束なのかもしれない。もし民主化の失敗で国が分裂したら、、、そういう心配も当の国民にはあるのではないか。「08憲章」でさえ「統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。」と認めている部分もある。中国が少なくとも後ろ向きにではなく、前に進んでいることは確かなのだろう。劉氏ですら、中国の民主化は急いで進めて失敗してはいけない、と言っているらしい。(その発言が、アメリカなどに在住の中国人から反発も招いているようだが)

ここのところの尖閣諸島の問題やそこから始まった反日デモを見て、日本人の中には中国に反感を持つ人々もいるようだ。もともと中国や韓国に対して、優越意識を捨てきれないところが日本にはある気がするが、ひとたび問題が起きると、その部分が顔を出しやすくなるのかもしれない。しかし生半可な知識や日本国内の新聞やテレビの報道だけを見て状況を判断したり、批判をしたりするのはあまり意味がないし、この地域(東アジア)の将来にとってまったく生産的でないように思う。

20101012

iPadとキンドル、ナニで本を読むか

何年か前にアメリカのamazonがKindleという名の読書端末を発売したとき、これは、と興味をもった。でも英語圏のみでの販売で日本語表示もまだだった。端末が通信機能を持ち、直接amazonにアクセスして本を選び、ダウンロードして購入、という仕組み。ときに注文から配送まで2、3週間かかるところが、その場で即手に入るというのは魅力だと思った。

読書端末機で本を読むのは、10年くらい前、実験段階のときにモニターとして経験したことがある。端末はたしかiPadくらいの大きさで、モノクロモニターだった。通信機能はなく、なんと、本のデータを入手するために、都内の指定の本屋さんまで出向き、書名を言ってインプットしてもらうのだった。コンテンツは既存の本からの小説や評論などテキスト系のもので、データ入手料は数百円内だったと思う。主として端末で読書する快不快やモニターの精度、端末本体の重量やサイズなど携帯性に対する実験だったのだと思う。

感想は、、、うーん、何ヶ月か使ってみたが、実験のための実験という感じで、あまりこれといった印象はなかった。それは本屋さんまでデータ入手に出向かなければならないバカバカしさもあったし、コンテンツもあるものの中からしか選べなかったから。実験は実験という感じ。

amazonのキンドルはやがて日本語表示も可能になって、日本国内でも使用できるようになったが、あいかわらず購入先はアメリカのamazon.comからで、どうもキンドルで読める日本語図書はほとんどないらしい。せっかく端末が国内通信できて日本語表示も可能なのに、何故なのだろう。キンドル本体は最初数万円だったものが、今では1万円代にまで下がっている。でも日本では、買う人はあまりいないのかもしれない。

一方たいへんな話題となったアップルのiPadは、本体価格は数万円。最初読書端末かと思っていたが、読書は機能の一部で、モバイル型コンピューターの機能を備え、メールしたりウェブを見たりはもちろん、動画を見たり、ゲームをしたり、写真のアーカイブや表示機としても使えて、ということでコンピューターはこれ1台でOKな人もいるだろう。カラー画面、タッチパネルで自由自在に操作というところも、人々を惹きつけるに充分だ。

が、iPadを使うには通信費がいる、ということに気づいた。たぶん月額数千円くらいではないか。すでにインターネット接続をしている人にとっては、二重のアクセス出費となる。これをどう考えるか。コンピューターでハードな作業をしない人であれば、デスクトップやノートパソコンの方をやめてしまう手もあるが。iPadの初期購入者は、たぶん必要性よりもマシンそのものが欲しくて手に入れたのだと思う。読書端末としてiPadを買うのは、今のところあまり得るものはなさそうだ。キンドル同様、こちらも日本語書籍はまだあまりないと言うことだし。これからの展開に期待したいところだ。ただ画面が大きく、カラーなので、写真や絵などの本には向いているかもしれない。iPadで買える本がどれくらいの単価になってくるかにもよるが、本体に数万円、通信費に数千円、さらに本代が、、、となると、よほど他のことで使いこなさない限り、本としてはだいぶ高いものになってしまいそうだ。

実はiPadを買ってみようか、と一度は思い、調べているうちに以上のような結論に達した。キンドルの方はamazonのショップの他、ウェブにも繋ぐことができると聞いているが、通信費は無料だ。ここは当然とは思うが、大切なところでもある。WiFiかWiFI+3Gで繋ぐらしい。英語の本であれば、日本にいながらにしてアメリカのamazon.comから直接、その場でダウンロードして読書できるのは確かに素晴らしい。本には辞書機能(英英)も付いているようで、カーソルを当てるだけで意味が示されるそうだ。洋書の場合、電子辞書で引きながら読むよりずっと効率的だ。この点も魅力がある。あとは本体を買うに値するくらい、英語本を読む頻度が高いかどうか、にかかってくる。ここのところ、日本語、英語の読書の比率が近づいてきているので、買い時かもしれない、とも思う。

ただ、どうせなら日本語の本も、同じ端末で読めた方がいい。何故、キンドルでもiPadでも日本語の本化が進まないのだろう。出版社の問題なのか、著者の問題なのか。それとも読者の問題なのか。葉っぱの坑夫の本がキンドルで読めるようにするには、日本のamazon.co.jpがキンドルを扱うようにならないと無理かもしれない。もしそうなれば、進んでキンドル化を進めたいと思う。ただキンドルにしてもiPadにしても、端末をもたない人にも読んでもらうには、紙の本なりウェブなりでの出版が必要だろう。だれも紙では本を読まなくなった、という時代が来るのか。それとも電子、紙の両方で、それぞれ本の文化を分担していくのか。

今の時代、紙の本は出版後数年で絶版になってしまうことも多く、古書マーケットがそこを埋めているが、電子書籍の場合はそれが起きにくいという利点がある。本が「作り捨て」の時代になったときに、電子書籍が出てきたことは面白い偶然だと思う。自然淘汰が本の世界であってもいいとは思うが、「作る」ことと「残していく」ことは、本をつくるものにとって同じレベルで意識されていることが大切なように思う。


キンドルを自身が購入して、様々なアドヴァイスをしているサイト
青空キンドル(青空文庫のテキストをキンドルで読めるようにするためのテストサイト)

*将来は、端末の違いを超えて、どんなフォーマットの電子書籍でも読めるようになってくるだろう。そこをオープンにしないと電子書籍は広がりようがない。