20171117

「人種」などないとしたら、民族はどうか?

前回、人種と民族の定義の違いについて書き始めたところ、思わぬところに行き着いてしまった。いろいろ調べ、考えていくうちに、「人種」という<区別の概念>は存在しにくいとわかったのだ。人種はない。これが行き着いた結論。最新の科学的見地から、ヒトは生物学的、遺伝学的に見たとき、1種類であるという事実。

その後、『人種は存在しない:人種問題と遺伝学』(ベルトラン・ジョルダン著、2013年、中央公論新社刊/原著は2008年出版)という本に出会い、さらにこの事実を確認した。ヒトの遺伝子はほとんど同じで、無作為に選んだ二人の人間のDNAは99.9%が同型だという。違いのある0.1%は300万個分の塩基(DNA分子全体に存在する化学物質。この配列の順番に遺伝子情報が収納されている)にあたり、それによってヒトは明確な多様性をもつ、と書かれていた。この0.1%は人種を分けるものではなく、詳細に見ていくことで(遺伝子マーカーと呼ばれるものを分析するなど)、ある人間の出身地域や祖先をある程度特定できるらしい。

著者によると、「人種」という言葉は、1950年代に出版されたレヴィ=ストロースの『人種と歴史』(1952年)、『人種と文化』(1971年)による分析により、ほとんどタブーになったという。代わりに「民族集団」という表現がつかわれるようなった、とあった。しかし学者間で一定の認識や合意があったとしても、一般社会では1950年代以降も「人種」という区別や概念は流通してきたのではないか。現在も、少なくとも日本では、「人種は存在しない」と考える者がどれくらいの率でいるかは不明だ。確かに今は、ある人間を排除するために「人種」という言葉がつかわれることは少ないだろう。「人種差別反対」というような、社会的、政治的主張の際に「人種」という言葉はつかわれるケースが多い。それは「人種など存在しないが、それを元に差別をする人や組織、社会がある」ことに反対しているのか、「黒人や黄色人種など、白人ではない人たちを差別するのはいけない」というように人種の存在を認めつつ、差別することに反対しているのか、そのあたりは明確ではない。

人種という言葉が、民族や民族集団とほぼ同義でつかわれたり、定義があいまいなままつかわれていることも多いかもしれない。ここで民族という言葉を定義するために、人種との定義の差を見てみよう。

まずGoogleで「race ethnicity definition」で検索してみた。トップに出てきたCliffsNoteによると次のようなものになる。(CliffsNote:自前の、広く模範となることを目的としたスタディー・ガイド)

race
生物学的特徴の差異や類似によってグループ化された人間を指す言葉で、社会によって違いがあると見なされているもの。たとえば目の色は重要と見られない一方で、肌の色の違いは区別の対象となるというような。

実際、明確な外見上の違い(親から受け継いだものを含む)は人間間に存在する。しかしこれらの違いが社会的な偏見や差別の元になっているのは、遺伝学上の指摘からではなく、外見がもたらす社会的な影響による現象だ。

ethnicity:
文化的な習慣やものの見方、「他の集団と違いが見られる特徴」を共有しているものを指す言葉。つまり文化的な伝統や遺産を共有する集団である。もっともわかりやすい区分として、祖先、歴史観、言語、宗教、衣服などの共有が挙げられる。ethnicityの差異は遺伝的なものではなく、学びによって起きる。

この定義は、ここまで書いてきたことの理解とさほど大きな差はないと思われる。では検索で2番目に来ているサイトを見てみよう。Diffenというサイト。

伝統的な定義では、raceは生物学的な、ethnicityは社会学的な事実と関係する。raceは人間の身体的特徴、骨格や肌の色、目や髪の色といったものを参照し、ethnicityは部族、地域文化、祖先、言語などを元にする。

raceの例として、白い肌、黒い肌(どこの地域に居住していても)があり、ethnicityの例としてはドイツ(語)系、スペイン(語)系、漢(中国語)系の祖先、系統(人種とは関係なく)などがある。人のraceはどのような容姿かで特定され、ethnicityはその人が属する社会的、文化的集団を基盤に判断される。一つ以上のethnicityを持つことは可能だが、人種は(混血もふくめ)一つであると言われる。

このサイトでは、二つ比較表があり、raceのところでは、身体的特徴を遺伝子上の祖先からくるものとしていた。この遺伝子上の祖先(genetic ancestry)というのが何を指すのか、肌の色で人種を分けることを指しているのどうかははっきりしない。

検索上位のものを見た理由は、それが正しい回答に近いと思うからではなく、多くの人が見た情報は何か、という興味からに過ぎない。では日本語の「人種 民族 定義」で調べてみよう。

トップに来ている二つはYahooの知恵袋(これがトップに来るのは別の理由があるのかもしれないが)。最初のものは、「民族と人種の定義の違い」についての質問で、回答は「人種」は、人類を区分するためのもので、骨格や皮膚の違いによって分類し(白色人種、黄色人種、黒色人種など)、それぞれを一つの人種とする、「民族」は、人々をグループ化するための言葉で、祖先や地域、言語、文化などの物差しで計られる、というもの。もう一人の回答者は、民族は文化的な観点からの分類、人種は生物的な遺伝子的観点による分類、としてあった。どちらの回答者も、身体的な特徴の違いによって、人種が分けられることを肯定している。

検索の2番目は、同じくYahooの知恵袋で、「民族と人種との違い」についての質問で、回答は民族は社会科の分類、人種は理科(生物)の分類、としてあった。この回答者も人種の存在には肯定的に見える。しかし最後の方の説明で、最近のDNAによる研究で「人種」の存在が否定されたことに触れ、遺伝的には全人類は1人種らしい、「人種」が過去の言葉になる可能性があるという記述があった。

「人種 民族」で検索した際にはウィキペディアの「人種」が2位にきており、そこでは「人種(じんしゅ)とは、現生人類を骨格・皮膚・毛髪などの形質的特徴によって分けた区分である。」としているが、文末に付けられた注釈[1]で「人種は生物学的な種や亜種ではなく、現生するヒトは、遺伝的に、種や亜種に値する程の差異は存在しないとされる。」という相反する説明がある。編集の履歴を見ると、たくさんの訂正修正が行われているので、どこかの時点でこの注釈が加えられたのではないかと想像される。しかし本文はそのままで、人種区分を肯定している。

また学説史として、「従来は、種としてのホモ=サピエンスのすぐ下位、あるいは、それに次ぐ分類群として提唱されてきたもの」(岩波生物学辞典 第四版)の記述があり、出版年度はわからないが、岩波書店の辞典でも、人種を「種」の下の「亜種」とするような認識があったことがわかる。また19世紀の学者チャールズ・ダーウィンは、「人種間における生物学的な差異は非常に小さい」として奴隷制度などに反対していたが、少し後に生まれている福沢諭吉は、どのような専門的見地からは不明だが、白人、黄色人種、赤色人種、黒色人種、茶色人種の区分を、『掌中万国一覧』の中で示している。

もう一つ、3番目に検索された「中学校社会」(Wikibooks)の説明では、人種について「ヨーロッパ系の白人や、アフリカ系の黒人などを、肌の色などの、遺伝的な違いを人種と言います。」と説明し、民族については「民族どうしの区別は、言語や宗教や生活様式などの文化的な特徴から、それぞれの民族を区別されます。」としている。編集の履歴を見ると、2014年から2015年にかけて書かれ、修正を加えられたもので、古いものではない。ここでも人種は身体的特徴(それを遺伝的と説明している)によって区分される、という認識がはっきりとあった。

ここまで見てきた結果を総合すると、日本語の世界では「人種の存在」あるいは「人種という区分法」はない、という認識にはどうも至っていないように見える。前回のわたし自身の、記事を書き始める前の認識(生物学的な特徴の違いによる区分を人種という、という)とほぼ同レベルと言えそうだ。英語圏の記事は、やはり人種に関する論議が盛んなことで鍛えられているのか、何の疑問もなく人種の存在を認めているようには見えない。一方、民族に対する認識や定義は、どの見地からも、大きな差は見られないようだ。民族または民族集団という言葉は、人種を否定する見地からは、人種に代えて使用する言葉となっているようにも見える。

まとめとしては、「人種」というヒトを生物学的に区分けしようとする概念は、科学的に破綻があり、最新の遺伝学ではすべての人間はホモ・サピエンス1種に集約される。亜種としての黒人、白人なども存在しない。ヒトに外見的な違いがあるのは事実だが、その多様性は祖先集団の違いによるもので、それは肌の色の違いではなく、DNA鑑定によって特定されるものである。

ひとたび人種という概念が消えれば、人間を見ていくときにどのような集団に属しているか、が一つの目安になるかもしれない。言語であったり、文化背景であったり、宗教や歴史観であったりするわけだが、それらの要素は不変のものではない。生育の過程で、環境変化により変わり得るもので、後天的要素が大きく影響する。またある集団に属していても、個々の人間が違う考えをもつのは普通で、複数の集団に属することも多い。その意味で民族という言葉も、祖先集団を同じくする人の集まりと定義はできても、実際にはそこからはみ出したり、どこにも所属していないように見えたりと、固定的に捉えることは難しいのかもしれない。

一人の人間を個として見ていくとき、その人間の背景としての民族は、ある程度は参考になるかもしれないが、絶対的なものとも言えなくなっている。近年、人の移動が活発になり、定住先が祖先集団と違う人々が増えている状態では、民族性はますます薄まっていくと思われる。それは人類(ホモ・サピエンス)の多様性が薄まっていくことでもある。アフリカを出発したとされる人類の祖先が、長い旅の間に、定住した地域の環境などにより変容して多様化し、土地ごとに祖先集団を形成し、多数の民族集団となって一定の固定化をみたのちに、また分散や混合を繰り返しながら、その特徴を薄めて大きな一つのヒト集団に帰っていくというプロセスは壮大にみえる。

そう考えると、長い時間の流れの中では、伝統や文化と呼ばれる「民族の個性」も変容したり、薄まったり、混合したりして、形を変えていくものだということがわかる。オリジナルな「純」なままの形での「伝統」や「文化」が失われることを悲しむ必要はなく、その保護や保存は、歴史を振り返るときには役に立ち、一定の意味はあると思うが、守って保存することばかりを過剰に考えることに大きな意味はないのかもしれない。