20150629

他人の宗教、隣人の慣習

社会生活を送るということは、意識していなくとも、たくさんの決まりごとと感じられる要件や事情をある程度受け入れて生きることだ。どれだけ受け入れるかは人によるだろうが。

人は毎日のなかで、やるべきことを自分の生き方に照らし合わせて、いちいち検証したりはしない。法事があると聞けば都合をつけて出向き、結婚式の招待状が届けばいくら祝儀を用意するべきか考え、子どもが3歳、5歳、7歳になれば神社に行って祝う。正月の祝いをするかどうかとか、お盆休みをとって里帰りすることを、自分の生き方と照らし合わせて考えたりはしない。

これらのことは仏教行事であったり、神道の習わしであったりするが、他の宗教の行事がそうであるのと同様、宗教性というより生活慣習や風習に属している。だから自分の人生に照らし合わせて考えることもない。多くの人はそうやって生きている。世界各地で起きている宗教の違いによる部族対立も、宗旨そのものというより、そこから導き出される生活習慣の異質さが、違和感を増長させているのかもしれない。

一般にその地域(国)の多数派のやっている生活慣習は「常識」となり、そこから外れる者の習慣は「特異」となる。日本では仏教と神道に従っていれば、とくに信者の自覚はなくとも、常識の範囲で暮らせる。誰からも「後ろ指」さされることはない。しかし兄弟や親の法事に行かなかったり、近い関係の縁者の結婚式の出席を特別な理由なく断ったり、行っても「常識」とされる決まった額の祝儀を渡さなかったら、何を言われるかわからない。仏教の教えとしてどうなのか、というより、「常識という宗教」とその信者たちに、「異端者」として裁定されるのだ。極端な言い方をすれば、一種の宗教的圧力だ。従っていればなんともないが、ひとたび拒否(従わない)すれば、後ろ指さされる存在になる。

こう書いても理解できない人が多数いるのは想像できる。多数派の常識というのはそういうものだ。自分がなにも考えずに従っていることは、(人間として)当然のことで、従わない人はおかしな人、あるいはなにか欠けているのである。自分の従っていることに疑問をもったことのない人は、他人がそれに従わないことに対して威圧的である。従わない人がどんな考えをもっているかには無頓着、それは自分がどんな考えをもっているかにも無頓着だからだ。あるいは自分の行動は多数派に支持されている「常識」だから間違いはない、という信念だ。こういう人間の集まりによって、ときに宗教対立は起きる。

親、兄弟の法事(近親者を集め、お金も集め、それをお寺に払って死んだ人の供養をしてもらう)に行かない、という選択肢は日本の常識に照らせば、あまりないことだ。参加しなければ、どうしたのかあの人は、変な人だ、人間性を疑う、くらいは言われるかもしれない。しかし仏教の行事に参加しないという行為は、人間として異端だ、ということにはならない。単に仏教的行事という生活習慣に従わないだけの話。自分が従うものを選ぶ基準は、独裁政権下でもないかぎり誰にも許されている。原発事故後に、西日本産の野菜しか子どもに食べさせない、という母親の行為とそれほど違っているわけではない。ひとたびなにかに疑問をもち、選択の意識をした人間の行動であるだけだ。原発事故前であれば、放射能検査したものしか子どもに食べさせないと言えば、変わった人になっただろうが、状況が変わった今では、特に異端者というわけでもない。それくらい「異端」の基準は自発的な思考から発せられるものではなく、また状況の変化で容易に変わるものだ。

おそらくこれからの世界で平和に暮らしていくためには、たとえ自分が無意識の多数派に属していたとしても、他人の宗教や隣人の慣習に理解を示す努力を忘れないことが必要とされるだろう。それは自分が「当たり前」としていることを、ちょっと立ち止まって考えるチャンスにもなるはずだ。多額の金額をかけて結婚式をプランし、それを回収するために祝儀の計算をしながら招待客の顔ぶれと人数を決める、というような業者と市民が一つになって盛り上げてきた仕組も、作られた習慣、「今だけの」常識に過ぎない(すでにこの常識は下火かと思いきや、どうもそうでもないらしい)。

少なくとも、自分が多数派としてただ従っているだけの慣習を、違う考えの者にも押しつけたり、従わないという理由で糾弾することへの自制は求められてもいいと思う。

20150615

21世紀の「生もの」信仰

お掃除ロボットが家電として身近になりつつある今日この頃であるが、わたしは当分のあいだは、これを使おうとは思わない。理由はロボットの掃除能力を疑うからではなく、自分の「仕事」をとられたくないから。おそらくわたしよりお掃除ロボットの方が、清掃能力は高いと思う。それでも自分で掃除しようと思うのは、生活全体のバランスを保つためである。

家事の中でいうと洗濯は機械にまかせている。干すだけ。買い物は半分はするが半分は配達。料理は自分でする。パンを焼く場合も機械ではなく手でこねる。ごはんを炊くのは9割がたは機械だが、その他はだいたい「手動」である(味噌をつくるなどはしないが)。掃除は掃除機が9割、でも箒もときに使う。家事は好きと言うほどではないし、時間も食うが、それくらいはしないと生きいてる実感がわかない。床にクッキーのかすがあれば誰がここで食べたのかと思うし、虫の残骸が落ちていればどこから入ってきたのだろうと考える。パンをこねていていい感じの生地になれば腕があがったと喜ぶ。そういう小さなことが日々の生きている実感につながっている。また家事はからだも使う。

だからこれをせずに、全てを機械まかせにして、エネルギー消費のために、近所のジムに行ってランニングマシーンで汗を流す、という行動は非合理的に見えてしまう。だったら拭き掃除でもして汗を流したら、と。

このような考えを基本にもってはいるが、ここからの100年、200年は、「生(なま)」ではないもの、つまりコンピューター制御による機械を人間が受け入れいていく世紀になっていくだろうと予想している。それは人間生活のあらゆるジャンルにわたるものだ。看護ロボットからロボットカー(自動運転車)、ロボット演劇、まだ実現されてはいないが、バーチャル動物園、バーチャル水族館など。

旭山動物園の園長がある本の中で、野生の動物の姿をなるべく再現して「命」を展示する(行動展示と呼んでいた)ことをテーマにしていると語っていたが、それはあくまでも「なるべく再現する」という企画であって、実際は捕獲された動物はすでに野生動物ではない。檻や水槽の中では飼育に適応して、野生とは違う行動をとっているはずだ。バーチャル動物園、バーチャル水族館と書いたのは、展示物を「生」の動物ではなく、高精度画像による映像(3Dでもよい)やコンピューター制御された精密な動物ロボットにしたらというアイディアだ。

確かに機械は「命」ではない。「生もの」ではない。<「生」の「命」にふれる大切さ>、と旭山動物園の園長は言うかもしれない。しかしその「生の命」は、野生から人間が自ら楽しむために捕獲し、連れ出したものだ。人間の意志であって、野生動物の意志ではない。この点については、どんなに園内で動物に自由を与えていたとしても、言い逃れる方法はないだろう。絶滅動物の保護? それは動物園、水族館レベルで達成できるものではないと思う。

<子どもたちに「生」の「命」にふれる機会を与えなくては><動物園がなくなったら、子どもたちが悲しむ>というのも、人間側からの勝手な考えかもしれない。そんなに人間の子どもだけが大事か、そう訊いてみたい。野生の「生」の「命」にふれるには、危険をともなうリスクも受け入れて、人間の側が生息地に出向いて、邪魔にならないように観察させてもらうという態度がまず基本にあるべきだろう。子どもたちに「お手軽に」生の命にふれさせる必要があるかどうか、もう一度考えてみてもいい。

もしどうしても子どもに「生」の「命」を見せたい、というのなら、21世紀の今であれば、それぞれの野生動物の出生地、出自、収穫法を含めて知らせるのがいいのではないか。野菜や 豚肉も、今の時代はスーパーでさえ、細かく出自や生産方法を書いている。「香川県小豆島町の山田さんの畑で、無農薬でつくられたイタリア原産種の手摘みオリーブです」というように。であれば「ジャマイカで(あるいは和歌山県太地町で)、追い込み漁によって捕獲したマダライルカです」と、水族館にやって来た経緯を明らかにしてもいいと思う。10年以上前の話だが、アメリカのある動物園では、園内の案内ディスプレイで各動物のところをタッチすると、その動物の原産地に対して、動物保護の援助金がいくら(入園料から何パーセント)支払われているかが示される、という記事を読んだことがある。

日本の動物園、水族館も、「悪いことは何もしていない」と胸を張るのであれば、そうすることに抵抗はないのではないか。むしろいかに残酷ではないやり方で、たとえば、正当にイルカ漁をして水族館に送りこんでいるかを、子どもにもわかるようにきちんと説明した方がいい。今の子どもは、きちんと説明されれば、そのことの成否を判断できるのではないか。

それがあっての「行動展示」だと思う。種としての「マダライルカ」を抽象的に見せるのではなく、どこからどのようにやって来た個としてのマダライルカなのか。21世紀の子どもたちは、それを知る必要に迫られている。

野生動物には手を出さず、高度なバーチャル動物園、バーチャル水族館を開発していくことは、21世紀型の展示として現実的であり、実用的でもあると思う。「生もの」信仰はなかなか消えないとは思うが、こういうものを開発して、人々を啓蒙していくのも動物を専門とする研究者や展示施設の役割だろう。「生」を見ていただけでは目にすることが不可能だったり、知りえなかった動物の生態や神秘を展示できる可能性だって十分にある。

それでも「生」でなくちゃ、という人は、海に潜るなり、森林や草原に出ていくなりして、自分の身を守りながら、環境に影響を与えないよう注意しながら観察すればいい。バーチャルにはない、自分の生々しい体験をともなった、貴重な価値があることは間違いない。動物園や水族館は、わたしの考えでは、映像技術やコンピューター技術がまだなかった時代の苦肉の策(現地から「生の命」を連れてくるしかないという)だったのではと想像する。

20150601

新たな科学の視野:牛やイルカの「人権」問題


昔、黒人は人間以下の動物とされ、モノのように売り買いされ世界の奴隷市場で流通した。字も読めず書けず、知能が低く、人間としての人権は不必要と思われていた。この差別は長い期間尾を引くが、さすがに現在黒人を人間と認めない人はいない。しかしそこまで来るのに、多大な時間がかかった。

同じようなことが今、動物についても起きている。動物は知能が低く、感情も少なく、人間が容易に支配できる下等動物である、と長いこと信じられてきた。野生生活を送る動物を自由に捕獲し、売り買いの対象にし、商売の道具として使ってかまわない、という考えは常識の範囲だった。とはいえ近年は、欧米を中心とする動物保護政策や環境保護の観点から、規制が強まり自由には扱えなくなってきた。しかしまだ日本では、その思想が十分理解され、考慮されているところまでは来ていないように見える。

最近の動物関連のニュースで驚いたのは、デンマークが動物の「人権」保護の観点から、牛や馬との(人間の)性行為を全面禁止する法案を可決したこと。ヨーロッパではすでにドイツ、イギリス、ノルウェー、スウェーデンなどで、動物との性行為は禁止されていたそうだが、法整備が整っていなかったデンマークに、それを目的とした観光客が集中したことから、法案可決となったらしい。禁止の理由は、動物虐待にあたるから。動物を支配下に置くことのできる人間が、動物に対してセックスを強要することはレイプにあたる行為。肉体的に、心理的に、当の動物が被害を受けるであろうことは想像できる。

ペット王国である日本で、犬や猫を家族のように思って飼っている人たちが、人間のレイプの対象に「うちの○○ちゃん」がなったとしたら、、、と想像してもらえば、どれだけ悲惨なことか、直ちに理解していただけると思う。

最近ニュースの対象になっている、和歌山県太地町のイルカも同様に悲惨な運命に置かれているのではないか。「うちの○○ちゃん」が突然、家族のもとから連れ去られ、狭い檻に閉じ込められて、やりたくもない芸を仕込まれていたら、と想像してみてほしい。野生に暮らすイルカを、人間が拉致同然の扱いをして連れ去り、人間のレジャーのために働かせる権利があるとは思えない。

イルカは知能が高いと言ったって、動物は動物でしょう、という考えは過去のものになりつつある。最近わたしが読んだ、アメリカの生物学者の25年にわたるバハマ諸島のフィールドワークによれば(Denise Herzing著 ”Dolphin Dairies”)、イルカは家族およびコミュニティーを形成し、社会生活を送っているそうだ。子どもが生まれれば、母親以外の年長のイルカが子守をする習慣もある。そういった社会生活を送っている生き物から、一頭、二頭選んで連れ去ることは、人間を拉致する行為と同じような衝撃をイルカ社会に与えるだろう。

人間以外の生物への真摯で誠実な理解、これはこれからの世紀の新たな視野になると思われる。「地球は平坦な板のようなもの」と昔の人々が信じていたように、現在の人類の多数派はまだ、動物に対する見方がきわめて古いままである。

日本の人は何かにつけ、西洋社会からエラソウに指示を受けたくない、自分たちはすでに先進国なのだから、という反発があるようだが、実際は世界のものの見方の大勢や方向性から離反している部分がある。それが今回のWAZA(世界動物園水族館協会)から、JAZA(日本動物園水族館協会)への「漁によるイルカ獲得」の禁止勧告につながった。世界の水族館では、イルカショーやイルカの展示は衰退の一途をたどっているようだ。それは一つには、市民運動の高まりもあって、国が捕獲や飼育を禁止しているから。欧米だけでなく、南米各国やインド、ニュージーランドでも法規制ができている。日本についでイルカ展示の盛んなアメリカでは、水族館のイルカの7割は、捕獲ではなく人工繁殖によるものという。日本では人工繁殖は費用、時間、技術がかかるため、まだ1割程度らしい。

欧米や南米の市民のあいだで、イルカを見世物にすることに反発があってショーが衰退しているとしたら、日本の国民も少し考えなければいけない。イルカで商売をしている業者や漁師だけでなく。一般の人々がイルカショーを歓迎しなければ、やがて展示用イルカの捕獲はなくなる。しかし現状は、新聞の報道を見るかぎり、「うちの子がイルカショーを楽しみにしている。もしなくなったら子どもがかわいそう」というお母さんたちの意見が多く紹介されている。

一貫してイルカ漁の漁師や漁業組合、和歌山県、太地町からイルカを買っている各地の水族館は、「イルカの追い込み漁は残酷ではない」と主張している。WAZAや欧米のメディアは、どこが残酷なのか指摘していない、言えるものならはっきり言ってほしい、という発言もしているようだ。太地町のイルカ追い込み漁というのは、複数の漁船が船べりに装着した鉄管を、鉄槌(ハンマー)でガンガン叩いて入江までイルカを追い込む方法だ。鉄管は直径10センチ、長さ5メートル(うち2メートルが海中にある*)。

それ聞いてまず思ったのは、イルカの聴力は超音波も聞き取るくらい敏感で精密なもの、猫や犬の何倍もの聴力らしいということ。

素人のわたしは、まずそのことを思った。海中で視力が効かない場合も、コウモリのように、聴力によっって方向や自分の位置を確認するらしい。そういう生き物が、鉄管と鉄槌による異常音を鳴らされつづけたら、どういう状態になるか。方向を見失い、パニックとなるのではないか。また人間が聞き取る以上の大騒音として感じられるかもしれない。そうだとすれば、追い込み漁はイルカにとって音による拷問だ。人間だって、1時間2時間と大音響の金属音を耳元で鳴らされつづけたとしたら、失神するか気が狂ってしまうのではないだろうか。

水族館という水生動物の専門家や、「伝統的な漁をしている」と胸を張る漁師たちは、もちろん素人のわたしよりイルカの生態に詳しいはずだ。現在の漁の仕方が、イルカを獲るのに効果的であることを熟知している。そうであれば自分たちが、イルカに何をしているのかも、よくわかっているはずだ。

世界的な動物の生態認識の変化、動物保護の思想の潮流、これはIT技術が今後も進むのと同じくらい、火を見るよりも明らかだ。アルゼンチンでは、動物園のオランウータンの人権(人間ではない人としての権利)を認める裁定を下している。

JAZAの総裁である秋篠宮は、WAZAに留まるという今回の決定を「協会全体として将来的にプラスに働くと思う」と発言している。また「日本に古くから伝わる文化の問題と、協会がWAZAの組織の一員であるということは分けて考える必要がある」とも。このような発言は、日本の他の関係者からは聞いたことがない。

世界の潮流に反発し、「ここは日本の領土内。県も国も漁を認めている。外の人間に文句を言われる筋合いはない」といった発言が関係者のみならず、一般市民のあいだでも強いように見えるが、もう一度この問題を一から考えてみる時期に来ているのではないか。

海であれ、陸地であれ、環境問題を語るときに、「ここは日本の領土だから好きにする」のような物言いは、広く受け入れられる可能性が低い。もしイルカ漁もイルカショーも日本にとって欠かせない、という主張をするなら、海外に向けてもきちんとした説明をしていった方がいい。和歌山県、JAZAともにホームページにEnglishのタブはあるものの、JAZAは準備中となっており、和歌山県は海外観光客への案内記事のみとなっている。理解を得るための努力が欠けていると思う。

和歌山県のイルカ漁についての見解(日本語)
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/071500/iruka/
和歌山県の英語ページ
http://www.pref.wakayama.lg.jp/english/

JAZAの英語ページ
http://www.jaza.jp/english.html

この投稿のタイトル(牛やイルカの「人権」)に戻るなら、野生動物だけでなく、牧畜などの家畜や養殖魚など、人間の都合で誕生させた生命の扱いについても、合わせて考えてみてもいいかもしれない。


*イルカ追い込み漁の方法と用具:関口雄祐著「イルカを食べちゃダメですか? 科学者の追い込み漁体験記」(光文社新書)を参照。