20180223

なぜ反発ばかりするのか:平昌のコリア合同チーム

本題に入る前に、三つほど事実確認をしておきたい。日本語の世界では、広く一般に認識されていない可能性が高いからだ。

まず一つは、北朝鮮のミサイル発射実験について。去年の8月、Jアラートと呼ばれる全国瞬時警報システムが作動して、日本のいくつかの地域で「国民保護サイレン」なるものが鳴ったことがあった。日本政府の発表によれば、ミサイルの到達した最高高度は550キロだった。 

1990年に日本人初の宇宙飛行士として、宇宙ステーションから地球の模様を中継した秋山豊寛さんは、こう書いている。日本の上空を通過したといっても、ミサイルは日本の領空からはるか遠くの宇宙空間を飛行していたわけで、そこはどこの国の「領空」でもない、と。地上から100キロ以上は、「宇宙空間」であり、国際宇宙ステーションが飛行している高度が地上400キロ。ミサイルが通過したのはそれよりもさらに上の宇宙であるということだ。また宇宙空間を弾道飛行する物体は、その真下に落下することはないとも書いていた。つまりJアラートを鳴らすような危険性があったのか、おおいに疑問だということらしい。(生活クラブ生協『生活と自治』2017年12月号『Jアラートの狙い』での秋山氏の記述より)

二つ目は、韓国の文在寅大統領が去年から、「米韓が北朝鮮を目標とする軍事合同演習を凍結するかわりに、北朝鮮は核ミサイルの開発を凍結する」という交換条件による問題解決を提唱してきたこと。文大統領は、通常3月に行われている米韓の演習を、オリンピック・パラリンピックが終わる4月まで延期することをアメリカに願い入れ、それをアメリカが了承した。そのような状況の中で、北朝鮮がオリンピック参加の意思を表わし、IOCがこれを受け入れて同国の参加が決まった(2018年1月20日、ローザンヌにて、韓国、北朝鮮、大会組織委員会との4者会談により)。

女子アイスホッケーの南北合同チームはそのような緊張緩和策、将来へ向けての和平工作の動きの中で生まれたアイディアである。一つの旗のもと(朝鮮半島が描かれた合同旗)、そして一つの歌のもと(朝鮮の古い民謡『アリラン』)、アイスホッケーの女子合同チームが組まれることになった。

三つ目は北朝鮮は世界から孤立している、という日本語空間で言われていることの信憑性について。北朝鮮の核開発やミサイル発射実験に神経をとがらせ、Jアラートまで発する日本の危機意識から想像すると、他の国々も同じようにピリピリしていると思うかもしれないが、実はそんなことはない。ということをニュース・言論サイトのSynodosで宮本悟という朝鮮半島の研究者と白戸圭一というアフリカの研究者が語っていた。国連での制裁措置がありはするものの、それに従っているのは200カ国弱の中の約半数くらいとか。制裁を熱心にやっているのは、(中国やロシアを入れても)10カ国くらいしかない。おそらく日本は最も制裁に熱心な国なのだろう。

また日本語の世界では、北朝鮮は「世界から孤立した国」というイメージがあるが、アフリカ諸国、中東の国々などで、深い関係をもっている国も多い。その理由の一つは、それらの国々は西側諸国に対して様々な反発があるので、北朝鮮を受け入れることに抵抗がないことがあるようだ。関係の内訳は、武器の調達から医療支援、警察の訓練など多岐にわたっている。アフリカでは医師が足りず、北朝鮮からの医療支援はありがたい。北朝鮮は友好国を増やす目的で、人道支援の一環として無料で医療行為をしているそうだ。また労働力として、北朝鮮の人々は質がいいということで受け入れられてもいる。北朝鮮側から見ても、外貨を得られるというメリットがある。

日本語空間での言説とは少し異なる北朝鮮に対する見方について、以上三つのことを書いた。
まとめると、
1. 北のミサイルが通過したのは宇宙空間。「日本の領空」ではない。
2. 米韓が(対北朝鮮)軍事演習を休止することにより、北朝鮮の五輪参加を促した。
3. 北朝鮮は世界的に見て、外交や経済で孤立しているわけではない。

このことを前提に、以下の本題を読んでいただきたいと思う。



日本のネット空間では、新聞などの報道でも、個人のブログでも、NewsPicksのような経済ニュース共有サービスでも、平昌オリンピック、女子アイスホッケーの南北コリア合同チームの評判がひどく悪いようだ。「政治利用している」「韓国チームがかわいそう」などの非難をあちこちで見かけた。南北の緊張緩和、将来の和平への希望など、肯定的な見方はごくわずか。中立的な意見もそれほど見ない。

わたしが記事をよく読んでいる東洋経済オンラインでも、『南北合同チーム結成に見る文大統領の身勝手:平昌オリンピックで度を越した政治利用』のタイトルで、元朝日新聞の論説委員の薬師寺克行・東洋大学教授が、「文在寅大統領の決断やIOCの判断は矛盾と問題に満ちている」など強い言葉で非難している。

また普段は最先端技術や新たな事業展開の試み、社会システムのパラダイムシフトなどを熱く語る起業家、イノベーターたちのコメントの多いNewsPicksでも、「ただただ気持ち悪い」「さすがは害国同士のトップはやることが違う」「北朝鮮と合同チームでそれでなくてもヤバイ気しかしないのに」「荒れる予感しかしない」といった、否定的かつ知識や教養の感じられない書き込みがたくさんあって驚いてしまった。あれ、ここに集って未来的、先鋭的な経済や社会について情報交換している人たちも、こと北朝鮮問題となると、このような内面を見せてしまうのだろうか、という驚きがあった。

一方で、この南北合同チームをノーベル平和賞の候補にすべきだ、という意見が、国際オリンピック委員会のアメリカの委員から出たようだ。取材に対して、IOC広報担当は、この件は事務レベルで議論になったことはまだない、と答えている。

ノミネートを主張したアメリカの委員は、元アイスホッケー選手(五輪金メダリスト)で、「南北合同チームは、五輪とは一体何なのかということを示している」「非常に象徴的な意味を持っており、五輪が特定の競技、特定の国よりもっと大きな意味があることを示すものだ」(AFP/フランス通信社、聯合ニュース)と述べたそうだ。前述の薬師寺教授が「アイスホッケーという競技特性からすると、即席のチームが選手たちにとってどれほど大きな負担となるか」ということを執拗に主張していたのとは対照的だ(元アイスホッケー選手の方がそれを主張し、大学教授の方がオリンピックの意味について語るのならまだわかるが)。

このノーベル平和賞のニュースは、日本のメディアではあまり広く伝わっていないように見える(日本人にとっては、好ましいニュースではないのかもしれない)。

北朝鮮の五輪参加実現に尽力したと言われるIOCのバッハ会長は、アイスホッケーの対スイス戦を文在寅大統領と並んで観戦し、試合終了後には、南北合同チームのメンバーに声をかけているところが見られたそうだ。また会長は、オリンピック閉幕後に北朝鮮を訪問する予定と聞いている。IOC委員会として、北朝鮮のオリンピック参加には、(日本人が簡単に却下をくだせるようなものではない)それなりの強い思いと、これを正当とする判断があったのかもしれない。

2月14日に行われた日本対南北合同チームの試合は、わたしもテレビで観戦した(日本テレビ)。通常の日本のスポーツ放送と同じように、実況・解説はほぼ日本選手やチームの情報のみが伝えられ、対戦相手である合同チームについての情報(選手は南北どのような割合でこの試合に臨んでいるのか、どんな経歴の選手がいるのかなど)はなかった。唯一、中継中に「歴史的な初得点」とされた合同チーム側の1点目が入ったとき、得点者はアメリカ出身の選手である、といって名前の紹介があったくらいか。

この得点者について、日本のメディアでは情報が見つからないので、朝鮮日報のサイトに行って調べてみた。チームに初得点をもたらしたのはグリフィン選手で、米国人の父と韓国人の母をもち、子どもの頃にフィギュアスケートを、ハーバード大学時代にアイスホッケーを始めたという。韓国にいる祖父と韓国語で話したい、ということが五輪でのチーム合流の理由の一つだったようだ。「荒々しいボディーチェックの音、リンクを切り裂いてパックを打つ快感、それだけあれば十分」とインタビューでは答えている。南北合同チームの紹介として、どんなチームなのか、どんなメンバーがいるのか、日本が対戦する相手の情報を中継の中でもっと伝えてほしかったと思う。 

一般に日本のスポーツ中継は、国際試合の場合、「日本応援」報道になってしまっていることが多い。実況アナウンサーも、試合中に「ニホンあぶない!」など、我を忘れて絶叫することもしばしば。サッカーの国際試合を見ていても、対戦相手のメンバーの紹介はお粗末だ。たいていの場合、試合前にそれが知らされることはない。試合前は日本人選手の紹介やインタビューばかり。試合が始まってしばらくしてからやっと、相手チームのスターティングメンバーが発表される。例外は対戦チームが世界の強豪だったり、スター選手ぞろいのとき。その場合は、試合前から大騒ぎして、「日本人選手がすごい外国人スター選手と対戦する」ということで盛り上がる。

さて本題にもどろう。南北コリア合同チームは日本では大ひんしゅく。一方五輪委員会の元アイスホッケー選手は、ノーベル平和賞のノミネートを提案。ずいぶんと温度差があるものだ。では一般論として、日本人は朝鮮半島の現在の状況、つまり第二次世界大戦後の70年以上、一つの国が二つに分断されていることをどう思っているのだろう。わたしの考えでは、分断固定化の原因として、戦後の冷戦構造とともに、その前の時代の日本の植民地支配の影響があると思っている。日本の存在と朝鮮半島の悲劇はつながっている。でも日本人にはその自覚があまりない。もしその自覚が少しでもあれば、分断されている両国が近づく可能性が起きたとき、もっとサポートする気持ちが湧くのではないか。

ベルリンの壁崩壊、東西ドイツの統合を歴史的な出来事として、世界の人々と共有した経験が日本人の中にもあるとすれば、南北朝鮮の和平に対しても、(お隣りの国なのだから)もっと肯定的な気持ちをもってもおかしくはないはず。何がそれを妨げているのだろう。だって北朝鮮の独裁政権は何をするかわからない「悪の枢軸」であり、国際的に孤立した無法者であり、核やミサイルの実験をするテロリストだから? 百歩譲って仮にそうであったとしても、そういう国は崩壊させてしまうのがいいのだろうか? イラクのように。

それこそが北朝鮮が恐れていることだ。そのためにアメリカまで届くミサイルや核開発を進めている。自分の国と国民を守るためだ。北朝鮮が核兵器をもつことに問題はあると思うが、アメリカから名指しで敵視されている現状の中では、避けられない選択なのかもしれない。アメリカに守られている日本とは違う。北朝鮮が望んでいるのは、アメリカに(平和的に)国家としての存在を認めてもらうことだと思う。北朝鮮の行動はすべてそこから発している。

平昌オリンピック開催で、在韓米軍と韓国軍の北朝鮮に向けての合同演習が4月まで延期された。韓国の文在寅大統領のアメリカへの申し入れによって、それがかなった。パラリンピックが3月18日に終わったら、合同演習は予定通りアメリカの主張する4月23日から5月3日の間、実行されるのだろうか。それとも、それまでに訪朝することになっている文大統領が北朝鮮との会談をもつことで、アメリカに軍事演習のさらなる延期を願い入れたりするのだろうか。

去年の9月にウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムで、北朝鮮との和平工作として、制裁一辺倒ではないシナリオをロシアと中国が提案している。北朝鮮の核ミサイル問題を解決し、より平和的な道に進んでいくためのシナリオで、ロシアの提案は、北の核保有を黙認しつつ、露中韓が経済協力関係をより強力に進めるというもの。

具体的な案の一つとして、朝鮮半島を縦断する鉄道やパイプラインの建設がある。日本や韓国から、北朝鮮を通ってロシアや中国に至るインフラを開通させる構想だ。これは中国の「一帯一路」計画(中国経由で、西アジアやヨーロッパまで伸びる鉄道やパイプライン)との連携で、より大きく効果的なものに発展しうるものだ。北朝鮮はこれにより、鉄道貨物などの通行料が得られ、経済的に大きなメリットが得られる。最高指導者の金正恩は、防衛とともに国の経済的発展や国民生活の向上を重視しているとも聞く。周辺諸国と経済協力関係を結び、その経済圏の構成要員となることは、和平への一歩としても大きな意味があるのではないか。そういう関係の中に入る(取り込まれる)ことで、核開発をつづけていくことの必要性が弱まっていく可能性はある。

平昌オリンピックへの北朝鮮の参加や、南北合同チームの結成は、北朝鮮を取り囲むここ数十年の緊張関係を俯瞰して見たとき、両国の国民が心情的に歩み寄る機会となるのなら、その体験がもつ意味は決して小さくはないように思える。日本の心ない人々が(学者やジャーナリストも含め)、説得力の低い論理や品性を疑われるような口調で、南北合同チームを攻撃するのを見るのはなんとも情けない。

20180209

野生と飼育のはざまで(3)


注)ここまでと同様、以下の記事は現時点での知見をもとに書きました。気づいた間違いや新たな発見、見解は、そのつど後の記事で更新していきたいと思っています。
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動物福祉と新・人間中心主義

「野生と飼育のはざまで」(1)(2)では、動物園や水族館に対する人々の見方、動物園の施設や仕組みの問題、動物園の広報活動や環境エンリッチメントの試み、日本のサンクチュアリなど、思いつくままに調べては書いてきた。それはこの問題を考えるにあたって、現時点で的が絞れる状態になく、あれこれ探りつつ、考えつくところを糸口にして書き進めているからだ。

この間、周囲の人々に野生動物を人間が管理することの是非について、考えを聞かせてもらったりもした。ここまでのところでは、両極端、つまり「野生動物を人間が自由に扱っていい」という人も、「そのようなことは許されない」という人もいなかった。どの人もほぼその中間のグラデーションの中いるように見えた。わたし自身、どの地点とは言えないものの、同様にそのグラデーションのどこかにいると認識している(出発地点では、「許されないのでは?」に寄った位置にいたと思う)

これは最近知ったことなのだけれど、17世紀のフランスの哲学者デカルトは、動物機械論という考えを『方法序説』という書物で書いている。動物は機械に近い存在で、人間とはまったく異なるという理論だ。
動物の肉体は、機械としては比較にならないほど厳密に構成されている。その運動の適性は人間の発明したどんな機械より見事である。動物の機械は(知識に基づいて動いているのではなく)器官の仕組みに応じて動いているだけだ。獣には理性がまったくない。獣の魂は本質的に、人間の魂とはちがっていると考えるしかない。感情を示す運動は動物も示すが、これは機械でも簡単にまねできる。器官の命ずるままに動くのが動物の天性なのだということになる。ルネ・デカルト著『方法序説』山形浩生訳からの部分要約)

またデカルトと同じくらい有名な、ドイツの哲学者カント(1724ー1804年)は次のように言っている、と記した文章と出会った。
動物には意識がなく、人間の目的の手段としてのみ存在する。 秋田大学 バイオサイエンス教育・研究サポートセンター 動物実験部門のHPより要約)
いま聞くとちょっと驚きの発言に見えるが、カントは白人至上主義的な記述も残しているので、このような考えをもっていたとしても矛盾はないように思える。以下は著書の中のカントの発言。
アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。(中略)それほどこの二つの人種(註:白人と黒人)の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。 (イマヌエル・カント著『美と崇高との感情性に関する観察』より要約/ウィキペディア日本語版より)

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという1864年生まれの学者の著書を見ていたら、機械論の考え方をとるのは動物学と生理学の立ち場で(動物体の全機能をその諸器官から、機械論的に導き出そうとする)、対して生物学は動物の行動を総合的に見て、動物が組み入れられている生命の大きな連関性の中から理解しようとする、とあった。ユクスキュルは動物学から比較生理学、比較行動学へと専門を移し、のちにハンブルク動物園・水族館の館長を務めている。『生物から見た世界』という本では次のように述べている。
生理学者にとってはどんな生物も自分の人間世界にある客体である(註:これはカントの目的論に似ている)。生理学者は、技術者が自分の知らない機械を調べるように、生物の諸器官とそれらの共同作用を研究する。それに対して生物学者は、いかなる生物もそれ自身が中心をなす独自の世界に生きる一つの主体である、という観点から説明を試みる。したがって生物は、機械にではなく機械をあやつる機械操作係にたとえるほかはないのである。(ユクスキュル/クリサート著『生物から見た世界』)

ユクスキュルより時代を遡り、カントより少しあとに生まれたイギリスの哲学者ベンサム(1748ー1832年)は、デカルトやカントとは全く違う考えを示している。
感覚を持つ生き物を同じ悲運に追いやる理由として、脚の本数や、皮膚の毛の密度や、仙骨の末端(尾のあるなし)のどれもが十分な理由とはならないと認められる時代が来るであろう。しかし他に何が超えられない一線となるのだろうか? 問題は、理性があるか、話す事ができるか、ということではなく、苦痛を感じるということである。なぜ法律はいかなる感覚を持つ生き物をも保護の対象としないのだろうか? いつの日か人類社会はその庇護のマントを、呼吸をする存在すべての上にまで広げることになるだろう。(『道徳および立法の諸原理序説』より/日本語版ウィキペディア「動物の権利」)
これは功利主義思想と呼ばれるもので、「快楽や幸福をもたらす行為が善である」の考えに基づき、最大多数の最大幸福を目標としている。個人の幸福の総計が社会全体の幸福となり、それを最大化するのが望ましい、という考えだ。いま動物福祉(animal welfare)と言われているものの多くは、この功利主義を基本にしていると思われる。

動物福祉の基本的な考え方は、人間による動物の利用を(殺すことも含めて)否定はしていないようだ。ただしその扱いについては、苦痛を減らしできる限りの幸福を与えなければならない、と考える。近代の神経科学者たちの考えによれば、「意識」をどう定義するかに論議はあるものの(人間においても)、動物にも意識があるという考えが支配的である、と英語版ウィキペディアのanimal welfareにはあった。しかしその意識というものは科学的に証明されてはいない、と主張する人たちもいるそうだ。

こう考えてくると、動物福祉の考え方は、ある種の人間中心主義であると言ってもいいのだろうか? デカルトやカントの時代の人間優位論に基づくものではなく、20世紀後半からの「非人間中心主義(生命中心主義)」を通過したのち、様々な現実をふまえた上で、改めて復権をとなえた「21世紀型人間中心主義」とでもいった。20世紀の後半に起きたいくつかの思想や運動は、その前の時代の考え方や社会への反省や反論として存在したのだと思う。そこでは人間のしてきたこと、たとえば自然破壊や環境汚染、動物虐待もふくめた動物の利用などに対して、厳しい目が向けられた。しかし非人間中心主義というのは、現実の世界で具体的に実行するのは簡単ではない。人間も生きていかねばならず、それを支えるためには、ときに他の存在より自己を優先する必要が出てくるからだ。たとえば畜産工場のブタやニワトリが劣悪な環境にいるからといって、社会を動かして大多数の人間に肉食をやめさせることは可能だろうか? そんなことをすれば、賛同より反発の方が大きくなりそうだ。

では動物福祉の考え方は、一種の現実主義なのだろうか。現状の人間による動物利用を認めた上で、動物にとって不幸ではない状況をできる限り生み出していく。そのための研究や開発を積極的に行ない、新しい方法論につなげていく、といった現実主義。それを人間として、人間以外の動物に対して行うことが、動物福祉なのだろうか。


自閉症の体験から得た、動物の行動原理の実際

『動物が幸せを感じるとき:新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド(Animals Make Us Human: Creating The Best Life for Animals)』という本に、動物福祉に関するいくつかのヒントを見つけた。この本の著者テンプル・グランディンは、自閉症である自分の特質を生かして、動物の行動の原因を探究した動物学者だ。家畜の権利保護活動をするとともに、アメリカやカナダの畜産工場(食肉工場)の設計の多くを手がけている。「家畜の権利保護」と「畜産工場の設計」というのは結びつきにくく、対立事項のようにも見えるが、これこそが動物福祉の考え方の基本と言えるのかもしれない。

テンプル・グランディンは「動物の幸せを生物学的に調べるテストはない」と言っている。置かれている環境が好ましいものかどうか判断する目安は、動物たちの行動だけである、としている。それは人間が「動物を観察する」ことから始まる。しかし動物を観察する場合、他者に見られているとわかっているときは、動物は苦痛や痛みを隠すこともあるので、満足度を計ることは簡単ではない、という注釈も加えている。

飼育下にいる動物の満足度を計るのに、一つの目安となるのが「常同行動」と言われるものらしい。同じ場所を行ったり来たりしたり、からだを揺らすなど同じ動作を繰り返すことを「常同行動」という。野生下でも一時的なものは見られることがあるらしい。飼育下の動物で問題になるのは継続性の常同行動で、これは野生下の動物には見られないという。

常同行動は人間にも起きる。著者のグランディンは子どもの頃、自閉症だった。それでどんなときにそのような行動をするのか、自分の体験から説明している。彼女の場合、何らかの恐怖が誘因となり、耳が痛くなるような音が聞こえ、それから逃れるために常同行動を起こしていたという。グランディンは両手のすきまから砂を落とし、砂粒に反射する光を見つめることで、まわりの世界を遮断していた。他の人が気づかない小さな事象に集中することが、常同行動という形をとり、苦痛から逃れる手段となっていた。

グランディンはこの本の中で、人間に現れる常同行動の別の例もあげている。独裁政権下のルーマニアで、人口増加政策がとられた時代、たくさんの子どもたちに常同行動が見られたという。親が育てられない不幸な状況下で孤児が国にあふれ、子どもたちが孤児院などの隔離施設で育てられたことが原因らしい。隔離されて育てられた子どもの84%に常同行動が見られたという。からだを前後に揺らす、ベビーベッドの中で柵につかまって足踏みをしつづける、また4分の1の子どもに、自分の手をかんだり、頭を壁に打ちつけるなどの自傷行動も見られたそうだ。

グランディンによれば、動物が常同行動をとるのは、現在苦しんでいる場合に限らないという。現在は問題なくとも、過去に苦しんだ経験がある場合に出ることもあるらしい。常同行動の原因として、脳の発達との関係が考えられるという。動物に関していうと、成獣になって捕獲された動物は、常同行動が少ないらしい。幼獣のときから人に飼育された動物は、脳の発達に問題が出ることがあり、それが常同行動につながる。成獣で捕獲されたのち、飼育下に置かれた動物は、脳が発達する幼いとき、豊かな自然環境で暮らしていたため、行動に異変が見られにくいと推測されている。

となると、幼い頃に野生動物を捕獲することも、飼育下での繁殖も、動物の脳の発達という点においては問題があるのかもしれない。

グランディンはまた、放浪性のある動物と常同行動の関係について指摘している。動物園で常同行動の多いライオンやオオカミ、ホッキョクグマは、野生下では行動の範囲が広く、それが満たされないため行動に異変が起きるらしい。キツネの場合は縄張りがあり、それが狭いため問題が起きにくいという。オオカミは放浪性が高く、野生下では一カ所で数晩以上過ごすことはなく、家などほしくない。だから動物園がいかに広くともそれは家であり、そこに住まわされていることに変わりないそうだ。

ホッキョクグマの場合、野生では1日に10キロ近く移動し、何時間も泳ぐ性質がある。動物園では、そのような欲求を満たすため、起きている時間の8割近くを、8の字型に泳ぐ行動に費やしているクマもいるそうだ。

こうったことを解決するため、動物園では「脳の遊びシステム」を活用することが大事だとグランディンは言っている。たとえばアフリカヒョウのような捕食種の場合、「探索」の欲求を満足させるために、鳥の声を録音した音声装置を何カ所かに設置する。声に導かれてあちこちヒョウが探索し、そういった行動の中で餌が(落ちてくるなど)提供されると、ある程度の満足感を与えられるという。(ヒョウはライオンと比べると、もともと常同行動は少ないそうだ。その理由は、野生下でヒョウは活動範囲がライオンより狭いからだという。野生下のライオンは活動時間は短く寝ている時間が長いが、活動範囲ははるかに広く、また放浪性があり遠くまで行くという違いがあるそうだ) 

動物の行動を観察することが、環境が好ましいかどうかの判断の目安になる、とグランディンが述べていることは書いた。彼女によると優れたフィールド研究とは「観察科学」であるそうだ。野生下にいる動物を観察することが、動物を理解するときに大きな助けになることを例をあげて記していた。松沢哲郎博士(京都大学、霊長類学者)のフィールドでの調査により、チンパンジーがジャングルに生えている植物200種類を見分けていることがわかった、というのも一つの功績だという。チンパンジーは植物の生える場所、季節、用途などを熟知していたそうで、このようなことは研究室や動物園では発見できない。フィールドと研究室、両方での研究の重要さをグランディンは強調している。

グランディンはまた、アフリカなどの野生動物の保護について、現実的な指摘をしていた。その要点は、その地域、国の人にとって、野生動物の保護が経済的な価値につながることである。地元の人が野生動物を保護したくなるような状況をつくること。密猟や土地開発を防止するには、それ以上の経済的な価値が地元に生まれる必要があるという。単純に法律で狩猟を禁止したりすれば、逆効果となって動物を減らすことになる場合もあるようだ。1977年にケニアで野生動物の狩猟と牧場での営利的な飼育を禁止したところ、大型動物が6、7割数を減らすということが起きた。飼育を禁止された牧場は牧草地を維持できなくなり、そこを開墾して農地にしたという。それによって野生動物の生息地が奪われる結果になった。

グランディンは、野生動物の保護の目的で、地元に経済効果をもたらすものとしてエコツアーを提案している。またアフリカの大型動物の狩猟を売りにしたサファリツアー(現地費用だけで一人百万~数百万円かかる)についても、反対を唱えない。レイヨウやイボイノシシを狩るツアーは、大きなお金を地元に落とし、住民の生活を支えている。これにより私有地に住む動物が狩られて犠牲になるが、この程度の犠牲は、地主に自分の土地を野生動物の生息地にしようという意欲をもたらすなら必要かもしれない、とグランディン言っている。(アフリカのサファリーツアーについては、九州大学の安田章人博士によるカメルーンの現地調査で、現地にもたらされるものの実態が、言われているような理想とは違うことが報告されている。これについては回を改めて詳しく書きたい)

こういった考えは、普通イメージする動物保護の考えとは違うかもしれない。動物福祉と動物愛護、動物保護は、いつも一致するとは限らないことがわかる。その意味で、動物福祉の考え方は、現実主義であり、またある種の人間中心主義と言ってもいいのではないか。動物の肉を食べる人間、その人間に肉を供給し利益を得る畜産工場、つまり現実に存在する「生きている」ものを否定しない。ただし畜産工場では、食用になる動物たちの苦痛は減らさなければならない。少しでも快適に幸せに過ごさせ、恐怖や苦痛を最小限にとどめて飼育や屠殺を行なう。そのような課題を解決するのが動物福祉ということになる。ここでは人間が中心となって、すべての決定を下し、コントロールし、動物を支配下に置いてコトを動かしていく。

こういった現実的な問題解決法、現状の明らかな改善への手立てに対して、一面的な理想主義で反対するのは難しいことかもしれない。誰であれ、自分がしている生活習慣の中に悪の芽があるとは考えたくない。豚や牛を食べるのは悪なのか。ただ自分がしている日常生活をたんねんに見ていくことはあってもいい。たとえば豚肉を買うとき、安ければいいというのではなく、動物福祉の点で問題のない肉を買うようにするとか。配慮された畜産農場・工場から買う豚肉は、スーパーの安売りの肉より高いかもしれない。でも量を減らす、食べる回数を減らすことで、動物福祉にかなった肉を食べることはできるだろう。それは動物福祉およびその農場に賛同の意を示すことになる。

それほど非現実的なこととは思わない。確かに自分の生活を見直すのは大変だ。でも不可能ではない。メニューを考えるとき、今日はトンカツ、明日はステーキ、次の日はフライドチキンとしていたのを、親子丼や肉野菜炒めにして、肉をメインにしなければいいのだ。毎日の食事や料理のメニューというものが、動物の幸福に(はるか遠くのように感じられるかもしれないが)つながっている。こういうことを考え、実行できるのが人間の知性だと思う。新・人間中心主義というものがあるとすれば、このようなことを指すのかもしれない。