20190322

本のプロフィール、そして未来


葉っぱの坑夫は2000年4月から、「本」の出版をウェブでやってきました。ここで言う本とは、ウェブ上で公開する「ひとまとまりのテキストと画像」のことです。英語俳句集『ニューヨーク、アパアト暮らし』とか、童話集『インディアン・テイルズ シエラネバダから14の物語』など、最初は英語の原作本から日本語訳したものが主でした。そういったものを本と呼んでいました。当時、日本では本といえば、紙に印刷され綴じられた物体を指していました。ウェブに置いたテキストや画像の集積を「本」と呼び、それをウェブで「出版する」という考え方こそが、葉っぱの坑夫の出発点でした。正式名にWeb Pressとついている所以でもあります。

そこから20年弱、2019年のいま、本とは何を指すのか、あらためて考えてみたいと思いました。

それを考える前に、本よりメディアの選択において、少し進んだ状況にある音楽のことに頭をめぐらせてみたいと思います。レコードが誕生する前の音楽は、ホールなどに出向いて、あるいは貴族のサロンなどで、生演奏を聴くものでした。レコードの誕生は19世紀後半、エジソンが盲人を補助する道具として発明したフォノグラフにはじまります。20世紀初頭に音楽界で仕事した作曲家たちの話では、聴衆は音楽を生で聴くか、レコードで聴くかという選択ができるようになり、また作曲家自身は、自分の作品を楽譜で売るか、レコードで売るか、あるいはホールでコンサートをするか、レコードにするかという選択が出てきたということです。

アメリカでは、レコードが家庭に普及すると、多くの人が家で音楽を聴くようになったといいます。ニューヨークやシカゴなどの都市部では、コンサートも盛況だったそうですが。作曲家の方も、楽譜の出版よりレコードに録音する方が優先事項となり、コンサートで新曲を発表することと並行して、レコードでも発売する、とその優位性を認める人がたくさんいたようです。それはコンサートはどんなにがんばっても何千回もできませんが、レコードなら複製により広く普及させることができるからです。またコンサートと違い、場所からの自由を獲得もしました。たとえばヨーロッパの劇場まで行かなくとも、自分の居場所で聴けることで、レコードは音楽のグローバルな広がりにも貢献したと言えます。

CDが出てきたのが1980年代、レコードとCD発売の間にはカセットテープの時代がありました。このカセットの時代は録音や編集もできたので、ありものをただ聴いたり、エアチェックといってラジオなどから録音するだけでなく、自分で楽曲を編集したベスト盤のようなコンピレーションをつくって、友だちにあげたりする習慣もありました。CDが出たばかりのときは、カセットテープのような編集はできませんでしたが、のちにパソコンでCD-Rに音声の書き込みができるようになると、カセットでやっていたような編集も可能になりました。

そのあとMD(ミニディスク)という媒体ができて、それも書き込みができるものでした。ただミニディスクがどの程度の普及度だったか、一般的に出まわる期間が短かったような記憶があります。海外で普及しなかったこともあり、衰退の一途をたどり、市場的には現在、ほぼ消滅状態のようです。

その後の大きな動きとしては、コンピューターのAppleから発売された、フラッシュメモリ内蔵によるiPodでしょうか。最初のiPod発売が2001年。それまでもカセットで音楽を携帯する習慣はありましたが、このiPodによって(軽量で見た目もかわいいというモノとしての魅力に加え、コンテンツのためのテープなどいらず、記録容量が飛躍的に増えたことで)、音楽の持ち歩きは一気に増えたと思われます。

そしてiPhoneなど携帯電話(スマホ)の登場があり、そこにiPodの機能がそのまま搭載され、さらにはiTuensなどを通じてコンテンツをネットから直接取り入れることが普通になり、と現在の状況になっています。そしてサブスクリプションでの定額制契約がいまは増え、Apple Music、Spotify、Amazon Musicなどから、楽曲を購入するのではなく、そのときどきで聞きたいものに自由にアクセスする人も多くなっています。

と、音楽に関しては、レコードという録音媒体が生まれてから、現在のサブスクリプションでのアクセスまで、音楽との接触の仕方、購入の仕方、聴取のスタイルに大きな変遷があったと言えます。

さて、では本題の「本」です。本とは何か、と言ったとき、日本ではいまも2000年4月当時とそれほど変わりなく、「紙に印刷され綴じられた物体」を思い浮かべる人が大多数ではないかと思います。ウェブで発表されたひとまとまりのコンテンツを(たとえ紙の本と内容がまったく同じであったとしても)、本という言葉で表すことは少ないかもしれません。

内容が同じでも、見た目や使用法が違う。媒体が違うということが、大きな違いとして感じられるのが本である、あるいは日本における本の状況である、と言えます。

日本で「紙以外の本」を出している版元として、青空文庫、Amazon、パピレス、ソニーなどがあり、葉っぱの坑夫もここに入ります。紙以外の本にはどんなものがあるのでしょう。ウェブのコンテンツ、Kindleなどの端末で読む電子書籍、オーディオコンテンツ、そしてYouTubeもここに入ってくるかもしれません。

話が音楽に戻りますが、音楽も最近はYouTubeで楽しむ、という人もかなりいるようです。わたし自身、楽曲検索や作曲家を探しているとき、Googleに表示されるものからYouTubeに行ったり、ときに直接YouTubeに行って検索することもあります。YouTubeのいいところは、特定のコンサートや作曲家のドキュメンタリーフィルムなどで、映像とともにたっぷり音楽が楽しめることです。また子どもたちも、YouTubeで新しい音楽を仕入れたり(アマチュアミュージシャンの投稿だったりする)、それを見た人(子ども?)が楽譜にして再投稿したり、それを見て演奏した別バージョンを他の人が再々投稿したりといった世界が繰り広げられ、その全体を楽しんでいるということも耳にはさみました。

本の世界はというと、音楽ほどにはメディアが入り混じっていることはなさそうです。中でも紙の本は、スタンドアローンというか、単独で存在している部分が多く、メディア的に横につながる機能が薄いと言えます。素材が紙であるという本自体がもつ機能制限だけでなく、紙と電子のメディア同士の横つながりも日本では薄い状況です。

たとえば新聞などの書評でも、紹介されているのは紙の本のみだったりします。なぜ電子書籍も併記しないのか、理由がわかりません。というのは、日本では新刊でも電子書籍が同時発売されるとは限らないからです。電子書籍を利用している人にとっては、それが買えるものなのかの情報が欠けていることになります。新聞社など掲載するメディアの側の意向なのか、版元が紙の本を重視しているためなのか、そのあたりはわかりません。アマゾンでは商品ページで違うメディアを並列し、簡単に切り替えられるようにしています。こちらの方が紹介の仕方としては標準ではないか、という気がします。音楽の場合も同様で、ストリーミング、MP3、CDといった風に選択肢を示しています。

本自体の機能ということでいうと、ウェブの場合は、リンクや埋め込みによって、本文の中に外部にある映像や画像、音楽を含めることができます。たとえば現在葉っぱの坑夫で連載している『インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家』では、サンプル音源をApple Musicから埋め込みリンクをつかって、本文内に表示し、その場で音楽を再生できるようにしています。また作曲家のインタビュー映像をYouTubeから引いてきて、埋め込みタグによってページ内に表示し、その場で再生させるということもしています。何年か前に、このYouTubeの埋め込みタグの機能を知った時は、こんなことができるのか、と驚きました。

すでにインターネット内ある素材を、適した場所で引用できることは、使う側、使われる側どちらにとっても有益のように思えます。YouTubeがシェアの思想で成り立っているからこそ出てくるアイディアであり、コンテンツを広げていくことに役立つのでしょう。

こういった意味で、もっとウェブを利用した本が出てきてもいいように思います。本がマルチメディア化することで、損をする人はいないはずです。Kindleなどの端末にDLして読む電子書籍も、非常に有益な形ですが、ウェブという形での出版も、それとは別にあっていいように思います。新刊の本を出す際、紙の本以外にウェブでも同じコンテンツがあったら、便利かもしれません。最初からウェブブックを買う人もいるでしょうが、紙の本を購入した人が、認証を経て自由にアクセスできるようにして、外出時などスマホなどで続きが読めるようにするのもいいと思います。

紙の本では、カラーページは印刷代がかかるのでたくさんの写真を含められない場合も、ウェブブック版に載せるようにすれば、コストと関係なく、収録したいコンテンツが入れられます。また音声ファイルを入れることも電子書籍では簡単にできるので(ウェブであれKindleであれ)、さらに豊かな内容に膨らませることができます。たとえば『What the Robin Knows』という鳥の本では、登場する鳥の声を文章に付け加えて聞けるようにしています。つまり本文(コンテンツ)が飛躍的にリッチ化するわけです。

最近、坂本龍一監修による『commmons schola』シリーズのVol4-ラヴェルを買いました。スコラとはラテン語で学校という意味で、バッハからジャズ、日本のポップスに至るまでの音楽を各巻テーマごとに厳選し、全30巻で紹介する音楽全集とのことです。わたしの買ったものはKindle版で税込2160円でしたが、CD2枚付きの単行本は商品切れなのか中古30000円という高値がついていました。これはラヴェルの巻にかぎらず、ここまで出ているVol.17まで多くの本に高い値段がついているようでした。調べたところ、定価は9000円前後のようです。

最初の配本であるVol.1とVol.2は2008年(CDブックレット版。Kindle版の発売はは2015年)の発売になっていたので、まだCDを付けて売る方法がよかったのかもしれません。各巻で選んでいる音源は、特定の演奏家や特定の版なので、そして全曲ではなく、1楽章だけとか組曲の中の1曲といった選び方なので、音源をそのまま付けてしまった方がよいという考えがあったのでしょう。しかし1巻だけで8500~9800円という価格は、子どもも含めた一般の音楽好きにとってかなり高い値段だと思います。学校というタイトルを考えても、もっと安くできる工夫があってもいいと思いました。

現在の状況(定額制で音楽を聴く人がいる)であれば、CD付きでない紙のブックレットをKindleとともに単品で売ることもありだと思います。本の方はブックレットと言っているだけあって、100ページちょっとの薄いもの。この商品は、CDと本のどちらの値段によるものなか、と言えば、本当は本の値段ではないかと思います。CDは2枚組といっても、既存のCDからのセレクションに過ぎないのですから。Kindle版が2160円であることを考えると9000ー2000で6000~7000円がCDの価格でしょうか。いずれにしても値段の付け方には疑問が残ります。

しかもAmazonを見るかぎりでは、単行本の方はすべて中古になっているので、紙の本は増刷ができないままなのかもしれません。Kindle版はもちろん、品切れや絶版はありません。同じ価格で売り続けられます。わたしはこの本を買う際、実は非常に迷いました。まず2160円という価格で、ブックレットの電子版を買うことに価値があるのかどうか。あっという間に終わってしまうような軽い内容ではないのか。もし試しに1冊選ぶとしたら、どれを選べば判定がしやすいのか。といったことを数日間考えて、最終的に本の構成や意図を知るために、最もよく知る作曲家ラヴェルの巻をを買いました。期待に沿うような出来か、良し悪しの判断がしやすいと思ったからです。

結果としては、なかなか良くできているな、というのが正直な感想でした。2160円も払って損をした、という風には思いませんでした。内容的には楽曲案内として、視点的に面白かったですし、浅田彰、坂本龍一など数名による鼎談形式での紹介の仕方も、真面目につくられている印象でした。またセレクトされた音楽も、本文を読みながら聴くと(わたしの場合は、IMSLPやSpotifyで)印象深く、説明されていることにも納得がいきました。また巻末の原典解説や年表類なども、きちんと執筆・編集されていました。その意味で、質的な問題や時代性には問題がなかったと思います。多分、別の巻も今後買う可能性があります。

このように内容的には悪くないので、せっかくならもっと広がるメディアの選択をした方がいいのでは、と思います。Kindle版はこれでいいですが、音源の部分は、リンクをつかってその場で聞けるようにしてもいいかもしれません。紙の本はCD抜きで、アマゾンのオンデマンド本にして値段的にはKindle版と同じか、それ以下にすればいいのでは。音源の選択は、アクセスしやすいものに変更するなどしてもいいかもしれません。おそらくこの手の本は、発売時ほど売れるものではないので(発売時はNHKで同様のタイトルでシリーズ放送があったようです)、重版は難しいとして、印刷原稿はすでにあるのだから、アマゾンのオンデマンドにするのは容易だと想像します。出版のための初期投資も必要ありません。InDesignなどで制作されたデータをPDFに変換し、アマゾンに登録するだけ。そうすれば「オンデマンド本」として、CDブックやKindleに併記されます。

学校と名乗っているからには、商売の面だけでなく、絶やすことなく続けていくことが大事ではないでしょうか? 著者・監修者の坂本龍一さん、版元のエイベックス・マーケティングさん、いかがでしょうか?
(実はこのあと『20世紀の音楽 II - Vol.15』を買ったのですが、こちらはちょっとがっかりでした。ラヴェルの巻と違い、複数の音楽家や楽曲を扱っているせいなのか、一つ一つの推薦曲の説明があまりなく、冒頭の鼎談は、どの曲をCDに入れるべきかの議論に終始しているように見えました。)

コモンズスコラの例を見てわかるように、紙の本のことを考えている人は、他のメディアに対しての広がりに欠けることがしばしば見受けられます。この本の場合は、まだ、Kindle版があるので救われますが。

日本では新刊を出す際、多くの場合、Kindle版を同時には発売しません。先に紙の本を出して、しばらくしてからKindle版というのが方法論になっているようにも見受けられます。それでも、Kindle版を出すプランがあるなら、まだマシですが。日本でKindleが発売になってからもう数年たちますが、いまだに新刊を紙の本でしか出さない版元や著者はいます。音楽流通の変化と比べてみると、根本の考え方のところで、何か壁になるものがあるのかな、とも感じます。

仮に音楽がCDというスタンドアローン型のメディアでしか聞けない、という状況を想像してみれば、本が「紙の本」というパッケージ商品のみでしかアクセスできないことは、本の幅広い流通にとってマイナスになってくる可能性は大いにあります。

本というメディアは、独自の優れた型をもっています。紙の束が表紙で綴じられ、序文や謝辞、紹介文などがあり(英語圏などの本の場合)、目次があり、本文があり、索引や参照のページ、奥付やクレジットと、一つのパッケージとして完成した形だと思います。本好きや本の虫と自称する人々は、それに加えて、インクの匂いや紙の手触り、表紙のデザインや帯の面白さ、美しさなどに愛着を抱いているようです。それも楽しみとして大いにありでしょう。

でもそれが高じるあまり、他のメディア、他の形式の本への関心が弱まってしまうのは、残念なことです。両方あってこその豊かさだし、本が広く、多くの人々に、さまざまな場面で、多様なアクセスの仕方で広まっていくことは、本が人々の生活とともにあること、いまの生活の中に溶け込んでいくために大切ではないかと考えます。本が売れない、読まれない、と嘆く前に、こうした利便性の開発にもっと敏感になっていってもよさそうです。

電子書籍が広まっていけば、さまざまな横断的な本のアイディアが生まれてくることもあるでしょう。音楽をコンピレーション的に聞くように、本のコンテンツも読む側が再編集して楽しむなど。同じテーマで書いている違う作家によるエッセイを、並べて読むことも可能になります。過去の本の電子化がもっと進めば、さらにこのコンピレーションは豊かなものになるでしょう。同じテーマについて書かれた夏目漱石と平野啓一郎と山崎ナオコーラのエッセイを、単体で購入して(あるいはサブスクリプションで)比べて読むといった楽しみもあり得ます。コンピューターやデータベースは、こういうことをするのに適していて、大きな力を発揮します。

よくできた本の編集の力は尊敬すべきものがありますが、コンテンツを単体で楽しむことを読者の側に明け渡す勇気もあっていいように思います。どちらにも利点はあるのですから。普段単体で音楽を聴いていても、アーティストの意図を反映するアルバムで楽しむことも、そのプログラムが面白くユニークであれば、充分あることです。

また、素晴らしくデザインされた本をいつくしんで読むのも一つですが、読む方が自分の端末で文字の大きさや行間、フォントを選んで読む本、つまり中身(コンテンツ)重視の読み方も一つです。電子ブックでは、デザイナーが意図する素晴らしいデザインの恩恵を受けられない分、読みたいときに即座に手に入り、あるいはサンプルをまず読むことができます。それが海外の出版社のマイナー本でも、何週間、何ヶ月と待つことなく、即座に読みはじめられるという長所は、かなり大きな利点となり得ます。(想像では、洋書を読む人の大多数は、Kindleを利用しているのではないでしょうか。読みながら内臓辞書を使えますし)

本という素晴らしい発明が、紙というメディアの中だけで完結しないよう、出版社、編集者、デザイナー、著者、アーティストは心を一段階アップデートする必要があるかもしれません。シェアの精神と受け手の利益を中心に、メディアの選択はされていくといいと思います。それが結局、本が日々の生活に溶け込み、生命力をたもつための支援にもなりそうです。

P.S. ウェブの本の場合、日本語が縦書きで読めないのでは、と思う人もいるかもしれません。縦書きで文章を読みたい人は、それができるソフトも開発されています。ボイジャーの理想書店が発売している本は、ウェブ上で縦書きで読めたと思います。ただ葉っぱの坑夫の本は、ウェブだけでなく、Kindle本も紙の本もすべて横書きです。それは横書きの方が利便性、応用性が高いと思っているから。最近の本は、ジャンルに関わらず文章の中に欧文がたくさん出てきます。専門書はもちろん、それ以外の本でも欧文表記は増えています。それをいちいち90度角度を変えながら読むことのストレスは小さくありません。時に学習英語の解説書のようなものも、縦だったりします。縦書きでなければならない理由があれば別ですが、今の時代、みんなウェブの記事は横書きで慣れていますし、日本語書体も横書きに適したものが開発されています。もっと横書きの利便性、応用性が認められてもいいのでは、と思います。

20190308

どこまでが自分? 学校の中の人権


アメリカに20年くらい住んでいる人が、今後日本から移住するかもしれない人のために、自分の経験をつづっている本を読んでみた(ワイズりか著『20年住んでみたアメリカ』)。本の大半は特別おどろくようなことは書いてなかったのだが、1箇所だけ、まるで聞いたことのない話があった。 

アメリカの学校では、生徒の出自がいろいろで(著者は「人種のるつぼ」という言葉をつかっていたが、「人種」というのは一種の差別用語なので、つまりホモ・サピエンスには科学的見地からいうと種の区別はないので、ここでは使わないことにする)、髪の毛の色や肌の色など見た目の容姿がばらけているという。そのため、学校では(高校以下のことだと思う)髪の色や髪型などに関して、特に規則はないらしい。髪の毛の色については、もともとばらけている上に、赤、青、紫といった突飛な色に染めている子どももいるようだ。スタイルもモヒカンあり、アフロありといった具合で、男の子の場合、中高生でもあごひげスタイルというのもありらしい(日本では大人でも会社員は難しいのに)。

そのことに加えて、どういう意図からなのか、あるいは何か教育的な目的があるのか、「パジャマデー」「クレイジーソックスデー」「クレイジーヘアーデー」などのイベントが校内であるという。パジャマデーというのは、先生も生徒もみんなパジャマで登校する。クレイジーソックスデーはド派手なソックスをみんなが履いてくる日。そしてクレイジーヘアーデーとは、髪型、髪色を自分が面白いと思うスタイルにして登校するイベントだという。

どんな風に面白い髪型にするかというと、針金を髪の中に入れて高く逆立てたり、ヘアスプレーで角のように固めたり、カラースプレーでカラフルに色をつけたり、頭頂部のお団子に目をつけたり、などするらしい。そんな格好で勉強が落ち着いてできるのか、と思うかもしれないが、まあ1日限りのことだ。子どものことだから、とんでもないアイディアを思いついたりして、教室がかなり楽しいものになるのかもしれない。

パジャマで学校に行ったり、面白い髪型で1日を過ごすこと、いったい誰がそんなことを思いついたのか。案外こういう極端なこと、いわば「社会規範からはずれるような行動」をあえてしてもいい日として子どもたちに自由を与え、社会の制約から解放することには、思わぬ効果があるのかもしれない。たとえば極端なことをすることで、改めて「まともな姿や行動」とは何かと気づかされるとか。たまにすると楽しいけれど、してもいいということになれば、別に毎日することもなく、極端な格好によって自己主張しなければならない必要性も薄らぐといったような。

髪色や髪型を自由にしているのは、素の状態でいるときにばらつきがあるから、ということもあるだろうけれど、基本的に、アメリカの学校では子どもの人権がふつうに認められているからかもしれない。子どもと言っても、一人の人間であるというような。

アメリカの学校における子どもに対する自由度は、みんな同じ人間ではあるけれど、個々の人間には様々な違いもある、ということを認識しているからかもしれない。日本だって、本当は単一な人間のかたまりではないはずだけれど、いつの頃からか、そういう見方をするようになってきたところがある。おそらくあるがままの姿を見ようとしてそうなったのではなく、あえてその見方を選び取ってきた結果だと思う。

日本人というのは別に日本人という「人種」があるのではなく、日本に国籍があるというだけのことだ。朝鮮系、中国系、台湾系などに加えて、最近はヨーロッパ系やアフリカ系の日本人も数が増えてきている。スポーツの世界では、若手の選手にヨーロッパ系だけでなく、アフリカ系の人も見られるようになった。テニスの大阪なおみさんは、グランドスラムで優勝したことで、ここのところ注目を集めている。アメリカと日本の両国籍を現在はもっているので、この先どちらを選ぶかはわからないが。現在は日本の選手になっているようだ。

このような現実を見ても、日本人は「日本人と想定されるただ1種類」の容姿をもった人間、と規定することがいかに難しいかわかるだろう。しかし日本の学校で現在行なわれている「容姿に関する規律、規則」は、この事実から著しく外れている、としか言いようがない。「地毛証明」という言葉を聞いたときは、本当のことなのか信じられなかった。

以前に学校に関する調査報告書を目にしたときは、少なくない数の学校が服装や髪型、髪色について、日常的に事細かに検査を実行して、生徒を従わせていると知った。その際、生まれつき髪色が茶色っぽい生徒は、親が「地毛証明」を学校に提出したり(幼児のときの髪色を証明する写真を付けるなど)、ひどい場合は、髪を(日本人としてあるべき色である)黒に染めさせられていると聞いた。

最初はほとんど信じられなかった。封建時代じゃあるまいし、今の世の中で、いったいどこでそんな理不尽なことが許されるのだろうか、と。これは去年はじまったばかりのことではなく、少なくともここ数年以上つづいているようなのだ。いや、もっと前からかもしれない。ここには学校の規則に生徒が従うか従わないか、といったこと以上の問題が含まれている。

学校という場は一つの社会だ。先生は国語や算数といった教科を教えているわけだが、それだけではないだろう。学校が子どもにとって一つの社会であるなら、集団内で人間と人間が日々出会い、交流し、議論やけんかをし、ということを重ねる中で、どのように信頼関係を築くか、どのように助け合うか、といったことも学んでいく場であるはずだ。社会のあり方の見本のようなものを、完璧ではなくても、少なくともどうあるべきかが伝わるようなことを、学校や先生は示していかないといけない。(現実の社会がいかにそこから離れていたとしてもだ)

先生が昔の憲兵(今の時代警察官だって、礼儀をわきまえないと訴えられるだろう)のように、生徒の服装や髪型、髪色をチェックしたり、無理やり従わせようとすることは、どう考えても時代錯誤に見える。おそらく学校は、治外法権のようなところがあるのかもしれない。親も先生からニラマレたくない、内申書にひびくなどの理由で、あるいは「しつけは厳しい方がいい」などという妙な理屈で、学校の子どもに対する人権侵害を認めてしまっているところがあるのだろう。

学校による理不尽な規則や、学校および先生による検閲や強制という人権侵害を受け入れてしまったら、子どもたちのその先の人生、つまり未来は暗い。内申書どころのレベルの話ではないと思う。

最初に書いた「パジャマデー」や「クレイジーヘアーデー」といった学校イベントは、日本の学校でこそ必要としているものだ。そのような日を1日設けて、先生も生徒も規律や規則の枠をいったん無化してみたら、気づくことはいろいろあるのではないか。何をあんなにこだわっていたのか、その意味は何だったのか、そういったことに、ちょっとは考えが至るかもしれない。

参考
朝日新聞/地毛証明書(2017年05月15日 朝刊)生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしているか、生まれつきの髪かを見分けるため、高校入学時に一部の生徒に提出を求める書類。名称や書式は各校で違うが、多くは保護者が「髪の色が栗毛色」などと記入し、押印する形。朝日新聞の取材では、都立高校(全日制)の約6割の98校が導入。少なくとも19校が、幼児や中学生の時の髪がわかる写真を裏付けとして求めている。 
日経新聞/高校時代に黒髪強要18%(2018/3/11 17:05)
「ブラック校則」と呼ばれる学校での理不尽な規則をなくそうと活動しているNPO法人などが11日までに、全国の15歳から50代までの男女計2千人を対象に、中高生時代の経験を尋ねたアンケート結果を発表した。生まれつき髪の色が黒以外の人のうち、9%が中学時代、18%が高校時代に、黒く染めるよう求められたと答えた。 
中学時代の経験を答えた千人のうち121人が生まれつき黒髪以外で、この中の11人が黒染めを強要されたと回答。21人が「地毛証明書」を書かされたと答えた。高校時代の経験を答えた千人の中では生まれつき黒髪以外は119人で、うち21人が黒染めを求められたという。

東京都教育委員会は、地毛証明書の制度を是認しているようで、学校で頭髪指導するときに間違った指導をしないため、と考えているようだ。つまり地毛が茶色いのに、強制的に黒に染めさせるといった指導を避けるためということのようだ。しかし何かおかしくはないだろうか? そもそも髪の毛の色について、地毛であれカラーリングであれ、学校が関わってくることは考え方として正しいのだろうか。

茶髪は不良のはじまり? 勉強が落ち着いてできない? しかしそんな心配をするより前に、頭髪検査や地毛証明などを実行することで、先生(学校)と生徒の信頼関係が地に落ちることは構わないのだろうか。信頼関係のきちんと成り立っていないところに、厳しい規則と検閲があると、関係性は壊れる方向に進むのが常だ。

頭髪の色だけでなく、下着の色(おそらく女子生徒)まで検閲の対象になる学校もあると聞く。学校という場は、社会に出て生きていく人間の準備機関として、どんな風に生徒を成長させたいと考えているのか、日本の学校のことを知るとわからなくなる。髪の毛の色であれ、下着の色であれ、それはほぼ100%、それを所有する人間のテリトリーの話だ。子どもたちは学校という社会に出ていったとき、集団の中で、自分とその外部(社会)の境界というものを体験するするはずだ。どこまでが自分であるか。どこからが他者なのか。

学校から過剰な立ち入りをされた子どもたちは、その境界の引き方に迷いが生じたり、自分の規定の仕方を誤るかもしれない。自分は自分であって自分でない。髪の毛の色ひとつ、髪型ひとつ、自分で決める権利などないのだ。からだやその周辺の自分に一番近いことを、他者の判断にゆだねて長い間暮らす、学校生活を送る、ということの弊害は小さくはないだろう。

こういったことの詳細が、日本の外の国々に知られることはあまりないのだろう。知られれば、驚かれ、反発を受けるだろうが、「知られはしない」あるいは「日本には日本のやり方ある」と居直ることで続けていられるのかもしれない。

たかが髪の毛の色、という話ではないことは明らかだと思う。

Crazy Hair Day at school
by OakleyOriginals (CC BY 2.0)
参考 
パジャマデーやクレイジーヘアーデーは、アメリカの学校の伝統イベント「Spirit days」から来ているという記事があった。それは月に一度、校内で何かバカバカしいテーマを設けて、みんなで参加するものだという。それぞれが違った格好でコミュニティに参加し、創造性を発揮するチャンスを生徒に与えるのが目的のようだ。その際、授業などのスケジュールは、いつも通りにやるのが原則。