20161222

工業型農業、生命特許???

先日アップリンクのクラウドで『パパ、遺伝子組み換えってなぁに?』(原題:GMO OMG/2013年制作)という映画を見た。食品の遺伝子組み換えについて、パパ(映画監督ジェレミー・セイファート)が、自分の子ども二人といっしょに旅をしながら調べるロードムービー。ちなみに原題のGMOはGenetically modified organism(遺伝子組み換え生物)で、OMGはOh My God。

アメリカでは食品にGMOの表示義務がないことから(映画公開後の2016年に、バーモント州で表示義務が施行されたが、Qコードによる表示のみという)、遺伝子組み換えに対する知識やそれを含む食品への関心が一般的ではないらしい。日本では大豆、トウモロコシ、パパイヤなど8作物と加工品33品目についてのみ表示義務があるようだ。しかし大豆やトウモロコシを原材料とする醤油やコーンフレーク、菜種油、砂糖などの食品については、表示義務がないそうだ。また豚肉など家畜の飼料も表示義務がないため、遺伝子組換えの大豆やトウモロコシが使われてる可能性はある。

農林水産省のHPによると、大豆は国産22万t に対して輸入70万t で、輸入元はアメリカとカナダ、しかし非GMO大豆を輸入しているとあった。日本で表示義務のある作物で、GMOであっても流通しているのはパパイアのみだそうで、その他の作物は販売・流通が認可されているものの、消費者が不信感を持っているなどの理由で、実際には市場には出まわっていないようだ。

遺伝子組換え食品というと、まず人体への悪影響を心配することが多いが、映画を見て感じたのは、そのことだけがこの問題の論点ではないということ。もっと大きな社会の仕組に関わること、グローバルレベルに拡大された世界の仕組、北側先進国の一握りの巨大企業に農業や農産物が所有され、私物化されてしまうことが問題なのだ。

この映画では6歳になる監督の長男が、種集めが大好きなことが冒頭で紹介される。たくさんの植物の種をコレクションしている。種屋さんに行けば興奮し様々な種を見てまわる。種の不思議、そこから生まれる生命の秘密に興味を持っているのだ。昔からの農業にとっては、この種こそが作物のはじまりだった。種を蒔き、育て、収穫する。そしてそこから得た種をまた蒔く。ところが巨大企業が特許を持つ遺伝子組換えの種子は、種を購入したときだけでなく、作物から収穫して得た種に対しても特許を要求するらしい。利用料を支払うのだ。さらには、収穫した種を勝手に使わせないよう、ターミネーター技術というバイオテクノロジーによって、収穫した種を発芽させないようにすることも可能らしい。

これが生命特許と呼ばれるものだ。組み替えによる遺伝子が、知的所有権に当たるということ。

監督ジェレミー・セイファートは、巨大種子企業の筆頭、遺伝子組み換え市場シェア90%を誇るモンサント本社(アメリカ)を訪ねたり、GM食品の長期給餌の実験を行ったフランスのセラリーニ教授に話を聞きに行ったり、さらには種を保管する「種子銀行」を見学しにノルウェーまで足を延ばす。この種子銀行「スヴァールヴァル世界種子貯蔵庫」は、北極圏にあるノルウェー領スヴァーヴァル島の凍土に作られた、巨大な冷凍貯蔵庫である。ノルウェー政府によって2008年に設立され、世界中から送られてくる箱詰めの種子を未来のために冷凍保存している。

映画によれば、遺伝子組み換えの種子は、農薬とセットで販売されることが多いそうだ。種子は除草剤に対して耐性があるように生成され、農薬を散布しても作物自体は成長を阻まれない。あるいはさらに、通常より早く大きく成長するような遺伝子が組み込まれている。遺伝子組み換えによる種子は、わたしたちが直接口にする作物だけでなく、食肉用家畜の飼料にも利用される。

アメリカやカナダは遺伝子組み換え大国と言われ、日本に入ってくるたくさんの食品は、(日本の基準値内であったとしても)その影響を受けていると見ていい。たとえばキャノラー油と呼ばれる料理用オイルは、カナダ産の品種改良されたキャノラー種の菜種から作られる。そしてカナダは遺伝子組み換え大国。キャノラー油を使うことは、遺伝子組み換えのオイルを使うこととおもっておそらく間違いない。パッケージには「菜種から作られました」とあるかもしれないが、カナダ産のキャノラー種の菜種のことである。

このように農産物が、そのスタートである種子のところから、巨大企業に独占されていくとどのようなことが起きるのだろう。豚肉、鶏肉、牛肉などの畜産業では、かなり前から工場型畜産という言葉が使われてきた。身動きできないくらい狭い場所で、より早く、より大きくたくさんの家畜を「製造」する、家畜工場のようなイメージである。のんびり草を食む放牧場の牛や、広い敷地を駈けまわる鶏を想像することはもう何十年にも渡り、難しくなっているのが現実だ。そして農業もいま、工業型農業と言われるようになっている。

個人的にはある生協の組合員になっていて、多くの食品を生産者のわかるものでまかなっている。豚であればどのような環境で育てられているか、どんな飼料が使われているか、抗生物質が投与されていないか、農産物であればどのような肥料が使われ、農薬の散布回数はいつ、どれくらいなのか、など確かめながら購入することがある程度できている。遺伝子組み換えについては、使われているかどうかの細かい表示がある。

遺伝子組換え野菜として、熟しても皮が崩れないトマトがあるそうだが、これまでトマト缶はよく使うので、1缶100円前後で買えるものをスーパーで入手していた。生協のものは同じ容量で倍以上の値段だ。なぜなのか。よく見ると、パッケージは似ていても「長野県産トマトを使用」などの表示があり、製造元もデルモンテやカゴメではなく長野の地元工場だ。味的には変わらないのかもしれないが(まだ食べていない)、出自が特定できることで安心感はある。

食品の出自ということでいうと、最近、新たな表示がスタートしたことを知った。製造所固有記号というもので、賞味期限のところに(+SF)などプラスとアルファベット二つの組み合わせで表示される。これは販売者・製造者と実際に製造した事業者が異なる場合に、その情報を記すもので、この記号を元に消費者庁のウェブサイトでどこで製造されたかを調べられるという。2016年4月よりスタートしているが、移行期間が2020年3月31日までなので、まだ+表示のある食品はあまりないらしい。

食費というのは誰もが日々支出するもの、少しでも節約したいという気持ちはあって当然かもしれない。しかしPB商品など素材の大量入荷による価格コントロールのせいだけではなく、安いものには素材の出自などそれなりの理由があるかもしれない。大量に一時に仕入れすることを考えれば、工業的な素材調達や手順が必要になるのではないか。有機農業を営む小規模農家が、バラバラに個別に出荷しているとは思えない。日本の農家が、そして農業全体が厳しい状況にある、というのはずいぶん前から耳にすることだ。安い農作物が海外から大量に入ってくることが、そしてそれに消費者が飛びつくことがどういう結果を生むのか、一度考えてみてもいいだろう。

遺伝子組み換えではない種子を使い、化学肥料に頼らず、少しでも農薬などの散布を減らしている作物を手にする努力をすることが、国内の良心的な農家とつながり支援することになりはしないか。巨大企業の支配する工業型農業への抵抗になりはしないか。出発は自分や家族の健康への配慮であったとしても、関心を持つ人が増えれば、工業型農業、遺伝子組み換えによる農業への移行スピードを遅らせることができるかもしれない。


*筆者はこの問題についてまだ知り始めたところで、知識は途上。書いたことの中に正確さにかけるところがあるかもしれません。この問題に興味を持たれた方は、信頼できるネットの情報や書籍などで知識を積むことをお勧めします。


参考:
オルター・トレード・ジャパン(ATJ)
http://altertrade.jp/alternatives/gmo/gmojapan

科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体「遺伝子組換え種子の特許切れ 自由利用を阻む再審査制度」
http://www.foocom.net/column/shirai/7174/

ノルウェーの種子銀行Svalbard Global Seed Vault
https://www.regjeringen.no/en/topics/food-fisheries-and-agriculture/jordbruk/svalbard-global-seed-vault/id462220/

20161208

動物園と水族館、その物語性とリアル

デニース・ハージングの『イルカ日誌』を翻訳、出版したことで、飼育環境にいる野生動物に興味をもつようになった。動物園や水族館にいる生きものはほぼすべて、元は野生動物である。自身またはその親、祖父母などが野生の地からやって来た(連れてこられた)。その出自と、晩年(展示やショーから引退したのち)の暮らしを知ることなしに、動物園や水族館の動物を真に理解することはできないのではないか、と思うようになった。

最初に興味をもったのは、『イルカ日誌』の中に出てくる「ゾウの聖域」(The Elephant Sanctuary)と「類人猿センター」(Center for Great Apes)である。前者はテネシーに、後者はフロリダにある。サンクチュアリと呼ばれる動物の保護施設で、この二つ以外にも、インドやタイ、中国などに同様の施設がある。

「ゾウの聖域」は、サーカスや動物園で20年間、ゾウの調教をしてきたキャロル・バックリーが、1995年にスコット・ブライスとともに作った、引退後のゾウのための保護施設である。テネシー州ホーヘンウォルドに110エーカーの土地を得て、そこにキャロルが長年生活と生計をともにしてきた、タラという名のゾウを保護したのが始まりである。これまでに「ゾウの聖域」には、動物園やテーマパークなどから送られてきた引退後のゾウ27頭が暮らし、じょじょに広げてきた敷地は2700エーカーとなった。

ここで「ゾウの聖域」の最初の居住者であるタラの出自と来歴を紹介してみよう。
1974年ビルマ(現ミャンマー)で生まれる。生後半年のとき、アメリカに貨物用飛行機で送られる。タイヤ商に買われ、デリバリー用トラックに積まれてそこで暮らす。2歳のとき、タラはキャロル・バックリーに買われ、芸を仕込まれる。ローラースケートを履くゾウとして名をはせ、その後の20年間、キャロルとタラはサーカス、動物園、アミューズメントパーク、テレビや映画などでショーをしながら国じゅうを旅する。1995年、キャロルはスコット・ブライスとともに「ゾウの聖域」を設立。タラは最初の居住者となる。


Carol and Winkie in 2004 in Tennessee. Carol Buckley (CC)




キャロルは長年にわたり、ゾウの調教師として働くうちに、ゾウにとっての幸せとは何か、真剣に考えるようになったようだ。そしてタラをショーから引退させ、ゾウのための安息地をテネシーにつくった。タラだけでなく、合衆国のいたるところにいる動物園などのゾウたちを引き受けるようになる。タラ以外のゾウの来歴を少し見てみよう。

ビリーは1962年、インドに生まれる。動物園にいる多くのゾウと同じように、とても小さなときに捕獲され、アメリカに連れてこられた。以来、動物園での展示やショーで芸をする生活を送る。動物の訓練やリースをする会社で飼われていたとき、ビリーは調教師の手にあまるようになり、ある施設に送られる。米国農務省の調査でそこでの扱いが虐待にあたると判断され、ビリーをはじめとする8頭のゾウが、2006年、キャロルの「ゾウの聖域」に送られた。

ゾウに限らず、動物園や水族館、サーカスにいる野生動物の多くは、アフリカやアジアなどの草原や森、海や川から捕獲されてきたのだ。生まれて間もない、まだ母親といっしょにいる年齢で家族から引き離され、遠く離れた見ず知らずの土地に連れてこられた。そこは生地とは気候も環境もまったく違う場所だ。ホッキョクグマが暑い土地へ、熱帯の動物が寒い国へ、と人間の娯楽のために移動させられる。野生の環境とはまったく違う、冷暖房付きの狭い檻や水槽に閉じ込められてしまうのだ。調教師や飼育係によって、年齢の低いうちに飼いならされてはいくのだろうが、ゾウのビリーのように、大きくなってから人間の手に負えなくなることもよくあるようだ。また成長したオランウータンやチンパンジーは非常に強く、人間が扱うのが難しくなると聞いた。

そのような状態になったとき、もういらないからといって、動物を野生に戻すことは難しい。動物園にいる動物が年をとったり、病気や障害に見舞われたり、ビリーのように人間の手にあまるようになってお客の前に出せなくなったとき、「ゾウの聖域」や「類人猿センター」のようなケア施設がない国では、いったいどうしているのか。ちなみに日本にはそのような施設はない。『イルカ日誌』には、引退したイルカが、水族館の裏部屋の小さな水槽で、ひとり寂しく終末を迎える様子が描かれている。

「行動展示」というネーミングで大きな人気を呼んだ旭山動物園が観客に見せるのは、元気で若い生き生きと行動する動物の姿だ。これが野生の命です、と小菅園長は言うかもしれないが、すっかり年をとり、あるいはあちこち病気やガタがきて、なんとか生きている動物だって、同じ野生の命だ。身に合わない場所で生活していることから、より大きなストレスにさらされる動物園の生きものは、病気への耐性が低いという話も聞く。しかしそうなった姿を動物園は、観客に見せるわけにはいかない。

そう考えると、良心的でクリエイティブなアイディアにあふれる動物園も、元気で若く、活発な姿のみを見せるという、動物にまつわるある一面、一つの物語(見せたい物語)を提出しているに過ぎない。それが本当に「本物の野生の命にふれる」体験になるのか、子どもたちに野生の姿を見せるという教育目的にかなうのか。

旭山動物園の小菅園長は、『戦う動物園』の中で、動物園の存在理由についていろいろ悩み、考え、動物や動物園について学んだのち、「人間だけでは精神は病む」「人間が動物である限り、動物園は必要だ」という確信をもったという。長年動物と間近に暮らし、その動物を維持する施設を運営をしてきた人の結論なのだから、少なくとも人間の側から見た場合、そこになんらかの真実はあるのかもしれない。しかし「人間には動物園が必要である」ことを認めた場合も、「生まれて間もない野生動物には、母親が必要である」「母親は産んだ子を手放したくない」こともまた真実だ。繁殖ですべをまかなえるわけではない(ゾウなど繁殖が難しい動物もいる)動物園は、動物の入手に関してどうしても「生まれて間もない野生動物の捕獲」に関わらざるを得ない。

チンパンジーやオランウータン、ゾウは、ワシントン条約で絶滅危惧種として、輸出入に関して最も厳しい条件が付されている動物だ。イルカなどクジラ目の多くの種も同様だ。この条約には考え方として、人間の商用利用について、過剰な捕獲行動を取り締まるということがある。これはどんな種であれ、動物園や水族館の未来に関わってくることに違いない。展示素材となる野生動物が、人間との関わりの中で数を減らし、希少化していることを、動物園や水族館はどのように捉えたらいいのか。「絶滅危惧種を動物園や水族館で繁殖させる」という考えを聞くが、どこまで実効性があるのかについては疑問だ。おそらく動物園内の(あるいは動物園どうしの)補充の足しにはなるのだろう。

子どもたちの教育目的ということで言えば、動物園の存在を善とする運営者は、都合のいい部分、気持ちのいいことだけを見せようとするのではなく、捕獲から終末までのすべての生涯を伝える必要がある。その野生動物がどんな気候の、どのような自然環境に住んでいたか、動物園という「善なる仕組」により捕獲(または他の園から購入、あるいは産地の王族から贈られる)という流通を経て、囲いの中に住むようになったいきさつ、そして年をとったり人間の手にあまるようになったとき、どのような処置が施されるのか、どこでどのように生きているのか、その全体が明らかにされることで、動物園にいる野生動物の存在は意味をもつ。ある部分のみ切り取った「野生はこんなに素晴らしい」という展示は、人間のつくりあげた物語に過ぎない。ある日突然、魔法のようにこの世に現れたディズニーのキャラクターのような存在だと思う。