20080224

アダムスと宮武東洋。マンザナールの写真家。著作権法。

最初に、2008.2.18「アンセル・アダムスとオースティン」で書いたことの訂正を。
『真珠湾攻撃の後、アダムスが日系人抑留のことを知り衝撃を受けて、マンザナール強制収容所を訪ねた』という部分。これはそこにも書いたが、Wikipedia 日本語版による情報である。しかし、"Manzanar"(by John Armor and Peter Wright; photographs by Ansel Adams, 1988, Times Bokks)によると少し事情が違う。

この本によると、アンセル・アダムスは、マンザナールの副所長であるラルフ・メリットに招かれて収容所を訪れている。メリットはアダムスをヨセミテの写真作品などで知っており、二人は友人関係にあった。メリットがアダムスに声をかけたのは、マンザナールの記録を写真で残すため、とも書かれている。アダムスがマンザナールを訪れたのは、収容が始まった約1年半後の1943年の秋のこと。アダムス自身の記述からの引用によると、「沙漠と山々に囲まれた場所で生まれる人間物語に動かされ、自分自身の写真にも何か残すことを願って」「当時の悲劇の気運とともに、カメラを手に」マンザナールを訪れた、とある。("Born Free and Equal" 1944年)

アダムスの記述で非常に興味深いのは、高い山々(シエラネヴァダ山脈)に囲まれたこの沙漠の乾燥地帯の見事さが、収容所の人々の心を元気づけたに違いないと言っていること。すべての人がとは言わないけれど、と付け加えながらも、たぶん多くの人々がこの土地の自然に対して心を響かせていたのではないか、と書いている。それはアダムス自身がこの地帯の自然を心から愛し、写真を撮り続けていたからなのだろうが。そしてこの粗悪な沙漠の土地から、日系人たちは品質の良い農作物を生み出していた、とも書いている。

このあたりのことは、もう一人のマンザナールの写真家、と同時にここの収監者でもあった日系人・宮武東洋の文章や写真に詳しい。宮武の"Behind The Camera: 1923 - 1979" に見られる日系人の姿は、興味深く、また心打たれるものがある。従順で、真面目で、努力を惜しまず、働き者で、環境に順応、適応し、一種楽観主義者であり、物ごとを真剣に考え過ぎない現世主義者、、、などなど。収容所の日系人たちの中には、バラック建ての「自宅」の玄関前を、花々や植木で埋めつくして調度日本の下町の路地のような風景をつくっている者もいた。その「自宅」前でにっこり穏やかな表情で家族写真に納まっている日系人。ひょっとして日本の民族は、おそろしく強靭で、図太い人々なのかもしれないと思った。

初めにもどってアンセル・アダムスの記述についてだが、たぶん、アダムスは「衝撃を受けて」マンザナールを訪れたというよりは、さまざまな好奇心と写真家としてのいくらかの野心に突き動かされて、この話を受けたのではないだろうか。とはいえ、アダムスはここで撮った写真のすべてをLibrary of Congress(アメリカの議会図書館)に委任し、著作権を放棄している。それはこの事件(日系人収容という)を後世に残し、より多くの人間に(日系人の遺族や関係者も含め)伝えるためであったのではないか。

写真家というのは、そしてすべての作家は、自分の作品を自分の意志で、どのように後世に残すかの選択権がある。そこにはどんな著作権法も介入はできない。著作権70年延長に反対するのも有益な活動の一つだと思うが、作家自身が自分の作品に対して意思決定をしていくことも、これからの時代、重要だと思う。出版社の役割として、作家とともにそういう方向のあり方(著作権の範囲を自ら決めていく)を考えていってもいいのでは、と思う。

20080221

美術、写真の本の検索ネットワーク

アンセル・アダムスの古い写真集を閲覧するのに、久しぶりに恵比寿の写真美術館に行ってきた。行く前にウェブにアクセスしてみたところ、ネットで図書の検索ができるようになっていた。地元の図書館ももうだいぶ前から図書の検索や予約ができるようになっていたから、当然のこととは思うが、離れた場所にある場合はなおのことこの便利さが嬉しい。写真美術館では、書庫の本は通常、向こうで検索して請求用紙をプリントするのだが、家のパソコンで検索してプリントしたものをそのまま請求用紙としても扱ってくれる。大変便利である。

写真美術館のネット検索をしているときに、美術図書館横断検索、というのを見つけた。東京にある都立、国立の美術館の図書室にかぎったネットワークだが、それにプラスNACSISという大学関係の図書館のネットワークもいっしょに検索できる。この大学関係の図書館というのが、かなり珍しい本、古い本など、国内の一般公立図書館、書店などでは手にとることのできないものを所蔵していることが多い。洋書についても同様。ただし目当ての本がせっかく見つかっても、新幹線や飛行機でないと行けない場所の大学であったりすることも多い。以前、チャップブックについての本を調べていて、行ける範囲の首都圏の大学を一つだけ見つけて、足を運んだことがある。確か多摩地区の大学だったと思う。最近は、大学の図書館が、外部の人間に閲覧(と複写)のみ解放していることがある。特殊な本、珍しい本、古い本(年代物といっていい、相当古い蔵書があることも珍しくない)は、学内の学生や講師、教授にもめったに探されることなく、寂しく棚に収まっているだけかもしれないから、有効利用として一般に解放するのはとてもいいと思う。

図書館の検索ついでに、国会図書館の検索を久々に使ってみた。場所がわざわざ行くようなところにあるだけに(永田町)、家で調べてから行けるのはとても便利。さらに、デジタルアーカイブがかなり充実してきているようだ。思いついて星一の図書がないか調べてみた。星一とは、SF作家の星新一のお父さんで、星製薬の創始者である。最近、星新一による「人民は弱し、官吏は強し」という星一の製薬会社での奮闘を書いた評伝を読んで、星一に興味を持っていた。仲間から「アメリカ人」と言われていたことからも推測できるように、日本人としてはかなりユニークな人だったようだ。本を読んだ限りでも、平均的日本人の正反対の性向が見てとれた。この星一の書いたもので、実は探しているものがあった。大正の終り頃書かれたもので、通常の出版物ではないもの。さすがにそれは書誌、本文データともに見つからなかったが、「三十年後」というSF小説が見つかった。これはデジタルアーカイブの所蔵図書で、ネット上で閲覧が可能。ちょっと覗いただけだが、大変面白かった。旧仮名遣い、旧字、総ルビ入り。

ゆっくり閲覧している時間がなかなか取れないが、このアーカイブは探検すると宝がいろいろあるのかもしれない。閲覧はもちろん無料。インターネットの基本はやはり無料利用なのだと思う。

国会図書館の書誌データベースで、葉っぱの坑夫の本を引いてみた。「シカ星」を検索すると、出版地、出版年から著者、価格、言語コードまで、整理された情報がずらりと出てくる。形態のところには、「1枚:26×291cm(折りたたみ13×19cm)」と記述されていた。著者のところにはリンクがあり、きちんと他の著書とつながっている。このあたりは、amazon.co.jpのデータベースより精度がずっと高いと思う。お手本のようなデータベースである。本の周辺情報を全く知らない、職員の手でまとめられた書誌データを眺めていると、自分のつくった本の別の側面が見えてくるようでなんとも面白い。

葉っぱの坑夫を始めたときから、出版物にはISBNを振って国会図書館に献本、登録しようと思って実行していた。たいしたことを考えていたわけではないが、こうして書誌データを眺めていると、日本がある限り、後年までずっと50年、100年と本は残っていくのだな、と感慨深かった。大正の星一の本が、今閲覧できるように、未来の日本人、あるいは日本に住んだり、来たりした人々が、手にとって見たり、デジタルアーカイブで閲覧したりするかもしれないと想像すると、愉快な気持ちになってくる。

美術図書館横断検索

20080218

アンセル・アダムスとオースティン

モノクロームの風景写真などで知られるアメリカの写真家アンセル・アダムスは、1930年、2冊目の作品集「タオス・プエブロ」をメアリー・オースティンと作っている。アダムス28歳、オースティン62歳のときのこと。タオス・プエブロとはニューメキシコ州にある、プエブロ族の人々の古代からの村で、写真で見るとアドービれんがによる家と村が一体化したような、大きな城か集合住宅のような見映えが美しく特徴的な所だ。

現在翻訳中のメアリー・オースティンの「The Land of Little Rain」は初版が1903年だが、1950年版にはアダムスの写真が使われているそうだ。ただしこれはオースティンの死後なので、出版社かアダムスの企画だったのだろう。サンフランシスコ生まれのアダムスは、10代の頃からカリフォルニアのシエラネヴァダの山々を登っていたようで、環境問題に興味をもち、17歳で自然保護団体シエラクラブに入会している。シエラネヴァダ山脈とインヨー山脈に挟まれたオーウェンズヴァレーに住み、この土地についての著作をたくさん残したオースティンとは、何かの縁でその頃出会ったのかもしれない。

ところで、アンセル・アダムスをWikipediaで調べていたら、興味深い記述に出会った。太平洋戦争の真珠湾攻撃の後で、日系人抑留のことを知ったアダムスは衝撃を受け(2月24日に訂正を記述)、オーウェンズヴァレーにあるマンザナール強制収容所を訪ねているというのだ。国籍に関係なく、日系であるということだけで強制収容所送りとした自国への怒りがあったようだ。それにしても、オーウェンズヴァレーに日本人に関係した施設があったとは知らなかった。アダムスはこのときの訪問の記録として、「マンザナール強制収容所の忠誠心ある日系アメリカ人(Photographs of the loyal Japanese-Americans at Manzanar Relocation Center, Inyo County, California)」をニューヨーク近代美術館で発表し、フォトエッセイの本も出版している。

一般に、アメリカで移民生活を送った日系人のことは、日本ではあまり知られていないように思う。あるいは興味をもたれていない、といった方が正確かもしれないが。強制収容所にいた日系人についても同様だろう。

もうだいぶ前になるが、シンガーソングライターの矢野顕子がアメリカに移住したとき、日系移民に興味をもって調べている、と聞いたことがある。もう20年近く前のことで、その頃の時代性でいうと、移民という言葉自体、日本語にはあるけれど、それほど多く日常の場面で使われることのなかった言葉だったと思う。なぜ日系人の歴史などに矢野顕子が興味をもつのか、当時はわからなかったが、今なら少しわかる。わたしも知りたいと思う。どのような理由でアメリカに渡り、その後どういう経緯で定着してアメリカ人となっていったのか、それぞれの個人史を知りたいと思う。日本に住んでいると、自分自身も含め、自分のルーツにさほど興味をもたないが、もし移民であったなら、自分の家族の歴史をたぐり寄せ、どこからやって来て、どのように新しい場所に定着していったのか、知りたいと思うかもしれない。

移民の子孫として、自分の中に日本以外の、さまざまな言語、文化、生活習慣、民族や人種が流れていることを実感したとき、それはどんな思想へとつながっていくのだろう。アメリカ大統領候補、バラク・オバマの著書を読んでいても、彼の特徴的な資質である「対立の思想を無化する」思想は、複雑で多様な出自と成長過程に起因しているのでは、と考えさせられる。