20120825

アマゾン・キンドルが開く未来(1)


やっとキンドルを買った。3週間くらい前のことである。アメリカで発売以来ずっと欲しかった電子書籍用タブレット。

アマゾン・ジャパンは日本で年内に端末の発売とサービスを開始すると発表し、サイトで予約受け付けを始めた。が、正確な時期はまだ未定。世界では、アメリカを皮切りに、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどですでにキンドルでの読書が広まっている。日本では、出版業界の消極的対応やアマゾン、出版社間の契約項目の調整の問題で、長い間ペンディングの状態がつづいていた。角川書店など大手出版社の一部が動いたことで、ここ数ヶ月の間に状況は一変した。これまでもソニーなどが読書端末を扱ってきたがおおむね低調であった。

それがここへきて、楽天がコボタッチを日本で発売し、大々的に宣伝するなど、手の平を返したような状況が生まれつつある。アマゾンが年内、と期限を区切って発売の可能性を示し、電子出版での読書をリアルなものにしたからだろう。キンドル発売前になんとか先手を打ってしまわないと、、、という思惑が透けて見える。コボタッチは準備が整わないまま、見切り発車したためなのか、元々そういうレベルだったのかわからないが、肝心の本の収録が追いつかず、また装備や操作上の不備も露呈して、消費者の間で悪い評判を広める結果となった。

キンドル以前に読書端末として広まったものは、わたしの知る限りないので、おそらく2007年にアマゾン・コムが発売したキンドル第一世代により、現在の電子書籍の流れは始まったものと思われる。わたしがキンドルを欲しいと思った理由、たとえば人気を博したiPadを買うのではなく、キンドルこそ欲しいと思いつづけてきた理由はいくつかある。もちろんiPadとキンドルでは守備範囲が違う。できることや何が優先かもかなり違うので、単純に比べることはできない。が、大きく言えば、どちらもmobile computing のデバイスである。iPadはスクリーンが大きく、カラー表示ができ、本も読めるが、写真を見たり、映画や音楽を鑑賞したり、ゲームをしたり、と幅広い遊びができるタブレット。それに対してキンドルは、機種にもよるがメインのものはスクリーンがモノクロで小さい(標準機種で6インチ/約15cm)。それは読書に特化しているからで、音楽やオーディオブックも聞けるし、おそらくアプリケーションも入れられると思うが、主たる目的は読書である。あまり本を読まない人は、キンドルをもつ必要はないかもしれない。

わたしがキンドルこそ欲しいと思いつづけてきたのも、自分が本を読む人間だからだ。キンドルの本は、iPadやその他のデバイスでも読むことはできる。が、たくさん本を読むならやはりキンドルで読むのが一番。iPadと大きく違う点は、モニター画面がEインクという技術を導入していること。iPadはノートパソコンなどと同じ高解像度液晶ディスプレイでバックライトを使用しているが、キンドルのEインクは紙にインクで印刷したものに近い視認性をもち、見やすく目が疲れない。また低消費電力でバッテリーが長くもつ。画面を見た印象でいうと、マットな紙にクリアな文字が印字されている、というもの。

標準的な機種であるキンドルタッチの場合、Wifi接続をoffにした状態で1日平均1.5時間読書した場合、2ヵ月充電がもつ、とアマゾン側の説明にはある。iPadが電気をくうことを考えると、2ヵ月は頼もしい。キンドルにはWifi接続(無線LAN)のみのものと、3Gに対応したものとある。キンドルは購入の際、アマゾンのアカウントをもった上で買うので、購入したキンドルは接続設定を終えると、使用者を認識する。最初バーの隅に「My Kindle」と表示されていたものが、たとえば「Kazue's Kindle」となり、それによりアマゾンのショップと直接繋がっていることが確認できる。

これにより、本を探したくなれば、キンドルストアに行き、本を購入、ダウンロードが一瞬のうちにできるようになる。これまではアメリカのサイトで買った本は、Expressでも使わない限り、3週間から1、2ヵ月はかかったので、夢のようである。真夜中だろうが早朝だろうが、読みたくなったときにいつでも手に入る。接続に通信費はいっさいかからない。充電のもちを考えれば、Wifiは使わないときはoffにしておくのがいいらしいが、on、offは一瞬の操作でできることなので特別面倒なことでもない。iPadが日本中を圧巻したとき、わたしも興味はもったが、通信費がネックになった。毎月数千円を払うことに抵抗感があった。

iPadは充電や維持費において、使用者に負担をおわせる。また自分が発信者(出版やアプリの販売者)となる場合も、負担が大きい。たとえ何も発信しない場合でも、毎月の、永遠につづく出費を覚悟しなければならない。これらの条件を知って、わたしはiPadは自分および葉っぱの坑夫には適さないと判断した。

キンドルはどうか。アマゾン・ジャパンの対応基準はこれからだと思うが、とりあえずは個人ではなく、出版社を相手にスタートさせるようである。アメリカのアマゾンは違う。アマゾンのアカウントをもっていれば、誰でもキンドルで出版ができる仕組をつくった。費用はいっさいかからない。このあたりがアマゾンのフラットな思想を表わしている。優れた点だと思う。

アマゾン・コムの書籍データベースは、スタート当時から完成の域に達していて、訪れる人々を感動させた。わたしもその一人。未知の素晴らしい作家にここで出会ったことは一度や二度ではない。決定的な出会いもしている。当時、日本の書籍のデータベースは非情に貧しかった。大手のネット書店も、さびしい状況だった。日本でも国会図書館や日比谷の都立中央図書館などでは、それなりの本の検索はできていた。データベースの技術がまったくなかったわけではない。商業の世界では、そこにお金をかけられなかった(かけていいものかの判断がつかなかった)のだろう。

キンドルの優位性は、アマゾンの完成された書籍データベスが背景にある。本に関してアマゾンは、司書を何人もフロントに置いているように、読者からの信用を勝ち得ている。そしてハード(端末)は、使用感、維持費などにおいて、できうる限りの技術と負担軽減が実現されている。読者の利便性を最優先事項に置いている、というのは単なる「企業としての言い分」ではないように見える。多くの追随機種やその販売元は、アマゾンの思想ではなく、「出来上がった形と方式」を真似ているだけではないのか?と思ってしまう。

キンドルはアマゾンという企業にとって、ここまでの十数年間に培ってきたもの、歩いてきた道のりを表わす集大成であり結晶のようなもの。そうわたしには見える。本の読み方を、習慣を、ひとの生活を変える、大きな提案を全世界にむかってしている気がする。

実際にキンドルでどのように本を読んでいるのか、本を読む以外何につかっているのか、葉っぱの坑夫のキンドル計画とは、これらについては次回書きたい。

20120806

原発、戦争、オリンピック----報道と国民


原発事故から受けた大きな被害の中で、今後につながるもの、生かされたと思えるものがあるとしたら、国民のメディアや報道への意識の変化があげられると思う。全国民の中での割合で見れば、それほど高くはないのかもしれないが、テレビや新聞の報道をそのまま鵜呑みにしてはいけない、という空気は生まれた。インターネットなどで、大手メディア以外の記事を読んだり、海外からのレポートから違う見方があることに触れる機会をもつ人々がいた。原発事故をとりまく報道は、これまで受け身でしかメディアに接してこなかった人々にも、ある程度疑いをもって接していた人々にも、衝撃を与えた。

ニュースや報道は、あるいはテレビ番組は、発信者がある意図をもって発せられるものであることが多い。

日本でよく言われたのが、第二次大戦時の報道についてである。戦況が思わしくない方向にあってもなお、国民の戦意をあおるために、日本が優勢であると報道しつづけたことは有名だ。戦後そのことが大きな問題になり、国民が自国の報道について考える機会になった。

では戦争報道から学んだことが、戦後の60年間に生かされつづけてきたかと言えば、残念ながらそうとは思えない。それが顕著に現われたのが、今回の原発事故報道だ。日本では、北朝鮮のテレビ放映や中国の報道を例にとって、一党独裁政権の報道規制やその奇妙さをことさら強調して非難する傾向があるが、日本の報道がそれらと一線を画しているかと言えば、そうでもないと思う。日本の国民が「彼らは何も知らされていないが、わたしたちは民主主義の国の国民であり、知る権利は全うされている」と信じて疑わないことこそ(もしそうであれば)、注意しなければならない点のように思う。

たとえば今真っただ中のオリンピックの報道。日本のテレビ番組やネットも含めた新聞報道を見ていると、オリンピックの中心に日本が存在している、という印象を受ける。今朝の新聞報道では、日本はここまででメダルを25個とり、あと一つ取れば前回の北京大会を上回るそうだ。確かに連日、全国新聞の第一面トップをカラー写真入りで飾る記事や、テレビのニュース番組を見ていると、「日本はメダルを量産している」という印象をもつ。あまり得意ではない水泳でもいくつかのメダルをとっているし、報道にウソはない。が、それは「日本」という小さな窓から覗いたときの風景、あるいは望遠鏡で特定のもののみに焦点を当てたときの結果だ。オリンピック全体を見ているわけではない。

日本の目から見た「戦況」であり、実際の「戦況」とは異なるものだ。

日本の報道ではほとんど見かけないが、海外のメディアの多くでは、Medal tableという項目があり、メダル取得数の順位が日々報告されている。8月5日付けの結果を見てみると、1位は中国の30個(金メダルの数)、2位はアメリカで28個(同)。この2ヵ国は金銀銅の合計が60個前後で、群を抜いている。ロンドンオリンピック開始以来、この2ヵ国が抜きつ抜かれつしている。以下イギリスの16個、韓国の10個、と続く。日本は2個で15位である。(順位は金メダルの獲得数、その次に総数となっているようだ)

アメリカはともかく、中国がここまでメダル獲得国だとは実は知らなかった。前回の地元開催の北京オリンピックでは1位だったらしい。今回はどうなのか。お隣の国であるし、また日本に多くの中国人家族が在住していることを考えると、もっと報道があってもいいと感じる。陸上のボルトなどの超トップアスリートへの熱い視線は別にして、全体としてよその国の「戦況」には無関心な日本国である。なかでもアジアの隣国の活躍には。

夕べ女子のマラソンをやっているのに気づいて、途中からテレビ観戦した。ケニア、エチオピアといった選手の素晴らしい走りに目を奪われた。その後方にアジア人らしい選手が見えたのでどこの人かと見ていたら、中国の選手だった。中国の人とマラソン、というのがわたしには意外な組み合わせに見えた。最近女子のマラソンはあまり見ていないので知らなかったが、北京大会では銅メダルを取っていたらしい。今回出場の中国の選手は、その人とは別の人のようで、途中からずるずる下がってしまい、もうダメなのかなと思っていたら、最後は5位でゴールした。よかったね、おめでとう! という気持ちだった。

今朝の新聞のスポーツ欄では、日本人選手(16、19、79位)がトップ記事に、その下のコラムに1位のエチオピア選手(この人は日本の実業団にいたことがあるという理由で、半分日本人の扱いか)が載っていた。テレビではどんな競技でもそうだが、何位であれ、インタビューを見ることができるのは日本人選手のみ、である。

日本でテレビを見ているのは、日本人のみ(そしてその人たちは全員日本人選手ファンである)、という思想が見てとれる。

これはオリンピックに限らず、あらゆるスポーツ大会での日本の報道、およびテレビ番組の特徴である。日本に多く住む在日朝鮮人、ブラジル人、中国人、台湾人などのことは頭から消えている(消しているのではなく、消えているのだと思う)。大きく取り上げたマラソン競技の記事から、中国人選手のことが抜けていたように、男子サッカーでも「日本が準決勝に進んだ、44年ぶりの快挙だ!」という大きな記事以外、男子サッカーの進行状況全体を見渡せる情報はどこにもない。準決勝というからには、もう1組2チームの存在があるはずだ。ネットで調べたら、それはお隣の韓国とブラジルだった。男子サッカーで言えば、日本と韓国は長年のライバルであり、競い合いながら互いを高めてきた相手。 A代表ではなくアンダー世代とはいえ、互いに意識はしているはず(サポーター、報道関係者も含めて)。サッカーの日韓戦と言えば、歴史的に最も熱い一戦の一つでもあるのだから。その韓国もそろってベスト4入りしたのは、日本にとってもニュースではないのか? 別に韓国も準決勝に進んだからと言って、日本のベスト4の価値が下がるわけではない。

日本に在住する朝鮮半島出身の人たちやその家族は、韓国や北朝鮮を応援している人も多い。その人たちにとって、日本の報道やテレビ番組から得られるものは本当に少ない。オリンピックのテレビ番組も、日本に関係した競技とその周辺が主たるもので、全体を見渡すことは難しい。

こういう傾向を「たかがスポーツじゃないか」と言って見過ごすことが、ものの見方に、世界の見方に影響はしないか。政治の状況、原発の状況、戦争の状況を受け身でしか、あるいは自分の都合のいいようにしか見ないことに繋がっていきはしないか。

「オリンピック全体を見渡した報道をしろ」というのが無理なら(国民がそんなことを望んでいない、と発信者は言うだろう)、せめて日本に住むマイノリティーやアジアの近隣諸国を意識した報道にもう少し力を入れてはどうか。オリンピックは国同士が競うものではない、という原則はあっても、日本のような国では実際には「国としての戦い」になっている。そういう中で、「グローバルな視点」(言葉としては日本では珍重されている)やコスモポリタンな意識を育てる第一歩として、現在の「日本どっぷり」な視点ではないやり方が出てきてほしいと切に願う。

本当に価値があるのは、日本という「特別性の小さな窓」から覗いた景色だけを見て舞い上がるのではなく、隣国も含めたもっと広い視野の中で景色を眺め、その中で輝きを放つ存在を見つけ、心からの拍手を送ることだと思う。