20141117

わたしのMOOC(ムーク)体験記<6>(4月~11月/感想まとめ)

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今年の4月からここまで八つの講座をコーセラで受けてきた。このブログでは個々の授業について具体的に書いてきたが、最後に全体としてのコーセラあるいはムークというものについて記しておこうと思う。

コーセラ以外のムーク体験があまりないので比較して、ということでは書けない。他のムークがどのようなレベルなのかわからないが、コーセラに関して言うと、仕組づくりは概ねよく出来ている印象だった。まず基本となる各講座のウェブページは、一つの方法論と様式できちんと統一されていた。クォリティも同一に保たれている。ムークではビデオによるレクチャーが基本だが、まずそのビデオのクォリティが、どの講座でも一定以上に保たれていた。たとえばページ内に表示されるビデオ画面の大きさや英語字幕などの機能、カメラワーク。YouTubeなど他のビデオ素材も補強素材や先生のオルタナティブ・セッションとして、ときにライブで放映されたが、基本講座はコーセラ独自のビデオ表示システムを使っている。横長のかなり大きな画面で、ディスプレイの8~9割くらいあるサイズ。大変クリアな映像で、音声も安定していて、気持ちよく見ることができる。学習環境として大切なことだ。

カメラワークは一定にしている(正面に据えている)ものが多く、やたら動かすこともなく、これも落ち着いて見ることができてよかった。近代詩の講座では先生の他に数人の生徒がいたので、左右に振って端にいる人を映したり、話者にズームすることはあったが、それも必要最小限だった(つまり正面の定位置で撮っているときは、両端の各2名ずつくらいはフレーム外だった)。この講座は、ケリー・ライティングハウスというペンシルベニア大学内の「詩の家」で開かれていたこともあり、毎回授業の最初の数秒間には、その建物周辺の木々や家の壁、バルコニーなどが美しく映像化され、教授の冒頭のしゃべりに乗って映し出されていた。

他の授業、たとえばソングライティングやビートルズの音楽に関する講座では、教授を正面にほどよい大きさで据え黒バックの背景で、話をじっくり聞けるようになっていた。カメラワークはほとんど据え置きだった。また、「スポーツと社会」の講座では、教授の背後に棚があり、そこにバスケットボールとかスポーツに関係した小物や用具類が飾られていた。この講座では教授のスタ―ンが週ごとに、どこかのチームユニフォームを着て現れ、それ以外にも教授のセレクトしたユニフォームがもらえる応募もあったようだ。授業の中で先生が何か重要なことをしゃべった場合、それが文字として表示されることもよくある。その文字の表示の仕方も過不足なく、また美しかった。写真や動画をビデオレクチャーの中で表示する場合も同様である。つまり映像に関して、プロによってきちんと細部まで管理されていたということだ。各講座の教授の服装は、概ねカジュアルなものが多く、「背広」姿の人はいなかった。スタイリストがついてるのかどうかまではわからないが、コーセラスタッフとのミーティングである程度話し合いがあったのではと想像される。週ごとに着替える場合も、統一感があった。たとえばスタンドカラーのシャツを着ている教授は、だいたいそのスタイルでシャツの色だけで変化をつけるなど。小さなことだが、落ち着いて気を散らさずに学習するのに必要なことだし、先生のパーソナリティを知るヒントにもなった。(一つ、二つ、日本のムークの授業をのぞいた感じでは、ビデオ映像に関してはコーセラのレベルにはないように見えた。)

授業のマテリアルはどうか、と言えば、講座によって差はあるが、それぞれ工夫があり全体としてかなり豊富だったと思う。どの講座もメインのページに、中心となるビデオレクチャー以外に、資料のアーカイブ(教授が薦める関係書籍や映画など)、グーグルハングアウトをつかったライブ放送、ディスカッションフォーラム、クイズ、提出課題、そしてコースの情報やスケジュールなどの項目が並んでいる。中でもディスカッションフォーラムは重要視されていた。わたし自身は時間がなくてなかなか参加できなかったが、クラスメートと授業内容について話し合い、わからないところや困ったことを教えあうことが推奨されていた。学校の勉強とは、ただ席にすわって受け身で聞いていればいいというものではない、ということだろう。実際の学校の反映と思われる。

教授が薦める本や映画も参考になったし、ネット上の無料で読める資料テキストやYouTubeで見れる映像作品も紹介されていた。多くの先生が授業に熱心で、コーセラを通じて世界中の学生とつながっていることに喜びを感じているように見えた。だから資料の提供も多く、ライブでのセッションもよく開いていて、そこにネットの学生がリアルタイムで参加できる工夫をしていた。何より先生自身が、こうしてネットで教えることに将来性を感じているのが感じられた。先生からのメールでのお知らせも多く、新しい週の始めには今週はこんなことをやりますからね、ライブでのセッションがあれば、何時から何をやるからぜひ参加して、という調子でかなりの数のメールがやって来た。先生がコミュニケーションを生徒とまめに取ろうとしていた(これもコーセラ自体の仕組や方針の一部と思われる)。

先生の教授法で気づいた点としては、どの先生もそれなりの(ときにかなりの)パフォーマーだということ。勉強を教えるというのは、ある種のパフォーマンスなんだ、と気づかされた。どんな言葉で授業を始めるか、身振り手振り、声の出し方、説明するときの言葉の選択。すべてがよく意識されたもののように見えた。無表情に何年も同じ内容のテキストを読み上げるだけの教授、というような人はいないようだった。非英語圏の生徒もかなりの数いると思われることから、概ねクリアなしゃべり方を心がけているように見えた。しゃべった言葉はそのままテキスト化され、生徒がダウンロードできるようになっているので、そのためにも、ある程度クリアにしゃべる必要がある。モゴモゴしゃべったりすれば {inaudible}(聞き取り不能)という文字が入ってしまう。二人以上の人がいっぺんに話すと {crosstalk}(混信)と出てくる。音声を自動でテキスト化しているのではないかと思うが(あるいはボランティアの手によるものか)、このテキストはレクチャーのあと、何か確認するのにとても役立つ。また英語を中心に(授業によっては中国語、韓国語、スペイン語などもあった)字幕として表示する仕組みもあった。

近代詩の講座では、世界各地の受講生が近隣に住む人とミートアップ(オフ会)する、どこかで会って授業について話し合ったりする会ももたれていたようだ。そこにビデオレクチャーでおなじみの学生の誰かが合流することもあった。講座のウェブページに写真入りで、どこの町で誰と誰がミートアップした、というようなお知らせが時々載っていた。これも受講生にとってライブ感、参加感を高めるものだ。

以上がここ数ヶ月、コーセラの授業を受けて感じたことだ。各授業の内容、各先生のレベルや熱意とともに、コーセラがプランしデザインしている仕組そのものが優れている、という印象が強かった。こういうものを高いレベルで生み出すことのできるアメリカという国、国力や経済が下り坂と言われながらも、まだ(たとえば)日本のような国ではやりおおせることではない。

これを書いたあとで、日本のムークでウェブデザイン関係の講座を二、三覗いてみた。Photoshopの使い方のヒントなど実生活にすぐに役に立つものがいろいろあって、なかなかいいと思った。生放送を主体としていて、生徒が一緒に授業を受けることに価値を置いているように見えた。リアルタイムのチャット機能を使い、授業中に生徒が感想を書き込んだりしていた。先生側がそれを読んで応答する場面もある。「着席しました」ボタン、「なるほど」ボタンなど、日本人が好きそうな「インタラクティブ性」も盛り込まれていた。

実用的な日本のムーク、アカディミック(学究的)なアメリカのムーク、それぞれの国民の知に対する要求の特徴が出ているのかもしれない。

20141103

わたしのMOOC(ムーク)体験記<5>(9月~11月/近現代のアメリカの詩2⃣)

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前回詩の解釈について触れたウィアム・カルロス・ウィリアムズという詩人は、この授業を受けるまで未知の人だった。「近現代のアメリカの詩」は3ヶ月半くらいの学期の間に、非常にたくさんの詩人の作品を読んでいく。わたしにとってはほとんどが未知の詩人で、新しい出会いという意味でありがたいが、それ以上にアメリカの詩の歴史が短い期間でつかめるところが得難い経験となっている。

またそのアメリカの詩の歴史をたどる場合も、この講座の先生アルのパースペクティブ(展望、視野)によってくっきり道を敷かれているところもユニークだと思う。一般論的に重要な詩人と作品を選んで、というよりもう少し、このように詩を見ていくと面白いという、一つの仮説に従って授業が組み立てられているようにも見える。

たとえばイマジスムの詩人、H.D.、エズラ・パウンド、ウィアム・カルロス・ウィリアムズと見ていく中で、マルセル・デュシャンの「泉」や「階段を下りる裸体」が取り上げられていた。デュシャンはフランス出身の美術家、作品は詩ではない。詩の講座の中で、二回にわたってデュシャンが取り上げられていた。それはウィアム・カルロス・ウィリアムズなどが詩でやっていることと、デュシャンが美術でやっていることに共通性があるからだ。たとえばデュシャンの「泉」は、男性用小便器をオブジェとして展示したものである。前回紹介したウィリアムズの詩、妻へのキッチンメモ "This Is Just To Say" が詩である、というスタンスと似たところがある。つまり作品についての作品、メタ作品という共通項だ。

詩とは別に、デュシャンの「泉」の授業では、思わぬ発見もあった。この作品は日本でも有名なので、どんなものかは多くの人がなんとなくイメージできると思う。レディメイドと呼ばれる、既成物を作品として提出する手法の一つで、便器を置いた「泉」(Fountain)はその代表作。授業の中で、アル先生がデュシャンは"Fountain"を作品にするにあたって三つのことをした、それは何か、と生徒に訊いた。一つは便器を作品として提出したこと。他には? 生徒の一人が「サインをしました」と答えた(デュシャンの名前ではない)。もう一人の生徒が「便器を上下逆さまにしました」と言った。ここでわたしは、えっ???そうなの、となってしまった。あれは逆さだったの? そう言った学生はさらに「上下逆だから、下にあるパイプを配管したら水が上に噴き出します」と付け加えた。すると先生が「そのとおり。だからFountain(噴水)なのだね」と言った。

デュシャンの「泉」と題された作品が、便器を上下逆さまにしたもの、という話は初めて聞く話だった。ネットでざっと調べてみたが、日本語でそのことに触れた記事や評論は見つからなかった。確かに日本でも「泉」というタイトルを「噴水」にすべきだという意見はあるらしい。しかしその理由は便器が逆だからではなく、レディメイドの作品に自然物である泉という名は適さない、ということらしい。おそらく日本人は便器が逆になっていることに気づいていないのではないか。さらにこのFountainは観賞用噴水ではなく、drinking fountainとかwater fountainといった公園などにある水飲み場(噴水式水飲み器)を示唆している可能性もある。その方がよりウィットが効いている。便器を逆さにして、水飲み噴水とした方が。このことに気づいて、日本語版ウィキペディアのデュシャンの項目にその点を書いてみた。

この講座では、他にもなるほどと感心したことがある。近現代詩の授業では、指定された詩についてのエッセイを提出するという課題がある。1回目のディキンソンのときは、そんなものがあることに気づいてなかったので、参加していない。(たくさんのビデオディスカッショ、ライブディスカッション、クイズという名のテスト、様々なリソース、、、とあって、全く追いついていない。毎日一つビデオディスカッショを見て、詩の解析を学ぶのがやっと) 2回目になって、そういうものがあることに気づいた。というかメールでお知らせがあり、指定のリンク場所へ行ってみて気づいた。

第二回目の課題はウィアム・カルロス・ウィリアムズの詩、"Young Woman at a Window" (窓辺の若い女)という詩だった。この詩の二つのヴァージョンが示され、ヴァージョン2がよりイマジストのマニフェストに沿っていることを、あるいはヴァージョン1が2に比べてマニフェストに沿っていないことを500語(word)で書くというもの。詩は短くシンプルなもので、どちらかのヴァージョンは生前に詩人によって出版され、もう一方は後に学者の研究の際に発見されたらしい。いずれにしてもこの詩はイマジストの思想の元に、あるいは影響下で書かれたものだという。イマジストとは何か、そのマニフェストとは、という説明や資料も別途示されていた。(簡単にいうと、イマジストとは簡潔で具体的な描写によって、対象を明確に直接的に表現する方法論によって詩を書く人々。イマジスムはその思想。1900年代初頭)

素材とそれを使っての論点、そして結論(到達点)が示されているので、それほど突飛な論理の展開は想像しにくい。詩の細部を見ていって(これをclose readingと呼んでいる)、どこがどうマニフェストに沿っているか、あるいは沿っていないかを論じていくことになる。500wordsというのは日本語にすればおそらく1000字あまりの長さで、簡潔に書けばある程度の内容は掘り下げられる、と思った。しかし何をどう書こうか。詩を何回か読んで気になった点から、気張らず書いていくことにした。

ところでエッセイの提出を申請すると、次のようなことが申し渡される。他の人の書いたエッセイを、少なくとも四人分レビューせよ。これはpeer reviewと呼ばれるもので、ピアつまり同級生が互いのエッセイにコメントを書いて評することを意味している。なるほど。誰がどうやってたくさんの生徒のエッセイを評価するのかと思ったら、生徒が互いに評価しあうということなのだ。なんという仕組だろう。果たしてうまく回るのか。エッセイを書かなかった人は、人のエッセイを読んでレビューを書けばいい。

実際にエッセイを書いて提出し、その締め切り期限が来ると、あなたは今四人分のレビューを書かねばならないという表示が出てくる。そして名前なしのstudent 1のエッセイというのが表示される。コメントを書いて投稿すると、「あと三人残っています」という表示に変わり、student 2のエッセイが表示される。エッセイを書くだけでも大変だったのに、これは困ったな、と思った。一人か二人書けたら書いて勘弁してもらおうか、、、

とりあえず一人目の学生のエッセイを読み、レビューを書いて提出した。と思ったら、自分のエッセイにレビューが付いたというお知らせ来ているではないか! 素直に嬉しい。読みに行くと、これがわたしの書いたエッセイより素晴らしい、長文のレビューが付いていてびっくりもし嬉しくもあった。最初の行にI enjoyed reading this essay! とまずあって、よかった点を具体的にあげて誉めてくれている。このレビューでは、他の人のエッセイを読み、その良い点をあげて誉めることが薦められていることを思い出した。最初のそのレビューは、「このエッセイを読む機会を与えてくれてありがとう、たくさんのことを学びました」で結ばれていた。レビューのお手本のようなレビュー。さっき自分の書いたレビューを思い出し、ずいぶんと短くて素っ気なかったな、と反省した。

こうやって他の人からのレビューをもらうと、そのありがたさがよくわかる。そして自分もいいレビューを他の人のエッセイに書こう、という励みになる。その正の、あるいは善の循環がピアレビューというものを成り立たさせているのだろう。なるほど、と感じ入った。そしてがんばって残りの三人のレビューも書こうと心に決めた。そして期限内にめでたく四人分のレビューを書き終え、またわたし自身もいくつかのレビューをもらった。人のエッセイを読み、それにコメントを書く、あるいは自分のエッセイにコメントをもらう、ということを通して、それほど議論の巾はないだろうと思われた課題だったが、案外いろいろな分析、考え方、感じ方があり、さまざまな賛成意見、反対意見があり興味深かった。


ビデオレクチャーを見ているだけだった最初の頃の参加の仕方から、今回は一歩中に足を踏み入れ、より深く授業にかかわった感じがした。