20181019

わたしたちの肉食のこと、再度考えてみる


ここ2、3年の間、動物をめぐる環境について、動物園や畜産工場などの問題に触れながら、様々な側面からの見方を取り上げてこのブログに書いてきた。その一つは今年の初めから4回に渡って掲載した「野生と飼育のはざまで」シリーズである。

その中でアメリカの畜産工場について、その改善策として、工場の設計に関わっている動物学者のテンプル・グランディンのことを紹介したりもした。動物福祉の一つの方法として、即時的、直接的な改善策として、理解できるものだった。動物が置かれている状況から、苦痛を除くという意味で、その成果は評価の対象になっている。

今回再度、畜産や肉食について考えてみようと思ったのは、環境倫理学という視点からこの問題を論じている学者の文章を読んだからだ。(Synodos:熊坂元大『肉食と環境保護――非菜食主義の環境倫理学者が言えること』、2018.9.28)

環境倫理学という学問があることは知らなかった。どういうものかというと、人間にとっての利益とは無関係に、自然環境や地球環境がどう扱われるべきかを、倫理として探求するものらしい。倫理として、というのは人間が自然や地球に対して、どう振る舞うべきかの指針を考えることだと思う。そのとき人間にとっての利益や不利益は、除外して考えられる。

たとえば捕鯨問題について言えば、動物福祉や動物倫理学の立場では、捕獲したりその肉を食べることは、動物に対する態度として倫理的に問題があると見る。しかし環境倫理学では、クジラやイルカの捕獲が、地球環境に与える影響が大きいかどうかを見ていくわけだ。たとえば動物にとって問題があったとしても、捕獲数の制限などで地球への影響が小さく保たれていれば、倫理的には正しいということになる。

こういったことから、動物倫理学と環境倫理学の間には、対立が起きることもあるらしい。この両者が同じ方向を見ていると思われる問題として、熊坂氏は、家畜についての議論を例としてあげていた。

熊坂氏は論文の副題にもあるように「非菜食主義」、つまり肉を食べる人である。この文章を書いているわたしも同様。肉食をしている。しかし肉を食べること、その肉がどこからやって来て、その動物が生前どのような暮らしをしていたか、に関心をもったり疑問をもったりもしている。それが何の役にたつのか、という疑問に対しては、肉食にかぎらず、自分の生活習慣に自覚的であることは、間接的ではあっても、人間全体の考えやひいては社会を変える原動力になり得るはずと信じているからだ、と答えたい。白か黒かにしか回答はない、とは思わない。これは論文を読むかぎり、熊坂氏の考えや態度と一致する。

熊坂氏の論文を読んでまず目を惹かれたのは、地球上の食料不足や飢餓に関する構造の解明だった。アフリカなど途上国で食料不足に陥っている原因は、土地の気候など自然の限界からくるものだと思っていた(なんとなく)。あるいはそれらの地域では人口抑制が不十分で、採れた食料では賄いきれず不均衡が起きているといった。

しかし原因はそこにはないことを知った。

世界の穀物生産量は約25億トンにのぼり、そのほかに野菜や果物が栽培されていることを考えると、世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている。(『肉食と環境保護』より)

これは本当のことなのか。ではなぜ実際に食料不足が起きているのだろう。環境倫理学から見た問題点は、資源利用の不公正であり、これは環境学や開発学でも常に取り上げられている問題だそうだ。資源利用の不公正? その一つが収穫した穀類などの食料を、人間ではなく家畜を育てるために回しているからだという。

熊坂氏によれば、家畜に飼料として穀物を与える場合、たとえば牛の枝肉1キロのためにトウモロコシなどの飼料が10キロ以上必要になる。牛ステーキを家族3、4人で食べようというとき、牛の飼料10キロ分を必要とするということだ。牛肉は確かに高いし、豚や鶏肉だって安くはないが、それは生産の構造上、贅沢なものだからだ。
*枝肉とは:頭部・内臓や四肢の先端を取り除いた部分の骨付きの肉。食肉はここからさらに骨など余分な部分が取り除かれる。


そういう構造の上に肉食が成り立っていることに気づかされる。極端な言い方をすれば、肉食をすることによって、地球上で生産されている穀物などを過剰に摂取していることになる。そのせいで、途上国などで充分に食料が行き渡らず、栄養失調や飢餓が起きているとしたら、「自分のお金で肉を食べるのは勝手」と言っていられるだろうか?

実はこの構造上の問題は、最近発見されたものでも何でもない。2、30年前になるが、イギリス人の知り合いが、同じことを言っていたことを思い出す。その人はガールフレンドともども菜食主義で、いっしょにレストランに行っても肉を食べなかった。当時、(彼に勧められたのか)肉食が環境に及ぼす影響について書いた本を買っている。今書棚を探したところ見つからないが、『ぼくが肉を食べないわけ』という本だったと思う。著者のピーター・コックスはイギリス人なので、やはり当時、その知り合いから勧められたのかもしれない。

その本を真面目に読んだのか、ただ買っただけだったのか、覚えていないが、いずれにしてもその本の影響を強く受けたという記憶はない。菜食主義にもなっていない。当時、菜食主義というのは、(特に日本では)それほど聞く話ではなかったように思う。少数者がこだわりをもって実行している生活習慣、といった認識だったかもしれない。

しかし時代は変わり、地球上で、あるいは世界で起きている様々なこと、負の遺産につながることが明らかになってきて、一般の人もそういった出来事を身近なこととして受けとめるようになってきた。いま起きているグローバルな問題は居住する地域の問題でもあり、自分の生活習慣につながっていると思えるようになってきたのだ。

すると肉食の問題も、縁遠い話として聞いていたときは違った受け止め方になる。わたしにとっては、「世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている」という事実は(それが事実だとすれば)衝撃的だった。食料は十分生産されているのに、家畜の飼料として消費されているから、すべての人に食べ物が行き渡らない、というのは計算上のことなのかもしれない。しかし実際に起きている状況や関係性そのものを表しているのではなかったとしても、参考になる数字として考えることは可能だ。少なくとも、ある地域の飢餓や栄養失調の理由を、気候や人々の生活習慣のせいとして理解することからは逃れられる。

また牛や豚などの家畜を維持するには、大量の穀物が必要であることも理解できるし、肉を食べるところまで行くには、食料の投資が必要で、間接的に大量の穀物をわたしたちが消費しているということもわかる。贅沢というのは、単に肉の値段が高いことを表しているのではなく、肉を手にするまでに、たくさんの投資が行なわれていることも示しているわけだ。

肉を食べるかどうかについて、どのような議論がいま可能だろうか。未来において地球規模で食糧危機の問題が起きるとすれば、食料生産は効率的に行なう必要が出てくるだろう。家畜を育ててそれを食べるという方法は、贅沢なだけでなく、効率の悪い食料生産方法だと熊坂氏は書いている。その意味でも、肉を多量に消費する生活習慣は、いずれ問題が出てくるかもしれない。

こういった食糧問題にかかわること以外にも、肉食をすることのマイナス・イメージはある。もし自分の食べている牛や豚、鶏が、問題のある環境の中で育てられているとしたら、それをリアルに見たり感じたりしたら、食べることへの意欲が失われるかもしれない。知らないから食べられているだけだとしたら。。。この問題の捉え方は、動物福祉や動物倫理学の立ち場からのものと一致するだろう。

大部分の牛や豚は、日本でも、牧歌的な農場で育っているのではない。家畜工場と呼ばれる「集約畜産経営」の環境と方法で生産されている。たとえば「妊娠ストール」と呼ばれる狭い檻があり、雌豚は種付けと分娩のとき以外、そこから出ることができない。EUではすでに使用が禁止されていて、アメリカなどでも禁止の方向に向かっているらしい。日本では90%近い業者がこれを使用している、という調査報告が出ているようだ(熊坂氏の論文より)。ストールの大半は60~70cm幅の檻で、豚が身動きする自由がない。90%近い業者がこれを使っているとすれば、少なくとも国産豚としてスーパーなどで売られている豚肉は、このような環境のもとからやって来たと想定できる。

こういうことを一つ一つ確認していくと、肉食の問題はさらに深刻なものとして感じられるのではないか。そういうことには目をつぶって(みんながそうやって生きているのだから、わたしも)、生きることは、肉食以外のことにも影響を及ぼしはしないだろうか。

つまり自分の生活習慣、日々の生き方の中に、他者(動物や環境など)に多大な影響を与えていることがある場合、それに目をつぶって生きることは、その他のことにも目をつぶって生きることに繋がらないだろうか。これはこれ、あれはあれ、という生き方ができるものなのか。

ではできることは何か。たとえば肉食の回数や量を、食事の工夫で減らすことはできるかもしれない。それを続けることで、また新たな視点が生まれてくることもあるだろう。自分の食べている肉が(購入している肉が)どこで生産され、どのような環境で育ったものか、知ろうとする努力をしてもいいかもしれない。たどろうとしても、全くたどれないものなのか。たとえばスーパーの肉売り場の人に声をかけて聞いてみるとか? 「国産牛とありますけど、どういった場所から送られてきたんですか?」と。そんなことはわからない、と言われるかもしれないが、聞かれた人はそのことを覚えていて、意識するようになるかもしれない。また最近はお客さんがみんな、どこの工場で育ったか聞きたがる、という小さなムーブメントを起こせるかもしれない。

わたし自身のことを言えば、肉食は減らす傾向にあり、食べるのは豚と鶏、牛はほとんど食べない。豚は平田牧場というところのものを生活クラブ生協を通して買っている。平田牧場のHPのビデオや、生活クラブの取材記事などで、豚が劣悪な環境で育っていないことは一応確認している。また豚の食料も地元の減反田や休耕田を有効利用して、平田牧場自ら飼料用の米を栽培しているという。平田牧場の肉はかなり以前にも長期間食べていたことがあり、途中何年間か抜けて、ここ数年またここの肉を食べるようになった。抜けていた期間は近所のスーパーで肉を買っていた。理由はその間、生活クラブに入っていなかったから。再開したのは個人配達を生活クラブが始めたことと関係している。

このように自分自身も、そのときの生活状態や生活習慣によって、消費行動が変化し、いつもいつも理想的な行動をとっていたわけではない。ただ何らかの意識があるかないか、は大きいものだ。まったく無関心に消費や生活を送っていては、変化のきっかけも逃してしまうだろう。この記事を読んだ人が、何か感じて、肉食をめぐる現在の状況を頭の隅においていれば、ちょっとしたきっかけが、行動の変化を促すことにつながるかもしれない。そんなことを思って、肉を食べることについて書いてみた。

20181005

出版のかたち色々。開いていくのか閉じたままか。

前回のポストで新刊のことを書きました。ペーパーバック(POD)、Kindleともに入稿が済み、間もなく発売できそうです。葉っぱの坑夫の出版にまつわる考え方を以下に書いてみようと思います。


ウェブサイト、PODによる少部数印刷、オフセット印刷、アマゾンPODのペーパーバック、電子書籍。一つの素材をさまざまな方法(メディア)で形にして出版することは、葉っぱの坑夫がスタート時から取り組んできたことです。

一番最初は、ウェブに掲載した英語ハイク集を、オンデマンド印刷の少部数の本にしたことでした。その後、ウェブに掲載したものでない、アート作品を紙の本だけで出版したこともあります。アマゾンのPODのシステムができ、Kindleでの出版が可能になってからは、ウェブに加えて、ほぼこの二つの出版メディアをつかって本を出してきました。

日本では、一つの素材を多様な方法で発表することに対して、どうも抵抗感があるようです。版元や販売者だけでなく、読者の側にも「よくないこと」と認識されている感がありました。特にサイトでは無料で読め、本の形になったものは有料というやり方に対して、どうにも納得がいかない人々が一定数いるようです。葉っぱの坑夫の本で、アマゾンのレビューに、「本を買ってから、無料で読めるサイトを見つけた。買う人は気をつけたほうがいい」といったことを書く人もいました。つまり無料で読めるものを、有料で売っていることへの抵抗感、あるいはお金を出して本を買ったら、サイトで無料で読めた、損をした、というようなことだと思います。

葉っぱの坑夫でやっていることは、一つの素材を、違う形で出版することであり、それぞれのメディアに適した方法での出版をしています。たとえば写真家の大竹英洋さんの『動物の森 1999-2001』は、ペイパーバック(POD)とKindleで出版していますが、元は葉っぱの坑夫サイト内のコンテンツでした。グラフィック・デザイナーのアガスケさんによる、フラッシュをつかったコンテンツで、横スクロールのインデックス(もくじ)にある動物名をクリックすると、小さなウィンドウが開いてその動物についての文章が読めます。日本語の「ライチョウ」をクリックすれば日本語の文章が、英語のgrouseをクリックすれば英語の文章が表れます。日本語の文章を読んだあと、英語でも読みたいと思えば、そのウィンドウの下にある「English」をクリックすればそのまま英語に移動できます。その逆も可能です。

このコンテンツはフラッシュで作られているところが読書体験として面白く、ズルーっと横長のもくじは、>>にマウスを当てれば右方向に、<<にマウスを当てれば左方向へと滑るように移動します。そうやって移動しながら、自分の読みたい動物名をクリックして日本語で、英語で読んでいくのがサイト版の『動物の森』の楽しみ方です。元々葉っぱの坑夫はどのコンテンツも無料で提供しているので、販売用の本になってもならなくても無料です。これはスタート時からの方針です。インターネットというメディアでは、無料でコンテンツを楽しめることがベースだと思ってきたので、それを続けています。
『動物の森 1999-2001』ウェブ版
http://happano.sub.jp/happano/into_the_wood/index.html

『動物の森 1999-2001』も、英語ハイク集の『ニューヨーク、アパアト暮らし』や『ぼくのほらあな』も、サイトでの見え方と、本になったときの見え方ではかなり違います。内容はほぼ同じなので、確かに文章に関しては、メディアを変えても新しい発見はないかもしれません。ただウェブであれば主としてパソコンの前で読む(最近はウェブも携帯デバイスで読む人が多いとは思いますが)わけですし、紙の本やKindleであれば、電車の中やカフェで、あるいはベッドの中で手にすることもあるでしょう。読むときの環境が変わると、読書体験も変化します。いずれにしても読むメディアを選択できて、読む場所や環境を選べるのはよいことだと思います。

『ニューヨーク、アパアト暮らし』ウェブ版
http://happano.sub.jp/happano/pages/tenement/tenement_index.html
*著者ポール・メナのパートナー、写真家のメロディー・メナのモノクロームの写真が入っている。Yoshimiのデザインもクール。

『ぼくのほらあな』
http://happano.sub.jp/happano/pages/moyayama/moyayama_index.html
*美しいウェブデザインはYoshimi。

サイトのコンテンツは葉っぱの坑夫では無料です。登録などなしで、誰でもその場で読めます。インターネットの初期に、面白く、珍しいコンテンツを無料でたくさん楽しんできた自分の体験が、ネットでは無料で、につながっています。ネットで作品を公開する場合も、実際には様々な費用がかかっているので、その意味では、無料公開は赤字活動になります。ただその費用は、主としてサイトを維持するための基本的な経費で、一つ一つのコンテンツごとに出費が重なるわけではありません。そこが紙の本などと違うところです。

紙の本の場合は、1作品ごとに費用がかかります。オフセットやあらかじめ印刷しておくプリント・オン・デマンドの場合は、初期費用がそれなりにかかります。300部、500部と初版刷り部数が少ないため、印刷費を部数で割ると、1冊ずつの販売単価がそれなりに高くなってしまいます。以前にスイスの出版社と共同出資でアートブックをつくったことがあります。小型の32ページのフルカラーの本で、zineのような見映えですが、アートディレクターのセンスで表紙の紙に、裏表素材感も色も違うボール紙のような面白い素材をつかったり、色校正を編集とデザイナーが印刷所に詰めてしっかりやりったりと、zineとしてはそれなりに手をかけて作ったものでした。しかしアマゾンのレビューでは、「びっくりするほどチープ」「このつくりで1900円は高すぎる」と書かれてしまいました。確かに32ページの本で1900円はないだろう、という気持ちはわかりますが、500部、1000部といった刷り部数の場合、単価はがんばっても高くなってしまいます。「シンプルであっさりした作りの本」と書いてくれた人もいますが、その人も少し高いのでは、と書いていました。

大手の商業出版では、まず32ページなどという本は作りませんし、刷り部数も500部、1000部ということはないので、このような問題は起きにくいと思います。こういった事情は一般の人は知らないと思うので、小さな出版社や非営利の出版社が、小さな薄い本をなぜ高い値段で売らなければならないのかの理由はわからないと思います。

現在このアートブックは、アマゾンで1101円(税込)で販売しています。元は1900円+税でした。出版から10年たったので、いくつかのアートブックを6割くらいまで値段をさげたのです。今年の春に価格を改訂しました。(このように価格をさげることも、ときにクレームの原因になったりします。以前に高い値段で買った人が、あとで安くなると自分は損をした、と思うらしいのです。一般に日本の人たちは、このような心理傾向が強いように思われます。自分の買った本が、サイトでは無料で読めることに気づいたとき、損をしたという心理と同じです)

キングコングの西野亮廣さんが、去年『えんとつ町のプペル』という絵本を、ウェブ上で全ページ無料公開しました。そのときネット上でかなりの炎上を引き起こしたようで、主たる反対意見や抗議は「こんなことをされたら、クリエーターが食えなくなる」というものと、「買った人の気持ちはどうなる」だったようです。絵本は前年に発売されていて、その翌年にネットで無料公開されました。西野さんによると、2000円という値段は小学生には高くこづかいで買えない、と聞いてのことだったとか。誰でも読めるようにしようと、と公開に踏み切ったと当時の本人のブログにありました。

『えんとつ町のプペル』は今も、ネット上で無料公開されています。わたしは絵本の実物は見ていないので、比べることはできませんが、ウェブ上のバージョンは、絵とテキストを順番にずらずらと並べ、スクロールして読むようになっています。デザインとかレイアウトの工夫は特にないですが、どんな内容か知るには充分でした。

一般に、日本(あるいは日本語)では、無料で読んだり見たりできるコンテンツは少ないです。新聞各社の無料登録会員が読める範囲も、非常に少ないです。朝日新聞は1日に1件、日経新聞は1ヶ月に10件です。また過去の記事のアーカイブもここ近年のものしかなく、たとえ正会員になっても、アクセスできる記事は限られています。海外の英字新聞にも有料登録制がありますが、こちらは20世紀初頭の記事など、100年前まで遡って読むことも可能なものがあります。また無料で読める範囲も広く、その範囲内で、かなり古い記事(1990年代など)へのアクセスができたりもします。

アメリカもバリバリの商業主義の国だと思いますが、日本はそれ以上の印象があります。アメリカは商業主義の一方で、非営利活動も盛んで、何もかも、何であれお金を取るという風ではないように見えます。お金を取らないものに対して理解を示し、お金を取るものとの共存を、人々が認めています。上記にあげた日本のような反発も、あまり聞いたことがありません。ウィキペディアなどの活動は、商業主義の発想とは違うところから出発しています。そして人々の(その中には日本人も入っています)役に立っています。日本でも、ウィキペディアに対しては、あんなコンテンツを無料公開してヒドイ、商売の邪魔をしている、というような意見はあまり聞きません。(百科事典の出版社などでは、ひょっとしてあったのでしょうか?)

また日本では、ウェブで連載されていたものが本になると、ウェブのコンテンツは消去してしまうのが普通です。本を発売するのにウェブで読まれてはかなわない、本が売れなくなる、という版元の意向でしょう。ほぼ例外なく消去してしまいます。昔、小熊英二さんが『牛とコンピュータ』という本を出しましたが、元々のサイトのコンテンツはそのまま残しました。それが唯一の例外といっていいかもしれません。当時、小熊さんはいまのように、一般に知られてはいませんでした。またサイトのコンテンツも、デザインは特になく、小さな文字で読みやすいとは言えないページでした。個人のホームページのような作りでした。それが理由で、出版後も削除されなかったのか、それとも小熊さんが削除の必要はないと考えたのか、そのへんはわかりません。

ただで読めるものを載せると、商売があがったりになる、という日本における常識は本当にそうなのか。はっきりとした検証がされてのことではないように思います。おそらくそういうこと(売上が減る)が起きないように、という日本人らしいリスク管理なのでしょう。しかし、今の常識、中でもネットをめぐる常識でいうと、必ずしもそれが正しいとは言えないと思われます。シンガーの宇多田ヒカルさんが長期休業中、YouTubeですべてのPVを公開していたことが、後にiTunesで発売したアルバムの世界ヒットに繋がった、という記事を読んだことがあります。YouTubeで見て(聴いて)ファンになった人が、新作の購入に動いたということでしょう。松田聖子時代のうまくいかなかった「アメリカ進出」とは全く違う手法で、意図せずにこういうことが起きるのも、iTunesもYouTubeも国の境界がないからでしょう。世界中の視聴者と繋がっているというわけです。

このことからも、あまりに狭い範囲で近視眼的に商売を見ていくのではなく、もっと読者や視聴者とダイレクトに、作品を通じて繋がる道を探していってもいいのではと思います。少なくとも、試す前から「商売の妨げになる」と決めつけることはないでしょう。何がプラスに働き、何がマイナスになるのか、10年、20年前と今では変わってきていると思います。たとえばアマゾンのレビューも、良い評価、悪い評価両方あっても、それを参考にする消費者がかなりの数いて、全体として役に立っているとすれば、そして売り上げにも繋がっているとすれば、その手法は成功と見ていいと思います。(日本では初期のころは、レビューを書いても即座にサイトに載りませんでした。アマゾン側がチェックした後、掲載していたのです。今では投稿後すぐサイトに反映されています。経験の積み重ねの結果でしょう)