20180525

感性と論理:音楽の場合、文学の場合


いつ頃のことか覚えていないが、感性と知性というのは切り離せないものだ、と気づくようになった。おそらく30歳より前ということはないと思う。仕事上で得た体験からなのか、音楽を学んでいる中で得たことなのか、はっきりとは言えない。その両方かもしれない。

ダン・タイソンというベトナム出身のピアニストが、一般にアジアのピアニストたちは直観や感性で弾く傾向が強く、論理が少ない、と言っているのを本で読んだことがある。論理=知性ではないが、知性の一部ではあると思う。西洋の音楽家は、論理を演奏に反映させているのだろうか。そのとき論理とは何を指しているのか。

非常に感性が優れている場合、それとほぼ釣り合うような知性の裏づけがあるのではないか、また知性が非常に高いと思われるときは、たいてい感性もそれに見合うように備わっているのではないか、そんな感じがする。感性といわれるもの、知性といわれるものは、ある能力の一面を指している、という気がする。

たとえば感性を磨きたいと思う人は、何をしたらいいのか。知性を高めたいという人は何をとっかかりにするべきなのか。いやこれらのことは結果であって、目的とすべきことではない、ということかもしれない。

音楽を例にとってみよう。西洋の古典音楽とかかわる場合、他人の演奏を聴く、他人の楽曲を自分で演奏する、自分で楽曲をつくる、といった行為が思い浮かぶ。この中の他人の楽曲を自分で演奏する、を考えてみよう。ピアノを習う人は、何からはじめるのだろう。楽譜の読み方、指の使い方、まず最初は片手から。右手をやって、左手をやる。それがうまくいくと両手を合わせる。こんな順番だろうか。ハ長調からはじめて、ト長調、ニ長調と#の数を増やしていき、違う調性の曲を弾く。長調の次に短調も学ぶ。このあたりのことは、小学校の音楽の授業でもやるだろう。 

わたしの子どもの頃の経験でいうと、だんだん難しい曲集へと移っていき、ソナチネという小さなソナタ形式の曲を習うようになる。ソナチネの曲集には、簡単なソナタも入っている。ハイドンとかモーツァルトもいくつかは混じっているだろう。ここから何を習うか。基本は初期の練習と同じで、楽譜を読み、それを弾く。先生が音や拍の間違いを指摘するかもしれない。また強弱記号のところで、フォルテとあれば「ここは強く」と言うかもしれない。しかし練習の仕方は初期の頃と大きくは変わらない。楽譜を読む、それを弾く。

こうやって弾くことがピアノを弾くということなのか、音楽を勉強するということなのか。わたしの場合、とくに疑問をもたずにこのようにして続け、中学生になってからやめた。多くの子どもも、このくらいの年齢でやめているかもしれない。やめるまでの数年間で覚えたことは、楽譜を読むこと、指の使い方を覚えて曲を弾くこと、繰り返し練習してときに暗譜で弾けるようにすること、このようなことだ。この中のどこに音楽があったのか、、、と考えてみる。もちろん音楽を演奏しているのだから、音楽はあっただろう。では音楽の知性の部分、論理を学ぶことはあっただろうか。

今考えると、子ども時代の音楽修業は、音楽というものの輪郭をなぞっただけだったように感じる。とはいえ、その基礎訓練は後になって、まったく役に立たなかったというわけではない。複雑な楽譜を瞬時にグラフィックとして読み取る能力、鍵盤と指の親和性、指の強さ、柔軟さ、機敏さ、音の高さを聞き取る聴力といったピアノを弾く上で基本になることは、充分役にたつと言えると思う。もし大人になって初めて、楽譜を読むことから、指を鍵盤に置くことからはじめていていたら、と想像すれば、役に立っていたことを認めないわけにはいかない。

しかし、そこで音楽の何を学んだか、どのような論理を音楽の中に見つけたか、という知の側面に焦点をあてれば、答えられることはあまりない。ピアノを操ることは学んだけれど、音楽を探求するところまではいかなかった。大人になってから、もう一度ピアノを学んでみようと思いたち、先生を探した。どういうという具体的なものはなかったが、音楽教育やピアノ専門誌などを見てヒントを得ようとした。そしてこの人ならという作曲家で、ピアノ教師をしているO先生をみつけた。

O先生のところで学んだのは、ピアノを弾く技術に加えて、音楽の中身でもあった。というか弾く技術とは、音楽の中身のことでもあった。最近までそれが「音楽の論理」だとは気づいていなかった。しかし音楽の論理について考えはじめ、振り返って考えてみると、当時習っていたのは音楽の中身=論理だったのだと思う。それはO先生が作曲をする人であったことと、やはり関係があったと思う。

何が論理だったか、と言えば、それはハーモニーであり、リズムに関することであり、曲の要素や構成についてだった。O先生のところで学ぶ者は、音大のピアノ科の卒業生であっても、初めの一歩から、つまり片手の練習からはいる。ゆっくり片手ずつの練習からはじめる。ハーモニーやリズムを学ぶために、白紙に近いからだの状態が必要だからだ。ピアノを長年弾いてきた人ほど、いろいろなものをその弾き方の中に付着させている。一回それを取り払うために、片手からはじめる。すでにピアノが弾けてしまう人ほど、ピアノの弾き方を知らない状態にもどすのは難しい。無意識にやってしまっていることがたくさんあるからだ。

片手ずつ、ゆっくり、一本一本の指を素直に鍵盤におとす、その音を聴く、聴いて修正する、というようなことからわたしも始めた。ハーモニー(和声)の論理、それに伴う感覚というものを、O先生のところで学ぶまで、強く意識したことはなかった。それは実にシンプルなことなのだ。I(ドミソ)の和音、IV(ファラド)の和音、V(ソシレ)の和音をどのような響きで弾いたらいいか、ということなのだが、こんな単純なことを実践の中で、論理としても感性としても学んだことがなかった。言葉であらわすなら、ドミソの和音は、非常に安定性のある落ちてそこにとどまるような響き。ファラドの和音は、広がりのある解放性を帯びた響き。ソシレは引き締まった緊張感のある響き。たとえば曲の最後でメロディが「シー・ドー」で終わるとき、Vの緊張からI の安定への運動の中で大きな解放が生まれる。音楽用語で「解決」と言っているものだ。なーんだ、そんなこと聞いたことある、という人がいるかもしれない。しかしこれを実践の中で、ピアノを弾くことの中で、どれくらいわかってやっているかは問われることだ。

バイエルのようなやさしい初歩の曲集をやることで、こういった西洋音楽の論理を身につけていく。バス(左手で弾く一番低い音)の響きをよく聞いて、意識しながら、その上に右手のメロディを響きから外れないように乗せていく。このとき、右手のメロディは意識的に歌わせるのではなく、バスを聴きながら探るような気持ちでそっと乗せていく。この方法でうまく弾けるようになると、ハ長調のごく単純な曲も、一つの作品として美しく弾くことができる。初歩の段階では、響きを探しながら弾くということがとても重要なのだ。右手はメロディであることが多いので、気をつけないと、旋律に引っ張られて、何らかの「表現」をしようとして、押しつけたような弾き方になってしまいがちだ。これをやらないようにして、ただただバスに耳を澄ませ、どんな音を上に乗せるのが適切か探り弾きする。ピアノを始めたばかりの人にとって簡単なことではないが、10年、20年、ピアノの訓練を受けてきた人にはさらに難しい場合もある。

もう一つ、リズムについて見てみよう。西洋の古典音楽には3拍子、4拍子、といった拍子がたいていある(もっと古い時代にはなかったし、20世紀以降にはないものもあるが)。日本の古典音楽にはこのような拍子によるリズムの刻みは基本的にみられない。日本では、このリズムは、元々文化的な意味で人のからだに備わっていないものなので(ハーモニーもそうだが)、意識して身につける必要がある。知の部分、論理が必要になってくる。 

日本の手拍子や伝統音楽では、始まりの1拍目はなんの予告もなくはじまる。パンッ。ポンッ。しかし西洋の古典音楽では、1拍目がはじまる前にすでに音楽が循環しているようなところがある。アウフタクトといって、曲の始まりの第1拍目が強拍(下拍)でないものがある。3拍子の曲の第3拍目が頭にきているような場合、ン、1、2、3のようにはじまる。ンのところが前の小節の3拍目にあたる。楽譜の1拍目、2拍目には音がないが、からだの中でその部分を演奏していて初めて、第3拍目の音にはいれる。その3拍目を、最初の音だからといって1拍目のように強拍(下拍)で演奏したら、そのあとがうまく流れなくなる。アウフタクトはドイツ語で、英語だとupbeat(上拍)といい、上向きという意味がある。アウフタクトの曲では、ンのところで上げておいて、第1拍目(下拍)でストンと落ちてくるというリズムになっている。

これが西洋の古典音楽の基本リズムになっているが、子ども時代どれくらいこのことを意識してピアノを弾いていただろう。もしかしたら教わったかもしれない。でも認識として残っていない。音楽の論理として身にはついてなかったと思う。知識として、論理として知らなかった場合、実践はおぼつかないものになる。一見、楽譜はなめらかに弾けているようでいて、リズムの循環はまわっていないことになる。これも当たり前のことのようでいて、ピアノ教室などで案外実践されていないことかもしれない。教師にアウフタクトの知識があっても、子どもに教えるときに、どのように実践させるかはまた別の話だったりもする。

わたしはO先生のところで学ぶようになって、初めてアウフタクトを意識し、それを実践する練習をした。すぐにはできなかった。簡単なものからはじめて、だんだんという感じだったと思う。

このようにハーモニーとかリズムといった、古典音楽の論理を知識として知るようになり、それを練習によって実践、取得したところで、音楽のもっている感性の部分に触れることができるようになったのだと思う。

一般に「感性」という言葉は、あいまいな使われ方をしていることが多いかもしれない。何かを感じとる力が感性だとすれば、それは何によって養われるのだろう。知覚は誰もがある程度もっているとして、それは認識と結びついているだろうか。聞こえていることと、聞きとることは同じなのだろうか。

最近経験したことを一つ例にとって紹介したい。『ソニック・デザイン:音と音楽の特質』というアメリカの現代作曲家が書いた本を手に入れた。理由は、著者の1人(ポッツィ・エスコット)に興味をもったこと、そして音楽の論理を幅広い実例の中で学べそうだったから。グレゴリオ聖歌から現代に至る西洋音楽を基本にしてはいるものの、中国やインド、インドネシア、日本、アメリカ先住民など、普通このような理論書では同じ枠組の中で語られない音楽作品に対しても、同じやり方で(西洋音楽の解析法ではないやり方で)探索されているところに惹かれた。

その序章で扱われていたのが、ショパンの『前奏曲 第20番』だった。たまたまこの曲は、この1、2年よく弾いていた。この本の解析を読んで、第一段目の4小節で使われている特徴的な旋律の線とリズムが、2段目の5小節以降の内声部に隠れていることがわかった。それを意識する練習法として、ピアニストのコルトーの助言が添えられていた。それに従って何回か練習してみたところ、耳に聞こえてくるものが明らかに変化した。

この曲は終始、上下(右手・左手)6つの和音が重なったままゆっくり動いていくもので、一番上の(高い)音が旋律になっている。こうした場合、6つの音の重なりは耳に「聞こえて」はいるが、意識は主に一番上のメロディーに引き寄せられている。コルトーの練習法によって、2段目を繰り返し弾いてみたところ、ついに、6つの和音を重ねたままで、上から二つ目の内声部の音がくっきりと「聞きとれる」ようになった。そして1段目の特徴的な旋律とリズムを、その中にはっきり意識した。これは聞きとる耳が変化したことと、それにより演奏も変化したことの証しだ。耳が変わることで、演奏も変わる。

このような経験から、感性は、論理の影響を大きく受けるということがわかる。論理=知によって耳が変わり、その聞きとりによって感性に影響が及ぶ。『ソニック・デザイン』は訳せば「音(波)の設計」といったところだろうか。教材となっている楽曲を五線譜だけでなく、方眼のグラフィックの中に音を置いて、どのような音域がつかわれているかを視覚化したり、各声部がどのような線の動きを見せているか、音のフィールドがどう動くかなどの検証をしている。音を空間認識の中で捉えるという方法は、わたしにとって初めて出会うものだ。

また音域ということに対して、この本を読むまであまり意識していなかったことが判明した。『ソニック・デザイン』で取り上げられていた『前奏曲 第20番』は、ピアノの音域の約半分しか使われていない。音程でいうとC1~E♭5までということになる。実はこの音程の呼び方も、この本を読むまで知らなかった。ピアノの一番低い音はA0(Aはハ長調のラ)、一番高い音はC8(Cはハ長調のド)。よってC1はA0から白鍵で3つ上のドにあたる。『前奏曲 第20番』はC1を最低音として、ほぼピアノの下半分の領域で弾くことになる。この本では、楽曲における音域の重要性を理解するため、同曲を2オクターブ高いところで弾くよう指示がある。ピアノのほぼ上半分(右半分)で弾くことになる。これをやってみると、まったく違う曲となってこの曲が立ち現れ驚いた。どの音域をつかうかが楽曲にとっていかに重要か、ということを身をもって、知の面、感性の面両方で知った出来事である。

音楽のような一見抽象的で捉えにくそうなメディアも、適正なやり方を踏めば、見えてくるもの、得られる論理はたくさんありそうだ。その方法は、これまでの西洋音楽理論の法則からだけ見いだせるものではないのかもしれない。音楽は感覚だけで出来上がっているわけではない。アメリカのある現代作曲家は、演奏家志望者は作曲を、作曲家志望者は演奏を、それぞれもっと学ぶべきだと言っている。19世紀には作曲家と演奏家は同じ人間であることも多く、演奏家は曲ができる道筋にもっと意識的だったらしい。20世紀以降の演奏家は、楽器の熟練者になることばかりに力を注ぐ傾向がある、と言いたいようだった。

感性と知性の関係性は、音楽にかぎらず、あらゆる創作について言えることかもしれない。平野啓一郎の『本の読み方:スロー・リーディングの実践』では、ゆっくり、探索するように、解析しながら本を読むことを勧めている。そしてその実践方法を夏目漱石、森鴎外、カフカ、そして自作もまじえた著作を例に紹介している。これは直観や感性だけで読むのではなく、論理を探したり、言葉の意味や文法を確認しながら、知の要素をつかって認識を深め、読書をしていく方法論だ。作者の視点で読む、という言い方をすれば、上の段落に書いた演奏家も作曲を、というアプローチと符合するところがある。

自己流の読み方から、改めて読書の方法そのものを考えてみることで、これまでとはまったく違った発見があるかもしれない、と著者は書いている。「構造の全体を視野に入れて読むこと」「言葉の迷路をさまようことを、方向を持った探求に転じる」というロラン・バルトの指摘を、大江健三郎の小説から紹介していた。

冒頭の知性と感性の問題にもどると、やはりこの二つは、互いに補完し合い、刺激し合う存在だという思いが再び湧いてくる。音楽や文学に近づく際、論理を煙たがったり面倒がったり、軽視する傾向があるとしたら、そのことが感性を低めることにつながる可能性がある、ということを改めて考えてみた方がよさそうだ。

最後にアメリカ出身の作曲家(そして作家)ポール・ボウルズ(1990年ー1999年)の言葉を引用する。

知性で音楽を理解できなかったら、感情など得られないですよ。そうじゃないなら、ただ音楽を浴びてるだけになる。それは音楽の聴き方じゃない。頭の中をただ通すだけのこと。一瞬一瞬なにが起きてるか正確に理解できたら、もっともっと楽しみは大きくなるでしょうね。感情であれなんであれ得るものは大きくなる。(シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィーによるインタビューから)



20180504

インターネット時代の音楽の楽しみ


インターネットの普及によって、本の買い方、選び方はかなり変わってきたと思うが、読み方については、日本では紙の本が優勢で、デジタルネイティブと言われるネット世代であっても、その傾向はあまり変わらないようだ。以前より増えているとは思うが、kindleなどの電子メディアが読書の標準になっている人は、まださほど多くない。

一方音楽については、購入の仕方も使用メディアも(おそらく世代を通して)画期的に変化したのではないか。スマートフォンの普及が一つにあると思うが、簡便に安く音楽が聴けるという点で、データのダウンロードによる購入が主流になっていると思われる。電子ブックと違い、端末のデバイスを買う必要がないのも大きい(いや、実際はkindleの場合も、iPadやスマートフォンなどでアプリを使って読めるのだが)。

スマートフォンが音楽のデバイスとして普及する前には、iPodが人気商品となり、このスタイルでの音楽聴取の導入になっていたと思われる。そうやって過去をたどれば、もっと前に、SonyがつくったWalkmanというポータブルオーディオプレイヤーがあった。最初はカセットで、のちにCDウォークマン、MDウォークマンができ、現在はフラッシュメモリ型のものになっているようだ。わたし自身、カセットタイプ、MDタイプどちらも使っていたことがある。ウォークマンには録音機能があって、インタビューの際や旅先で環境音や祭りの音楽など記録するのに使っていた。

昔のメディアをたどっていけば、CD(コンパクトディスク)の前にLP(long playing:SPに対して)やSP(standard playing)のレコードがあった。CDは今でも流通しているし、LPもアメリカなどではvnyl(ビニール)の表記で結構流通しているように見える。新曲をDL(ダウンロード)、CD、Vnylと3種類のメディアで発売する例もあるようだ。持っている再生機器や音質によって選択するためだろう。

CDはドライブのついたコンピューターをもっていれば再生できるが、LPの方はLP用のプレイヤーが必要だ。もちろんスピーカーもいる。わたしは何年か前に、1万円くらいでアナログ・プレイヤーを買った。LPでしか聴けない録音というのも(昔の録音のもの)あるにはあるからだ。

こうして考えてみると、そして比べてみると、データをダウンロードして聴く音楽の簡便さは際だっているように見える。スマートフォン一つあればOKという世界。しかし「空気中」に音を流して音楽を聴きたいとなれば、スピーカーが必要だ。わたしはどちらかというと、空気中派で、スピーカーもCD(ネットワーク)プレーヤーも持っている。

他の「空気中派」は知らないが、わたしの場合は、プレーヤーにCDを入れて聴くことはめったにない。パソコン(iTunes)にある音楽データをネットワークでプレーヤーに送って聴いている。最近購入したものでないCDは、iTunesに読み込みしていないので、プレーヤーに入れて聴く。たまに聴く程度だが(CDの整理が不十分なため、探すだけで手間….)。iTunesは便利なのだが、2台あるコンピューター間でうまく連携(ホームシェアリング)ができていない(ONにしてあるのに有効にならない)。スマホの方はケーブル接続で同期していて問題はない。

またカセットWalkmanで録音した昔の音源や、カセットにしかない音源をデジタル化することもある。もっているプレーヤー、変換機器、パソコンをつないで入力し、そのデータをiTunesを使ってデジタル化する。取り込んだデータを、Sound Studioという(ちょっと古い)アプリで編集してからデジタル化することもある。ちょっとした知識と簡単な機器やアプリがあれば、誰でもできる。この方法を使って、7月から始める音楽プロジェクトで、サンプル音源により音楽を紹介していこうと考えている。

デバイスの話はこれくらいにして、音楽の中身、音源はどのようにして見つけるか、手に入れるのかを考えてみたい。現在、多くの人がそうであるように、わたしもここ数年(それ以上か?)は、ダウンロードまたはストリーミングで音源を手に入れている。たまーに、昔の音源を買うときに、CDで手に入れることもある。最近は古い音源でも、ダウンロード対応されているものが増えてきたように思う。

ストリーミングの話をすると、わたしがよく使うものにIMSLPとYouTubeがある。IMSLPというのは国際楽譜ライブラリー(ペトルッチ楽譜ライブラリー)プロジェクトのことで、楽譜という名はついてはいるが、音源も豊富にある。もともとは、19世紀に編纂されたバッハ協会によるバッハ全集の楽譜すべてを図書館としてアーカイブするために設立された機関らしい。

ウィキペディア日本語版によると、2006年に18歳の学生(ニューイングランド音楽院で作曲を、ハーバード・ロー・スクールで法律を学んでいたエドワード・グゥ)が創設とある。「18歳だったある冬の寒い日、ぼくはIMSLPをスタートさせ、そこからずっとこれを楽しみながら発展させてきた」と、IMSLPの紹介ページで述べている。

IMSLPにある楽譜の多くは、すでにパブリックドメイン(著作権消失)になったものが利用(PDFで閲覧、DL)できるようになっている。サーバーがカナダにあることから、その法律に準拠して、著作権者の死後50年が著作権消失の基準になっている。しかし(ウィキペディアによると)、発足翌年の10月、著作権消滅期間が70年であるヨーロッパのある出版社から、著作権を侵害していることを理由に、サイトの停止通告を受けた。当時学生だったエドワード・グゥは、支援者や法律家と議論を重ねた結果、資金的にも労力的にも、自分がこの問題を乗り越えることは難しいと判断し、プロジェクトの閉鎖を決めた。

しかしグゥは議論のためのフォーラムをネット上に残した。そこでの議論や支援者たちのサポートにより、翌年、IMSLPは再開にこぎつける。フォーラムでは、プロジェクト・グーテンベルクのディレクターや、著作権に関する法律専門家たちからの助言が多数あったようだ。こうしてネットの先輩やプロたちの支援によって、過去の貴重な遺産、楽譜を広く公開するという創設者のアイディアが生き返ったことは、素晴らしいことだと思う。

その後IMSLPは順調にアーカイブを発展させ、2010年には録音ファイルの収録もはじめた。このプロジェクトでは、利用者が楽譜や音楽データ(自分でスキャンした楽譜や録音したファイル)をアップロードすることもできるシステムをとっている。IMSLPは非営利組織だが、2016年から、Naxosというクラシック音楽系のレーベル(及び配信サービス)を利用可能にしている。わたしは2017年秋にこの仕組に気づいて、IMSLPにUS年額$22の支援金を寄付することでメンバーとなり、Naxosの音源ライブラリーに自由にアクセスできるようになった。

IMSLPではNaxos以外の音源については、メンバーでなくとも聴くことができる。しかしメンバーになってからは、ほとんどの場合、Naxosで音源を探している。たとえば「ショパン 前奏曲」で検索をかけると(ベースは英語だが日本語にも対応している)、Googleの検索システムにより結果が表示される。トップにきているのは、『Preludes, Op.28 (Chopin, Frédéric) 』。そこをクリックするとIMSLPの該当ページに行く。

「演奏」が「楽譜」の前に来ていて、この楽曲ではRecording登録が15、Naxosがアルバム12枚、さらにMIDI音源も数個アップロードされていた。Naxosでは該当曲が含まれるアルバムがビジュアルで表示され、その中から聴きたいものを選ぶ。ショパンの前奏曲では、サンソン・フランソワ、ルドルフ・ゼルキン、ダニエル・バレンボイムなど知名度の高いピアニストによる演奏も聴ける。比較的古い年代のピアニストのものが多いが、アルゲリッチなど現存の巨匠や若い演奏家のアルバムもそれなりにある。アルバムごとに表示されるので、思わぬ発見もある。サンソン・フランソワのアルバムはショパン曲集で、CD2枚分が収録されていた。前奏曲以外には、『ノクターン』が1番から19番まで(遺作を除く全曲)聴ける。ときに、ある楽曲を探していると、コンピレーション・アルバムの中にある場合があり(たとえば「フランス近代作曲家歌曲集」とか「サティとその仲間たち」といったような)、探していた曲以外のものと出会う機会もある。

この曲をこの演奏家で、という要望がある場合はiTunesなりで購入して聴くしかないが、演奏家より楽曲そのもの、作曲家に興味がある場合は、IMSLPは応用が効く。たとえば同じ楽曲を様々な演奏家で聴き比べするなど。案外聴いてみれば、自分の好きな演奏は、未知の演奏家のものという場合もある。そういう意味で、演奏家と出会える場所とも言えそうだ。また調べものをしたいときにも便利だ。購入することなく、楽曲がフルで聴ける。

Naxosではなく、RecordingとなっているものはIMSLPが収集したものか、投稿によるものと思われる。演奏家の個人名(ピアニストなどの場合)のみの場合もあるが、公開者情報として美術館やレーベル名が添えられていることもある。以前にモーツァルトのソナタだったか、Recordingの中にあるものから聴こうとして、演奏者名のところをクリックしたら、韓国のティーンエイジャーだったことがあった。詳しいバイオグラフィーが書かれていて、興味深く読んだ。こういうものに偶然あたったとき、「素人のものを聴かされて」とは思わない。どんな人で、どんな思いで演奏しているのだろうと想像しながら楽しんだ。(投稿の場合、審査があると書かれているのを読んだ記憶がある) 練習を積んできた曲を録音して、公的な機関に投稿するという行為は、演奏者にとって励みになるかもしれない。演奏を録音することは、発表会で演奏するのと同じくらい、腕をあげることにも繋がる。

ここでふと思いついて、IMSLPの創設者エドワード・グゥ(名前からして中国系なのだろうか?)が、自作を投稿しているかもしれないと思って検索してみた。ニューイングランド音楽院で作曲を専攻していたのだから。そうしたら1曲だけあった。『Ballade for Saxophone and Piano, Op.20』というサキソフォンとピアノのための楽曲で、2005年11月に作曲されたものだった。ピアノ、サキソフォンのパート譜もアップされている。録音、楽譜ともに「Creative Commons Attribution Share Alike 3.0」と記されており、クリエイティブ・コモンズのルールに従って、他の人が利用できるようになっている。個人の投稿者は、この表記がされていることが多いようだ。備考に「Recorded Oct. 2006」とあり、エドワード・グゥがまさにIMSLPを創設した年に録音しているのだ。DLしてみたところ、現代音楽のスタイルだが比較的聴きやすく、なかなか悪くない。ファイルはFLACという形式で保存されていて、ダウンロードして聴くようになっている。FLACは調べたところ、フリーで提供されている「可逆圧縮音声ファイル・フォーマット」だそうで、MP3のように音声の劣化が少ないとか。音声情報を失うことなく圧縮ができる技術のようだ。

ここで音質のことを少し考えてみたい。MP3(またはMP4)はiTunesなどで聴く際の標準圧縮技術で、多くの人が日常聴いているのはこの圧縮技術による音源だと思う。前段落でFLACについて音声の劣化が少ないと書いたが、MP3、MP4の場合はファイルを軽くするため、かなり音質を劣化させているようだ。soundengine.jpというサイトの説明では、容量を小さくするために、「重要でない」データを消しているとあった。重要でないというのは、たとえば小さな音量の音であったり、大きな音と同時に鳴っている小さな音であったり、人間の可聴領域から外れる音といったものを指すようだ。

この話を読んで思ったのは、CDが出てきたときに、アナログ音源(LPなど)と比べると、鳴っている音の幅がかなり狭い(多くの音がカットされている)ので、よい音質で音楽が聴けない、と言われていたこと。しかしLPの時代は去り、CD全盛になった。そして今はMP3の時代。とするとLP → CD → MP3と、再現される音源の幅はどんどん狭くなり、音質はどんどん落ちている、それをわたしたちは受け入れてきたことになるのか。

音質がどんどん下がっていく分、普及率は高まり、安く簡便に音楽にアクセスできるようになった、と言うこともできるだろう。音楽の市民化、あるいは民主化なのだろうか。一部の人間が、質も高いが値段も高い機器をもち、値段の高いアルバムというメディアを買って音楽を独占する時代から、誰もが1曲150円~250円で気軽にスマホから購入して、どこにでも携帯する時代へと。その際、MP3は音が悪いから、などと不平を言う人はほとんどいない。

だいたい聴くときのシチュエーションがプレーヤーとスマホでは違う。プレーヤーで聴く場合は、バックグラウンド的に流して聴くこともあるだろうが、オーディオの前で「さあ聴くぞ」という態度で聴く場合もある。街中でスマホで音楽を聴くときは、それなりの音量にしないと、まわりの騒音にかき消されてしまう。メディアによる再現性以前に、環境的にも小さな音を聞きとれる状態にはない。その意味では、MP3で充分ということになる。おそらく何を聴くか以上に、今はどういう状態で音楽を聴くかの方が重要なのかもしれない。自分の家でさえ、家族といっしょにいる間は、自分の好みの曲を部屋中に響かせることはあまりないのではないか。つまり音楽を聴く行為は、今の時代、かなりプライベートなことなのだ。その意味で、スマホでMP3の音源を、どこにでも携帯するスタイルの方が合っている。

多分この聴き方は、何を聴くかにも影響を及ぼしていると思う。どのように音楽を購入しているか、人に尋ねたことはないが、アルバムごと買うより、気に入った曲だけ買う方が標準的なのかもしれない。そういえばDLミュージックが出てきたころ、アルバムで一つの作品として作られているのに、バラで聴かれちゃ、、、というアーティスト側の反発を聞いた覚えがあるが、今はそのあたりどうなっているのだろう。

わたし自身はバラでも確かに買うことはあるが、これと思ったものはたいていアルバムで買う。楽曲を一つ二つと買うというより、あるミュージシャンの意図にアクセスするような感じがある。最近購入したものでいうと、Anna & Elizabethというデュオの新作アルバム『The Invisible Comes to Us』をDLで$9.99で買った。CDで買えば$14.98、LPなら$24.98。CDやLPの場合、アメリカからの輸送費が加わる。アマゾンでも買えるがCDで2400円くらいする。これはクラシック音楽ではなく、ジャンルとしてはアメリカンフォークだろうか。サウンド的には新しく、斬新なアレンジが施されているが、歌自体はトラディショナルな楽曲(old songs)のカバーのようだ。スミソニアン・フォークウェイズという非営利の音楽レーベルのもので、ここではときどき面白いアルバムを見つけて購入している。イラク出身のウード奏者ラヒーム・アルハジの『Letters from Iraq』を買ったのもここ。ウードと弦楽四重奏の美しく、エキゾティックなアルバムだった。おそらくこのどちらも、単品でバラで購入することはなかったと思う。聴くときはアルバム単位で聴くことが多い。

しかしこれについては、現在はiTunesの場合、1、2曲買ったあとで、コンプリート版を買うことにしても、損することはない。すでに単体で払った分はアルバム代金から引いてくれるので。これなら1曲単位で購入する場合も、気にすることなくバラで買える。その方が結局はアルバム購入にもつながるのではないか。

インターネット時代の音楽の聴き方、過去の習慣からの変化について、思いつくまま書いてみた。そして改めて思ったのは、たまにはCDやLPで音楽を聴いてみようかな、ということ。耳はもう完全にMP3、MP4対応になっているが、圧縮の少ない音源を聴くことで、何か気づくことはあるだろうか。