20160125

図書館に何を期待するか

ここ最近、日本では、出版社や作家たちから出版不況の原因として風当たりが強くなっている図書館。一方で商業施設型のツタヤ図書館は、のちに蔵書についての批判が出たものの、当初の「受け」はよかったと聞く。地元にはなかったスターバックスが図書館内にできて嬉しいなど、市民から好評だったと伝えられていた。

一般に本をよく読む人は、書店で本も買い、図書館も利用するという。わたしの場合も、両方を利用している。図書館については、インターネットが発達する前までは、突っ込んだ調べものをするときは、地元の図書館ではなく、都の中央図書館や国会図書館などにもよく出向いていた。蔵書や資料が格段に豊富だからだ。マイクロフィルムで古い時代の新聞を調べたこともある。また豊富な資料の中で調べごとをしている間に、アイディアが浮かぶこともあった。

ここ最近は地元の図書館へ本を借りるために行く。何か読みたい本、調べたい本が出ると、amazonと図書館の両方で検索をかける。本がキンドル本になっていれば、それを購入することが多い。しかし日本では、キンドル本での出版が著しく立ち遅れている。新刊でもキンドルにならない本が多いのは、紙の本と同時には出版しない、というルールが版元側にあるのかもしれない。まず紙の本を売って元を取ってから、というビジネスのやり方だろうか。残念なことだ。

amazonで調べてキンドルになっていない場合は、図書館(地元の川崎市)のウェブサイトで検索をかける。余談になるが、この図書館の検索の精度が非常に低い。データベースというものの基本、使われ方がよくわかってないのではないか、と疑いたくなる。川崎市の図書館のデータベースでは、書名検索の際、一字一句間違ってはいけない。漢字がひらがなだったり、カタカナがひらがなになっていてもハネられる。検索結果に出てこない。副題をタイトルと一緒に入れると結果が出てこない。などたくさんの不備がある。通常、検索というのは、多少違う箇所があっても、周辺の結果を出さないとあまり意味がないと思うのだが。キーワド検索も使いやすいとは言い難い。データベースはamazonの方が優れているかもしれない。

このように精度が低い検索機能ではあるが、なんとか検索はできる。一番確実なのは、著者名を一字一句間違いなく入れることだ。するとその著者が出した本の一覧が出てくる。図書館のいいところは、過去の出版物も揃っていることだ。1970年代くらいまでの過去の本なら普通にある。書庫に入っている貴重本も、検索では確かめられるし、借りるための予約もできる。わたしの場合、ここで検索をかけて目ぼしい本が見つかれば、予約をしておく。1週間か10日くらいの保管期間内に出向いて取りに行く。

図書館にも本がない場合(流通の関係と思われるが、オルタナティヴな版元の本は少ない)、そしてamazonにも新刊としてない場合(版元が重版しないので、出版時期が古い本はないことも多い)、マーケットプレイスにあるものを確認する。図書館に本があっても、マーケットプレイスで買うこともある。割によく利用する。手元に置いておきたい本、長期にわたって必要な本などは購入を選ぶ。図書館の本の場合、最大でも4週間しか手元に置けない。ただ紙の本を買うことは、心理的に負担ではある。整理、処分しても本は増えつづけ、書棚からあふれてしまうからだ

図書館に期待することの一つとして、検索機能の向上のほかに、自分の借り出し履歴が残せるマイページのようなものがあったらと思う。個人情報上の問題があるのであれば、残したい人だけ選択できるようにすればいい。過去に借りた本を再度見たいときに役立つし、データ上にその履歴があれば、本そのものは自宅になくとも、半分所有しているのと同じだ。(すでにこういう仕組みがある公立図書館もあるのだろうか? オンライン上の機能やデータベースのレベルを全国の公立図書館でいつか比べてみたい)

ベストセラーも含めた新刊を貸し出すことは、図書館の役割のごく一部だと思う。実際、20年くらい前の日本で、「ベストセラーの新刊本をただで読みたい」から図書館へ、という人がどれくらいいただろう。あるいは「税金を払っているのだから、図書館は住民の希望するベストセラー本を借りやすいよう数を揃えておくべき」と考える人が果たしていたか。図書館の貸本屋化という現象があるとしたら、それは読書人にも責任の一端があるかもしれない。

図書館への期待というものは、ここ何年かの間に変わってきたのだろうか。わたしのイメージでは図書館とは、棚の間を歩いて探索しながら、思いもかけない本に出会う(そこには古い本も新しい本もある)、というクラシックとも言えるもの。自分では高価で買えない専門書や、大型の美術本も借りて帰ることが可能だ。図書館では本の価値はフラットで、古い本も新しい本と同様に、それを借りる人の目的や興味によって価値あるものになる。

街の書店には、出版時期の古いものはほとんど棚にない。日本の出版業界の特殊事情(自転車操業的に新刊を次々出さないと事業が成り立たない)の影響を消費者はもろに受けている。本屋とは、ここ3ヶ月〜6ヶ月に出版された話題の新刊を並べる店、という風になっている。

出版社や作家が、図書館のせいで本が売れなくなるから、出版後1年間は貸し出さないでほしい、と図書館に求めることも、「ベストセラーの新刊はただで図書館借りたい」という読む側の人と同じくらい低いレベルの要求である気がする。本をめぐる主要な存在として寂しい気がするし、どちらもあまり文化的には見えない。もし本というものが貴重な存在であるのなら、それを扱ったり、享受したりする人間はもっと文化レベルが高くてもいいはずだ。1冊の本が世に出ることを祝福し、その本の生涯を見守り、一度出て話題になったら終わりという消耗品のような扱いではなく、重版という形で後世に受け継がれることにも多くの人が価値を見出してほしい。

図書館で過去に出版された良書を見つけ手にすることは、本というものの価値を再認識する機会となる。街の書店では到底扱っていないような、よくぞその時代に出版したなというような本を見つけられるのは図書館だ。「新刊本をただで読みたいから」だけでは、図書館の利用価値としてもったいない。

本というのは今、「従来型の本」ではない本に似たメディアと境界を接しながら、複数の環境の中で生き延びようとしている。図書館も新刊書店も古書店も読書人も、本を共に支える存在のはずだ。目の前の自分の利益のみに目を奪われて、囲い込みをしたり、卑しい振る舞いをする時ではない。

図書館を考えるとき、もう少し視野を広げる糸口として、「未来をつくる図書館 ーニューヨークからの報告ー」(菅谷明子著、2003年)を紹介したい。このような文章があった。

市民の活動基盤を形成する基礎的施設のことをインフラと呼ぶならば、図書館こそ今の日本に最も必要なインフラではないだろうか。市民のための「知的インフラ」。

著者はこの本で、普通図書館といってイメージされるもの以上の「知的インフラ」を提供し、市民の生活や活動を支援する存在として、ニューヨーク公立図書館を紹介している。ここにはビジネスや舞台芸術に特化した専門館もあり、一般市民からその道のプロフェッショナルまで幅広い層に利用されているという。この図書館で資料として「蔵書」されているのは、紙の本ばかりではない。マーケットリサーチに役立つ高度なデータベースや様々なセミナー活動(科学産業ビジネス図書館シブル)、オペラの公演記録など音声や映像のメディア、台本、舞台衣装、舞台セットのミニチュア、プログラムなどの「生素材」(舞台芸術図書館)も図書館の「蔵書」活動領域となっており、「知的インフラ」とは何かをその幅広さと深さで表している。

20160111

ショパン×アジアンキッズ

ちょっとしたきっかけで、去年の秋に開かれたショパン国際ピアノコンクールに興味をもった。ショパン・コンクールというのは5年に1回、ショパンの生地であるポーランドのワルシャワで開かれる、ショパンの楽曲の演奏を競うコンテスト。国際ピアノコンクールの中でも、ピアニストにとって重要とされているもののようだ。若手の発掘という趣旨もあり、出場資格は30歳以下。下は前回までは17歳以上だったのが、今回から16歳以上となった。

今年の優勝者は、韓国のチョ・ソンジンだった。1927年の第1回から数えて、3人目のアジア人優勝者だという。最初がベトナムのダン・タイ・ソン(1980年)、次が中国のユンディ・リ(2000年)、そして2015年のチョ・ソンジン。ちなみに日本人にはまだ優勝者はいない。最高位は1970年の内田光子の2位。ただし毎回参加者は多く、今回も応募者数では1位だったと聞く。

今年は優勝者が韓国人だっただけでなく、3位、4位、5位がアジア系の奏者で占められ、そのことも話題になっていた。3位はシンガポール生まれの中国系アメリカ人、4位は中国系アメリカ人、5位は中国生まれのアメリカ移民。1位のチョが21歳、3位のケイト・リウが同じく21歳、4位エリック・ルーが17歳、5位のトニー・イェイク・ヤンが16歳と、みんな年齢も若い。ちなみに2位は26歳のカナダ人(ヨーロッパ系)だった。

なぜアジア系の入賞者が多いのか、その理由はおそらく応募者数の多さとも関係があるのだろう。今回は日本の88人を筆頭に、中国77人、韓国47人で、地元ポーランドの56人と競っている。しかし応募者が多ければ優勝・入賞者が出るかと言えば、そういうことでもない。応募者の質や個性の方が問われるだろう。しかし応募者が多いということは、その国(や民族)でピアノ音楽やピアノ教育が盛んだという説明にはなる。

西洋の音楽をアジア人がものにすることは、それほど簡単ではないのではないか、そう長年思ってきた。しかし今回、コンクール時のチョ・ソンジンの演奏をYouTubeで聴いていて、ひょっとしたらそれは間違いかもしれないと感じた。アジア人が西洋音楽を身につけるのが難しい理由について、わたしは、母語の発語法や聴力、文化的背景(特に和声感やリズム感)の違いを考えていた。しかし本当にそうなのか。赤ん坊は生まれたとき、どこで誰から生まれようと、あらゆる言語を聞き取れる聴力をもっている、と聞いたことがある。もしそうだとすれば、音楽についても、同じことが言えるのではないか。

チョ・ソンジンのコンクールでの演奏(公式ウェブサイト及びYouTubeで、すべてのコンテスタントの演奏が視聴できる)をいくつか聴いた。第一次、第二次、第三次予選のソロからファイナルの協奏曲まで。チョ・ソンジンの演奏について最初に感じたのは、ショパンの楽音に対するまっすぐな反応、気持ちのよいクリアーな音色だった。弾いている姿勢、手や指の鍵盤へのタッチ、すべてに無理がなく、無駄な動きもほとんど見られなかった。良くも悪くも、ピアノを弾く人間には打鍵時の癖があるものだが、この人にはそれがないように見えた。また曲想への強い思いが弾く時の体勢に影響したり、実質的に必要な力以上のものがからだに加わったり、そういうところもなかった。その印象からか、音楽への向かい方や音への反応の仕方に、より純化されたものを感じた。音とその向こうにある音楽、そして自分。先入観のない、また文化的背景も強調しない、純音楽とでも言おうか。

特別にいかにもなショパン風という印象はない。しかし聴いているのは確かにショパンの音楽だ。それが心地いい。「ショパンらしさ」にも「自分らしい表現」にもこだわっていないように見える弾きぶりで、音楽としての普遍性を感じた。表題のついた楽曲の少ないショパンへのアプローチとして、彼の弾き方は理にかなっているのかもしれない。ワルツを、マズルカを、さまざまな楽曲をこの人がどのように弾くのか、ずっと聴いていたい気分になる。

このような音楽性は、アジアだからこそ生まれたのだろうか。チョ・ソンジンは1994年韓国生まれの韓国育ち。インタビューによると、家にアップライトピアノがあり、小さい頃それで遊んでいたという(最初は1本指で)。6歳になってグループの音楽教室に行くようになり、正式にピアノを始めたのは10歳とのこと。この話が本当だとすれば、専門教育を受けた年齢としてはかなり遅い方だ。通常ピアニストになるような人は、4歳前後でピアノを習い始めている。

4歳からピアノをやっていてもピアニストになれるとは限らない、ということから考えれば、逆も真なり、かもしれない。家で遊びでピアノを弾いていて(母親の弾くピアノを聴いて育ったかもしれないが)、自分の好きな音、面白い弾き方、自分にとっての音楽をみつける、ないことではない。その後、正式な教育を受ける。その場合、その時点で、ピアノと自分のリレーションシップ、あるいは自己表現術をある程度身につけてしまっていても不思議ではない。

ピアノを先生について習う場合、それが専門度の高い先生であればあるほど、生徒は最初から音楽の領域で下位に置かれる。何もできない、わからない生徒として、先生の教えを請い、それに従う。従わなければならない。そうしないと上達しない。一方的に先生を仰ぐ立場に置かれる。そこには絶対的な存在としての楽譜があり、「正しい」奏法が君臨している。習って習って覚える世界だ。

しかし習う、とは何だろう。「Rize」というドキュメンタリー映画を見た。ロサンゼルスの犯罪多発地域のゲットーに住むワルの男の子、女の子たちが、クランプというヒップホップ系のダンスを踊って競い合う。他のグループとダンス合戦をする。5、6歳くらいの小さな子も、いっぱしの踊りぶりだ。このダンスの肝はハートとソウル。本物かどうかはそれで決まる。怒りや悲しみや欲望が、からだからこれでもかというくらい盛大に発散される激しい踊りだ。ダンスとは格好ではないのだ。みんなすごいからだ(筋肉とか関節とか)をしていて、予測のつかない動きを見せる。それは独習と創造によって生まれたもの。先生に習ったり、基礎訓練をしたものではなさそうだ。小さな子どもも、見よう見まねでダンスを自分のものにしていったに違いない。肝はちゃんと押さえられている。

文明国の人間は、習わないと人間は何もできないと思いがちだ。早期教育に目の色を変える日本の親たちがたくさんいる。しかし、人間の能力とは、そうしたものではないのかもしれない。今年のショパンコンクールの審査員の一人である日本人ピアニストは、こんな風に書いていた。日本では曲をまず弾けるようにしてから、表現などを加えようとする。しかし順番が逆である。まず楽曲がどのようなものかを考える、イメージをもつ。それをもとに弾けるようにしていく、その方がよいというのだ。自分が何をしようとしているのか、何がしたいのか、動機となるものを心にもち、楽譜を音に変え、その音に耳を澄ます。探りながら弾いていく。そういうことなのかもしれない。

YouTubeでは、日本の小さな子どもが難しい曲を得意げに早弾きしている映像をよく見かける。弾いている格好もいっぱしだ。ピアニスト「風」の型にすでにはまっている。まわりの大人たちからは、さぞちやほやされていることだろう。末はピアニスト、と。しかし年少の無垢な精神が、未知の世界を探索しているように見える演奏は稀だ。音楽にとって大事なものは、そういうものではないか。

今年のショパン・コンクールでは優勝者以外に、もう一人気になった人がいた。3位になったシンガポール生まれの中国系アメリカ人、ケイト・リウ。演奏はたくさんは聴いていないが、演奏の間に魅力があるように感じた。非常にスリムな体型で、腕も細いので、これでピアノが弾けるのだろうか、と思っていた。しかし演奏には何の支障もないようだった。静ひつで自分の存在を消しているようなたたずまい、バリ島あたりの南方の女の子といった風貌で、不思議な空気感がある。巫女のような、と評していた評論家がいたが、的を得ているかもしれない。演奏しているとき、顔を上げ半ば口を開き、宙をみつめている。感情が高まるフレーズを弾いているときも、表情が変わらない。多くのピアニストは、そういう場面では顔をゆがめて弾くことが多い。眉間にしわを寄せ、いまにも泣きそうな、苦痛とエクスタシーの混じり合ったような表情を浮かべる。しかしケイト・リウという人は、この世に存在していないような感じで、生々しい人間的感情ではなく、はるか彼方のどこかに心をさまよわせているみたいにして、ピアノを演奏する。

自分の、個人的な、内なる感情の機微を表現しようとしているのではない、と見えるところが、1位になったチョ・ソンジンと共通するところかもしれない。こういうコンクールでは、演奏技術よりパーソナリティの方が重要視されるとも言われる。しかしパーソナリティといったとき、演奏者個人の感情の吐露や作曲者への傾倒の表現か、といえばそれだけではないのかもしれない。たとえば音や音楽への提案といったものが、一つのパーソナリティにもなり得る。

今回のショパン・コンクールでは、演奏以外にも驚くことがいくつかあった。コンクールを主催しているショパン協会は、専用の公式サイトをもっている。2015年度のコンテンツでは、第一次予選からファイナルまで、全奏者の全演奏をライブで流したらしい。またそのアーカイブはのちに再生することもできる。同じ映像をYouTubeでも専用チャンネルに置いている。興味深かったのは、ファイナルまでのそれぞれのステージを、ほぼノーカットで流しているように見えたこと。10:00 - 14:00のような分け方で、1本のビデオが4時間を超える。休憩時間もホールの後方に据え置いたカメラがじっと人のまばらな会場を映していた。この思想はなんだろう。編集はしない、人の手を加えない、という判断だろうか。

また第一次からファイナルまで、審査員の採点表を記名入りでサイトに掲載もしている。これにはちょっと驚いた。審査委員数は少なくないし(17名)、コンテスタントの数も多いのに。さらに視聴者からのコメント投稿も受け付けている。

視聴者のコメントを読んでみたところ、採点表の公開は公平性などの点ですばらしい、という協会への賛辞がいくつかあった。また特定の審査員への批評も(批判と言えるものも)多数あり、その活発な双方向的リアクションには驚かされた。審査員は記名なので、誰がどの演奏にどういう点を与えたかがはっきりしている。ファイナルの審査で、1位になったチョ・ソンジンに10人いるコンテスタントの10番目(びり)をつけた人が一人いた。わたしもこの採点は目にしたときから気づき、奇異に感じていた。この審査員はどういう人なのだろう、と興味をもった。だから投稿欄で、審査員を名指し(Mr.◯◯のように)で批評、批判している人がかなりいたのはあり得ることではあった。

クラシック音楽の世界も、こうしてみると、いろいろな意味で進化著しいようだ。演奏の映像や審査の過程を全世界へ公開することが、ひいては100年、200年昔の古い音楽を生き永らえさせることに貢献しているのかもしれない。そしてその音楽を生んだ土地から地理的にも文化的にも遠く離れた場所からも、今回のように多くの才能が発掘されていくのだろう。

International Chopin Piano Competition公式ウェブサイト
http://chopincompetition2015.com/