20080315

仕立て屋座り、とは。懐かしきネットニュース。

翻訳中のメアリー・オースティンのテキストに、tailorwise という単語が出てきた。なになにwiseでなになにのやり方で、という意味があるので、テイラー式に、あるいは仕立て屋風に、と考え、He sat tailorwise in the sand. をとりあえず「仕立て屋座りで」と訳しておいた。先を訳していて「仕立て屋座り」とは何か、気になったので、ふと思いつきGoogleの検索にsat tailorwiseと入れてみた。出てきたのは掲示板式の質問者と複数の回答者のページ。というか英語圏ではインターネット創始のころから盛んなニュースグループというやつである。テキストのみでやりとりし、ジャンルやテーマごとにわかれたトピックに参加し、発言したり、人の意見を読んだりするもの。詩のニュースグループのように作品を投稿して感想を述べ合っているところもあって、今は知らないがかつてはかなり活発なグループもあった。ニュースグループ専用のソフトウェアもあったが、今はGoogleがその役割を果たしているようだ。mixiとはまた違ったコミュニティーと言ったらいいか。

そう言えば以前にも一度、どうしてもわからない単語か表現があって、グーグルの検索ボックスに放り込んだら、ニュースグループのページが出てきたことがあったっけ。そのとき出てきた回答は素晴らしく的を得たもので、しかもテキスト原文が同一のものでもあり(それほど特殊な言葉だったのだろう)、なるほどと納得した。かなり信用に足るものだと思えた。物をよく知り、しかも親切な人々がインターネットにはいるものだと感心もした。

さて今回、出てきたページはalt.usage.englishのニュースグループ。altはオルタナティブでニュースグループのカテゴリーの一つ、usageは使用法。質問してからわずか10分くらいの間に最初の回答が掲載されている。そしてその後、続々と別の回答者からも。わかったのはtailorwiseとは、足を交差させて床などに直に座ること、、、つまりあぐらをかいて座ることだった! 最初の回答者は、ヨガのポーズの写真にリンクが貼ってあったが、そのあとの回答者によると、昔のテイラーは仕事場で胡座をかいて仕事をしていたというのである。日本のことではない。アメリカなどの話である。そして古い写真のリンクが貼ってあり、これがなるほど、という面白さだった。

http://images.jupiterimages.com/common/detail/73/94/22619473.jpg
http://www.vam.ac.uk/vastatic/wid/images/tailorofg-sewing.jpg

あるいは床ではなく、テーブルのような台に座っていたようでもある。
http://www.wichitaphotos.org/graphics/wschm_E5-36.1.4.jpg

この写真には驚いた。こんなものが見られるなんて、やはりインターネットならではのこと。

20080301

マンザナール、その他の写真家たち。

メアリー・オースティンとアンセル・アダムスの関係にはじまり、マンザナール強制収容所をめぐってアダムスから宮武東洋へと過去を巡る旅をしてきた。さらに最近購入したMichael L. Cooperの"Remembering Manzanar"に目を通すと、また別の側面が見えてきた。マンザナールに入った写真家は他にも何人かいたそうだが、最初に訪れたのはDorothea Langeという女性の写真家で、時期は1942年4月。日系人たちがまだマンザナールへの移動の途上にあり、収容のごく初期のことらしい。そのため後から訪問したアダムスなどの写真と違って、人々の表情には自分の身に起きていることへの不安が現れていたという。

またここではどんな写真家も、写真を撮るにあたっての規制があり、怒りをあらわにする収容者、銃をもった兵隊、有刺鉄線の柵、見張り塔などは検閲にかかった。検閲を通った多くの写真に写る人々の表情がやわらかなのは、こういった事情があるからだ。その写真自身には真実があったとしても、全体としてみるなら、必ずしも正確な描写とは言えないことを知っておかなくてはと思った。知らされる事実には、常にこういう側面があるということだろう。

アダムスとオースティンのコラボレーションによる「The Land of Little Rain」(1950年)を最近手に入れたのだが、そこに載っている地図を見ていたら、マンザナールの場所がわかった。シエラネヴァダとインヨー山脈に挟まれた細長い土地、オーウェンズヴァレーのほぼ真ん中あたりにあった。ビッグパイン、インディペンデンス、ローンパインなどオースティンの書くものに登場する地名のただ中にあった。オースティンは1934年没なので、真珠湾攻撃も収容所も知らずに死んでいる。オースティンはオーウェンズヴァレーの町を点々とした後、晩年にサンタフェに移っているが、もし生存中にマンザナール収容所ができていたら、何か関係をもっていたかもしれない。オースティンの多くの作品の重要な舞台となっているこの一帯に起きた「不名誉な」「事件」に、無関心ではいられないだろうと思うからだ。