20131028

小説の中の言語と会話


12月に出版予定のガーナの作家の小説「青い鳥の尻尾」について、少し書いてみたい。この小説はガーナが舞台で、登場人物としては、奥地の村の老猟師や呪医、主人公である監察医のカヨ・オダムッテン、それにアクラ(ガーナの首都)の警察署に勤める警官たちがいる。

ガーナの言葉は豊かだ。まず公用語として英語があり、それ以外に政府がサポートする言葉として、アカン語、ダバニ語、エウェ語、ガ語など九つの言語がある。学校教育や出版物はこれらの言語によっているようだ。他に各言語の橋渡し的な役割を担う、ピジン英語もよく使われていると思われる。ピジン英語は、西アフリカの近隣の国で使われているものと、共通部分が多いのではないか。

この小説は英語で書かれているが、会話の中で、ピジン英語やトゥイ語(アカン語の一種)がたくさん出てきて、その音を「聞く」楽しさがある。日本ではあまりないことだが、家族の中でも複数の言語が混在している。主人公のカヨの家は、お母さんはトゥイ語を話すが、お父さんはガ語なので、息子も交えての会話では、必要に応じて言葉を切り替えたりしている。

カヨが友だちと話す時は、ピジン英語だ。以前にナイジェリアの作家の短編小説を訳したとき、ピジンの面白さに気づいた。英語のくずし方、現地語のセンスや音感を取り入れたと思われるリズム感。ピジン英語は下層の人々が使うきたない言葉というイメージがあるかもしれないが、人々によく使われて、生な感じが伝わってくる楽しげな言葉、生きのいい言葉とも言える。意味はともかく口に出して読んでみると感じがつかめる。

dat car dey well-well.  = that car is very nice.
e say we for burn am before the sun go go ooh. = He says we should go for burning him before the sun goes down.
I dey bed inside plus am the whole day wey I no see you for there. = I was in the bed with her whole day where I didn't see you.

このピジン英語をさまざまな人が、警官から村の老人に至るまで、状況によって使う。主人公であるイギリスの大学出のカヨも、友人とのくだけたおしゃべりや、話し相手との距離を縮めるためにこの言葉を使うことがある。それによって話し手の心理状況を表わしているとも言えそうだ。

トゥイ語やガ語も人々の言葉の端々に出てくる。
アペンアペン=うじゃうじゃ
アダンコ(ンダンコ)=うさぎ
オトゥエ=レイヨウ
ワンシマ=ハエ
パアア=とても
セビ=言葉につまっとときや、言いにくいことを言うとき挟む間投詞のようなもの。
アグー=人の家に行ったときかける言葉(多くの家にはドアがないので、ノックの代わりにアグーと言う)
オニャメ=神さま
オパニン(あるいはエギャ)=年長の人に対してつける言葉。

おかしかったのは、捜査にあたっている警察官が、事件現場でびっくりするようなものを見たとたん、それまで話していた英語を忘れ、全員が現地語で叫び出したシーンだ。
アウラデ! エイイェス! アセムベンニ! 

なんだこりゃ、びっくりした、たすけてくれ。そんな意味だと思われるが、ここでは言葉の意味そのものよりも、聞き慣れない音の存在感と、その場の状況を言葉の変化で表わしている、ということの方が重要なのだ。実際読んでいるとき、この文のところで意味を知りたいとは特に思わなかった。その前にもう、伝わってくるものがあった。

言葉には意味があって、それは小説の言葉の基本なのだが、音という側面も使い方によっては、けっこうな表現力を秘めている。

ところで、この本の各章のタイトはトゥイ語だ。1章 クワシダ、2章 ドウォゥダ、3章 ベナダ、、、、アカン暦の日曜日、月曜日、火曜日と曜日の名で章タイトルができている。著者はそこに英語の注釈を入れていない。日本語訳では入れた方がいいかな、と思っているのだが。

20131021

ミヤギユカリのドローイング集 LINE


準備していたミヤギユカリさんの「Line:それでも花は咲き今年も蝶がきてくれた」が間もなく、アマゾンから発売になります。1年半くらい前に、POD(プリント・オン・デマンド)によるペーパーバックで、ドローイング集を実験的につくってみたい、という相談をしたのがプロジェクトの始まりでした。

プロジェクトのことで最初に顔を合わせたとき、ミヤギさんから大震災につづく原発事故の衝撃から、絵を描く意味を見いだせないでいる、というようなことを聞きました。こんな事故が起きてしまって、その中で先も見えずに生きているときに、絵を描くということにいったいどんな意味があるのか。生命への驚きや共感をモチーフに絵を描いているミヤギさんなら、そう思うのも無理はないなと感じました。地球上に生きるあらゆる命と、深い繋がりを感じながら絵を描いている人の言葉が胸を打ちました。

そのときは本の打ち合わせといっても、主に震災と原発事故の話をして、互いに思うところを言いあうことに終始しました。事故から1年くらいのことで、原発事故をとりまく状況にはまだ生々しさが残っていました。ただ世の中の(身近にいる人も含めて)事故についての受け止め方は様々で、多くの人はもう半分忘れかけているかのようだ、という風にも見え、その点がミヤギさんは理解できないようでした。

原発事故をめぐる疑問や不安、これからのこと、まわりの人々のこの問題への態度に対して感じる疑問や怒り、どう生きていったらいいのかという自分への問い、そんな収拾のつかない思いに心を揺らせながら、少しずつなんとか描きはじめた線、線から始まる絵。

一本の線を描くことから、何かを導きだせたら。描いては考え、考えては描き、それを何度も往復させることで、どこかに行き着けるかもしれない。文章を書く人が、書くことで考えが深まっていくように、ミヤギさんも自分の描く線に、未来を見ようとしていたのかもしれません。

そんな風にして日々描き連ねていったものが、Lineという一つの作品集として世に出ることになりました。

追記:
今回の80枚を超える絵の中には、ロシア語、英語、中国語などの絵文字が含まれています。文字をつかった絵は面白く、ビジュアル的にもユニークですが、そこに意味がある、ということで、作者の気持ちがよりダイレクトに表わされているとも言えます。

20131015

三人称小説とひとり語り

現在翻訳中の小説「青い鳥の尻尾」を最初に読んだとき、語りの魅力に惹きつけられた。小説の中で、奥地の村に住む老猟師、オパニン・ポクが語る奇妙な話とその口調が印象的だった。小説の冒頭の一章がすべて、その長老のモノローグ(一人称)で書かれていたことも、その印象を強くした要因だ。また小説の最後も、その老猟師の話で締めくくられている。

しかし小説すべてが長老のモノローグかというと、そうではない。ベースはむしろ三人称の小説だ。そこでの主役(この小説の主人公)であるカヨ・オダムッテンは、イギリスの大学を卒業して国(ガーナ)に帰ってきた監察医。この二人を対照的に置いていることも、ひとり語りの長老の話を引き立てている。主役が長老のうまい引き立て役になっている。

最初と最後、つまり小説の重要な部分に、長老の独り語りが置かれている意味は何か。と考えると、ひょっとすると、すべての出来事や登場人物は、この老猟師のお話の中で生かされている要素、と見ることもできなくはない。

実際にはそうではなく、三人称小説の中に効果的に挟まれるモノローグということだとは思うが。しかしこの長老の達者で狡猾な話しぶりには、物語ることのエッセンスがたっぷり含まれている気がする。老猟師のこんな台詞があった。監察医のカヨが、長老のした話の真偽を確かめようと詰めよったときのこと。

「わたしは何が真実かを語る者ではない。わたしはただ話をしただけだ。この世では、何を語るか、その話を選ばなくてはならない。その話がわたしらに取り憑くからな。どんな風に生きるかに関係してくるんだ」

ふーん、この世では人は何を語るかを、選ばなくてはならない、それが自分に取り憑く。なるほどね。お話というのは、確かにそういうものかもしれない。噂話であれ、人への説得であれ。

この老猟師は先祖代々の土地に住み、その一生を森で猟をして暮らしてきた。森のことならなんでも知っている。そこに住むの生きもの、植物、道(道には地面の道と川の道の二つがあり、より優れているのは川の道らしい)を知りつくし、森の暗さの中も苦なく歩きまわれる。

ヒョウとまともに対面して撃ちとるほど銃の腕前が高いのはもちろん、美しいものへの感性も独特のものをもっている。『ヤギの糞がどうしてああも美しいのか』とか『妻の尻は大きくて黒くてな、脚は頑丈で蟹股だった。妻の美しさは、錦ヘビのロイヤルパイソンをしのぐほどだった。』などというものだ。

昔は奥地の人間はみなそうだったのかもしれないが、今の時代(この話の現在地は21世紀に入ってからのもの)には、もうあまりいないタイプ、特にアクラ(ガーナの首都)のような都会では、変わった価値観のもち主になってしまうのだと思う。

このような価値観の人間をあらわすには、おそらく一人称で語らせるのが一番なのだと思う。言葉自身に、その口調や選んだ言葉から、話の意味がにじみ出てくるような。三人称の記述では、客観的な描写力や整合性が常にもとめられる(経験の浅い小説家にとっては、難しいことかもしれない)。一人称の記述では、読み手にその語り手の声が伝わるかどうかが、話の内容以上に重要な場合もある。

だから独り語りの部分を訳すときは、耳をよく澄ましながら、日本語を書いていく必要があったりする。

20131007

小説のコトバ  ーーー はじけてはじけてナンボ?



ジンバブエ生まれの若手作家ノバイオレット・ブラワヨ(1981年〜)の "We Need New Names"という小説を読んだ。へぇーっという面白さだった。二年くらい前に、この小説の第一章に使われている物語(”Hitting Budapest")が、短編小説として、ケインズ賞というアフリカ人作家のための文学賞を受賞した。その後、続きを書いて全十八章にしたのがこの小説で、なんとジュンパ・ラヒリなどと共に、今年度のブッカー賞の最終候補作品となっている。

ブッカー賞というのはイギリス(及びイギリス連邦、アイルランド)の作家に与えられる文学賞で、受賞者にはV.S.ナイポール、ナディン・ゴーディーマー、ラシュディ、アラヴィンド・アディガなど、イギリス本土出身ではない作家も多い。が、ちょっとあれ、と思ったのは、ブラワヨはジンバブエ出身だけれど、ジンバブエは今はイギリス連邦に含まれていない。2002年に加盟資格が停止された、とウィキペディアにあった。ブラワヨは現在アメリカ在住ながら、イギリスあるいは別の国の国籍をもっているのかもしれない。

へぇーっという面白さ、と書いたけれど、それは第一章”Hitting Budapest"から全開だ。わたしはこれをBoston Reviewのウェブ版で読んだ。全文が読める。それでその文体の面白さに惹かれて、小説をキンドル版で買った。

この小説は全篇、ダーリンという名の女の子のモノローグでつづられている。最初十歳で、その後アメリカに行ってからは中高校生になってからのことが書かれている。いずれにしてもおおよそのところ子どもの「しゃべり」から成っている小説だ。その好き勝手なしゃべり、あるいは友だちとの会話のやりとり、それがすごくいい。実生活で子どもの会話を盗み聞くことはそれほど多くないが、たまたま小耳にはさんだりすると、けっこう面白いものだ。ちょうどそんな感じ。

主人公のダーリンは「パラダイス」と呼んでいる町に住んでいる。しかしそこはその名とは正反対の場所。ダーリンもその仲間(9歳から11歳くらいまでの男女五人)も、お尻の破けたズボンを履いていたり、お腹をすかせていて食べものを探し歩いたりしている。盗み、も働く。まあ、人の家の庭に侵入して、木に登ってグァヴァをしこたま取ってくるという程度のワルではあるが。でも発見した死体(戸外で首つりをしていた女性)から靴を脱がせて持ち去り、それを売ってパンを買おうなどということもしでかすから、まあワルはワルだ。

十八章からなるお話は、それぞれびっくりするようなことが語られていたりするわけだが、読み終わって感じるのは、そのおしゃべりの生きのよさと独特のリズム感だ。なんだか気持ちのいいリズムに乗って、スルスルーッと読んでしまったところもあった。意味より調子、というような。あるいはこの調子こそが、意味なんだよ、というような。

十歳の子どもが心の中で思ってることをバンバン出す、遠慮会釈なく、ときに仲間との喧嘩口調だったり悪態だったりして、その調子がなんとも面白い。それが地の文だから、そして会話も独立して「、、、、、」と言った、という風ではなく、地の文に溶け込むように書かれているから、なおのこと一つのリズムがずっと続いていく感じがある。だけれども、よくある独り語りのだらだらした感じはなく、パンパンと生きがよくて、読んでいる文にあきることはない。いつまでも聴いていたいオモロイ音楽のような感じ。

これがブッカー賞の最終候補作品?!という感じは最初確かにあった。でもこの書きっぷり、見事なんじゃないかな、とだんだん思えてきた。アジアやアフリカの若手作家の作品はよく読む方だと思うが、ここまで弾けてるのはそうはない。文学なんだから、それなりに文は整っていなくちゃ、英語の書法に則っていなくては、という「遠慮」はないと思う。

それで○●で、それで◎▷で、それで×××で、それで■□●◎で、それで○●だから、それでそれで、、、、

といった調子の部分はたくさんある。地の文が、である。でも十歳の子どものしゃべりなんだからあり得るわけで、小説であるかどうかより、女の子がしゃべっていることの方が大事なのだ。そしてそれが読む者にとって、魅力となっていれば、リアルであればかまわない。そういった意味で、小説のコトバというのは、かなり自由なものなのだろうな、と改めて感じて、そこに小説という形式の自由さや可能性も見えた気がした。

ところで第一章のタイトルに出てくるブタペストという地名は、もちろんハンガリーの首都のことではなく、子どもたちがグァヴァを盗みに行く、隣りの金持ち住宅地域(白人地区なのか?)の呼び名、あだ名。子どもたちはいろいろなものに、ユニークな名前をつけている。たとえば遊びの名前に「ビン・ラディン探し」なんていうのもある。「国ごっこ」という遊びでは、みんな自分がアメリカやイギリスやカナダになりたがり、誰もコンゴやソマリアやイラクそして自分たちの国のような、ボロっちい国、kaka(クソ)な国にはなりたくない。子どものしゃべりだから、すべてのことが説明されているわけではないが、子どもたちの暮らす国の背景に、長い歴史の中で起きた、そして今もある様々な悲惨が存在していることが透けて見える。