20031129

ここ何日かは「籠女」の本のことをやりつつ、ウェブのアップデートの準備をしていた。今回はアート展のレビュー(英語/日本語)、スペイン語の本の紹介(スペイン語/英語/日本語)、ニウエ島への航海記(Fragments)、英語のハイクなどが予定されている。

「籠女」のほうは、注釈のテキストなどもふくめ、考えられる素材をブックデザインの方にわたし終わったところ。画像素材としては、イラストレーション(2系統の候補)と写真があり、これらの中のいずれか、あるいはいくつかを混ぜて使うか、あるいは全く使わないということもあるかもしれない。テキスト(あるいは物語)にとって、画像とはどんな役割があるのだろう、と考える。いまはビジュアル本が全盛の時代だけれど、言葉だけでは心に描けるものが乏しい、ということで絵を補うのだとしたらちょっとさびしい。

「言葉をつむぐことで像をむすぶものは多いが、むすばないものもあるのではないか」
これはブックデザインの宮川さんの言葉。たしかに。たとえば寓話のようなものの場合、絵を添えることは簡単だけれど、それによって読む人のイメージを狭めてしまうことだってあるだろう。「小さな手のクニャクニャした生き物」と言ったとき、それを絵に描いて見せてしまうと、イメージはその中におさまってしまう。それ以上の自由の広がりの可能性を摘んでしまう。

とくに子どものように、知識がそれほど多くなく、言葉に対しても先入観が少なく、やわらかにものを見る感性がある人々にたいしては、安易にイメージ(絵、画像)を見せてしまうことにためらいがある。籠女の本は、いまサブタイトルを「子どものための風変わりなストーリーテリング集」という案で進めている。対象を子どもの方にシフトしているところなのだ。きっかけは1904年の初版時のサブタイトルが'A Book of Fanciful Tales for Children' となっていたこと。これは著者のメアリー・オースティン自身のアイディアではないか、と。わたしの持っているネバダ大学プレスのペーパーバックでは、'A Book of Indian Tales' となっているが、これは出版社が付けたものである可能性が高い。葉っぱの坑夫のウェブ版も、これに沿った副題を日本語で使っている。

「籠女」の本の対象を子どもの方向に絞っていくことは、大人の読者を疎外することにはならないだろう。この本は子どものために書かれたとはいえ、内容や言葉づかいは必ずしも易しくはないし子どもだましのような表現もない。それに日本の読者にとっては、いずれにしてもなじみのない風景、地理、気候の中でおこる物語への心づもりがいる。そういう境界をこえてお話しの世界にたどりつけるのは誰なのか、子どもなのか、大人なのか。出版者としては、お話しの世界へたどりついてほしい、そこに心を浸してほしい、という願いのもと、本の構成や仕立てに頭を悩ませ心を砕いているのだが。それは、子どもの本=ルビをふる、というようなことではない。

*ウェブ版の籠女(インディアン・テイルズ)のはじめに、籠女第一話、第二話、逃げた川を最新の改訂テキストに差し替えました。

20031123

朝うちの近くを散歩した。犬をつれている人が多い。わたしのつれはデジカメ。1ヵ月もかかってやっと修理からもどってきた。イチョウ並木は黄金色。その中を歩いていたら、人影が。この季節、銀杏拾いの人がけっこういる。干してからフライパンで煎って皮をとって食べるそう。とても美味だけれど採るときが臭いらしい。庭で脚立にのって、木の実(みかんよりは小さい青い何か)をバケツに集めている人もいた。連休中日の、日本のおだやかな日曜の朝。日本の人は、いやどこの国の人だって、ほんとうはおだやかで平和な日々が好きなんじゃないか。

きのうのつづき。「籠女」に登場人物と生き物の紹介を入れるアイディアは、アメリカの作家フォークナーの「熊」という本から着想を得た。そういえばファンタジー系の本や子どもの読み物にも、人物紹介が載っていることが多い。地図や導入部分のオリジナルのテキスト(「はじまりのはじまり」)もそうだけれど、これからこのお話の中にどっぷり浸かってもらうための、いろいろ考えたあげくの下準備、引き込み線、としての仕掛け。メアリー・オースティン自身の書いた「はじめに」の文章もとても魅力的なので、余分なものを頭につけるかどうかは迷うところだけれど、やはり時代も違い、自然環境、風物も日本と大きく違う背景をもつ作品を紹介するときは、あった方がよりよいと判断して。

登場人物と生き物の紹介文を書くのはおもしろかった。一人(一匹、一羽、一本など)20字前後のごく短い文章。ストーリーがわかってしまってはいけないので、ごく簡単にしか書けない。だけど興味をそそるところもなくては。主なものだけ取り上げたのだが40以上の数になってしまった。お話が十四話あるので。最初、各お話ごとに登場人物の紹介をつけてみたが、このやり方だと、せっかくの謎めいたすばらしい物語の導入部分を台無しにしてしまいそうで、やめた。それで本の最初の方に、主なものだけまとめて入れることにした。こういう試行錯誤をするとき、わたしはざっとした見本をプリントしてみて判断することが多い。その部分を本のような仕立てにして、ページを繰りながら考える。その方が実感がわくし、いろいろ発見もある。

*11月7日のジャーナルに書いた英語/日本語による人形劇「怪談 - OBON」、今日NHKの芸術劇場(夜10時)の中で放映されるそう。

20031122

ここ数日間「籠女」の本の制作に専念していた。集中してやったおかげで、だいぶ全体像が見えてきた。本編の元の訳はもう2年も前にできてウェブで発表されているわけだけれど、あらためて違うメディア、違う形で出版しようとすると、さまざまなことを考えなくてはならない。主な読者対象をだれにするか、それにともなって表現や表記は今のままでいいのか、構成や仕立てはどうするか、挿画や写真を入れるかどうか、判型や印刷方式は今までのチャップブックと同じでよいかのか、など迷いとアイディアが沸いては消え沸いては消えとどまることがない。

本をつくるのは一つの宇宙をつくるようなものかもしれない。とくに紙の本の場合は。ウェブとちがってスタンドアローンだから。そこで完結しているから。コンピューターとちがって、ずるずる配線コードや電話線を引きずることもなく。一つの宇宙をポケットにつっこんで、どこへでも出かけられるし。

今回やったのは以下のようなこと。
◇主な読み手の対象を考える。
◇本のタイトルとサブタイトルの再考
◇本に入れる要素、項目、素材とその構成
◇本の導入部分のプランとそのテキストを書く
◇登場人物と生き物の紹介ページのテキストをつくる
◇もくじをつくる
◇注釈ページのテキストを書く
◇以上のものをデザイナーの宮川さんに送る

これからやることは
◇地図の仕立てを考える
◇奥付を書く
◇挿画や写真のプランと候補を考えてデザイナーに相談する
◇デザインに落とされたものを見てデザイナーと相談、最終形をきめる
◇判型や紙のプラン、印刷のことなどをきめる
◇刷り部数、価格、流通のこと、販促のことなどなど考える
など。

地図について。去年の9月にジョン・ミューア・トレイル300kmあまりを歩いたテキサスのフィルさんから、送った地図が戻ってきた。こちらから地形といくつかの地名を書き込んだJPEGのマップを送ったのだが、それに彼が調べてわかった場所を赤字で書き込んで送り返してくれたというわけ。インターネット技術のすばらしさよ。

フィルさんの指摘でわかったのは、「籠女」の舞台となっている場所が思っていたよりも東に広がっていること。コヨーテ霊がうろつくフューネラル山はずっと東のデスバレーにあった。またビターレイクと本に書かれていた湖は地図上では別名のオーウェンズ・レイクが使われていて(というかビターレイクの方が別名っぽい。著者のメアリーは地名に人の名前を冠することがあまり好きでなかったらしいし)、今は涸れてしまっているとのこと。収穫だったのは「クリスマス・ツリー」などいくつかの話に登場するパイン・マウンテンがわかったこと。この名の山はカリフォルニアだけでも1ダースもあるそうで、特定が難しかったそう。フィルさんが上げてくれたのはカーン・リバーの南方にある8000フィート(2438メートル)の山。「インディアンたちが夏雪の丘と呼ぶ丘」というのだから、他に見つかった1000メートルの山は外さなくてはならないだろう。というような入念な見方でフィルさんは地図上の探索をしてくださった。

フィルさんの入れてくれた赤字をもとに、新たに地図をつくっているとき、また発見があった。新しい地図は東方向へぐっと広げたのだが、そのおかげでデスバレーよりさらに南東にある「パーランプ」を見つけたのだ。パーランプはインディアン名だったこともあって、地名探しの候補から外していたもの。「とうもろこしの育つのに充分な水のある場所」をあらわすパイユートの言葉らしい。ここは少年アランが籠女といっしょに夢の中で旅する場所で、籠女いわく「わたしたちがいちばん幸せだった頃の場所」。また「メリー・ゴー・ラウンド」のお話の中で、アランが迷子になってさまようサボテン平原(Cactus Flat)も見つけた。現実の場所だったんだ。

本編のテキストもウェブの方に更新したものから、さらにだいぶ直しを入れている。たくさんあったので、少し落ち着いてからまとめて直そうと思い、そのままになっている。近々、手を入れて最新のものにしたいと思っている。

*Lost Luggageのブログに門のつく地名のことが書いてあった。門の意味はある境界のこと、こちら側とあちら側の。閾(しきい)、間、聞、闇・・・。多和田葉子さんのエッセイにこれについてかなり面白いことが書いてある。(翻訳者の門---ツェランが日本語を読む時/「カタコトのうわごと」より)
*前回書いたソニア・チャウさんの展示と作品について、英語でレビューを書いた。作品の写真もまじえて、次回のサイトの更新のときに載せる予定。

20031115

昨日、八丁堀の東京デザイナーズブロック(TDB-CE)に行ってきた。今回は8- Factoryで展示をやっているソニア・チャウ(Sonia Chow)さんに会うため。ソニアさんはカナダ東部の出身で去年の8月に日本に来た。グラフィック、ファーニチャー、テキスタイル、アート作品などデザイン、ものづくりに関する幅広い仕事をしている人。今回は「ウニ」型ライト(ニックネーム「ウニラ」)の展示をしている。ビビッドな色の人工素材のコードを編んで造ったもので、編み終わりの端っこを切り落とさずに残してある部分がちょうど、ウニの棘のようになっている。大小いろいろあって、わたしが行ったときソニアさんは、直径1m メートル近くありそうなブルーの大型ウニラを編んでいた。なんと素材はチューブだった。

オブジェの他に、グラフィックやファーニチャーなどの仕事のポートフォリオをディスプレイで見せてもらった。カナダでは学生時代からデザインの仕事をしていてもう10年になるとか。扱うデザインの幅広さにも驚いたけれど、一つ一つのデザインのコンセプトがはっきりしていて必ず面白いアイディアが込められているところに感動した。それを一つ一つていねいに説明してくれる。明確なコンセプトと自分の作品をプレゼンテーションする的確な言葉をもっているデザイナー。すばらしい。

ファーニチャーデザインでは馬型のロッキングチェアやジェリー感触のソファー(Jello Chair)が印象に残った。プロトタイプだけのものが多いが、造るときは木工でも人工素材でもソニアさん自身の手で造る。編むこと、手でつくること、を心から楽しむデザイナーなのだ。ソニアさんはまた、言葉にも関心があるそうで、母語の英語のほか、フランス語、ロシア語、イタリア語を学び、今は日本語を習得中。

TDB-CEのウェブサイトに、ソニアさんの作品と展示会場の写真がレポートされている。トップページにアクセスすると現われる小さなウィンドウのケイタイフォトニュースの、2003/11/14 16:20にウニラの作品が、16:14 にソニアさん(と後ろ向きに立っているのはどうもワタシらしい)が写っている。フォトニュースは毎日あちこちの会場をレポートしてその場で更新されている模様。刻一刻、いっしょに展示を見て回っているような面白いレポートだと思う。(葉っぱの坑夫が参加するKOTOBAKOプロジェクトのball cafeと世話人の井上伸夫さんの写真も2003/11/14 15:35, 15:04, にアップされている。んん?井上さんの隣に立っているのは、もしかして大竹さん?今年2月に葉っぱの坑夫と川崎のプロジェットで「森のレッスン」という写真展示をし、「森の位相」というCD-ROM写真集を出版した人。)

*「インディアン・テイルズ」の地図の場所探しをお願いしているフィルさんから、返事が来た。こちらが送ったJPEGのマップに、赤で地名を書き込んだものを添付して。いろいろな発見があった。詳細は次回。

20031109

昨日から東京デザイナーズブロック・セントラルイースト(TDB-CE)というデザインに関わる分野のアーティストたちの展示&イベントが始まった。セントラルイーストというのは東京23区の中の東部地域(築地、八丁堀、神田など)のこと。街の空きビルや店鋪、カフェなどの空間を使っての催し。葉っぱの坑夫は、KOTOBAKOという言葉のプロジェクトの井上さんに誘っていただいて、参加している。「シカ星」というアメリカ・インディアンの詩集から三つの詩がミヤギユカリさんの絵とともにパネルになって展示されている。展示会場は八丁堀のball cafeという1、2階のかわいいカフェ。期間中(15日まで)土曜日は4時まで、平日は午前11時半から午後11時半までが展示オープン時間。昨日はオープニングパーティもあり、わたしもKOTOBAKOのメンバーの人たちと会ってお話ししてきた。この催し、イースト版は今回が初めてだそうで、準備も大変だったみたい。でも2回3回とつづいていって定着し、街にも馴染んでいけばきっと面白いことができそうだ。

*葉っぱのサイトで「Playground of Enigmatic Mousers」という言葉あそびのプロジェクトをいっしょにやっているJenniferのブログWild Mushroomsと、同じくDanのlogolaliaをLinksに追加しました。

20031107

インディアン・テイルズの本には、日本語で読む人のための案内役として、新たなストーリーテラーの存在が必要か、と以前に書いた(10.18)。元の話がストーリーテリングなので、その話を受け継いでいくのならここにも話者がいるのではと。それで著者のまえがきの前に、わたしのまえがきを試作してみている。「はじめのはじめ」あるいは「はじまりのはじまり」のようなもの。いくつか書いてみようと思っている。

昨日の夜、三軒茶屋のシアタートラムで「怪談 - OBON」という人形劇を見てきた。小泉八雲と上田秋成の作品に着想を得たピン・チョンという中国系アメリカ人の演出による英語/日本語劇。素材は日本の話だけれど、ピン・チョンという"異邦人"の目や身体を通して語られる"日本"には、不思議なポップ感とねじれた懐かしさが漂っていた。と日本人であるわたしは感じた。この作品、演出はアメリカ人だけれど、演者も人形制作もスタッフもすべて日米共同によるもの。

第一話BLISS、第2話BLOOM、第三話BELOVED。劇中一人だけ生身の人間が登場するのだが、その役者は実は人形つかいでもあって、背負った奥方の人形とやりとりをしつつ、あやつっているのだった。それに気づくのに少しの間があった。奥方が人形であることを一瞬忘れていたに違いない。シアタートラムは場所性がおもしろい劇場だと思った。世田谷パブリックシアターの小ホールという役割だと思うのだが、大ホールのある高層ビルの中ではなく、世田谷線という昔からの路面電車の改札のすぐ脇に、ちょっとレトロなガード下のような感じである。劇場を出て外に出ると、電車が待っていた。走っていって飛び乗ったとき、ああシアタートラムのトラムはこの電車のことだったんだと気づいた。

「怪談 - OBON」の公演は、シアタートラムが11月9日(日)まで、その後茨城、岐阜、滋賀などを巡回するそう。最後にピン・チョンのノートから気にいった箇所を少し引用してみます。

『50年代、ニューヨークのチャイナタウンで育ち、公私にわたって自分自身の米国社会への参加を困難にする様々な障害にぶつかってきた私は、そうした障害を超える芸術を本能的に創り始めました。国やジャンルを越えた仕事を続ける中で、私が日本文化に出会ったのは、60年代の映画を通じてのことです。』

20031106

準備中だったhappano friendsの大桑千花さん(葉っぱの坑夫のFragmentsプロジェクトに自作の詩や翻訳を掲載)のblogページ「The lost luggage」がスタートしました。千花さんはエルサレム在住の詩人、写真家、翻訳家。1990年頃から世界各国を旅し、ニューヨーク、ベルリンなどでの暮らしを経て、中世的世界と現代が入りまじるハシディズムの街でいま日々を送り、活動されています。blogのタイトル「The lost luggage」には、現代社会で私たちが忘れさったもの、置きわすれたもの、失ったもの、そういうものに目を向けていきたい、という気持ちが込められているそうです。エルサレムの夜逃げやテレビの話、ユダヤ教の結婚式のいろいろなど書かれています。素晴らしいフォトギャラリーのリンクもあります。死海のランドスケープなど、わたしは初めてみました。
ページ右上LinksのところのThe lost luggageをクリックしてください。

20031103

地図のラフスケッチがやっとできて、テキサスのフィルさんに送る。シエラネバダとインヨーマウンテンにはさまれた細長いエリア(ヨセミテ南部を含む)なので、地図が長くて大きいものになってしまった(1000×2000ピクセル)。主な地名や川、山、盆地、湖、道路など入れて、探している場所の名前とそれが出てくるテキストを本から抜き書きして、地図といっしょに送った。何日かかったか。けっこう大変な作業だった。

blogのテンプレートを元のオリーブグリーンに戻してみた。あ、こんどは大丈夫。レイアウトがくずれない。これをやると、右端のリンクのところを自分用のリンクにするために、テンプレートのhtmlを書き換えなければならないのでめんどうだ。でも、このウェブログというシステム便利だと思う。デザイン等をあらかじめ選んで設定しておけば、あとはブラウザーの空欄にテキストを投げこむだけ。それでページができてしまう。何年か前から使ってみたかったのだが、最近やっと日本語版(というか日本語の使用が一応できる版)ができた。今はかなりの言語にblogは対応している。無料版のため、ページの上に広告が載るのだけれど。みなさんもblog、いかがですか?

20031102

地図というのは不思議なもので、いつもちょうど見たい場所のところで切れている。切れている先が別のページなりに載っていればまだいいのだけれど、そちらはそちらで他の中心地から地図をつくっていたりするのか、見たい場所がブラックホールのように吸い込まれたように、ない。はずれとはずれの間というのは、何も存在しない意味のない場所なのか? 旅行をしているときにも、これをときどき経験する。指が地図の上をせわしなく追っていった先で、とつぜん紙の端に行き当たる。

ペンシルヴァニアのジェニファーと遊んでいるうちにできた小さなプロジェクト「Playground Of Enigmatic Mousers」(P.O.E.M.)のページをつくってみた。ナゾっぽいことばや詩を追いかけてあそぶ、というようなことがやりたい。たぶん、近々公開できると思います。