20130223

<5>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える


日本語では、「維新」を国語辞典で引くと「すべてが改まって新しくなること。特に、政治や社会の革新。明治維新。」という説明がありますが、英語訳はふつうRestoration(復活、復位、王政復古)で、明治維新はMeiji Restorationと呼ばれています。それは明治維新により、天皇を政権に戻す政策が成されたからと思われます。

もし安部首相が、「戦後レジーム」に注目して、そこからの脱却を目標としているなら、日本人のアイデンティティや愛国心は、それ以前の「戦前の体制」の精神をお手本とすることが想像されます。そしてその時代に考えられていた「日本の歴史」観や価値観、伝統、道徳観が引用されることになります。

(第二次大戦)戦前体制がもっていた精神を取り戻す。これは今の世界中を見渡しても、珍しい思想ではないかと思います。地球レベルでものを考えないことには、気候や自然の問題も、経済の問題も、貧困や内戦の問題も、何一つ解決できない時代に、日本以外のどこの国の、どんな政権が、第二次世界大戦前の思想を取り戻し、尊ぼうとするでしょう。国家元首のそんな発言を、日本国以外のどこの国民が許すでしょう。

歴史というものの見方が進んで、社会科学として幅広い側面から分析されるようになって以来、一国の歴史をその国の内側のみから、内側の事情からのみ語るのは正確性、正当性を欠くという認識が広まりました。どんな国も周辺の国々の影響を受けていますし、ときに地理的に離れた国の影響を強く受ける場合もあります。ある国が建国以来、「純粋培養された」伝統を守り続けていたり、ある国民が純粋で特異なアイデンティティをもち続けている、と考えることには、かなり無理があるように思われます。

書き文字を持たなかった日本が、中国から漢字という書き文字を学び、取り入れ、日本語の表記として発展させていったことは誰もが知っています。「漢字」とは英語でChinese characterというように「中国文字」のことです。

20130216

<4>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える



安倍晋三首相がいう「愛国心」は、日本人としてのアイデンティティや日本の伝統、道徳観などを「しっかり持つ」こと、に根ざしているように見えます。こういったことを首相として今後の教育の場で、愛国心教育や道徳教育として徹底していくつもりではないでしょうか。

しかし、日本の伝統とかアイデンティティといったとき、具体的にいつの時代からのどんなことを指すのかは不明です。おそらくその内容が明確に語られたことはないのではないでしょうか。

日本の天皇が神だった時代や、中国の文化が遣唐使などによって取り入れられた飛鳥時代まで遡るのか、鎖国の時代、あるいは天皇を政治に復権させた明治維新の時代を想定するのか、それとも第二次大戦前の日本のことなのか。安部首相は「戦後レジームからの脱却」という言葉をよく使ってきました。安部首相の教育基本法改正についての講演では、次のような発言がありました。(YouTube:「一般財団法人 日本教育再生機構 大阪」での講演)

「戦後の占領時代にできた、憲法や教育基本法などを含めた制度によって培われてきた精神を戦後レジーム(戦後体制)と言っている。これを脱却しなければ、ニッポンは真の独立を手に入れることができない。これがわたしの信念である。」

第二次大戦後にできた憲法や教育基本法、これが日本人としての養われるべき精神をだめにしてきた、ということを言っているわけです。それで安部首相は、前任期のときに、教育基本法を「改正」しました。そして今回、憲法を「改正」すべく、準備を整えているところです。

安部首相の発言から理解できるのは、日本人の伝統とかアイデンティティと呼んでいるものは、少なくともこの「戦後レジーム」以前のものである、ということです。そのどこに戻るのかは別にして、「維新」(復古)であることは間違いなさそうです。

20130210

<3>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える


1と2で、フランスやアメリカの国歌や国旗と国民とのつながりを探りました。日本人の目から見れば、フランスの「自由・平等・友愛」もアメリカの「マイノリティーの社会的権利の主張」も”きれいごと”にすぎないと映るのかもしれません。しかしたとえきれいごとであっても、公的な場でそれが訴えられることには意味があります。では日本ではどうでしょう。「日の丸」や「君が代」で表わされているものは何か。影のようにつきまとう気後れや恥ずかしさのようなものを感じることはないでしょうか。

いやそんなことはない、わたしは堂々と日の丸を振って、スポーツ観戦でもなんでもできる、という人もいるとは思います。サッカーの国際大会で、日の丸のフェイスペインティングや鉢巻きをして応援するのに抵抗などないよ、という人々もいるでしょう。だって、どこの国の人もそうやっているでしょう、と。

どちらが多数派なのかはわかりませんが、そうでない人々がいるのも日本人は知っています。日の丸や君が代に抵抗感をもっている人々の存在です。過去に国旗や国歌をめぐる様々な事件があったことは、日本の現代史の中の事実です。沖縄の高校生が卒業式で、泣きながら壇上の国旗を降ろそうとした出来事、公立高校の教師が卒業式で国歌斉唱をしなかったり、ピアノの伴奏を拒否したことで処分を受けた事件、広島の高校校長の卒業式の日の自殺など、ニュースで取り上げられたものだけでもいくつかあります。

そして現在、学校行事での国旗掲揚や国歌斉唱は、法制化により義務となっています。愛国心を表明するとされる「日の丸」や「国歌」は、自由な精神がもとめてそこに到達するものではなく、日本の国民であるなら「もってしかるべきもの」であり、公式の場ではそれを表明することが義務づけられている、ということだと思います。

しかしどんなものであれ、それが一人の人間の自由な意志から選択されるのではなく、強制となったとき、そのもの自体の意味は変わってくると思われます。たとえば、どんなにチョコレートが好きな人でも、食べることが強制され義務となったとき、好きでいることを続けられるでしょうか。

強制とか、義務化というものがもつ意味は、決して軽くはないと思います。また(反対する人がいるという)問題が存在しているのに、それを無視するような形で、法制化によってコトを進めようとする強引さは、対話や議論でものごとを決定し進めていく、民主的な市民社会とはかけ離れたものです。