20050613

「シカ星」がまもなく本になって登場!

パイユート・インディアンの詩とミヤギユカリさんのドローイングがひとつになって、赤く染まる沙漠を、セージの原野を渡っていきます。葉っぱの坑夫の作品の中でも人気の高い「シカ星」が、来月、新たな絵と表現を得て本になって登場します。詳細はこちらに掲載していきます。

20050612

モンゴロイドとしての自分

2年前に葉っぱの坑夫のウェブで「もんごろねこの ちきゅうたび うたのにおいを かいでゆく!」という音楽エッセイの連載を始めた。ゆっくり連載なので、この6月に第12話をアップしたところ。このエッセイでは、モンゴロイドをルーツとする人々が歌い継いできた歌を、1回ずつ追って聴いていっている。書き手は世界の歌や音楽を幅広く知るソングライターの3号室ロドリーグさん。フィンランド、ノルウェーに住むサーミの人々の歌声に始まり、モホーク、ナヴァホ、プエブロ、タスカローラなどのアメリカ・インディアン、北米のイヌイット、南米ボリヴィアのアイマラ、台湾のピュマ、アミと来て、中央アジアのトゥヴァに行きついた。この先、モンゴル、アボリジニ(オーストラリア)を経て、最後に日本のアイヌで終わる予定になっている。

連載を始めるにあたって、モンゴロイドの歌に焦点を当てることへの批判について、考えなかったわけではない。どういう批判かというと、いまさら「モンゴロイド」とか言い出すのは、後ろ向き(人種差別的であるとか、特定の人種の固有性を誇張する)の行為ではないか、というもの。でもそういう意図は葉っぱの坑夫としても、書き手のロドリーグさんにもないことはわかっていたから、気にせず連載をスタートさせた。今までの12話をじっくり読んでいただければ、わかっていただけると思う。

ではなぜモンゴロイドに、モンゴロイドの歌に焦点を当てたいと思ったか。そのことについて少し書きたいと思う。まずわたし自身のことから。わたしは日本に生まれ、日本に育った日本人である。何代も前に遡れるほど自分のルーツを知らないので、言えるのはせいぜい祖父母の代くらいまで。朝鮮半島からやってきた人間なのか、はたまた東南アジア方面が出所なのか、それとも先祖はアイヌなのか、かいもくわからない。今は日本という国境内に所属し、先祖代々ここにいたような顔をして暮らしているが、たった200年前もたどれないのだ。

そう考えると、今ある自分が属している国とは、国境とは何かという疑問がわいてくる。確かに日常生活を送ったり、自分の身の安全を守るために、国境(日本国民であること)は現実的に機能している。だけれども、それ以外に自分のありようを確かめるすべはないのか。今の世の中では国や国境は絶対価値と言っていいほどの存在となっているけれども、もしそのことに疑問を持ったとき(日本人であることに大きな違和感を持つようになったときなど)、国や国境という価値観を相対化して世界を眺めてみる方法はないのか。そのようなことを考えていたときに、違う枠組として「モンゴロイドとしての自分」という像が浮かんできた。

以前に、環太平洋の島々の文化圏とその交流のあり方に興味を持っていた頃、自分のアイデンティティを環太平洋人としたいと思っていた。政治的、経済的、社会的な臭いの強いアジア圏、アジア人という表現よりも、もっと越境的で、もっと文化的で、もっと古い時代にまで遡って自分の像をイメージできそうな感じがしたから。アジアという言葉が陸地を基盤とするものなら、環太平洋という言葉は海を基盤としている枠組だと思った。海にも道がたくさんあって、決して島々は(陸地人が考えるように)離ればなれで孤立しているわけではない。そういうこともその頃知ったことだ。

環太平洋人としての自分、モンゴロイドとして自分、いずれも自分を日本という枠組から自由にするための思考の装置である。そう思っていたところに、3号室ロドリーグさんという、世界各地の歌や音楽を民謡的なものからポップスまで、幅広く聴いてきた人と出会った。そしてロドリーグさんに導かれて、音や声による旅をしていたら、国境は数ある枠組の中のone of them に過ぎない気がしてきた。そうやってこの企画はスタートした。

最初の2回でとりあげたサーミの人々のことは、この連載をするまで知らなかった。なぜヨーロッパの最北の地に、モンゴロイドの人々がいたのだろうか。イヌイットやアメリカ・インディアンの人々がベーリング海を渡って行ったのではないか、という説は知っていたが。そんなことを考えながら、初めて聴くサーミの人々の歌声に耳を澄ませた。自分と同じルーツを持っているということは、興味のきっかけとはなる。同じだからどうというのではない。でもお尻に蒙古斑を持つ、少し顔の平たい人々が、昔々、陸地や海を渡っていってそれぞれの地に住みついたこと、そこまでの長い道のりを想像することは、今の自分の居場所がけっして固定的なものではないことを教えてくれる。またモンゴロイドの仲間たちの歌声を聴くうちに、自分という存在が「日本人」というアイデンティティだけによっていたり、縛られているものでないこともわかってくる。もっと多層的な存在なのではないかと自分を思えることは、気分がいいし、心が解放される。

前前回とその前の文の中で書いた「日本固有の文化」うんぬんに固執する人々にとっては、「われわれ」が「日本人」であることが重要であって、たぶん「モンゴロイド」の一員である側面にはあまり関心がないのではないかと思う。それは歌のスタイルの模倣(なぜか殆どは西洋圏、中でもアメリカの)から入ってそのスタイル磨きで技を競う日本のシンガーたちも、同様ではないかと思う。そういう意味で、自分をモンゴロイドであるという側面から一度眺めてみることは、「日本人」であることに囚われすぎないためにも、枠組自体の相対化のためにも有効ではないかと思っている。

もんごろねこの ちきゅうたび うたのにおいを かいでゆく!