20170728

ロパートキナ。ダンサーの引退時期

ウリヤーナ・ロパートキナというバレエダンサーを最近まで全く知らなかった。1973年生まれ、ウクライナ(クリミアの小さな町ケルチ)出身のマリインスキー・バレエ団(ロシア)のプリンシパルである。先月、本人のウェブサイトで「職業上の怪我のため引退」と発表した。43歳での引退。

ロパートキナに出会ったのは、『ロパートキナ 孤高の白鳥』(2014年)というドキュメンタリーだった。たまたまNetflixの新着コンテンツを見ていてみつけた。彼女の名前も知らず、どんな映画かも知らず見始めて驚いた。これは相当なダンサーではないか、映画が進むうちに確信は高まった。わたしが最近のダンサーで名前を知るのは、せいぜいシルヴィ・ギエムまで。確かにバレエに関心があったとは言えない。しかしGoogleで(カタカナで)「ロパートキナ」と検索して出てくるのは、『孤高の白鳥』に関するものがほとんどだった。日本ではそれほど知られていなかったのだろうか、と思った。(日本語版ウィキペディアにはなかった)

次に「ロパートキナ シルヴィ・ギエム」で検索すると、チャコット(バレエ用品)のサイトや個人のブログなどで、ロパートキナへの熱い賞賛の言葉がたくさん出てきたので、知る人ぞ知るダンサーなのだなとわかった。そのうちの一つで紹介されていた『二十世紀の10大バレエダンサー』(村山久美子著、2013年)を読んでみることにした。10人の中にロパートキナが入っていたからだ。本のトップバッターでロパートキナは紹介され、表紙もまた彼女だった(瀕死の白鳥の写真)。

ロパートキナの章の冒頭で、著者はモスクワの芸術学者の言葉を引用している。「古典的優雅さと現代的スピード感をもつ稀有のバレリーナ」。この言葉は、わたしが映画で見たこのダンサーの印象、特徴にピタリとはまる。特にあとの方、「現代的スピード感をもつ」という紹介は特徴を捉えた優れた表現だと思う。いや、そうではないかもしれない。古典的優雅さと合わせもつ、その現代的スピード感がすごいのかもしれない。

映画『孤高の白鳥』の中で引用されていたいくつかのバレエのシーンは、どれも目を見張るもので、一つ一つの作品の踊りのレベルの高さと、そのバラエティの広さ(それをどれも最高の見せ方で演じている)に大きな衝撃を受けた。こんなことが可能なのか、こんな人がいるものなのか。シルヴィ・ギエムはここ2、30年の間の最高の踊り手では、と思っていたが、ロパートキナは総合的に見たときそれを超えているかもしれない、と感じた。彼女の踊りを見たあとでは、どんなダンサーの踊りも、ちょっとした小さな欠点が見えるような気がしてくる。

ロパートキナは身長が175cm(靴のサイズ26.5cm)と主役を踊る女性ダンサーとしてはかなり背が高く大柄。長い手足にスレンダーな身体、髪はショートカット、知性的な話ぶりで落ち着いた優しい物腰をしている。ティーンエイジャーの娘が一人いるそうだ。『孤高の白鳥』はバレエ作品の引用とレッスン風景、彼女のインタビュー、周囲にいるバレエ関係者の彼女についての発言などで構成されている。『孤高の白鳥』はフランス人プロデューサー、映画監督のMarlène Ionesco(女性)による作品だが、よくまとまっており、このダンサーの理解にとても役立った。

このように背の高い女性ダンサーは、古典バレエの名作と言われる『眠れる森の美女』や『ジゼル』『白鳥の湖』などでお姫様役はできるのか、と思ったが、所属していたマリインスキー・バレエ団でプリンシパルとして、すべて踊っている。ちなみにマリインスキー・バレエ団はサンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場付きのバレエ団で、古くはアンナ・アブロワ、ニジンスキー、ジョージ・バランシン、近年ではヌレエフやバリシニコフが所属していたことで知られる名門バレエ団。

ロパートキナの古典は高いレベルの技術と、主役として物語と舞台全体を自分のもとにおさめ、観客をひきつける圧倒的な吸引力が印象的だ。といってもパワーを振りまくタイプの踊り手ではなく、統制のとれた静けさを感じさせる身のこなしが特徴だ。役によって顔つきは変わるものの、「顔で踊る」タイプでもない。動きに余分なものが一切なく、それで充分に優雅さを感じさせる身のこなしである。作品と役への深い理解と、踊る技術の高さによって実現されているものではないか。一般に何かが欠けると(たとえば年齢の上昇によって技術が下がるなど)、他のもので補おうとし、それが余分な動きや顔の表情となって現れることがある。

ロパートキナの古典は見慣れた作品に新鮮さを与えてくれたが、わたしを驚かせたのは現代的な作品を踊る姿だった。『孤高の白鳥』の中で、ニコライ・アンドローソフ振り付けの『タンゴ』の舞台が紹介されていたが、そこで彼女はまったく違った次元でダンスを披露していた。手足が長く背の高いロパートキナが、サテンのシャツにぴったりとした細身のズボン、足元はフラットシューズ、髪はショートカットのまま、手にはツバ付き帽子(ジャケットも床にあった)、という姿で、アコーディオンが奏でるタンゴのリズムに乗ってスピーディーに、鋭く舞う。女性とも男性ともつかないジェンダーの表現。男の役を踊っているのかもしれないが、(宝塚の男役のような誇張した)男っぽさなどみじんも出さない。そこにいるのは手足の長い、大胆に動き、俊敏さを見せる、美しい人間。男性、女性、あるいは中間なのか。どちらでも構わない。

ロパートキナの『タンゴ』を見ていて、こんな風に踊れるダンサーは他にいるだろうか、男であれ女であれ、と考えた。そしてロシア、あるいはウクライナの文化は、こういうセンスのアーティストを生むような土壌があるのだろうか、と不思議に思った。感覚的にいうと、女性ダンサーのこのような身振り、仕草は相当近代的、現代的な思想や文化の上にしか出てこない気がしたからだ。ロパートキナのバレエを見たあと、たとえば日本のダンサーの踊りを見ると、(今までは気づかなかったが)かなり女性っぽさが強調されているように見えてくる。「しな」というのだろうか、あるいは顔つき。その意味で(これも今まで気づかなかったが)最盛期だった頃の森下洋子にも同じことが言える。彼女は非常に日本的なバレエダンサーだったのだ。

ロパートキナは43歳で引退した。怪我が原因と発表されたからその通りなのかもしれないが、ある意味でその時期がきていたのかもしれない。ダンサーの引退年齢はそれぞれだ。しかし、何人かのダンサーを見てみると、45歳前後が「踊れなくなる」年齢なのかもしれないと思う。それまでと同じように踊れない、という意味で。もちろんもっと高齢になるまで踊る人はいる。しかしその人たちも4045歳を超えて、最盛期のときと同じように踊れるわけではなさそうだ。踊る演目を変えたり、振りを変えたり、工夫をして長く踊ろうとする、ということ。高齢になってこそ踊れる演目もあるかもしれないし、身体状況の変化を汲み取って新作の振り付けをすることもできるだろう。

ロパートキナは練習やリハーサルをビデオに撮って、その映像を見ては直し、踊ってまた撮り、それを見てまた直し、と何回もすると聞いた。それをやって自分のからだの状態を常にチェックしていれば、技術的な衰えがきたとき、まず自分が気づくのではないか。多くのダンサーがそこまで自分のからだを客観的に厳しく見ているとは思えない。マイヤ・プリセツカヤがベジャールの『ボレロ』を踊ったのがちょうど50歳のときだという。その『ボレロ』は悪くなかったし、プリセツカヤらしいパワフルな感じも出ていた。ただ20代、30代のときのからだの動きとは違うように思った。鋭さや軽快さの点で。相当高齢になるまでポアント(トウシューズ)で踊っていたとも聞くが、映像は見たことがない。

ルドルフ・ヌレエフの40代後半の映像(森下洋子とのパドゥドゥ)を見たとき感じたのは、おそらく彼はヨーロッパではもう踊っていないのではということ。それは韓国公演の映像だった。振り付けや芸術監督の仕事をメインにするようになっていた時期だ。相手役の森下洋子はまだ30代半ばくらいで、充分踊れていた。しかし彼女も、ある時期以降(50歳前後かそれ以降くらいか)に見たときは昔の面影はなかった。映像で見ただけだが、年齢による技術の低下は明らかだった。その時代の映像は、そのあとYouTubeからすべて削除された。最近のもので残っているのは『瀕死の白鳥』のみ。2008年、60歳のときの踊りだ。振りも、からだの使い方も限定的で、表現力においても最盛期とは比べられない。彼女は今も「現役」で自分のバレエ団(松山バレエ団)で『眠りの森の美女』などの主役を踊っているそうだ。

アクロバチックなからだの使い方、類まれな柔軟さで、ときに「体操みたい」と言われたりもするシルヴィ・ギエムは2015年に50歳で引退した。キャリアの最後の方は、モダンバレエ的な創作ものを主に踊っていて、いわゆるクラシックのグランドバレエはある時期以降、踊っていないと思う。作品を選んで踊っていたということだろう。

ロパートキナも、怪我がなければ50歳くらいまで踊った可能性はある。その場合は、踊る演目や振り付けを厳密に選び、稽古やリハーサルではビデオチェックを欠かさず、自分自身で「ここまで」という時期を判断して引退したのではないかと想像する。

20170714

引用・コピペ・再編集文化

NHK BSで『チョイ住み in 香港』という番組を見た。この番組は以前、何回か見たことがあって、たいてい男同士(若い男の子とおじさんの組み合わせ)の旅で、海外のどこかの街で一週間くらいアパートを借りて共同生活をする、というものが多かった。タレントと作家、俳優と元スポーツ選手などの組み合わせで、同性で年の差がかなりある、という趣向が案外はまっていて面白かった。 

たいてい年配の方が料理好きで(例外もあるが)、地元の市場で買った材料で夕ご飯をつくるのが定番的にあって、若手の方はそれを手伝ったり、ちょっとした使い走りを喜んでやっていた。料理ができない分、他のことでがんばったりして、日本の若い男の子って、素直で可愛くて、優しいところがあって、世界に誇れる貴重種ではないか、などと思った。シナリオもあるだろうけれど、場当たり的に見えるものもそれなりにあり、あまり期待できそうもない場所に行ってしまったり、でもそれはそれでよかったり、別の展開があったり、と即興的な見え方もしていた。

今回初めて、女の子同士の旅を見た。一人はタレント、もう一人は人気ブロガーとのことだった。タレントの女の子の方は、「人といるのが苦手だから、1週間もつか心配」と最初に告白。ブロガーの方は、わかった、自分もそういうところがあるから、じゃあそういう風にやろう、とすぐさまその件を承認、処理する。ブロガーの人は、香港で行ってみたい店、食べてみたいものを日本で入念に調べ、これは美味しいらしい、ここは人気スポットなどリストしていたようだ。現地に着いてからもスマホ片手に、目指すショップへと脇目もふらず直行。そのあとをタレント女子がついてまわっていた。

目指すショップについて、テーブルにオーダーした料理が並べば、まずは写真撮影。何を食べていたか、それについて二人が何を話していたかあまり記憶がない。香港であの二人は何を食べてたっけ? 伝わってなかったのかも、とあとになって思う。ブロガーの方は英語が話せるようで、ときどき店の人に質問したりしてはいたものの、どこへ行っても事務的な話ぶりで、地元の人と会話している感じではなかった。一度だけ、言葉のできないタレントのほうが食堂のようなところで、料理を運んできた人をちょっとちょっととつかまえて、中国語で「これ、おいしい」と嬉しそうに伝えていた。ま、ほんの一瞬ではあったけれど、会話が成立しそうになった瞬間。ブロガーの方は、宿泊しているアパートに戻ると、撮った写真をせっせとブログに更新していた。

食べログなどの情報を詳細に調べてリストし、現地に行って目ぼしいものを探し当て、自分で注文し、それを写真に撮りブログで再配布する。一つの情報がこうして増殖していく。引用文化、あるいはコピペ文化、それとも再編集ジャーナル、だろうか。面白い面白くない、好き嫌いは別にして、大きな文化的潮流ではあると思う。旅に関するネットのサイトが、ほぼこの引用と再編集で成り立っていたりもする。一つの観光地について、ネットから拾ってきた情報(断片的なテキスト)を寄せ集め再編集、再構成し、その場所に行った人たちのツイッターから、あるいはインスタグラムから写真入り情報や感想をプラスしていく。ツイッターは拡散が身上だから、こういった引用には規則上問題がない。ツイッターを通しての引用(リツイート)にとどまらず、それ以外のサイトで引用することも許されている。ツイッターもインスタグラムも、それぞれ埋め込みコードをコピーして、自サイトに貼り付ければ、そのままコンテンツが表示ができる。これはYouTubeなどの動画の埋め込み法と同じである。

ただ観光案内サイトなどで利用されている画像直リンクは、問題があるかもしれない。ネットの観光地案内のサイトなどでは、他サイトから直リンクで画像を「引用」している場合があるようだ。直リンクとは、画像のURLをコピーして、自サイトのコードにそのURLを貼り付けて画像を表示させる方法のこと。画像にコピーガードのかかっていないサイトに行き、画像をポイントして右クリック(またはコマンド+クリック)すると、「画像アドレスをコピー」という項目が出てくる。それを自サイトのコードにペーストする。すると著作権者の許可なく、目的の画像を使用できる。

これが違法かどうか微妙なのは、他者の画像をダウンロードして自分のサーバーにもってきているわけではなく、画像はそのまま相手のサーバーに置いたまま、画像アドレスを使うことで「引用」しているからだ。だから盗用の範ちゅうには入らない、という考え方が成り立つ。画像は「盗んでいる」わけではない、というわけだ。

しかしわたしはこの考え方に疑問をもつ。YouTubeやツイッター、インスタグラムなどは、著作権者が投稿する時点で、というよりそのサービスに登録してIDを得た時点で、おそらく作品の利用権を投稿先に許可しているはず。だからシステム内外での引用が許されており、拡散が行われる。しかし一般のサイトでは、サイト保有者または著作権者と、画像直リンク利用者の間には関係が成り立っていない。あるのは直リンクという技術だけだ。よって許可なく直リンクで画像を引いてくれば、無断転載と同じような結果になる。少なくとも、著作権者にはそう見えるだろう。これは心理的に理解のできることだ。使われたくなかったら、ウォーターマークを入れるなり、ガードをかければいいじゃないか、という人もいるだろう。

本当は一番いい形は、著作権者やサイト保有者に連絡して許可を求めることだが、許可願いを送っても返事をくれなかったり、無視されたり、知らない人には貸せないと警戒されたりということが多くて、「仕事にならない」かもしれない。葉っぱの坑夫の経験でいうと、一般的に日本の法人的なものは個人や未知の者に冷淡で、返事をくれることが少ない。英語圏などでは団体、組織、ときに企業でも、相手にかかわらず許可を出すなり、条件を出すなり、断るなりしてくる。社会の中で未知の者同士のコミュニケーションが、ある程度成り立っているように見える。これまで葉っぱの坑夫が作品の翻訳などでプロジェクトを組んでこれたのは、海外の組織と連携をつくってこれたからだ。日本の組織とでは難しかったと思う。

このような日本の状況から、いちいち聞いていたんじゃ「仕事にならない」と考えるのはわかる。わかるが、だからと言って、「技術がすでにあるのだから、やっていいだろう」という風には、簡単には思えない。もしインターネットの世界で(あるいはリアル社会でも)、著作権などという考え方が消滅して、世の中にひとたび公開したものは本でも、音楽でも、美術でも、みんなの共有物、共有財産である、という認識が一般的なものになったら、そのときは画像直リンクも何の問題もなくなるだろう。直リンクは悪ではないと思う。みんなの認識がそうなったときは、便利な技術になる。

もしかしたらこの問題は法律の問題というより倫理の問題なのかもしれない。一般人が自分の趣味のサイトで画像直リンクをやっていても、よほど金儲けしていない限りそれほど追求されないかもしれない。しかし観光地ガイドなど商用サイトでそれをやった場合、その会社の倫理観は疑われるのではないか。しかしこれも、さっき書いたように、著作権の受け止め方が変われば、変化するものだと思う。

『チョイ住み in 香港』に戻ると、テレビというメディアは、視聴者に対してサービスするものだ。面白いと思ってもらえるような演出や工夫を常にしているはず。これまでの男二人組のチョイ住みの場合、テレビ慣れ、マスコミ慣れしている人がほとんどだったのかもしれない。そして今回の二人のうちの一人はタレントだったけれど、もう一人はブロガー。番組出演中もテレビではないメディアを相手に行動していたのかもしれない。それをテレビカメラが捉えただけ。視聴者が楽しめるだけのサービスが、十分には提供されなかった。それが面白くなかった大きな理由かもしれない。テレビでは、食べログに載っている場所を工夫なく次々訪問、体験するだけ、という企画は成り立たないと思う。そこが二次情報の羅列でもうまく再編集されていれば機能するブログや、まとめサイトとは違うところか。

再編集だけで成り立つテレビ番組もあるかもしれないが、多くは元ネタに対して再創造がないと難しいように思う。再創造とは、小説を映画に仕立てたり、スペイン語で書かれた小説を日本語に訳すときに発生する、準創造活動、準創造行為のことだ。オリジナルを作曲する行為と、すでにある歌の楽曲をオーケストラに編成する行為の違い。前者が創造で、後者が再創造。あるいは楽譜に書かれた記号(音符)を、楽器で演奏して音楽にする行為も再創造にはいる。翻訳家、ピアニスト、ダンサー、俳優、みな再創造をするアーティストだ。何もないところから作品を作るのではないが、違う形態のものに移行する過程で、ある種の創造行為が発生し、出来上がったものに新しい価値が生まれる状況を生み出すこと、それが再創造だ。


引用、コピペ、再編集。どれも今の時代、なくてはならない方法論であり技術だ。しかしその便利さ、めざましい効果をよく知るのであれば、使い方で価値をさげてしまうような行為は避けたいもの。画像直リンクも同様だ。引用も、コピペも、再編集も、直リンクも、著作物を利用する前に、著作者にどのように敬意をはらったらいいか、充分に考えたほうがいいと思う。