20080628

混血のブラジル。シティ・オブ・ゴッドも、ナザレーも。

「シティ・オブ・ゴッド」のTVシリーズを今、CSやCATVで放映している(シネフィル・イマジカ)。数年前に映画の「シティ・オブ・ゴッド」を見て衝撃を受けた人も多いのではないか。リオデジャネイロのスラムに住む少年たちを題材にした映画で、それ1本でメイレレスというブラジル人監督は世界中に名を知られる存在となった。今回のTVシリーズはその3年後に作られたもので、30分×9編のシリーズである。

5〜8話までの4本を見たところでは、テレビということもあってか、全体として明るく、軽いタッチで、インターバルに使われているタイトル映像はスパイク・リーを思わせるポップさでなかなか楽しく、いいぞいいぞという感じ。この監督のセンスを感じさせる。ストーリーはスラムに住むアセロラ、ラランジーニャの二人の少年の日常生活とちょっとした冒険、体験を追ったもの。第8話では日系ブラジル人少年二人も登場し、また別の興味も沸いてきた。アセロラ、ラランジーニャがビーチで知り合った白人の金持ち少年がいて、その家に客として来ている知り合いの日系人の子どもがその二人。最初どこかぎくしゃくしていた五人だけれど(アセロラたち黒人少年は、どうも日系少年をバカにしているか、嫌っている感じで敬遠気味)、気のいいスラム出身のおかかえ運転手(白人少年の家の)の仲立ちもあって、五人そろってスラムに行って凧揚げすることに。そこからはもう、白、黒、黄の違いは溶けてただの子ども、悪ガキ集団となってスラムでの「楽しい一日」を過ごすことになる。

日系少年たちはもちろんブラジル生まれで名前もブラジル風、母語もポルトガル語。裕福な家の子なのか、物おじせず、率直な物言い、振舞いで、アセロラとラランジーニャをとまどわせる。でも凧揚げのための凧を、日系少年たちが部品を買って手づくりすると言い出し、スラムの露天で値切ったあげくに手に入れるのを見て、こいつらスラムの俺たちよりすごい、とそのちゃっかりぶりに親近感を抱くようになる。そのあと起きるちょっとした事件の収拾のために、みんなで資金集めに走るときも、メイレレス監督は日系少年のちゃっかりぶりや機転を楽しく描いていく。こんな風に外国映画の中で日本人、日系人が描かれるのは、案外少ないように思う。とても新鮮だった。スラムの子どもたちのリアルを撮るのと同じ視線、同じ愛情をもって日系人も撮った、それだけのことかもしれないが。

ブラジルは人種の混ざり具合、混血の深さがどこよりも進んでいると聞いたことがある。アフリカをルーツにする黒人系、アマゾンなどの先住民系、植民地時代のポルトガル系白人、その他のアジアやヨーロッパ系移民などがいて、黒人や先住民と白人の混血は昔からあるそうなので、その混ざり具合が時代を経る中で複雑化し、肌の色や顔つき、背格好などのグラデーションとして多様化して現れているのだろうか。

混血といえば、音楽においても、ブラジルではアフリカをルーツとするものからヨーロッパ音楽、そして先住民のものと、混合の度合いが深いようだ。エルネスト・ナザレーという1863年生まれの作曲家、ピアニストがいる。子ども時代にショパン、ベートーベンといったヨーロッパ音楽に親しみ、ピアノ、作曲を習って、後に音楽家になった。まだレコードなどの記録媒体が普及していない時代で、ナザレーは主としてリオデジャネイロの町の楽器店や映画館のロビーで生演奏をしていたという。タンゴ・ブラジレイロといって、アルゼンチン・タンゴとは少し違うブラジルのタンゴのピアノ曲をたくさん書いた。ワルツやポルカ、サンバなども書いている。専門の音楽教育を受けなかったこともあり、管弦楽や協奏曲など大きなものは一つも作っていない。

ナザレーのピアノ曲は、楽しく、ときに物悲しく、センチメンタルで、情熱的、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパのサロン音楽の風味をもちながら(ショパンとか、サティとか)、どこか土臭く、南の言葉やリズム、感情の高まりの強さ、古色な色合いを感じさせ、奔放で自由で放浪性がある。記譜法も少し緩いところがあるようで、それは考えようによっては演奏者の即興性に委ねる部分が多いということかもしれない。あるいは、作曲家自身が弾くたびに違ったように、気分に合わせて弾くので、一つの奏法に固定する情熱が薄く、音楽をそのときのもの、ライブと感じていた可能性もある。そのあたりも含めて楽しむのが、ブラジル音楽の楽しみ方かもしれない。

ナザレーのピアノ曲は日本でも全音から楽譜が出ているくらい、ある程度知られた作曲家だけれど、それほど弾かれてはいないかもしれない。全音の楽譜も、館野泉さんというフィンランド在住のピアニストの情熱で、彼の監修により楽譜が出来たようだ。シベリウスなどフィンランドのピアノ演奏で知られる館野さんが、ブラジルのピアノ音楽を紹介するというのも面白いと思っていた。譜面的には難しい曲はほとんどなく、弾けばその独特のリズムや節回しをすぐに手にとることができ、楽しく、深く感情を共有できる。CDもいくつか出ていると思う。ナザレーも含めた中南米のピアノ音楽の素晴らしいアーカイブを見つけたので、以下にURLを。
http://www.geocities.jp/latinamericapiano/index.html

メキシコ、キューバ、アルゼンチン、ハイチ、ボリビアなどなど、こんなに中南米の人々もピアノが好きだったのかと驚くようなラインアップである。ネット上に楽譜が公開されているものもあり、リンクをたどっていくとPDFで見ることができ、もちろん印刷すればちゃんとした楽譜として使える。ブラジルにはカバキーニョといってウクレレのような小さなギターがあったりして、音楽のヴァラエティにはこと欠かないけれど、ナザレーのピアノ曲にもこのカバキーニョの奏法をイメージしたものがあり、カバキーニョの音の楽しさを知っていると弾くのがさらに楽しくなる。ブラジルの映画、音楽を知ることは混血、混合の楽しさを感じていくことなのかもしれない。とても未来的だと思う。

20080609

印刷、作品、出版物

アメリカ在住の写真家アリ・マルコポロスさんが今月13日から東京で新作展をする(ギャラリー・ホワイトルーム・トウキョウ/表参道)。すべての作品をゼロックス(フォトコピー)を使用して制作したと聞いている。また展示内容を本にまとめた「The Chance is Higher」の限定販売もあるらしい。こちらもフォトコピーによるもので、モノクロ40点を集めた作品集(Dashwood Books)。アリさんから聞いたところによると、本は(価格的には高いけれど)素晴らしい仕上がりだそうだ。展示をするホワイトルーム・トウキョウのサイトには、作品を定着させる方法として、ローファイでミニマルなフォトコピーという手法に現在アリさんは魅せられているとあった。

葉っぱの坑夫で紙の本をつくり始めて以来、印刷、製本の方法にはずっと興味を持ち続けてきた。それは技術的なことや応用範囲、コストなどもあるけれど、特に注目してきたのは印刷の方法とその発表の仕方、さらには世の中の受けとめ方との関係性について。スイスのインディペンデント出版社Nievesを最初に面白いと思ったのも、アーティストとつくるzineスタイルの本をすべてフォトコピーでつくっていたことが大きかった。コピー機が一般的になってから、多くのアーティストたちがコピーをつかってあえてラフなテイストのアートブックをつくっていたことは知っていたけれど、Nievesのやり方はもっと意識的にこの「印刷」法を選んでいるように見えた。出版の方法論の一つとして、「印刷」の選択肢の一つとして、フォトコピーを選んでいるという感じがしたのだ。

いま「印刷」と書いたけれど、フォトコピー(photocopy)は厳密に言うなら「複製」。printとcopyはもともとは違う行為だった。でも現在のように、コンビニのコピー機でさえ、自宅からデータを送って、同じコピーマシンから出力することも可能なってくると、コピーと出力(print)の境界は使用面から見るとボーダーレスに感じられる。同様に家庭用のプリンターも、高解像度スキャナー、コピー機能、プリンターが一体になったものが、手頃な価格で買えるようになった。日本ではデジカメで撮った写真はプリントして閲覧、保存する、という人が多数派なので、プリンターはデジカメからの写真プリント機として大いに活用されている。プリンターのマニュアルを読めば、そこにユーザーのニーズのポイントがあることが見てとれる。マシン(プリンター)の方も写真プリントに便利なように、デジカメのメモリカードから直接プリントできるなど、さまざま工夫がされている。最近このような一体型プリンターを購入してみたのだが、写真プリントについては適正な紙を使った場合、DPEのショップで頼んだものと変わりないクォリティに仕上がる。つまり印刷機としてかなりの精度があると考えていいのではないかと感じた。

一方、出版や広告など一般の商業印刷物は、オフセットという印刷法が使われている。活版印刷の時代があり、その後オフセットが出てきてそちらへの移行時期があり、今はほぼオフセットに取って代わられている。装幀家、製本工芸家の栃折久美子さんは、アウトラインフォントの付いたワープロをつかっての本づくりについて、「活版印刷の力強い美しさには及びませんが、紙を選べば、ねぼけたようなオフセット印刷よりもずっとまともなものが刷れます。」と著書の中で書いている。ワープロ、というのはこの本が出版されたのが1996年で、まだワープロが使われていた時期だからだろう。オフセット印刷についても1996年と2008年の間に、精度において何らかの進歩はあったかもしれない。ただ活版印刷からオフセット印刷に移行した時期には、オフセット印刷の仕上がりに関して、栃折さんの言われるような精度上の欠点、不満は数多く耳にしたことだった。

今やオフセットは大量印刷の方法としては、ほぼ唯一の方法で、普通に印刷と言えばオフセットを指している。オフセットはある程度数量がないとコスト的に割高になってしまうので、少部数印刷には向かないとされてきた。ところが近年になってCTP(Computer to Plate)という、製版フィルムを通さずに、データから直接刷版(印刷にかけるときインクを乗せる版。この版から紙に転写する)を作ることのできるシステムができて一般化した。インターネットが広まったこともあり、ネットの印刷屋さんがこのCTPを取り入れて、100部くらいの少部数からオフセットでの印刷を安価で受けている。DM用のポストカードから冊子まで、様々なスタイルの印刷物に細かく対応しているところもある。このCTPは通常の商業印刷の企業にとっても、ごく普通の印刷法になってきたようだ。方法論としては、コンピューターからデータを直接刷版するのだから、それまでのフィルムをつかった製版と比べて一工程減ることになる。家庭用プリンターでは刷版の工程がなく、直接データを紙に刷るのでもちろん仕上がり感や印刷物としての精度は違う。ただ私家版的なもの、少部数のもの、オンデマンド的な需要のものをつくりたい場合は、家庭用プリンターは印刷方法の選択肢として、充分考慮されていいのではないかと思う。最近そのように思うようになった。高いお金をかけて、「本物の印刷」に必ずしもこだわる必要はないかもしれない。たとえば、とりあえず50部から100部くらいつくってみる、という場合の出版物なら、まずこの方法で試してみる価値はある。その後需要があることがわかってから、オフセット印刷に500部、1000部と出しても遅くはない。一つ問題があるとすれば、製本をどうするかだ。製本については便利で安価なシステムやマシンも今のところ出ていないので、試行錯誤する必要があるだろう。これも「本」という形をどう捉えて、自分はそこにどんな形を与えたいのか、によっても随分変わってくることだとは思う。

オルタナティブな作品づくりや出版においては、世の中にある印刷法をあまり役割固定的に考えず、自分のつくりたい本のイメージや目的、キャパシティに近づけることを第一に選んでいくのが楽しそうだ。また精度に対する考え方も、自分の意向をクリアにしてみれば、皆がみんな同じ一つの仕上がり感を求めているはずはなく、大雑把に「ちゃんとした印刷=オフセット」と考えなくてもいいように思う。アリさんのように、求めるイメージ、テイストがフォトコピーによって初めて実現される、という人もいるのだから。

*葉っぱの坑夫が何冊かの本で使用してきた、ドキュテックなどのモノクロのオンデマンド印刷機も、仕組としてはデータから紙への直接印刷である。この場合は、500部以下の印刷にコストパフォーマンスが高いと言われてきた(オフセット印刷と比べて)。アメリカやヨーロッパでは、オルタナティブな出版の方法として、詩集などモノクロ印刷を中心に今でもよく使われているようだが、コスト的に大きなメリットがあっても日本では私家版制作にはあまり活用されず、主として学術論文などの分野や、絶版本のオンデマンド受注用印刷として使われているらしい。日本人の「本」に対する考え方の特徴がよく現れている事例かもしれない。

*アリ・マルコポロス写真展「The Chance is Higher」 2008年6月13日(金) - 8月25日(月)Gallery White Room Tokyo  (表参道)

*オフセットCTPの印刷工程についての記述に誤りがあったので直しました。(5段目、「今やオフセットは....」のところ/6.10)