20191214

写真、映像、音楽:ドキュメントのいま(1)


ドキュメント(document)には、「(情報を〕文書[音声・写真・映像]で記録する」(他動詞)、「〔写真・録音・映画などの〕資料、記録、ドキュメント」(名詞)という意味がある(英辞郎)。この意味、あるいはニュアンスには、「事実に基づく情報」を映す、記録することが中心に据えられている。と思う。

しかしコンピューターの技術が発達し、ハード機器とともに様々なアプリやソフトウェアを一般の人間が手にすることができるようになった今、ドキュメントの意味は少し揺らいでいるかもしれない。記録の対象となる「事実に基づく情報」の意味が揺らいでいる、とも言えるのだが。

写真や動画の加工やデザインのツールを提供する企業としてほぼ独占状態にあるアドビが、最近、コンテンツの透明性に関する発表をした。写真加工などによって、事実ではない情報に信ぴょう性をもたらす「ディープフェイク」対策に取り組むというのだ。

11月12日の東洋経済オンラインの記事(写真に騙されるな!アドビが打ち出した「対策」)には、アドビにはこの対策をやらないという選択肢はなかった、と書かれている。この問題に真剣に取り組まないかぎり、「ディープフェイク製造技術企業」とレッテルを貼られる可能性があるという。

確かに高度な技術を開発し、それを誰もが手軽に使えるようにしたアドビのサービスや製品は、人間の暮らしを楽しく豊かにするものである。しかしその技術が、使い方によっては、事実を曲げて真実と主張したり、拡散することに手を貸すことが起きれば、技術そのものと技術提供者に責任が求められるのは当然かもしれない。

一般の人はそこまでの加工をしているかどうかわからないが(アドビ製品を使うにはコストがかかるので)、写真に映っている人物を削除したり、そこにいなかったのに加えるといったことが、今の技術では簡単にできる。動画についても、アドビの2019年版のビデオ編集アプリには、この技術が実装されているとこのこと。

写真でも動画でも、顔認識をして表情を変えることはもちろん、動画の場合は口を動かして音声合成技術と組み合わせれば、ある人物が本当にある内容をしゃべっているようなビデオも制作可能らしい。これは完全なフィクションだ。

アドビの発表会では、ある写真が撮影されたままのものなのか、加工されたものなのかの特定もできることが披露され、加工された写真を元に戻すこともできるとして参加者の驚きを誘ったようだ。コンテンツの出所を明らかにしようとするこの取り組みには、ツイッターやニューヨークタイムズが加わっているとのこと。

アドビの姿勢としては、加工技術を否定するのではなく、つまりアーティストやデザイナーが技術を使って写真を加工することに規制をかけるのではなく、コンテンツがどのような出所のものかを見る人に対して明らかにする、ということだと思う。そのことがクリエイティブ(創造性)に影響することはない、という考えのようだ。

基本的にはそうだろう。しかしもしかしたら、加工の過程やオリジナルが提示されることに対して、そのような透明性に対して、違和感を持つクリエイターもいるかもしれない。beforeアンドafterのような、あからさまな提示のされ方を好まない人もいるだろう。でもわたしたちは技術を手にして、自分の力では成し得ないような結果を生むことができ、それを利用することで利益を得ているとしたら、やはりそこで起きてくることの責任も取らなければいけないのは当然のことだ。そしてひとたび、コトの真偽の精査をやり始めたら、とことんどこまでも、技術が可能な範囲でめいっぱい実行する方向にいく、というのがコンピューター技術の世界だと思う。

このような状況の中で、ドキュメントという行為について改めて考えてみたいと思った。写真や映像に関わる作品で、最近三つほど気になるものを見つけた。以下、順番に紹介していきたい。


世界の音を記録する映像作家
ヴィンセント・ムーアのプロジェクト

ヴィンセント・ムーンはフランスの映像作家(写真家、サウンド・アーティスト)。世界各国を旅して、その土地で出会った人々と彼らの音楽を記録するプロジェクトを10年以上前からやってきた。バックパックにカメラとマイクとコンピューターを入れ、行った先の路上で出会った人々に、ここで今一番の音楽は何かと聞いて、それを撮影して記録する。一人で行動し、協力者は旅先で出会った人々というシンプルなプロジェクトだ。

メディアは映像だが、音楽を記録することが一つのミッションのようだ。音や音楽を記録する、ドキュメントするというプロジェクトは、昔は民族音楽の研究者や作曲家がフィールドワークの名でやっていた。その場合、テープレコーダーやウォークマンが音を採る道具だった。ヴィンセント・ムーアは、映像とともに音を撮っている。

音の記録という意味では、音の場合、早くから機器や加工技術が進んでいたので、プロからアマチュアに至るまで、当たり前のように音をサンプラーに取り込み、加工やミックスをして「フェイク」なものを作っていた。誰もそれをフェイクとは呼んでいなかったけれど。

機器にしろ技術にしろアイディアにしろ、音の世界はたいてい他のメディアより先を行っていることが多い。

2014年にムーアはTEDで、「Hidden music rituals around the world」というタイトルでスピーチをしている。hidden music ritualとは、山中などの奥地に暮らす人々の儀式の音楽のこと。ムーアのサイトで、わたしも、ブラジルのマットグロッソ州シングー川流域に住むメヒナク族の村の映像を見た。儀式の準備をする人々の様子や暮らしぶり、独自の楽器を使った音の世界を体験した。40分くらいの映像作品で、カットなし編集なしの一発録りのようだった。演出がないので、その現場に立ち会ってすべてを見守るような感じだ。これぞドキュメントの真髄とも言えるが、よほど興味がないと、こういった「あてのない」コンテンツを最後まで見通すのは難しいかもしれない。(それは今の私たちが「演出されて」「見どころの詰まった」ものに飼いならされているからだ)

TEDのスピーチで、ムーアは最初に「なぜ我々は記録をするのか」という問いを発している。それがプロジェクトを始めたときの最初の問いだったそうだ。スタート時、ムーアと音楽好きの友人は、音楽産業から遠く離れたところで、自分たちのやり方で、今存在する、人々の間に生きている音楽を探して記録したいと思った。そして、最初は住んでいるヨーロッパの街々で、インディペンデントのミュージシャンから人気ミュージシャンまで、カフェで、滞在先のホテルやタクシーの中で演奏してもらい映像に記録した。そしてそれをインターネットで公開した。

音の記録という意味では、映像のない音だけの記録の方が、より音への集中度が高いかもしれない。たとえば自分の子どもの音楽会や劇を記録する場合、今であればほぼ100%ビデオに収録するだろうが、もし音声だけを記録したら、それはそれで音の記録として価値あるものになる。映像なしでの音の記録は、また別ものという気がする。そして音だけの世界にも、多くの情報が詰まっている。映像のない分、音への集中度が増し、想像力がかきたてられる。ときにあえて、音だけの記録を採っても面白いかもしれない。


ストリートビューが作品に
ダグ・リカード『A New American Picture』

GoogleアースやGoogleマップができたときは興奮したし、その後ストリートビューが現れて、このプロジェクトの巨大さに心底驚かされた。

海外小説を読んでいるとき、出てくる地名をGoogleマップに入れて検索し、それをストリートビューで見るということは結構やった。『私たちみんなが探してるゴロツキ』という小説を訳しているときは、サンディエゴの町の名前、通りの名前、目印になる建物などを検索してはストリートビューで見ていた。その小説は自伝的なものだったので、かなりの確率で、小説に登場する通りや建物やショップが確定できた。そしてそれは大いに参考になった。

また中国出身の作家ハ・ジンの『自由生活』を読んでいたときは、中国人の主人公家族がハイウェイ(アメリカ)を使ってボストンからアトランタまで引っ越しするところを、マップとストリートビューを並行して見ながら読んだ。

「Google Mapsと本を読む」より「ニューヨークの渋滞に巻きこまれたくなかったので、コネティカットとの州境を越えるとすぐに、I-287号線へ路線を変更した。そして西を目指して一二マイルほども走ると、ハドソン川が現われた。あまりにも大きくて穏やかで、まるで海を見るようで息を呑んだ。」(ハ・ジン『自由生活』より)
Google Mapsでたどると、ニューヨークとコネチカットの州境は川で、そこ越えて95号線で海沿いの道を走り、実際に287号線に道を乗り換えてその道を行ってみた。道の両側にそれほど高くない木がまばらに生えていた。そしてハドソン川が現われた。料金所を通過して少し行くと片側三車線の橋が走っている。道の両側をLook left、Look rightで見渡すと、太陽に輝くハドソン川の川面が見え、確かに川幅は広かった。(happano journal_J 20101108)

また飛行家のアン・モロー・リンドバーグの本『翼よ、北に』を読んでいるときは、長江の描写を目で確かめるために、Googleアースを使った。本の中でリンドバーグは「見渡すかぎり悠々と流れている大河は、空から見るときに初めて真の姿を見せる。」と書いていたが、まさにその空からの姿を、家に居ながらにして目にしていた。

このようにGoogleアースやGoogleマップ、ストリートビューは自分の関心に沿って、地形や俯瞰図や町のランドスケープをいとも簡単に目にすることができる。それが遠くの、行ったのことない、未知の土地であればなおのこと、不思議な感覚に捉えられる。その感覚は今も変わらない。慣れることはない。

このような経験をしてきたので、ダグ・リカードという写真家の『A New American Picture』という写真集を見つけたときはなるほどと思った。写真集そのものを手にしたわけではない。この写真集がどのような意図で作られたか、ということを本人のサイトで読み、その写真を見たのだ。この写真集は、アメリカ国内の経済的に荒廃した地域や忘れ去られたかのように見える町を探し出し、その場所に実際に行くのではなく、ストリートビューで追って撮ったものだ。

そういうものが写真集として成り立つのか、という意見はあるかもしれない。写真を撮る対象はドキュメントの命である「実物」や「実体」ではなく、モニター上の映像だからだ。リカードは三脚を立ててカメラを据え、時間をかけて探し当てた「場所」をシューティングした。リカードのサイトの説明では、この写真集は、たとえば車で旅をしながらアメリカの風景を撮った、スイス人写真家ロバート・フランクの『The Americans』(1958年)を思い起こさせる作品である、としている。そういう意味もあって、タイトルが『A New American Picture』となっているのだろうか。

この写真集の出版は2010年。リカードは4年にわたって膨大な量のストリートを探索し、それを撮影していったそうだ。わたしが小説を読みながらストリートビューを見て興奮していたより、少し早い時期だったと思われる。地名を検索し、ストリートビューでそこがどんな場所か(どんな地域でどんな人々が暮らしているのか)を探り、見てまわることは、実際にその場に自分が立つのとはまた違った体験のように思える。自分はその場に登場しないのだから、一方通行という意味で、一種の「のぞき」行為に近いのかもしれない。

また一方で、写真とは何か、ドキュメントとは何かと考えるとき、特定の視点で「ある対象を写しとる」行為とすれば、その対象が何であっても、その成果は写真であり、ドキュメントであるということになるのではないか。ストリートビューで撮影場所を探し、どこにするか決め、アングルを設定し(現在のストリートビューでは、上下左右全方位360°のランドスケープが提供されていて、自由にフレーミングできる)、シャッターを押す。被写体がモニター上の風景ということを除けば、通常のドキュメント写真を撮るときとほぼ同じだ。

おそらくドキュメント写真にとってポイントとなるのは、対象がリアルなもの(実体)であるかどうかではなく、「撮影者による特定の視点」の明確さではないだろうか。これで思い出したのは、大分前になるが、ある写真集の中の写真を、ある意図で選び、カメラで撮影し、それにコメントを付け編集するというプロジェクトをやろうとしたこと。行為としては「複写」にあたるが、実用的な意味での複写ではなく、作品としての複写だった。そのとき、すでに印刷された写真を写真に撮るということの意味を考えた。そしてこんなことをする人は、おそらく世界中を探してもいないだろうと思った。

ダグ・リカードのストリートビューによる写真集は、被写体がリアルな実体ではなく、他者(Googleのストリートビューカー)によって自動撮影されたモニター上の映像の「再撮影」とも言える。しかしそこには写真家の明確な意図や集中が感じられ、本の紹介ページを閲覧するだけでも作品としての魅力が充分に伝わってくる。

*写真、映像、音楽:ドキュメントのいま(2)「ロシアの国境地帯6万キロを撮る写真家」(2020.01.17)