20071204

森が広がる?

エミリー・ディキンスンの家があることで知られるアメリカ、マサチューセッツ州の小さな町アマストについての面白い記述を読んだ。作家の多和田葉子がアマストを訪ねたときの話。
「十九世紀中頃は、このあたりには畑が多く、その家の窓からかなり遠くまで見渡せたようだ。それが学園都市となって農作地が減ると、樹木がまた増え始め、最近になって四百年前と同じくらいまで樹木の数が増えたのだという。樹木というのは減っていく一方だと悲観的になっていたわたしは驚いた。」(「溶ける街 透ける路」日本経済新聞出版社)
その家の窓とは、ディキンスンの家の窓である。400年前といえば1600年代、メイフラワー号がアメリカ大陸に上陸した頃、ヨーロッパ列強が北米に植民を始めた頃でもある。畑が減ることで復活したのは、文明が始まる前のアメリカの姿だったのだ。人間が生きるために、森を開墾して農地にして、その結果森が縮小していたわけだが、再生しているということは、長い目で見れば、自然が一時的に場所を人間に譲っていただけのようにも見える。それくらい自然活動というのは、とてつもなくsustainableで大きな存在なのかもしれない。

自然について最近思うのは、自然はなにより自然自身の営みの中でゆっくりと循環し、生命を受け継いだり死を受けいれたりしているのではないか、ということ。自然の成すことは誕生や成長だけではない。破壊や死をともなうさまざまな障害(人間から見たら)も自然そのものである。自然は自然自身によってもっとも激しく破壊される、ということを知ったのは、テリー・ウィリアムスの「Desert Quartet - An Erotic Landscape - 」を翻訳したとき。グランドキャニオンをはじめとする、ユタの沙漠地帯を歩いたときのことを記した散文詩集だが、こんな一節があった。
「赤い岩。青い空。この岩のアーチは、変化によって今の形につくりあげられた。かつてはヒレ状だった塔は、大きな陥没により穴があけられ、今では風の通り道になっている。くり抜かれ、浸食されて消え去ったものが、残されているものと同じように、わたしを感動させる。ドルイド・アーチ、この無機物質は、時の創造物として沙漠の地に生まれ、風化され、破壊されここにある、何とも美しい岩である。」
グランドキャニオンはその地質や地形から、先カンブリア時代にまでさかのぼってアメリカ大陸の過去をたどれるという。ウィリアムスの他の著書に、太古にこのあたりは浅い海が広がっていた、という記述があって、想像力をかきたてられた。地球史という目でものを見れば、そこには果てしない長い時間の経過と、地形上の変化があるということだ。

ここ1、2年の環境問題のあり方、受けとめ方(原因を人為的なものとする温暖化問題)には、首をかしげたくなることが多い。たしかに人間が生きていく中で、必要上、必要以上、の両方で、自然環境に対して何かしら影響を与えてきたことは間違いない。それは森林の伐採や二酸化炭素排出量に限ったことではない。たとえば東京近郊で今、川の水はどういう状態なのだろう。界面活性剤が川によくないとされてもう何十年もたつけれど、合成洗剤と石けんの販売数、消費率はどんな具合になっているのだろう。二酸化炭素の話ばかりしているのは、自然環境に関心があるというより、それが単に最近のトピックだからではないのか。

アル・ゴアに代表される「地球があぶない」緊急課題、のあの調子に翻弄されてはいけないと感じている。ネットで「不都合な真実」の映画のプロモーションビデオを見ただけだが、印象としては、あれは政治家のするキャンペーン行為であって、自然環境と人間活動の関係について真面目に考えるためのものではないと判断した。
真面目に考えたい人には、たとえばこんな本が参考になるかもしれない。
「現代思想」20007年10月号(青土社)
<特集 - 温暖化の真実 - 環境問題の発見>目次から:
「環境について、本当に考えるべきこと」 養老猛司
「地球温暖化説のグレー度は何パーセント?」 竹内薫
「冷静に温暖化を考える」 (討議)伊藤公紀×池田清彦
「地球環境問題と科学的不確定性」 宗像慎太郎
「水をめぐるパラダイム、歴史の問題としての水」 塚原東吾×松岡夏子
「好都合な真実」 長原豊
「中国の緑化の現場から」 上田信
「黒糖、パイン、黒紫米/西表島の物流と自然」 大塚善樹
「<気候格差>の真実」 池田寛二
「持続可能性を確保する社会思想」 倉阪秀史
「紫外線をめぐる知識・技術・言説」 金凡性
「原子力介護政策に根拠はあるか」 吉岡斉
「気候安全保障をめぐる国際秩序形成へ」 蟹江憲史