20170428

子どものトランスジェンダー問題

先月末、スタンフォード大学で「子どものための栄養学と料理」を教えているマヤ・アダム教授からメールが届いた。メールの表題は「Gender and our Children」。アダム教授の授業はCoursera(ネットで大学の授業を受けることができる新しい教育システムMoocの一つ)で取っていたことがある。メールの内容は次のようなものだった。

5年前にスタンフォード大学で「子どもの健康学」をアダム教授が教えていたとき、授業のあとで一人の学生が教壇にやって来た。「アダム先生、この授業はとてもためになりました。でも一つ、子どもの健康について欠けているものがあります。先生の授業ではジェンダー・アイデンティティについて、それが子どもたちの健康や暮らしにどのような影響を与えるかの情報が全くありませんでした」 学生はそのように述べたと言う。アダム教授はそれを聞いて、ジェンダー・アイデンティティですって? それが子どもたちの健康に影響があるって? とかなり戸惑ったそうだ。

アダム教授は、ジェンダー・アイデンティティと子どもの健康に与える影響について、そこから調べ、考えはじめた。小児科医、両親、教師、地域の子どもたちに話を聞くことからはじめたと言う。その結果わかったことに対して教授は非常に驚き、知らなかった自分を恥じ、現在の状況に深く胸を痛めた。トランスジェンダーに生まれた子どものことを何一つ知らず、医学の学位をとったと思い込んでいた自分を恥ずかしく思い、また子どもたちを(それぞれの、すべての子どもたちを)ちゃんと社会が支援できていないことに対して心砕ける思いだったと打ち明けている。そしてメールの中で、Together, we can change that.と呼びかけた。5年前の自分と同じようにこのことについて知識のない人、ジェンダー・アイデンティティと子どもの健康の関係について知りたい人は、「ぜひこのコースを取ってください」と結ばれていた(上品な先生に似合わず、この部分はすべて大文字で書かれていた)。

この率直な思いを訴えかけるメールは印象深いものだった。おそらく過去にアダム教授の授業を受けたことのある人全員に送られたのではないか。子どもの健康とジェンダー・アイデンティティの関係を調べはじめて5年、その成果をMoocという仕組をつかって世界中の学生たちに呼びかけ、このことを一人でも多くの人に知ってもらおう、という教授の熱い想いが伝わってくるメールだった。その想いに打たれ、また子どものジェンダー・アイデンティティについてぜひ知りたいと思い、わたしはすぐにクラスに行って受講申請の手続きをした。

授業のタイトルは「Health Across the Gender Spectrum(ジェンダーに関わる健康について)」。3月27日からスタートした。3週間にわたる短期のコースで、第1週目は「What is Gender Identity?」、第2週目は「What is the Gender Spectrum?」、第3週目は「How Do We Create a Gender-Inclusive Society?」。3週間にわたる授業には、トランスジェンダーの子どもたちやその両親へのインタビュー、50歳を過ぎてから肉体的にも社会的にも性を変えたある大学教授の体験談、この領域の専門家たちとアダム教授の対話のビデオ、理解度をチェックするクイズ、トランスジェンダーの子どもをめぐる問いに対して自分の考えを書き、クラスの他の人々の意見を読むディスカッション、参考になる書籍などのリスト、といったものが並んだ。

わたしがまず驚いたのは、当事者たちのインタビューで多くの子どもたちが、非常に小さな頃から自分の性に対して違和感をもっていたということ。およそ3歳くらいからその感覚は始まっているように見えた。からだは女の子である子どもが、スカートやピンクの服を着るのをいやがり、ズボンをはいて男の子たちと遊びたがる。逆にからだは男の子である子どもが、女の子のものを身につけたがり、自分は女の子と主張する。

実はこれまで、わたしはトランスジェンダーというものがよく理解できないでいた。スカートをはくとか、男の子のように振る舞うといったことは、人間がつくりあげた男女を区分する社会的文脈の中でのみ意味があり、人間にとって本質的なものではないのではと考えていた。社会が男の子として、女の子として、その範囲内で振る舞うよう強制するから生まれるギャップなのではないか、と。もし社会が男女差のない中性的な、あるいは男女を横断し混合を許すような、行き来自由な文化であれば、男とか女とかといった自意識上のギャップは生まれないのでは、と考えていた。

しかしアダム教授の授業を受けてみて、非常に小さな子どもがすでに違和感をもっていることを知り、自己認識の途上で何らかの不和が肉体と精神(脳)の間で起きているのかもしれない、と思うようになった。3歳といえば、歩いたり走ったりできるようになり、外の世界を知り始める年齢だ。それまでは主に母親や父親(兄や姉)と自分、という関係の中を生きていたのに対し、同じ年頃の友だちやよその大人たちとの接触が増えてくる。そうした中で、おそらく自己認識を少しずつはじめ、自分とは何か、自分はどのような存在か、どこに属するのか、ということを認知しようとし始めるのだろう。

トランスジェンダーの問題の基本は、自己認識のあり方にあるようだ。自分はどんな存在かと認識する過程で、男女という性に関する属性の識別が出てくる。授業の中の両親へのインタビューでは、多くの親が子どもの主張に驚き、胸を痛めながらも、自分の子どもが自己認識する性をなんとか理解して認めようとしてきた経緯が語られていた。トランスジェンダーの子どもたちにとって、思春期(第二次性徴期)は最初の関門で、そこをどのように通過するか、どの性で日常生活を送り、まわりの人々にどう理解してもらうかが差し迫った問題となり、将来的に自分の性の舵をどうきるかの入り口に立たされるときでもある。

授業の中で体験談を語った大学教授は、男の子として生まれたが、小さな頃からそれに違和感をもちつづけて成長した。なんとか自分の肉体が示す男性として生きよう、生きなければと思い、高校や大学でバスケットボールなどのスポーツに心を傾け、また素晴らしい女性たちとの巡り会いも経験して、最終的にある女性と結婚し、子どもを二人もうけた。その後、最初の妻とは離婚し、非常にユニークな女性との出会いがあって再婚。そして50歳を過ぎたころに、自分の性の認識について妻に打ち明け、妻の応援もあって性を変更する決意をする。そこからホルモン療法など医学的な治療を受け、性を男性から女性に変更した。当時すでに大学教授だったため、社会的に性を変更する旨、大学の上司に申告することになる。職を失うかもしれないと思いながら打ち明けたところ、その上司は「なに、きみが初めてというわけでもないんだよ」と受け入れてくれたという。また成人した娘と息子にもそれぞれ打ち明けた。息子は「なんだ、もっと重要なことかと思ったよ。これからは共和党を支持するとかさ」と言い、娘は「じゃあ、いっしょにショッピングに行きましょう!」と喜んだという。これはきっと幸せな結末を迎えることができた例だと思うが、そうであっても、この大学教授の50歳までの人生は大変な苦痛をともなうものだったと想像できる。

この大学教授が女性との巡り会いを経験しているように、トランスジェンダーであることと、性的な指向とは必ずしも重なるものではないようだ。ジェンダー・アイデンティティというように、基本は自己認識の問題なのだと思う。そこも混同されやすい問題らしい。

この授業の中で、子どもたちの学校生活で困ることとして、男女に分かれたトイレの問題が取り上げられていた。これは同性愛の人々の問題としてよく知られているが、トランスジェンダーの子どもたちにとっても、学校という生活の場で直接的にストレスのかかる問題となる。学校ではなるべく水を飲まないようにするなど、トイレにまつわる子どもたちの苦労や告白があった。解決策としては、男女別のトイレの他に、性を区別しないトイレを設置することが上げられていた。しかしこれも、学校や教師たちがトランスジェンダーの子どもたちの状況をよく理解しないことには、実現は難しい。

どの国の社会にも、男女を区別する文化はある。そこにどの程度の必要性があるのかは、まだあまり議論されていない。慣習として、歴史的に(封建制や家父長制のもと)、特に問うことなく続いてきたことだ。ネットなどのアンケートでも、男女をチェックする項目は普通にある。最近は必須ではないことも多くなっているが。答えたくない(答えられない)人のことを考慮してのことだろう。一般にマーケティングというものは、年齢や男女の属性を知りたがる。しかし、そこにある意味は深く問われないままだ。男ならこれを欲しがる、30代の人はこういう傾向だ、女性にこういうものを勧めると効果がある。そういった方法で商売をしていく方法は、いったいあとどれくらい持つのだろうか。いやいや世の中、そうは変わりませんよ、という人もいるだろう。性別に大きな意味を感じている人、女はこうあるべき、男はこうだ、という考えの中を自分が生きていることに気づかない人もいるだろう。それしかない、それが当然と思っている人々の存在は、トランスジェンダーの人々を気づかずに傷つけてしまうこともある。それは無知からくるものだ。人間に関する、知識の無知からくるものだと思う。だから誰もが知ることで変われる可能性をもっているし、そういう人が増えれば社会も変わる。


授業の中で参考図書として上げられていた本を1冊購入した。Beyond Magentaというタイトルで、「10代のトランスジェンダーたちの発言」という副題がついている。数人の子どもたちによるモノローグと著者のスーザン・カクリンの解説をまとめたもので、複数の人間の体験を知ることは入門として役に立つのではないかと思った。著者のカクリンはこの本を短編小説集に例え、それぞれの子どもを語る際は、PGP(preferred gender pronounce=その人が望む性の人称代名詞、彼女や彼)をつかいます、と冒頭で述べている。機会があれば、この本について詳しく紹介したい。

20170414

中絶は「女の権利」なのだろうか??

フェミニストの女性たちは、中絶は女の権利であると主張することがよくある。わたしもフェミニスト(社会的に男女の区別をつける意味はないという考え)ではあるが、「中絶は女の権利」とまでは言えないな、と感じている。

体内の子どもの生存を決める権利が誰にあるか検討する場合は、精子提供者である男と卵子提供者である女、それぞれが同等の立場にいないと公平性が失われる。確かに子どもは女性の体内で育つけれど、だからと言って、男性より権利に優位性があるわけではない。「産むのはわたしなんだから、わたしが決める」というのでは、男がかわいそうだ。

子どもの父親が中絶同意書にサインしてくれないという場合、父親不明という形で中絶同意書を提出することも実質的には不可能ではない、と聞く。法律上は「前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなったときには本人の同意だけで足りる。」(母体保護法第14条2項)となっているため、本当は同意が必要だが、なんらかの理由をつけることは可能ということだろう。
厚生労働省の2014年の調査では、人工中絶の件数は18万件(年間出産数100万件)となっている。近年は手術件数そのものは減少傾向にあるらしいが、18万件というのはそれなりの数字だ。

そもそも女性の体内で生まれ、育まれた生命は、それ自身が主あるいは主体であって、誰の所有物でもないように思う。いや、胎児は生命には当たらないという考え方もあるだろう。その場合、どこからを生命とするかは難しい問いだ。母親の体内で人間の形を取り始めるのは受精後7週目くらいで、頭とからだの区別がつき、2頭身くらいになるらしい。妊娠がもっと進めば、さらに人間らしくなり、各器官が備わってくるだろう。そのどこからを生命とするか、その線引きは誰にも決められそうもない。

「中絶は女の権利」ということをOKにしてしまうと、「お腹にいる子はわたしのもの(所有物)」という主張、さらには生まれたあとも子どもは母親のものという考えにつながりやすくなる。レイプなどの犯罪を除けば、子をつくるのは男女両方の協力によるものであり、基本的にはそこで生まれた生命は誰のものでもなく、その生命自身のものだと考えた方がいいように思う。

アメリカではキリスト教系の団体や共和党系の人々が、昔から中絶に反対してきた。最近読んだ国際政治史が専門の松本佐保さんのアメリカのキリスト教右派の話は興味深かった(Synodos インタビュー)。松本氏によると、アメリカでは19世紀までは妊娠初期の中絶は認められていたが、中絶によって命を落とす人が増えたことから規制がかけられたという。しかし1973年には、「中絶裁判」により中絶は合法となった。キリスト教の保守層からは反発を受けたが、そもそも何故彼らが中絶に反対するのかという理由は不思議なものだ。

松本氏によると、ドイツで19世紀の後半に、生物学者によって「受精」が発見されると、受精が人間生命の始まりという考え方が出てきたという。「マリアがその母アンナの胎内に宿った(受精)その瞬間から、原罪から逃れていたという信仰で、受精の瞬間を重視するものでした。これ以降、妊娠の継続を中断することは胎児への殺人行為と信じられようになります。」

ふーむ、受精の発見という科学的な進歩があって、その考えを取り入れるときに、キリスト教では受精の瞬間を宗教的に意味あるものとした、ということだろうか。しかしこの受精の発見というのは、宗教抜きで重要なポイントかもしれない。それを生命の誕生とするかどうか、という問題が中絶との関係で出てくるわけだから。

フランス在住のエッセイスト中島さおりさんによると、フランスでは妊娠12週までなら中絶が合法的にできるそうだ。妊娠7週目までであれば、ピルによる人工流産ができるという。日本ではいまだに中絶の方法が掻爬手術なので、からだへの負担は大きいと聞く。避妊のためのコントロール用のピルは、フランスでは50%くらいの女性が使用していたようだが、近年は下降傾向にあるという。その理由は2012年に第三・第四世代のピルに重大な副作用があるとわかったため。脳梗塞や血栓症を誘発することが知られるようになり、製薬会社への訴訟も起きた。

「フランス4百万のピル・ユーザーに対し2529件の血栓症があり、うち20人が死亡しているという調査結果が明らかにされ、続いて速やかに保健省が第三、第四世代ピルの保険による還付を停止した。」(中島さおり「フランス女性とピルの緩やかな離反」/Love Peace Club)

妊娠のコントロール(の苦労やリスク)を負うのは、やはり母体となる女性の方ということになるのか。ピルの副作用については、死を招くようなものでない場合も、体重の増加やニキビ、吐き気などが言われてきた。ホルモンを投与するのだから、何かしらの影響があっても不思議はない。

健康に影響を与える可能性のあるピルなどの薬をつかわず、また中絶も避けたい場合、確実に、女性の管理のもと避妊する方法はほかにないのか。

それがあるのだ。昔からある科学的な計測&解析法だが、テクノロジーの進歩により使用の負担がかなり軽減され、からだ自身には何の負担も影響も与えない。それは女性が基礎体温を計る方法だ。毎朝目が覚めたらすぐ精度の高い専用の体温計で体温を計測し、それを継続的に記録する。それにより排卵日(体温のもっとも低い日)が特定でき、その日と前後を避ければ妊娠は避けられる。妊娠したい場合は、この排卵日に照準を合わせる。これは避妊のため、あるいは妊娠のためだけでなく、女性が自分のからだがどう活動しているのか、具体的に知ることができる目から鱗的な「実験」になる。

きちんと真面目に長期にわたって計れば、自分のからだの内部の動きが手に取るように見えて面白くもある。昔は手書きでグラフにしていたものが、今はスマホなどと連携させて、自動記録できるようにもなっている。計る時間も秒単位だ。中学や高校の保健の授業で排卵日の見方を学び、実際に生徒に計測させてみるといいのではないか。できれば男子生徒もいっしょに授業を受け、実際に計測したものを前に女性の排卵の仕組を学べば、生命のリアルを身近に感じ、女性のからだへの敬意も生まれるかもしれない。

人間は自由意思によって生き方を選択できる生物であると同時に、ほかの動物たちと同じように、生物として保有する機能からは逃れられない。それを薬や手術といった対処療法でコントロールするのも一つの方法とは思うが、体内のリズムを把握することでコントロールできれば、他の方法以上に、女性は自分のからだも生き方も掌握できるようになる。中絶の権利を主張することもありだとは思うが(違法にしたり、犯罪としたりすることで、より酷い状況を生みかねないから)、別の選択肢として、基礎体温による自立した生き方を推奨し、広めていくことも大事なように思う。