20140421

移民たちのクックブック(1) イタリア人のパスタ料理


移民と食というのは、移民と言語と同じように、なかなか面白い組み合わせのテーマだと思います。

ここから二、三回にわけて、移民家族で育った著者による四冊の料理本を紹介したいと思います。どの本も、「移民」という観点で出会った本ではなく、たまたま移民系の作者の料理本だったということなのですが。最初に紹介するのは、イタリア系アメリカ人のフードライター、ドメニカ・マルチェッティの「イタリアのおいしいパスタ(The glorious Pasta of Italy)」。パスタソースのバリエーションが知りたいと思って本を探しているときでした。

これは私的な印象なのですが、一般に日本の料理本は実用本位というか、料理の作り方さえ書いてあればOKというものが多い気がします。ハウツー本的な印象が強いといいましょうか。料理や材料、素材の背景についての記述や、料理人である著者のパーソナルな体験や考え方などが感じられる料理本は少ない気がします。パスタの本を探していて、日本語の本でいいものが見つからず、キンドルで英語の本を探してみました。そして出会ったのがドメニカのパスタの本でした。

海外の料理本というのは、材料の問題や食習慣の違いなどがあって、あまり役に立たないことがあります。ドメニカのパスタの本も、実際につくって食べたのはまだ3種類くらいです。でもその内の二つは、アッというほどおいしく、またパスタソースや材料を「煮る」ということに対して、目を開かされるものがありました。たった一冊の料理本ですが、調理をしていて、海外からお客を招いたような香りが部屋に漂い家をつつみました。

「イタリアのおいしいパスタ」はまず長めの謝辞で始まります。この本をつくるのに、多くの人の手助けが欠かせなかったというわけです。次にIntroduction(はじめに)の長い文章があります。はじまりはこうです。「わたしの家には、パスタ料理というものはありません。それはいつも『「おいしい」パスタ料理』と表現されるのです。」 これは著者のお母さんが、イタリア語でいうところの「un bel piatto di pasta」を翻訳してつかっていたフレーズのようです。著者のお母さんはイタリアのアブルッツオ出身で、夕ごはんの食卓での話題はいつも、次の晩何を食べるかに集中していたとか。ドメニカはフードライターになる前は、新聞記者をしていましが、政治の話やその日の事件のことより、明日の夕飯のメニューこそが大切だったと言っています。

このIntroductionにつづいて、パスタをつくるための道具類(フードミルやトングなど)の話、中身の材料(トマトや塩、様々な種類のチーズなど)の話、そしてドライパスタと手製のパスタの話、と説明がされていきます。この本のいいところは、自分の料理のレベルや揃えられる材料や道具の範囲の中で、充分に役にたてられること。手製のパスタをつくる(生地をつくる)場合も、ドメニカはリラックスして楽しんで作ることが大事、もし途中で失敗してもこうしたら大丈夫、というように読者を導いてくれます。またドライパスタについても、このブランドのものはクォリティが高く手に入れやすいといって、たとえば日本でも買えるDe Ceccoの名をあげています。

本質に沿った、あるいは伝統的な手法によるハイクオリティな料理法を示しつつも、誰でも作れる工夫や簡素化した作り方も欠かさず書いてくれていて、そのオープンな著者の気質がこの本の魅力になっています。わたしが最初に挑戦してみたのは、「夏のチェリートマトのファルファーレ」。実はこれを作るまで、チェリートマトのことを「子どものお弁当用のバイオ野菜」のように思っていました。ところがこれが、大きい普通のトマトより味も色も濃くて、違った使い方ができるのだとわかりました。18世紀頃から南米で栽培されていたそうです。チェリートマトのファルファーレですが、あの蝶ネクタイ型のパスタではなく、わが家では1.6mmのスパゲティのソースにして食べています。

作り方はシンプル。材料は、チェリートマト、オリーブオイル、ニンニク、バジルの四つ、それに塩コショウです。最後に上に乗せるリコッタサラータ(チーズ)は、フレッシュチーズでも無しでも問題なかったです。フライパンにオリーブオイルを入れて、薄く薄くスライスしたニンニクを7分くらい焦がさないように炒めます。半分に切ったチェリートマトをフライパンに入れ、オイルとニンニクとからませ、火を弱中火にします。15分ふたをせずにぐつぐつ煮ます。トマトがくずれてソースがどろどろしてきます。塩とコショウを入れて火からおろし、バジルが生の場合は、その中にソースを入れます(生がないときは、家ではドライバジルを入れています)。ソースが少し煮詰まったときは、パスタのゆで汁を入れて乳化させます。茹でたパスタをソースの中に入れて優しくトスしながらからめます。

たったこれだけなのですが、今まで食べたことのないような味に仕上がります。ニンニクを炒める時間の長さ、トマトを煮る時間の長さ、それからゆで汁をつかってソースを乳化させる、この辺りが違いを生んでいるのかな、と思います。

イカのトマト煮パスタ(Tomato-Braised Calamari Sauce)、これも遠い異国を思わせる味でした。材料はイカ、玉ねぎ、ニンニク、赤唐辛子、オリーブオイルなど普通のものばかり。トマトはトマト缶をつかいます。ポイントはイカをよく煮ることです。だいたい1時間弱煮ます。イカというものは煮すぎると固くなる、と思い込んでいましたが、この本に「充分に柔らかくなるまで煮ること」とあったので、その通りやってみると、非常に柔らかくおいしくなることがわかりました。また煮込んでいるとイカの匂いが部屋に満ち、ニンニクやオレガノ、唐辛子の匂いとあいまって、こってりと深い香りに食欲をそそられ期待が高まります。わが家の定番メニューの仲間入りしました。

ドメニカによると、ソースはパスタに対して控えめがいいそうです。ソースをパスタによくからませたあと、少しトッピングとして上に乗せる、それくらいがいいとか。この本にはちょっとした、でもおそらく本質的に大切なポイントが書かれていて、読んでいるだけでもいろいろ発見がありました。たとえばパスタをゆでるときは、たっぷりの塩をつかうこと、とか。そうすればソースの方の塩は少なめで大丈夫。ゆで時間のタイマーは、麺を入れて再びボイルがはじまってからON、とか。ゆでている間は常に沸騰させておく、とか。

次回以降は、ベトナム系アメリカ人Andrew X. Phamの「A Culinary Odyssey(ぼくの料理日記、旅と料理と東南アジアの思い出)」、在日韓国人コウケンテツの「鶏本(家族の味、僕の味)」、アイルランド移民三世のジョージア・オキーフの「A Painter's Kitchen」を紹介したいと思います。

紹介したドメニカの本:
"The glorious Pasta of Italy" by Domenica Marchetti.
またイタリア料理に興味のある人は、ドメニカのウェブサイトdomenica cooksがおすすめ。
http://www.domenicacooks.com/

20140407

日本人のデザイン感覚を考えてみる


グラフィックデザイナーの友人が、日本人のデザインセンスはすごい、というのを以前聞いたことがあります。竹尾のペーパーショーか何かに行ったときのことだったと思います。確かに。アイディア、感性、精度、素晴らしいものがあるのは確かだと思いました。

しかし日常生活に目を移すと、びっくりするような(醜悪な、あるいは偏った)センスと出会うことも多く、果たしてこの極端な差はどこから生まれるのだろう、と考え込みます。「空気人形」という映画を見ていたら、登場人物の部屋の風景が映し出されました。独り者の男の部屋、会社員の女の部屋、中年サラリーマンの部屋、一人暮らしのおじいさんの部屋、小学生の女の子の部屋、、、。どれもものがいっぱいでぐちゃぐちゃ(に見える)、リアルすぎる光景でした。よく子どものいる家庭の冷蔵庫には、様々なもの(連絡事項だったり、メモだったり、いろいろでしょう)がペタペタといっぱい貼ってあったりしますが、ああいう感じです。おそらく(見たことがほとんどないので断言はできませんが)、NHKの朝ドラなどに出てくる家のインテリアは、もう少し(見やすく)整理されているのではないかと思いました。

「空気人形」の監督是枝裕和さんは、部屋の風景をリアルに映し出すために、スタイリストに細かい指示を与えたのではないか、と想像しています。それは空気人形という非現実との対比という意味もありますが、海外への出品が当初から意識されていて、リアルな描写をよりインパクトをもって表現する意図があったのではないかと思うのです。

自分の姿を「他人の目を通して」見るのは難しいことです。この映画に現れている登場人物の部屋の様子は、日本の実情にけっこう近いと思われ、そしてそれは美しいとは言いにくいものです。デザインという意味では最低レベルかもしれません。

町を歩いていて気づくことがあります。日本の住宅街は、特に一戸建てが多い地区などは、塀の外にもプランターや鉢を並べて、きれいに花を咲かせたりしているところがあります。自分の家の前の道の掃除も小まめにやり、植木の手入れも季節ごとにして、雪がちょっとでも降ればスコップ片手に一斉に道に出てきて、みんなで雪かきをはじめます。美しいことです。しかし、駐車場などのフェンスにベタベタと貼られた政党のポスターは、選挙が終わってもいつまでもはがされず、広告看板などさびが入って読めないようなもの、あちこち破損しているものが、道の景観をおそろしく損ねているにも関わらず、そのまま放置されていたりします。おそらく誰も気づいていないのだと思います。不快に思っていないのでしょう。管轄外、というか。

また公団など集合住宅の入り口には、お役所的な(デザインとは無関係、実質本意のみの)ばかでかい「関係者以外の立ち入りを禁止します」と書かれたボードが掛けられているのを見かけます。どんなに建物の外装や室内のデザインが素晴らしくても、エントランスにこのような無粋なものがでかでかと置かれていては台無し、と感じる人はいないのだろうか、と不思議に思います。

また日本の昔からの庶民の風景、と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、手を伸ばせば届きそうな距離の、道に面したベランダに、晴れた日ともなれば、布団にシーツ、お父さんのパンツから子どものシャツまで洗濯物が一斉に並びます。家の中を覗かれることを極度に嫌って、窓には必ずカーテンをつけて遮断する日本人の心性から見ると、ちょっと不思議な光景です。洗濯物には関してはあっけらかん。町の風景としては、あまり美的(あるいはコントロールされている)とは言えません。そもそも一戸建ての家の設計(デザイン)において、家そのもののデザインと、生活上見えてくるもの(洗濯物など)の計算が出来ていないように見えます。洗濯物を干す場所の設定を見ると、それがわかります。おそらく格好ではなく、実質本意(東南方向に物干し場は置くというような)なのでしょう。ただ昔ショートケーキハウスなどと言われた、白壁の洋風建て売り住宅(仕立ては安っぽいけれど、洒落たつもりの外観)の家には、道路際に張り出す洗濯物の風景はミスマッチに見えます。

先日箸を買いに近所のショッピングモールに行きました。最初和洋の食器を扱うお店に行きましたが、何故か「女性用」として置いてあるものは、ゴテゴテきらきら妙な飾りがついたものばかりです。たくさんの種類が置いてあるのにも関わらずです。スタンダードなのもの、中性的なものがありません。それでモールの中の別の食器売り場に行ってみました。そちらも似たような感じでしたが、種類も少なく、選びようがない感じです。とりあえず一番シンプルなものを買ってみましたが、家に帰ってつかってみてびっくり。すごく小さい(短い)のです。とても持ちにくいと感じました。そういえば、以前つかっていたのは無印の男女共用のものでした。

そもそも箸に女性用、男性用が必要なのか、あるいはもっと言えば、個人用のものがいるのかわかりませんが、現状は女性用の箸というのは、サイズが小さくてゴテゴテしたデザインのものがノーマル(どこの店にもある)ということなのでしょう。そこから見えてくるのは、日本の女の人が社会の中でどんな存在かということ。一昔前に、ドアノブからティッシュの箱にまで、花柄のカバーをかける女性の「悪趣味」という言われ方がありましたが、基本はそれほど変わっていないんですね。だから一方で無印良品の存在価値があるのでしょう。

日用品のレベルでは、箸にかぎらず、お皿でもカップでもスタンダードなものが手に入りにくい印象があります。日常用のミート皿を何年も探した経験があります。フラットでプレーンなものが欲しかっただけなのですが、そういうものが却って見つけにくい。いろいろ「デザイン」された過剰なものが多いのです。こういった日用品は、できれば電車に乗って都心の専門店やセレクトショップまで行って買うのでなく(重いし割れ物だし)、近くの普通の店で手に入れたいものです。特別に趣味的なものを買おうとしているわけではないのに、「普通」のものが買えない。「普通」の基準が違う、多くデザインがとても女性的な方向、あるいは「お子様」の方向に偏っている、そう感じます。

「女子供の」というややバカにした表現がありますが、日本の日用品のデザインの傾向はコレだと思います。竹尾のペーパーショーに現れているシャープでクリエイティブな日本人のデザインセンスの一方には、ものがいっぱいでぐちゃぐちゃの部屋、マンションの入り口の役人的看板、住宅街のフェンスにいつまでも残るスローガン&顔写真入りの選挙ポスター、小さくてゴテゴテした女性用日用品、そういうものがしっかりと根をおろしているのですね。大昔から言われる「表」と「裏」あるいは「うち」と「そと」という日本社会のメンタリティと関係があるのでしょうか。わかりません。いずれにしても何故こんなにも両極端なものが、日本のデザインの中に同居しているのか、ここまで書いてきても見えてくるものがありません。