20051121

多和田葉子さんのパフォーマンスと耳の能力

2册の本の出版やそれにまつわる展覧会などがひと段落した11月初旬、ドイツから帰国中の多和田葉子さんの『脳楽と狂弦』というタイトルのパフォーマンスを見にいってきました(東京・両国/シアターχ)。同じくドイツ在住のジャズピアニスト高瀬アキさんとの共演です。会場で配られるフライヤーなどにも特に説明がないので、何をどう理解するかは聴衆の教養や耳の良さ、言葉への関心や遊び心の程度によってずいぶん違うだろうなと感じました。かくいうわたしも見てから1ヶ月近くたった今となっては(見て/聴いているときはそれなりに楽しんだけれど)、記憶がおぼろで人にうまく説明できるようなことが少ないのです。印象が薄かったということでは決してなく、そのとき受けとったものを言語化、意識化してこなかったので印象や感想の手がかりをひっぱりだすことができない状態というべきか。

何をしたかというと、ステージの上で多和田葉子さんがテキストを読み(ほぼ日本語だったと思う)、高瀬アキさんがピアノを弾き、ときに多和田さんとかけあいでテキストをしゃべったりした。「翻訳語り」とあったから、多和田さんのオリジナルテキストではなくて外国語、あるいは日本語古典からの翻訳なのだろう。プログラムにはこのように書かれている。

( 能 )    老杉
( ノー! )  お見合い
( 能 )    ピアノ道成寺
( 響言 )   すえひろがり
( 狂言 )   魚説教 2005

多和田さんは長いことドイツで作家活動をしていて、ドイツ語、日本語両方で作品を書いている。そんなことから多和田さんは日本語を常に日本語の外側から眺めつつ、面白がりつつ、発見しつつ、使っているところがある。テキストにはたくさんの同音異義の言葉が出てきた(日本人はあまり意識していないけれど日本語にはもともと多いし)。でもこれはいわゆる「だじゃれ」遊びではないと思った。同音異義とだじゃれはよく似ている。また同音異義の言葉を並べる言葉あそびはそんなに珍しくもないだろうし、だじゃれと境界を接する「危険な」(ベタな)センスとも言えるかもしれない。ただ、だじゃれ遊びはどちらかというと、日本語社会にどっぷり漬かりつつ仲間内意識をもって遊ぶもの、という気がする。一方、同音異義遊びは、日本語のネイティブスピーカーがふだん気づいていない日本語の音にたいして、自分の耳のありようにたいして覚醒をこころみているように思う。耳で聴いて何かを感じとったり理解したりするのは、外国語でなくとも難しい。目からの情報で理解することに慣れてしまっているせいか、耳の能力(機敏な聞きとりや理解力)が弱っているのかもしれない、とも思う。

このパフォーマンスはシアターχでのシリーズのようで、毎年秋に1回開いているようだ。多分来年も新しい演目をやるのだろう。舞台全体はカジュアルな手づくり風、仕上がり感もラフで、日本式、日本風の決めごとのようなものから著しく逸脱していて、たとえばヨーロッパ人の出し物を見ているようだった。コンセプトやアイディアなど中身がまず大切で、仕上がりの質にはそれほど神経質にならずにライブ感を優先する、という感じも受けた。このあたりも日本式の演目に対する考え方と対照的なのかもしれない。多和田さんはドイツ語でドイツで暮らしているわけだから、半分はドイツ人なのでしょう。ひとつの国に留まり、ひとつの言葉だけ使って生きている人には想像できないことがたくさんありそうだ。中でも「ひとつの言葉だけ使って生きている」というところがポイントなのだ。

1. 「すべって、ころんで、かかとがとれた」
多和田葉子さんが日本語を新たな言葉として自分のものにしてゆく過程について書いたエッセイ。

2. Happano Store(オープンしました)
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