20151012

新種のアクター、ダナムとデルピー

レナ(リーナ)・ダナムとジュリー・デルピー。最近映画またはドラマを見て、ちょっとスゴイかも、と思った二人だ。女優ですごみのある人といえば、たとえばジュリア・ロバーツとかメリル・ストリープが思い浮かぶが、そういうハリウッド的うまい役者全開のパワフルさとは違う。俳優本人が演じている役との境界をスリリングに行き来しつつ、人間的なリアルさやすごみを出しているように見える、それがこの二人。

レナ・ダナムはGIRLSというアメリカのテレビドラマで人気者になった。脚本や監督もつとめつつ、主役のハンナというニューヨーク在住のライター志望の女の子を演じている。日本放映の際は、「自己嫌悪のかたまりみたいな女の子」と紹介されていたみたいだが、えええっっ?!という感じだ。まったくそんな感じじゃない。むしろいつも堂々としてる。からだも堂々としているし(まだ20代なのにかなりのウェイトで、お腹なんか妊娠してるみたいに突き出てる)。

その堂々とした体躯をカメラの前で、ビキニでも裸でも堂々と楽しげにさらししてもいる。このドラマ、たしかPG12指定だったと思うが、それはハンナが部屋で裸になったり(でもそれは服を着替えたりシャワーに入るためだったりするのだが)、ハンナもしくは女友達の誰かがボーイフレンドと性行為におよぶ展開になったり、あるいは性的にあけすけなセリフが派手にいきかったりするからなのだろうか。基本コメディなので、ぜんぜんイヤラシさはないのだが、やはりPG12ということになるのだろうな。

なぜ裸になったりセックスをしたりあけすけなセリフが行きかったりするか、と言えば、それが日常の断面だからだ。たしかに普通のドラマでは、出かけるから着替えるというときに、その場面をわざわざ映したりはしない。でも誰もいない部屋で着替えるというとき、人はおおっぴらに裸になるのが普通だ。まさか一人のときも、胸を見られないように隅を向いて、、、なんてしてないはず。その自然の姿をそのまま撮っているだけ。でもそれを映像にするとなぜか新鮮。他の作品の中では「見世物」になってしまう、あるいは重要ではないと思って省かれるものをあえて取り上げているからか。

レナ・ダナムはハンナを演じているだけでなく、このドラマの脚本を書いたり監督をしたりもしているわけで、何を見せ、何を(自分も含めた)俳優にしゃべらせるかはすべて意識的にやっているはずだ。ドラマの中の行為や言葉は、レナ自身の経験やいまの生活実感を反映していると見ていいと思う。そういう意味でフィクションではあるのだが、どこかドキュメンタリー的な感覚も見え隠れする。

もう一人のジュリー・デルピーにも似たような側面がある。デルピーはフランス出身の女優で、金髪に白い肌、優しげな顔と、その容姿からいかにもフェミニンな役が似合いそうに見えるが、実際は硬派で才気あふれるエネルギー(爆弾)のかたまりのような人だ。雄弁な口八丁タイプ。言葉の人だ。デルピーが脚本に関わった主演映画をいくつか見たが、最初から最後までしゃべり通し。相手がいるのだが、その相手と丁々発止、鋭い言葉の応酬を繰り広げ、それが作品の特徴となっている。映像作品だけれども言葉でできている映画。ストーリーというより言葉。

その言葉のみごとさは他に類をみない。デルピーはフランス人だが英語が達者。俳優が英語のセリフを(読んで)しゃべっている、というレベルではない。英語で脚本も書いている。丁々発止のセリフは、わたしが見た映画はすべて英語だった。英語が母語の人も言い負かされそうな勢いのまくしたてセリフがあちこちにある。

その内容だが、理路整然としているわけではない。役にもよるが、たいてい行き着くところは破綻だったりする。ボーイフレンドや夫と言い争うとき、どんな言葉が飛び出すものか。たいがい喧嘩のときの主張というのは、自分に有利な事例をならべ、さらに相手の過去の過失をこれでもかというくらい掘り出して千切っては投げ千切っては投げするもの。デルピーの脚本や演技にはその感じ、不条理だけれどリアルな言動が思いっきり出ている。

デルピーは容姿からはそうは見えないかもしれないが、フェミニストの闘士かもしれない側面がある。映画「ビフォア・ミッドナイト」の中で、男がつい誘惑されてしまいそうな言動やしぐさをする女、を揶揄してこれ見よがしに演じてみせる場面を演じていたが、見事だった。あれは批評の演技だ。役を演じるときに、その人物になりきって演じて名演と言われるものもあるが、デルピーの演技は、常に批評的なのだ。その人物を社会の中に置いて、外部からの視線を当てながら、その人物の人間性を表現している。彼女が脚本を書く人だからこうなのか、あるいはこういう俳優だから脚本を書いたり監督をするのか、どちらだろう。

レナ・ダナムにも、そういった役に対する客観性のようなものが、演技に感じられる。立派な体躯(多くの人は太っちょ、デブなどと言うかもしれない)をビキニや裸で堂々とカメラにさらすのも、このことと関係がありそうだ。

デルピーの映画は長いインターバルを置いて、シリーズ化されたものがいくつかある。イーサン・ホークとの三部作は、1995年の「Before Sunrise(恋人までの距離)」、2004年の「Before Sunset(ビフォア・サンセット)」、2013年の「Before Midnight(ビフォア・ミッドナイト)」と、9年間のインターバルで映画がつくられている。1作目はリチャード・リンクレイターが脚本、監督をやっているが、2、3作目は、主演の二人も脚本に参加している。第1作目では、二人とも学生だった。第2作目では、二人の出会いのことを書いて作家となった男と、女とのパリでの再会。第3作では二人は結婚していて子供もいる、出会いから18年目の話。

18年という長い期間に渡って、二人の人物の人生を追うという趣向は、演じてる二人の俳優の、人間としての足跡を見るようなところがある。映画の内容はフィクションだが、三部作の構造と時間の経過によって、ドキュメンタリー映画の側面をもつ結果となっている。そこが映画の中の丁々発止のやりとりとともに、スリリングなところだ。

デルピーが脚本、監督、音楽、主演、製作をした映画「パリ、恋人たちの2日間」(2007年)と「ニューヨーク、恋人たちの2日間」(2012年)も同じような構造の作品だ。わたしは後者しか見ていないが、2作目では相手の男は1作目と変わるものの、主人公の女性のその後という設定は、ビフォアシリーズと同様である。ビフォアシリーズでは、登場人物はほぼ主演の二人だったが、こちらの映画では、双方の家族の面々が登場し喧々諤々、喧騒度はさらにグレードアップしている。

デルピーという俳優は、作家資質なのだろう。基本は俳優なのだろうが、これまでの俳優の境界を超える創造性を、演技の中で見せている。それは単に脚本を書いたり、監督をしているからではなく、役を演じる際の姿勢、役や演技に対する批評性がそうさせているのだ。「役になりきる」「わたしは素材です、作品は監督のもの、わたしは真っ白でありたい」という「従来型」の演技派たちとは、根本が異なる。レナ・ダナムも、俳優として、デルピーと同じような考えをもっているのではないかと思える。