20190426

音楽の未来:ストリーミングとLP(1)

3月22日のポスト「本のプロフィール、そして未来」で本の過去と未来を書く中で、音楽の聞き方の変遷について触れた。その後、また音楽の聴取に関して新たな体験をしたので、今回は音楽の未来について書いてみたいと思う。

前置きというか、本題に入る前に新たな体験に至る過程の話を少し書きたい。関連しあう一つのことであり、ゆるやかな繋がりがあるように思えるからだ。

最近ある一人の音楽家についての本に端を発した、新たな発見をした。その音楽家とはアルヴォ・ペルトという作曲家(エストニア、1935年〜)で、現代クラシック音楽のジャンルで長く作曲活動をしており、世界的に知られている人である。映画音楽などへの引用やジャンルを超えて各種のアレンジが非常に多い作曲家なので、名前は知らなくとも音楽を聴いたことがある人はそれなりにいるかもしれない。エストニアの生まれだが、作曲家として活動の初期に、当時エストニアがその支配下にあったソビエト共産党やその元にある作曲家協会から、作品のせいで疎まれ、排除される経験をした。それで1980年、ペルトは家族とともにウィーンに逃れ、その後ドイツに渡って音楽活動を再開した。ソビエト崩壊後、家族とともにエストニアに戻っている。

ペルトは共産党による抑圧のあとの長い沈黙期を経て、ティンティナブリという独自の音楽スタイルを生み出し、それが世界的に受け入れられるきっかけとなった。ティンティナブリとはベル(鐘、鈴)の意味で、究極の静寂の中、非常に高い音域で少ない音数が鳴らされる音楽。ペルトの音楽では、「静寂」が重要なキーワードとなる。

わたし自身が最初にペルトの音楽を聴いたのは、『Spiegel im Spiegel(鏡の中の鏡)』という曲で、最初の1、2小節を聞いただけで音楽のもつ強い個性に捉えられた。その精神性や神学との関係から、スピリチュアル系の音楽として受けとめられ、魅了される人も多いようだが、わたし自身は少し違う感じ方をしている。それが何かを言うのは難しいが、たとえば「音楽のはじまり、最初の泉」あるいは「音楽の芽、純粋な何か」というような表現が近いかもしれない。

こういったペルトの音楽性に加え、たくさんのミュージシャンや映像作家から、彼の音楽が引用されているという事実、その広がりの大きさ、このこととこれから書こうとしている新たな音楽の聴き方やそのプラットフォームとは、どこか関係しているように思えるのだ。

ペルトの音楽に興味をもったことで、最初にしたことは、『Spiegel im Spiegel』と『Für Alina』の楽譜を買うことだった。あのティンティナブリの音響を自分の手でピアノで響かせてみたかった。ここで一つ大きな発見があった。『Für Alina』に収録されている(病後の娘のために書いたとされる)もう一つの曲は、ごく短い変奏曲で、主題はたった17小節からなり、弾くのは右手のみ。単音だけのメロディ。左手は最初に低音部記号のミラドミの和音を押さえるが音は出さない。ペダルは踏まない。踏まないが和音を押さえることでそこが開放弦になり、ペダルと似た効果が生まれる。

この奏法によって生まれるピアノの音響、それがわたしにとって経験のない耳体験になった。ある和音一つを開放弦にすることで、そしてその状態で高い音域の音を単音で乗せて響かせることで生まれる絶大な効果。ミラドミの和音は音を出してないので、表面上は「ない」音であるが、その上に音を乗せていくことで、弦に共鳴が起こり、うなり音のような残響のようなものが生まれる。それが最後にペダルを放すまでつづく。

普段あまり気にしていないピアノという楽器の秘密を覗いた気分だった。これまで楽器の構造やそれによって生み出される音響効果に、かなり無頓着だったことを思い知らされた。

わたしは普段、日本では手に入らない楽譜は、Sheet Musicというネットの楽譜屋で買っている。そこで注文した今回の楽譜は、ペルトの作品を昔から扱っているUE(Universal Edition)という出版社のものだった。真っ白な表紙に、タイトル文字と作曲家名、版元のみが黒字で記されたシンプルで美しい楽譜だ。この版元UEは、ペルトが1980年にウィーンに逃れたとき、身元を引き受け、作品を扱う権利と引き換えに、ペルトの市民権を取る手伝いをしたところだと知った。

そのことが書いてあったのは、いま読んでいる『The Cambridge Companion to Arvo Pärt 』(2012年、Cambridge University Press)で、これはペルトをよく知る人々(音楽学者や演奏家、ジャーナリストなど)による、ペルトの音楽と人生についての解説書だ。

この本が今回の音楽の新たな体験の出発点になった。

まず最初に出会ったのがBandcampという音楽配信のプラットフォーム。Bandcampは2007年にアメリカで創業、2008年より音楽のダウンロードをしているインディーズ系の音楽配信会社で、実は、以前にもここでダウンロード購入をしたことがあった。だがすっかり忘れていた。それはそのときは、楽曲をBandcampで見つけのではなく、アーティストのサイトで見つけたものを、Bandcampの仕組で買っただけだったからだ。というか、そのときはそこもアーティストのサイト内だと勘違いしていた。

ペルトの楽曲が、ジャンルを超えて広く使用されていることは前述した。ペルトの本の中で、その例として何人かのミュージシャンが紹介され、SoundCloud(音声ファイル共有サービス)がリンクされていた。Kindleで本を読んでいるときに、こういうリンクの参照はとても有効だ。すぐさまリンクをたどっていって、音源から聞くことができる。

残念ながら最初に紹介されていたRafael Anton Irisarri(シアトルのサウンドアーティスト)のSoundCloudは、リンク元に現在音源がなかった。本の出版が2012年だから、その後ミュージシャンが何らかの理由で削除したのだろう。そこでアーティスト名と彼が使用したというペルトの『Für Alina』でGoogle検索したところ、Bandcampのページに行き着いた。そこはIrisarriがBandcamp内にもっている彼専用のページ、アーティストページだった。そして本で参照されていた曲の全編をそこでで聴くことができた! ふとページの左上に目をやるとBandcamp(bandcamp)のロゴ。(その時点ではまだ、以前にここで購入したことを思い出していない)

全編が聴けるというのは素晴らしい。通常のサンプル音源だと1分未満ではないだろうか。ストリーミングで無料で全編聴ける仕組(注:音源購入前は回数に上限があるという話を聞いたが、今のところよくわからない)。そして購入したい場合は、デジタルトラックなりCDなりレコードなりで買うことになる。価格は定価として表示されている場合と、購入者が決める場合があるようだ。購入者が支払い金額を決める方式は、以前にBlizzardというイギリスのサッカー雑誌でも経験している。bandcampの場合は、ストリーミングで全編を聴いたあとで購入するという選択肢がある。もちろんストリーミングで聞くだけで、購入しないという方法もとれる。

購入というのはアーティストへのサポートという考え方のようで、何か買うと自分のアカウントのコレクションページに、そのジャケットが加わる。また楽曲のページには、サポーターのアイコンがずらりと並び、どんな人々がそのアーティストをサポートしているかがわかるようになっている。SNS的な側面があるようだ。楽曲を購入すると、無制限のストリーミングに加え、データのダウンロードができる。ファイル形式は非常にたくさんあって、MP3の他、音質のいい(容量は大きくなるが) FLAC、ALAC、AIFFなど複数の形式から選んでダウンロードできる。音質にこだわる人にとっては大きなメリットになりそうだ。MP3でDLしたあと、この曲は高音質で聴きたいとなれば、FLACで再度DLということも可能なようだ。

インディーズだからできるモデルと言ってしまえばそういう面もあるかもしれない。しかしbandcampにアクセスして、本で紹介されていたペルト関係のアーティストの楽曲を聴いてみたり、bandcampとは何か、というのをわたしなりに理解しようと、サイト内をあっちへ行きこっちへ行きとしていて感じたのは、このプラットフォームでは、ジャズ、ポップスなど通常仕切られている音楽ジャンルは、さほど意味がないのかな、という新鮮な感覚だった。固そうに見える現代音楽やクラシックも、インディーのロックとか、アンビエントとか、ジャズとか、様々なタイプの音楽と「正常に」「健康的に」交錯し、交流し、混じり合っているように見えた。これって音楽のあるべき姿、好ましい姿ではないだろうか、と。わたしにとって、その入り口がアルヴォ・ペルトだったことは偶然ではない気がした。

現代音楽やクラシックの場合、誰それ指揮の〇〇交響楽団演奏の、というメインの入り口がドンとあるように感じられるけれど、それとは全く違う、新たな、アクチュアルな、現行の、今生まれ進行中の、新しいアプローチでクラシック音楽と出会うための入り口が、ここにはありそうに見えた。クラシック音楽において、このような新たなアプローチへの期待はとても大きいのでは、と感じる。たとえばオリジナルはモーツァルトであっても、今までの解釈とはまったく違った、思いもよらぬ演奏やアレンジ、あるいは音楽家と出会えるのではないか、といった期待だ。

大きなレコード会社や売れ筋狙いのレーベルでは難しいアプローチの楽曲も、ここでなら発表の機会がもてる、ということが起きていそうだ。そうであれば、ユニークな音楽家や目新しい楽曲と出会いたい人は、むしろbandcampを探すのが好きな曲に会える近道になるかもしれない。そんなことを考えていたら、商業レーベルからbandcampに移ってくるミュージシャンもいる、という話をWikipedia英語版で読んだ。その中の一人、アマンダ・パーマーというミュージシャンを調べてみたら、非常に面白い人だということがわかった。彼女の音楽をbandcampで探して聴いてみた。 

最初に聴いてみたのは、この3月にリリースされたばかりのアルバム『There Will Be No Intermission』。1曲目はごく短いインスト、アルバム全体のイントロだろうか。2曲目の『The Ride』がすごくいい。10分以上ある曲で、オルタナティブ・ロック風、ちょっと演劇っぽくてアンダーグラウンドなムードの変わった曲調、声やサウンドが好みだった。かなりグッドな第一印象で、アーティスト発見という感じ。さらに彼女がやっている他のバンドやデュオも見てみた。ジャスミン・パワーとのディオも面白いし、ジェイソン・ウェブリー(♂)との双子の姉妹という設定のEvelyn Evelynはさらにハマった。奇妙なコンセプトとビジュアル、そしてそれを表す音楽世界。こんなものがフリーでたっぷり聴けるとは。

そこでふとiTunes Storeでもこのアルバムがあるか、調べてみた。あった。ここでは普通に1650円で売っていた。bandcampはというと、1 USD以上で購入者が価格を決められる。そのあと契約しているSpotifyでも検索してみたところ、あった! こちらは定額制の契約なのでアルバム1枚がいくらというわけではない。う〜ん。ここで迷いが生じる。bandcampで購入してアーティストをサポートしたい(そういう表現をしたい)、また自分のコレクションに入れておきたい、という気持ちが湧いてくるのだ。しかしすでにSpotifyに月額の契約料を払っているわけで、買う必要はない。とするとbandcampは新しい音楽と出会うためのプラットフォーム、DLして聴くのはSpotifyということになるのだろうか。あるいはSpotifyやiTunesにない楽曲のみbandcampで買うとか。

bandcampの特徴として興味深かったのは、テキストによる記事が多いこと。フィードページに行けば、自分が登録しているジャンルの音楽の新譜が毎日紹介されている。わたしの場合はクラシック、現代音楽、クンビア(コロンビアのダンスミュージック)、ラテンなど。さらにbandcamp dailyのページでは、様々なジャンルの音楽が毎日紹介されている。テキストもたっぷり、音源もたっぷりで、ここでもディープな出会いができそう。そもそもiTunesやSpotifyでは、楽曲の内容がよくわかないことが多い。アーティストとされているのが作曲家なのか演奏家なのか判明しないこともしばしば。ただ音を聴くだけ、という感じで不満があった。聞き流す人のためにしか音楽を配信していない感じだ。そこがbandcampはまるで違っていて、本当に音楽が好きで、ある楽曲に心から惹かれていてそれについてよく知りたい人、アーティストの活動やプロジェクトについても知りたい人を満足させる。またどの楽曲も(歌がある場合)、歌詞をテキストで表示できる。これらのことは、アーティストと深く関係をもちサポートする、というコンセプトから来ているのではないか。

もう一つ面白いと思ったのは、ストリーミングで自由に試聴させつつ、デジタル版購入の他、CDやvinylと呼ばれるLPの販売も同時にしていること。最近のdailyでは、アーティストやレーベルがLPをbandcampで作れるシステムを紹介していた。CDさえ消滅しそうなのに、いまどきLPかと思うかもしれないが、これがどうもそうでもなさそうで、実はこのあと書こうと思っているECMというミュンヘンのレーベルのアルバムを見ていて、欲しい!かも?と思ってしまったのだ。

ここまででかなり長い文章になってしまったので、ECMやvinylについては次回書こうと思っている。その前に、bandcampのことでいくつか補足を。bandcampへの参加の仕方には三つの方法がある。登録しようとすると、ポップアップウィンドウで三つのカテゴリーが提示され、その中から一つ選ぶよう指示される。「ファンとして」「アーティストとして」「レーベルとして」の三つだ。わたしは「ファンとして」を選んだが、一瞬、その他の選択の可能性を考えてしまった。もし音楽を、人に聞かせたい音楽をやっていたら、、、そのときは何を選ぶだろう、と。(ところでbandcampのサイトは英語が基本だが、日本語とフランス語も選べるようになっている。しかしそれは部分的であり、日本語を選択した場合も、サイトの多くは英語が使われている。dailyなどのニュースもそうだし、アーティストのページもそう、サポーターのコメントも。日本語で楽曲の感想を書くことは可能かもしれない。が、日本語が読める人でないと、アーティスト自身も含め、読めないことになるけれど)

「ファンとして」を選んだ場合、ここで音楽を聴いたり、購入したり、好きなミュージシャンをフォローしたり、同じ嗜好を持つファンを知ったり、といったことができる。「アーティストとして」登録した場合は、自分の音楽を聴き手やファンに直接売ることができ(bandcampの取り分は10〜15%)、価格の付け方などすべて自分でコントロールでき、購入者のデータや売れている楽曲のリアルタイムのスタッツ、各種レポートなども閲覧できるようだ。またクラウドファウンディングの機能も備えているらしい。アーティストがファンの資金を集めて、新曲をリリースするという流れは、ここではサポーターのベースがあるだけにスムーズにいきそうだ。

「レーベル」での登録は、アーティストを抱える組織のためのもので、こちらは有料。アーティスト15人までが月20米ドル、50ドルだと無制限とあった。ビジネスの知識のない人も、レーベルを簡単に立ち上げることができるということだろうか。

次回はミュンヘンのECMやvinyl(レコード)について書いてみたい。このECM Recordsというのも、アルヴォ・ペルトの本からのリンクである。楽譜のUEとともに、ペルトの音楽を語るのに欠かせないピースの一つらしい。アルヴォ・ペルトの音楽に出会ったこと、彼についての本を読みはじめたこと、そこから様々な音楽世界(クラシックに限らない)へとリンケージしていったこと、このすべてをとても幸運に思っている。


20190405

日本の大学、どんな風に変わるんだろう

2020年度に始まる日本の大学入試改革、これまでのセンター試験を廃止して、別の形式の大学入学共通テストというものを実施するそうだ。文部科学省が「高大接続改革」の取り組みをする中での改革だそうで、ウェブサイトでその詳細を発表している。入試に関しては、これまでのマークシートの一部を、国語、数学などの科目で記述式を取り入れるとのこと。知識の量や質を計るだけでなく、その人間の表現力や思考力、主体性をもって学ぶ態度を評価に加えたいといったことが書かれてあった。

教育を変えていくという試みがあった場合、どこから変えていくかとなれば、日本の場合、おそらく大学入試のところになるのかもしれない。それ以下の学校は幼稚園から高校に到るまで、大学の予備校化されている面があると思われるからだ。小学校くらいで進路を決める場合も、目の前の中学受験だけでなく、その先の先の進路にいかに有利に働くかを考えているように見える。

先日、ちょっとしたことを調べるために、コネチカット州(米国)のウェズリアン大学のウェブサイトに行った。トップページには在校学生のビデオがあったのでそれを見てみると、この大学に来た理由やそこで何をどのように学んでいるかのプレゼンテーションをしていた。学生のプレゼンテーション・ビデオは中のページにもたくさんあって、様々な学生がそれぞれの考えや経験を述べている。ざっと他のページも見てみたところ、学校の各施設や寮などが動画や写真で丁寧に紹介されていた。

そこでふと日本の大学のウェブサイトはどんな風なのかと思い、覗いてみた。どこかとりあえずと思い、東京芸大に行ってみた。アート系の大学なら、ウェブサイトもそれなりの造りかなと思ってのこと。しかし残念ながら、その予想は外れ、印象としては「市役所のサイト」みたいだった。トップページでまず目についたのは「入試」の文字。ウェブサイトは入試のための情報源ということが何より一番に来るのかもしれない。その大学がどんなところで、何をしているかを広く未知の人に知らせる、という目的ではなさそうだった。その後に訪れた他の大学(国内)もほぼ同様の印象があった。

ウェブサイトを見てある大学の価値を判断するのが正しいのかどうか、それは何とも言えない。しかし不特定多数の人(国内に限らず)に、自分の大学を紹介するメディア、ツールとしてはウェブサイトはおそらく筆頭にくると思われる。そして比べる、という意味でも、ある程度有効かもしれない。どのような紹介の仕方をしているか、内容もそうだが、メディアの使い方、動画や写真のクォリティ、サイトデザインやセキュリティ、ナビゲーションなど、どういうレベルかは複数の例を比べたときにはっきりしてくる。その大学にどれくらいのコミュニケーション能力があるかも、サイトを見ればある程度わかると思う。そう、ウェブサイトの構築は、その大学の総合的なコミュニケーション能力をかなり表していると言えそうだ。

日本の大学とアメリカの大学のウェブサイトをいくつか比べてみて感じたのは、ビデオ・コンテンツの使い方だ。意外だったのは日本の大学では、あまり(ほとんどと言っていいくらい)ビデオを使っていない。YouTubeの時代に、映像を手軽に作ったり公開できたりする今の時代に、小学生もYouTubeを見ている時代に、大学が自校の紹介にビデオを使っていないのは不思議だった。

一方アメリカの大学はたくさんのビデオを自校紹介に使っている。その内容はキャンパス内の様々な施設や学校周辺の風景や環境、大学がある街のストリートや店の紹介、学生や教師が語る自校のプレゼンテーションと多岐にわたる。空撮も含めて、プロが撮影し、プロが編集したビデオが大半だった。アメリカの大学では、facultyと呼ばれる教員陣の詳しい紹介が必ずあるが、それとは別に教員たちがビデオに登場して学部や学科についてアピールすることも多い。そういったビデオもプロの手法で撮られていて、ドキュメンタリー映画のようなクォリティであることも少なくない。

それに加えて、その教師陣がまたよくしゃべるし、しゃべり慣れているようにも見える。教師自身の紹介としてではなく、学校の紹介として、たくさんの教員のしゃべりをパッパッと画面を切り替えながらリズムよく流しているものも多い。それによって学校の、学びの場としての活発さが伝わるところがある。学生たちのしゃべりも負けてない。自分のこと、学科のこと、学校のこと、テンポよく語っている。こういったプレゼンはアメリカでは、教員だけでなく学部生にとってもmust事項なのかもしれない。ビデオに登場する学生の出自は多様性だ:インド系、アフリカ系、ヨーロッパ系、アジア系、アラブ系などなど。これも自校の国際性や差別のなさの表明としてmust事項なのだろう。

そういえば世界大学ランキング(The World University Ranking)というのを見ていたら、アジアではシンガーポールや中国(&香港)の大学が上位に入るケースが目立っていた。2019年のランキングではアジア最高位は清華大学(中国)で22位、シンガポール国立大学が23位。因みに日本の大学は23位との間に香港2、中国1を挟んで、東京大学が42位に入っている。また京大はシンガポール、香港、韓国を各1ずつ挟んで65位に入っている。シンガポールが上位に入っているのは、なんとなく納得という感じがした。もしかしたら今後、日本の学生の留学先として、シンガポールの大学は狙いどころになるかもしれない。

このランキングは何を元に審査しているかというと、表組を見ると「生徒総数」「学生と教員の比率」「外国人学生の比率」「男子、女子学生比率」などの項目があり、他に「外国人教員比率」や「教員一人当たりの論文被引用件数」「教育環境」など色々あるようだ。ランキング表を見ていてまず感じたのは、日本以外の大学では、男女比率に大きな差があまりないのに対して、日本の100位内に入っている2校は男子学生の数が多かった(東大は答えなし、京大は女:男が24:76)。上位10校を見ても、トップのオックスフォード大学からシカゴ大学まで、そこまで大きな偏りは見られない(1位オックスフォード、2位ケンブリッジ共に46:54)。中国、香港、シンガポールの大学でも同様。その意味で日本は特別なのだろうか。また外国人学生の比率も非常に低いのが日本の大学の特徴のようだ(東大11%、京大8%に対してオックスフォード40%、ケンブリッジ37%)。

この男女比、外国人生徒比率(おそらく外国人教員比率も)の特徴は、大学のというより、日本社会の特徴を表しているのかもしれない。文部科学省は、日本の大学をグローバルレベルに、という目標を立てて、2020年までにこのランキングの200位以内に10校入ることを目指すと言っていたらしい。この目標がいつ立てられたものかわからないが、2019年4月現在、200位までに入っている大学は上の2校以外ない。アジアでは中国、香港、台湾、韓国などがいくつがここに入っており、さらにその下を見ると、251〜300位の末尾に大阪大学があった。目標は元文科省の山中伸一氏(2015年に退官)の発言のようなので、数年前のものだろうか。目標は達成できなかった。現時点のランキングからは、今後の上昇の兆しもあまり感じられない。

このランキングで上位に入ることだけが、大学改革ではないと思うが。ただ大学改革を飛躍的に進めるためには、入試改革だけでなく、社会自体も変わっていかないことには、なかなか難しそうだ。

入試改革という点で、これとは全く違うアプローチがあることを演出家の平田オリザさんのエッセイで知った。平田オリザさんはミモレという女性向け情報サイトで(美容やファッション、ライフスタイルなどを主とする女性向けサイトに書いているところに、何か狙いがあるのだろうか?)、「22世紀を見る君たちへ」という連載で、入試も含めた大学教育の改革に取り組んでいることを書いている。平田さんは2021年、兵庫県豊岡市に開校する国際観光芸術専門職大学の学長になるらしい。観光を中心とした専門職大学であることに加えて、日本の国公立大ではほとんどない演劇学部を持つ大学となるとのこと。平田オリザさんは活動に取り組むため、自身が豊岡市に移住し、運営する劇団の拠点も移すらしい。

演劇をコミュニケーション教育に取り入れる実験を以前からやってきた平田さんは、四国学院大学の客員教授としても、2016年から新しい入試制度の実施に取り組んでいるそうだ。そこではある課題に対して、グループで取り組むディスカッションドラマの作成、発表などユニークな試験が実施されている。たとえばTPPに関して利害関係がある登場人物を設定し、その人々が協定をめぐる議論する、といったミニドラマをその場で制作するのだ。こういったグループによる課題の解決は、単に知識があるだけではうまくいかない。集団内でのコミュニケーションの取り方が問題になりそうだ。ここでは知識詰め込み式の入試用の準備というものも役に立たないだろう。

このようなことを通過して、試験に合格し大学に行った生徒は、自校のウェブサイトでのビデオ・プレゼンテーションにもそれなりに対応ができるのではないか。こういったことは、ある程度経験がものをいう。それは教員も同様で、日本では未知の人に向けて、自分個人の視点や経験から学校について語ることをあまりしてきていないのかもしれない。

そう言えば、東京芸大のサイトを見ていて驚いたことがあった。「東京藝術大学 NEXT 10 Vision」というバナーがあったので見てみたところ、「これからの10年、東京藝術大学はこの3つのビジョンに向かって力強く進んでまいります。」「新たな大学呼称「TOKYO GEIDAI」は、新たな国際的ブランドとして象徴し、本学における研究・教育の実績を広く世界に向けて発信してまいります。」などの宣言があり、PDFがあったのでDLして見てみた。そのPDFの内容は、以下の通り。

真っ白なページの中央に、バカでかい文字で:

1ページ目:タイトル「東京藝術大学 NEXT 10 Vision」

2ページ目:革新的であること もっと 新しい、独創に向けた挑戦を。

3ページ目:多様性があること もっと 幅広い、才能が刺激し合う場を。

4ページ目:国際的であること もっと 世界へ、日本の芸術文化の発信を。

5ページ目:これからの10年 東京藝術大学

6ページ目:TOKYO GEIDAIの文字とロゴマーク

7ページ目:東京藝術大学の文字とロゴマーク

8ページ目:TOKYO GEIDAIの文字とロゴマーク(色違い)

9ページ目:TOKYO GEIDAIの文字とロゴマーク(3種類の色違いマーク)


タイトルとロゴのみの空虚な宣言。看板屋か?? 3つのビジョンにしても、普通すぎないか、これだけか??? 具体的な説明はなしか??? これってどこの大学でも使えそう。。。 こんなお題目ビジョンが堂々まかり通る国で、学生にだけ記述式入試を求めるのは酷ではないだろうか。

百歩譲って、ビジョンの項目がたとえ何の変哲もないものだったとしても、せめて具体的な内容説明がGEIDAI的であれば、まだ救われたのに(説明が何もない)。

こんなもの、誰も見ないと思って作ってるのか。さすがに英語版の方に、このPDFはなかったし、NEXT 10 Vision自体も表示されてなかった。でもそれっておかしくない? 3つ目のビジョンに「国際的であること」って書いてあるのに。大事なビジョンであれば、英語版でも示すべきでしょう?? うーん、よくわからない。

「日本の大学、どんな風に変わるんだろう」のタイトルで書いてきたけど、ランキングの順位同様、未来にたくせそうな題材はあまりない、というのが結論になってしまった。(平田オリザさんの改革には希望がもてそうだけれど)

日本では大学のレベルとは何か、と問われれば、入学試験の難易度と答えるのではないか。多くの人がそう思っているかもしれない。しかし本来の大学のレベルとは、その学校の教育環境やシステムの豊かさや先進性だったり、教師陣の能力の高さだったり、共に学ぶ学生たちの意欲や主体性や多様性(男女比や出身地、国籍など)だったりするんじゃないだろうか。つまりこんな学校だったら学ぶのが面白そう、刺激に満ちていると感じられる場だ。おそらく日本の大学や入試制度が進化していくためには、わたしたち一般の人間、中学・高校生を持つ親たちの認識もまた、変わっていくべきなのでしょうね。

P.S.1: ICU(国際基督教大学)のウェブサイトは、海外のものに近かった。ビデオがいくつかあったし、学生による英語、日本語でのプレゼンテーションも見られた。米国型リベラル・アーツ・カレッジの形式を踏襲して創設された、ということと関係があるのだろうか。

P.S.2:「日本はアメリカなんかと比べて大学進学率が高いんだよね、90%以上でしょ」と巷で言われていた時代があったように思うが、その真偽はわからないものの、最近の調査を見たところまったく違う模様。日本はOECD加盟国の平均値(62%)以下で、51%(文部科学省の資料、データは2010年)。アメリカは74%(2年制のカレッジ含む)。トップはオーストラリアで96%、進学率の伸び率もトップのようだ。ちなみにお隣りの韓国は71%。ドイツは教育システム&環境がかなり違うらしく42%と低い。小学校のあたりで選別が行なわれ、エリートコースに進む生徒と職業訓練を受ける生徒に分かれるらしい。2018年の文科省の調査では、日本の大学・短期大学進学率が過去最高の57.9%に達したとのこと。