20090327

語学とスポーツ選手

元サッカー選手の中田英寿が、テレビの旅番組で地元の子どもたちと道ばたでボール遊びをしているのを見たことがある。だいぶ前のことでどこの国だったか覚えていないが、アメリカやイギリスなどの英語圏ではなく(風景や子どもたちの様子から)、でも子どもたちと中田が英語で話していたから、元宗主国が英語話者の国だったのかもしれない。セリエAにいた中田英寿がイタリア語がよく話せることは知っていたが、英語を話すかどうかは知らなかった。地元の子どもたちとの会話以外に、インタビューのような形の質問を英語で受け答えしていた様子からも、普通に自分の意志を自分の言葉で相手に伝えられるくらいのレベルにあるように見えた。

あとで聞いたところによると、中田はイタリアでプレイしていた頃から英語のレッスンを受けていたという。セリエAの後にイギリスのボルトンというクラブで2年くらいプレイしていたから、というより、イタリア時代から英語圏の記者には英語でインタビューを受けていたとも言われている。またイタリア語については、高校時代から学んでいて、最初にイタリアに行った時点であるレベルに達していたらしい。

高校時代からイタリア語を勉強していたのは、イタリアでプレイするという目標があったからに違いない。またイタリアでプレイするうちに、外国人記者に自分の言葉で直接(通訳抜きで)意志を伝えるには、英語も取得しておいたほうがいいと思ったのかもしれない。イギリスのプレミアリーグに後に行っているわけだから、行きたい、行くことになるかもしれない、という目標があった可能性もある。イタリアのクラブチームは、イギリスやスペインと比べると、自国人が多いという印象がある(トップのインテルを除く)。イタリアにずっといるつもりなら、イタリア語ができれば事足りるように見える。

イギリスやスペインの一部リーグの現在の状況を見ると、外国人選手の割合はかなり高く、国籍も中南米、アフリカの各国、オーストラリア、そしてオランダ、ドイツ、フランス、ときに東欧も含めたヨーロッパのプレイヤーももちろんたくさんいる。各国選手が入り混じったクラブチーム、そこではどんな言語が話されているのだろう。

もう一人、ヨーロッパのトップリーグで活躍する数少ないアジア出身のサッカー・プレイヤーに、韓国の朴智星(パク・チソン)選手がいる。朴選手の場合は、プロ生活を日本、オランダ、イギリスで持ったことから、この三つの言語が話せるという。自身の著書によると、日本語は日本に来てから学んだもので、約2年間の選手生活の中で取得したものだそうだ。クラブチームの寮で生活していたことで身近に言葉を覚える機会があったことに加え、自習で毎日テキストブックを丸覚えするような学習をしていたとのこと。日本語について何もわからなかったからそうしていた、と本人は書いているが、その方法で半年目くらいから面白くなってきてどんどん進歩したという。YouTubeで朴選手が日本語でインタビューに応じているのが見たことがあるが、まったくその通り、かなりのレベルの日本語話者だった。

朴選手がオランダ語でインタビューを受けている映像はまだ見たことがないが、短いインタビューであれば問題なくこなせる、と本人は書いていた(自著)。オランダはもともと、オランダ語の話者が世界的に少ないことから、英語を話す人が多い国と言われている。それに加え、オランダ・リーグも外国籍の選手が多い(ここを経て、プレミアやスペインに移籍するというマーケット的存在でもあるらしい)ことから、チーム内の言語がオランダ語と同時に英語も使われている可能性もある。監督も(オランダに限らず)、クラブチームの同国人とは限らない。朴選手のいたときのオランダのPSVの監督は、2002年W杯の韓国代表の監督として知られるフース・ヒディンクでオランダ人、ただしインタビューなどパブリックなところでは英語で話すことが多いようだ。朴選手はオランダ時代、オランダ語の勉強と共に英語の勉強も平行してしていたそうだ。現在籍在中のイギリスのマンチェスター・ユナイテッドは、監督も英国人(ただしスコットランド訛りが強く聞き取りに苦労するらしいが)であるし、チームメンバーはポルトガル、アルゼンチン、ブルガリア、セルビア、フランス、オランダ、ブラジルなど多岐にわたるので、英語が共通言語と思われる。朴選手は今も英語の勉強を毎日2、3時間のペースで続けているという。メディア関係の英語によるインタビューも何回か見たことがある。イギリスに来た当時から、早く言語に慣れるようにと、通訳なしでずっと来ているそうだ。あらゆる面において選手のサポートが万全なマンチェスターではもちろん、朴選手のために通訳を用意していたようだが、丁重に断ったとのこと。

中田、朴両選手とも、語学に対してかなり自覚的で、早くから積極的に学んでいたことがわかる。朴選手は言語によるコミュケーションはサッカーにとって重要とも著書に書いている。たしかにサッカーは野球など他のチームプレイによるスポーツと比べて、コミュニケーションは重要な要素となるのかもしれない。そういう面から見ると、野球は、投手捕手の関係以外は、言葉のない(必要ない)世界にも見えてくる。個々の人間が打たれたボールを追い、他のプレイヤーに渡すけれど、それは「やりとり」というよりは、各ベースへの投球ということなのかもしれない。そういう意味ではほぼ一方通行。それに比べるとサッカーは、プレイヤー同士のパスのやりとりがそのままコミュニケーションであるし、シュートひとつするにも何人かのプレイヤーの連携が上手くいって初めてゴールを割るケースが多い。フィールド上でのコミュニケーションは、それ以前の練習中の、ミーティングでの、あるいはドレッシングルームや普段の何気ないコミュニケーションが上手く取れていて成功するものなのかもしれない。

最近はたくさんの日本人野球選手が大リーガーとなって活躍しているけれど、英語で話すことを求められる機会は少ないのではないか。イチローはかなり上手に話せると聞いたことがあるけれど、メディアで見たことがあるのは、だいぶ昔に記者会見場で「that's it!」とひとこと言うところくらい。プレイをする上でそれほど必要性がなければ、語学を自習することもないのだろう。野球選手の場合は、移籍といっても、プレイできる国が少ないし、最高峰がアメリカと決まってしまっているので、自分を常に(言葉も使って)アピールしている必要もないかもしれないし、チームメイトにしても監督にしても人の混じり具合が限られているのだと思う。

サッカーの場合、たとえプロリーグや立派なクラブチームが自国になくても、サッカーという球技自体はさまざまな国や地域のストリートで遊びとしても広まっているし、4年に一度のワールドカップという一大イベントもあるから、テレビがあって放映されていれば、サッカー少年やサッカーファンはどこにでも生まれる。結果、夢をいだいた子どもたちが、世界中からプロとして活躍するために、クラブチームのある国にやって来るわけだ。そしてサッカーに関しては、今はヨーロッパが最も市場として大きいので、多くのプレイヤーがヨーロッパ、今なら中でもイギリスのプレミアリーグやスペイン・リーグなどを目指す。そのプレミアリーグにはありとあらゆる国籍の選手が集まって来ているし、スタープレイヤーの数も多い。その人たちのかなりの数が、英語を取得しているようにインタビューを見ていると思える。

他のスポーツはどうか。テニスについてはかなり昔から選手は英語を取得していた可能性がある。世界ランキング上位の選手であれば、試合後にインタビューを受ける機会も多いが、英語での受け答えは特別なことではない。古くはドイツのシュテフィ・グラフ選手が17才でナブラチロワを破って、全仏オープンで初優勝したときのインタビューは英語だった。1987年、今から20年以上前のことである。現在も活躍するスイスのロジャー・フェデラー選手がウィンブルドンを初制覇したときも、インタビューの言語は英語だった。英語を話す人口がそれほど多くないと言われるスペインのプレイヤー、フェデラーのここ数年の宿敵であるラファエル・ナダル選手もインタビューは常に英語だ。日本では一線での選手生活が長く、ダブルスなどで外国人選手と組むことの多い杉山愛選手が、英語によるインタビューを受けている。

フィギュアスケートの選手も、母語が英語でなくても、インタビューを英語で応じている人がそれなりにいるようだ。韓国のキム・ヨナ選手も、日本でのインタビューは英語になるようだ。それほど達者ではないように見えたが、それでも英語で受け答えをしていた。フィギュアスケートも、コーチが自国人ではないケースも多く、それがロシア人であっても、その人が英語話者であれば、コミュニケーションは英語で行なわれるケースもあるのだろう。技術習得と同時に、語学教育もアスリート育成のプログラムに入っているのかもしれない。日本のスポーツ界に、語学への真剣な取り組みがあるのかどうか、あるいは選手個人が個別に取り組んでいるケースはどれくらいあるのか、そのあたりは興味がある。一般に高いレベルでの活躍があり、世界をまわって競技している選手は、語学が達者なようだ。プロスポーツの世界は、フィールド内のアピールだけでは済まないということかもしれない。

ところで以前から面白いと思って見ているのが、外人力士の日本語能力。モンゴルやハワイ、ときにブルガリアなどからやって来た力士のほとんどが、テレビでインタビューを受けるくらいまで番付が上がってきたときには、すでに達者な日本語を話している。それも「外人の日本語」という風にも聞こえない、かなり日本語のしゃべりに順応した「自然な」(この言い方は差別用語ではないか、と作家の多和田葉子は言う。その可能性はあると思う)日本語をしゃべる。これは若くして日本に来て、その後ずっと、親方の部屋で他の弟子たちと共同生活しているせいなのか。語学の能力はさまざまな側面があるから、ひょっとしたら読み書きの能力はそれほど高くないかもしれない。とはいえ、漫画週刊誌などを練習後の部屋で楽しんでいそうな気もしているのだけれど。もっと言えば、漫画から日本語をたくさん学んだということもあり得そう。

と、ここまで書いてサッカー選手にもどると、ひょっとしてヨーロッパはEUが根付いてから、少なくともヨーロッパ地域内の意識としては、どこでプレイしても選手にとってあまり国境を越えたという実感がなくなっているのではないか。と思って外国人枠についてWikipediaで調べてみると、サッカーについては、1995年以降、EU加盟国の国籍を持つ選手は、EU内のクラブチームでは外国人とみなされないそうだ。それでイギリスを筆頭に、EU内の選手が自由に動き、またクラブチームも自由に能力のある選手を取ることができるのだろう。ただし、そのせいで市場が大きく裕福なヨーロッパとその他の地域の戦力差が広がり、しばしば問題になっているという。しかし外国人枠を設けたりすると、それはそれでEUの原則である人の移動の自由を妨げることになり、原理的な問題、EUの思想の否定にもなりかねないことから実現は難しいようだ。ひとたび自由化して国境をなくした以上、その方向に進むしか道はないのかもしれない。そして国境の消えた地域内で何語が多く話されていくのかは、ある程度自然の流れによるものと言えそうだ。なぜ英語が多く選択されるのかを、植民地主義や覇権主義だけで説明しつくすのは難しいかもしれない。

20090315

「ハワイアンレッスン」の舞台、ハワイ島のこと

今月から大桑千花さんのテキストによる「ハワイアンレッスン」を葉っぱの坑夫で連載している。大桑さんの実体験を元にしたストーリーで、主たる舞台となっているのがハワイ島、the Big Islandである。作品化してウェブで出版するにあたって、川瀬知代さんに絵をお願いした。川瀬さんにはハワイの自然物、中でも花や植物を、描いてもらっている。物語は4人の出自国籍の異なる男女が、共通のミッションを胸に(本州という)島から(太平洋の)島へと旅立ったところからはじまる。川瀬さんにハワイの自然物を描いてもらっていることには理由がある。ハワイという土地が、単なる物語の背景ではなく、この話の5番目のキャラクターではないかと思っているからだ。

一つ前のポスト「土地とland」でも書いたけれど、ある土地とその生息物との関係は、一般に考えられている以上に深い関わりがあるように思う。「ハワイアンレッスン」でハワイ島がミッション実行の地に選ばれているのも、偶然ではない気がしている。ではそのハワイ島とはどんな土地か。

ハワイ諸島の成り立ちは海底の火山噴火によって、一番北にあるカウアイ島を皮切りに順番にオアフ、モロカイと南にむかって何十万年単位で島ができたものと言われる。一番南にあるハワイ島が最後の、最も新しい島で、出来てから43万年くらいたつらしい。ハワイ島の五つの火山のうちの二つは活火山、周縁の海底火山も活動中で将来ハワイ島の地形を変える可能性があるという。カウアイの誕生から500万年ー1000万年の時の流れが、ハワイの主な8つの島を北から南へと走り抜けている。

ハワイ島は今も、地下深いところに熱いエネルギーを抱え、それを感じながら生きている島。「ハワイアンレッスン」にも出てくる「平屋づくりな」コナ国際空港を出ると、アスファルトの一本道が南北に走り、道の両側には黒々とした溶岩の原野が大きく広がる。溶岩の広がる場所では植物はまばらで(溶岩の大地から植物が生えていることの方が驚きだが)、初期のポリネシア人が残したものか、ペトログリフが刻まれている岩棚と散歩中に出会ったりする。古代とか、地下のエネルギーとか、人類発祥や生命誕生の因子が草木に覆われないまま剥き出しなって、太陽に晒されているような印象の、原始の島の趣がある。

このような溶岩の土壌に植物は育つのか、緑に覆われるまでにどれだけの年月がかかるものなのか。

ハワイの草花と木に咲く花を絵とテキストで解説した美しい本 "Hawaiian Flowers & Flowering Tree" ( L.E. Kuck and R.C. Tongg, 1958)は冒頭でこう書いている。「ハワイで目にするどの花も、どの植物も、すべて旅人、あるいはその子孫である。どんな花であれ、最低でも2000マイルの塩の水を超えてこないことには、この島々にたどりつくことはできなかった。」

ハワイ諸島は太平洋のほぼ真ん中にあり、どの大陸からも大きな距離がある、いわば絶海の孤島群である。そのためこの地の植生は固有種(endemic)の比率が高く、この島に生育する植物の90%を超えると聞いた。また生息動物も特殊な分布で、honuといって島民から親しまれているウミガメを除いて、両生類、爬虫類は在来種としては存在しない。蚊、アリ、セミなども後に人間によって持ち込まれたものだそうだ。

"Hawaiian Flowers & Flowering Tree"によると、 ハワイの島々に最初の旅人、移住者であるポリネシア人がやってきた1000年前より昔、海底から浮上して島となってからの長い年月の間に、島に植物を「移住」させたのは、嵐、潮の流れ、鳥、これらのコンビネーションであるとのこと。風に運ばれ、鳥の羽や足に付着し、塩水に耐えながら流木に乗って海岸にたどり着いた命の因子たち。その中で島での再生に成功した植物は約400種、これがハワイ原産の固有種と言われるものである。このうち花の咲く植物は272種、シダ類が135種、これはシダ類の胞子は小さく軽量で運ばれやすいことが原因らしい。Fosbergという学者によれば、2−3万年ごとに一つの植物が移植された計算になる、とのこと。なんと自然の歴史の流れはゆっくりとしていることか。

人の手を経ないで到着して根付いたこれらの植物は、非常に狭い範囲で育つことが多く、一つの島だけで生育したり、一つの島の一つの谷、あるいは人里離れたある岩礁でのみで見られるということもあるらしい。ほとんど同一条件下であっても、他の地域では育たないことがあるという。それくらい自然界の中では、植物がある場所に移植され、再生し、子孫を残していくことは簡単ではないのだろう。残念ながらこれらの固有種は、山の奥の深い谷間などで育つことが多いため、そして移植が難しいことに加え見映えが他の熱帯の帰化植物とちがって地味なので、人々に興味をもたれることも少なく、ハワイアン・ガーデンなどではめったに目にできないそうだ。

初期のハワイ人は派手なレイを作らなかったので、こういう固有種の、たとえばmaile(マイレー)というハワイ諸島の原生林で育つ植物の葉をレイにして神聖な儀式で使った。ハワイアン・ガーデンなどで見られる、鮮やかな花色とおおぶりな花弁が「ハワイらしさ」を演出している海岸性の花々は、他の太平洋地域の島々やアジア、アフリカ、中南米などから、人に連れられてやって来た移民植物であることが多い。ハワイという一年中「夏」の国で、同じような気候条件の土地を故郷とする花々が、古くは1000年前のポリネシア人によって移植されたココナッツやバナナ、竹、タロイモのように、やって来ては入植していく様子は、ハワイの人々の共生模様とどこか似ているような気がする。