20111121

国外ではどんどん進んでいる:電子出版の未来

先月、新聞などの報道で、Kindle(キンドル)用の電子書籍の問題について、amazon.co.jpと日本の出版社との合意が難航しているという報道があった。キンドルというのは、アメリカのamazon.comが開発した読書専用の端末で、2007年に発売され、最近のニュースによるとamazon.comでは、ついに電子書籍の売上げが紙の本を超えたとも聞いている。

キンドルは現在第4世代の端末が発売されていて、第3世代からは日本語表示の対応も始まった。キンドルで日本語書籍を読むことへの要望が、日に日に高まっているように思える。この11月に発売された第4世代のKindle4は、日本円で一万円を切った。日本のamazonではまだ購入できないが、アメリカのamazonからなら購入可能。つまり日本での使用(amazon.comへアクセスして電子書籍を購入する)が可能だということだ。ただ想像するに、amazon.comのアカウントを持っている人は洋書を買う人なので、日本語しか読まない人は一般に縁遠い存在だろう。amazon.comのアカウントを取ることは別に難しいことではない。誰でも持てる。わたしの場合は、日本のamazonができる前からのユーザーだったので、amazon.comの方の登録が先だった。アカウントは日本、アメリカ併用で持てる。

最初の話に戻ると、日本のamazonが大手出版社130社に対して、キンドル用の電子書籍について交渉する中で、いくつかの問題点が上がっていると言う。出版社側の言い分としては、マージン率や電子化の権利範囲についての問題がある他、一番大きいのは最終販売価格を出版社側が決められないことだとのこと。日本の書籍(CDも)は定価販売という再販制度に守られてずっとやって来た。それが大きく崩れることを出版社側は心配している。

再販制度が壊れるとどうなるか。本の価格が自由価格になり、町のリアル書店が価格競争に破れて撤退や倒産に追い込まれる、ということが言われている。うーん、どうなのだろう。確かにそれはあるかもしれない。書店の淘汰が進むのは充分考えられるが、リアル書店がネット書店と全く共存できない、とは思わない。本がすべて電子書籍になってしまうかどうか、それについても疑問は残る。もしかしたら紙の本は少数化の傾向をたどるかもしれないが。電子で読む本と、紙で読む本の住み分けが起きる可能性がないとは思わない。そうなって欲しい、という気持ちもある。その方が本の世界がより豊かになるからだ。

大きな方向性として、わたしはamazonが企業としてやって来たことは革新的であり、一つの理想世界、一種夢の実行だと思っている。アメリカ発ではあるが、アメリカンドリームではなく、インターナショナルドリームとして世界にその夢を分け与えてきた。コンピューターとインターネットを主要なツールとして、ここまで全世界的に、人々の日常生活にまで及ぶ「いい」影響を与えた企業はGoogleを除けば他に思い当たらない。最初にamazonを知ったときの思いは、「営利企業でも、人々の役にたつことができる」というものだった。amazonには当初から、営利企業としての顔つきと、世界を良くするために何かする、というオルタナティブな側面があったと思う。少なくとも、わたしはそう感じていた。amazonのもつ優れたデータベース(最初にamazonに出会ったとき、まずこれに感動した)に始まり、商品ページに掲載される読者のレビュー(このシステムは後に多くのショッピングサイトに取り入れられた)、ネットショッッピングの弱点であった送料の無料化(日本では当初、出版、書店業界からの反発があったようだが、今ではこれに倣うショッピングサイトも出てきている)、配送のスピードアップ(プライム会員)と、次々に新たな読者サービスを実現してきたが、発想の元になっているのは「利益をいかに上げるか」と同じくらいの熱意で、「読者にどれだけの満足を与えられるか」(それによって結果として売上げが伸びるはずという読み)のように見える。

さらには、アメリカのamazonではもっと進んだ事態が起きていることに、この記事を書く段階で気づいた。アメリカのamazonでは、Self Publishingというシステムがある。もう数年前からあるらしいと聞いてさらに驚いた。どういう仕組かというと、個人の作家、あるいは個人出版社が、電子書籍を自分で登録してamazonで販売できるというものだ。資格としてはamazon.comのアカウントを持っていれば、誰でも登録・販売できる。なんというオープンさ! 作家は自分のパソコンに保存してある作品のデータを、amazonのSelf Publishingのメソッドに従ってアップロードすればいいのだ。ものの数分もあれば出来る簡便さだと言う。日本の企業や業界のように、何であれ「人を消費者としてしか見ていない」という態度とは正反対。ちまたの人々は消費者であると同時に、創造者であり発信者であるという思想がここには現われている(日本の企業のウェブサイトでは、企業、法人側と一般個人との間に見えないバリアが築かれ、対等な立ち場でアクセスする方法がないのが一般的だ)。アメリカのamazonのサイトのトップページには、Make Money with Usという項目があり、その中にアフィリエイトなどと共にIndependently Publish with Us(わたしたちと共に自主出版を)がある。

このセルフ・パブリッシングを利用してamazonで本を発表しているアメリカ人が、今年6月に100万冊の売り上げに達したという記事をasahi.comで読んだ。これは出版社を通さない電子出版としては初の偉業とか。この作家は自作10作品を登録しており、その売り上げ合計が100万冊を超えたということらしい。ashai.comの記事では、この作家は1冊を99セントで本を売り、そこから35セントを収益として受けとっていると言う。ただ2010年以降は、ある条件を満たせば(価格が2.99~9.99ドル、紙の本版がある場合はそれより20%以上低価格にするなど)、販売価格の70%が著者の手に入るようになったようだ。現在のところ、英語の他にドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語の作品が登録可能で、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスのキンドルストアで販売ができる。

大変いいシステムですぐにでも利用したいが、日本での日本語書籍での登録・販売について言えば、可能性はまだまだ遥かかなたかもしれない。まずキンドルストアがないわけで、キンドル自体日本のamazonでは売っていないのだから。キンドルストアができるには、今もめている日本の主要出版社の多くが事業参入することが必要になってくるのか。今年中に主要出版社との契約をまとめて来年にはスタート、という計画がamazon側にはあったようだが、現在はそれは難しいと見て、ゆっくり静かにやっていく、と言っているらしい。

そういう中でモノとしてのキンドルを先行して売り出す、という試みの可能性はないのだろうか。それでSelf Publishingのシステムを先に導入してしまって。大手出版社が亀のごとく「さまざまな複雑な事情」をあれこれ考えているうちに、これを先にやってしまえば、案外そこからの道が開けたりはしないか。もうすでに日本語表示は整っているわけで、キンドル本体をco.jpで売りつつ、キンドルストアの電子書籍を個人作家やインディペンデント出版社の作品から始めてみるのだ。参加資格条件はアメリカのアマゾンと同じ、amazon.co.jpにアカウントを持っていれば誰でも登録、販売ができる、という条件で。もしそれで成功して、キンドルも売れ、ヒット作品も出てきたりしたら、既存の出版社もあれこれ悩んだり、文句をつけてばかりはいられなくなるだろう。

こんな風にキンドルの日本参入を望むのは、キンドルという端末がよくできていると思うからだ。基本は文字を主体とした「読書」をするためのリーダーである。映画やTVも楽しめるKindle Fireというカラー表示の新製品も出ているが、こちらは仕様がかなり異なる。やはりキンドルの基本は、6インチのモノクロ画面である。バックライト方式ではなく、Eインクのディスプレイであるため、長時間の読書でも目が疲れることがなく、バッテリーの消費も少ないそうだ。一度の充電で1、2ヶ月(無線オフ時)持つという。またiPadやiPhoneの場合、端末を持つだけで月間数千円近い通信費等がかかってしまうようだが、キンドルの場合はamazon.comへアクセスして本を購入するだけなら、維持費はいっさいかからない。通信費はアマゾンが負担する(ウィキペディアなどは無料でアクセスできる)。一度1万円前後でハードを買ってしまえば、あとは本代だけというのは、読書端末として考えたとき最低支出に押さえられるところがいい。しかも本代はアマゾンの規定により、同じ本の紙版より20%以上安価になっている。それに加えてほぼすべての本で、最初の1章分が無料で読めるという。紙の本に代わる読書スタイルを選ぶ、ということで考えたとき、キンドル及びアマゾンの電子書籍の仕組は、大変よく出来たもののように見える。日本でもソニーが似たようなリーダーを販売しているが、価格が全体的に高めなことと、海外のソニーのストアからは本が買えない(リーダーが対応していない)という。日本語でも英語でも、あるいはそれ以外の言語でも本を読む人には、将来想定される蔵書数からいっても、キンドルを選ぶのではないか。

ところでamazon.comには電子書籍のライブラリーがあり、読者は無料で本を借りることができるそうだ。1回に1冊のみの貸し出しで、返却期限はないが、新たに本を借りるには、最初の本を返してから、という仕組らしい。このライブラリーには、アメリカのビッグ6と言われる大手出版社は参加しておらず、中小の出版社が本を提供している。本の提供に際して、アマゾンは出版社と固定料金で契約したり、卸値で版元から購入しているそうだ。つまりライブラリーのために身銭を切っているということ。ライブラリー蔵書にはベストセラー本も100冊以上含まれているらしい。キンドルをまだ持っていないので試すことができないが、購入したらライブラリーのラインアップをぜひ見てみたい。

日本の大手出版社とアマゾンの関係は、この先どれくらいのスピードで進んでいくのか。「現時点で出版社が電子書籍の価格決定権を持つという法律はない」(角川書店、角川氏)ということもあり、アマゾン側は待ちの態勢なのかもしれない。アマゾン側が折れる可能性はあるのだろうか。電子書籍の場合、理論上、技術上は、絶版の可能性がほぼなくなると思われる。読者にとってはありがたいことだ。紙の本では版元が重版できない本が山ほどある。主な理由は、売り上げ見込みに対して印刷コストが出せないからだ**。それが電子書籍では発生しない。日本の出版社にとって抵抗感が強いという、アマゾン側の「過去の本に遡って本を電子化できる権利」の要求というのも、「本を絶版にしない、あらゆる本を電子化する」という意味では有意義なことであり、本の未来にとって悪いことではないと思うのだが。読者の側から見れば、ありがたいことだ。

日本の出版社がなぜ抵抗するのかの真意は、実のところわたしにもよくはわからない。アマゾン側の主張である、過去の出版物も版元が出版の権利をもっている限り電子化すること、既刊本で電子化されていない本をアマゾン側が費用を負担して電子化し、版元に最終的な許可を得た上で販売する(版元はその承認を不合理に留保をしてはいけない)は、言われているように「アマゾンの押しつけ」なのだろうか。確かに、電子書籍など作りたくも売りたくもない、ということなら押しつけに感じられるかもしれない。でも版元側にも、将来を見渡して、自社製品を絶版本も含め電子化していきたいという計画や夢をもっていたのなら、押しつけどころかありがたいくらいの申し出に聞こえるのではないか。少なくとも、自社製品や自社の利益だけを考えるのではなく、出版という事業が将来、どのようになっていったらいいのかを真剣に考えるのなら、また別の受けとめ方ができるのではないだろうか、と思った。


**(注)それ以外にも理由はあるかもしれない。新刊を出す方が、重版を出すより仕組上利益が上がる、というような。出版社は新刊を出すと、取次(本の卸業者)から仮払いのような形でお金がもらえる、と聞いたことがある。そのため出版社は新刊本を次々と出し、取次からのお金を使って事業を回していく、というような。本来の委託制度の根幹をなすものというより、特別な取次出版社間の取り決めかもしれないが。あ、ここで気づいたが、電子出版になるとこれが利かない。取次は必要ないのだから。とすると、資金繰りの当てがなくなってしまう。。。表には出てこないが、このあたりの問題も出版社が自社商品の電子化に消極的な理由と関係しているのか。

20111107

対話ができる人、できない人

わたしは自分が対話型の人間だとどこかで思っていた。つまり異なる意見を持った相手とも、話すことで共通認識に至れるような。が、対話の大切なポイントはもっと別のところにあることに最近気づいた。対話とは、「歩み寄り」よりもっと厳しい要求を話者に課しているものではないか、と。「ニッポンには対話がない」(平田オリザ、北川達夫著、三省堂、2008年)という本を読んだことで、対話についての自分の認識を改めることになった。

著者(この本は二人の著者の対話の部分が主で、それにいくつかの著者の書いた文章が加えられている)は、劇作家・演出家の平田オリザとヨーロッパでの大使館勤務歴のあるフィンランド教材作家の北川達夫。平田オリザは新聞の論壇欄などに登場することもあるので、どういう考えの人か少しは知っていた。北川達夫の方はまったく未知の人。

タイトルの「ニッポンには対話がない」を見て、わたしの中にもその認識があったので読んでみようと気持ちを動かされた。そう、日本とは、なんと対話のない国なんだ、常々、そして長いこと感じてきたことである。社会にも、学校にも、メディアにも、家庭にも。それがこの国を貧しくしているのではないか、と思ってきた。

対話とは何か、と言えば、わたしの考えでは、意見の異なる者(主として二者)が深く話し合うこと、相手の考えをよく聞きながら自分の意見を相手に伝えること、意見交換をすること、更には対話がひとところに留まっているのではなく、弁証法的に発展していくもの、というイメージがあった。が、今回この本を読んで、重要な更なるポイントを発見した。それは対話によって「自分が変わる」ことである。立ち場や考えが異なる二者が深く話し合えば、対立はくっきりと浮かび上がる。明らかになった差異、対立をどうするか。それが対話のクォリティなのだ。

日本に対話がない、と感じるのは、この差異の処理の仕方を知らないからだ。あるいは差異というものをはなっから嫌っているのかもしれないが。差異を差異として充分に認めることをせず、中途半端に折衷案などで処理をしてほっとしたりする。たとえば会社の会議でも対話型の審議の進行というのはごく少ないのではないか。自分の立ち場は不変で、なんとか自分の意見を通そうとしたり、折衷案の中に少しでも多く入れ込もうとあくせくしていたのでは対話は不可能。そこには勝った負けたしかない。言い負かせた方がしてやったりの世界に、対話はない。

対話において、自分が変わることがいかに大切か(それは対話の相手にとっても同じだが)。それは異なる考えを持つ話者が、それまでの自分の考えを相手の考えを起因として修正することで、初めて新しい世界が目の前に開かれることだ。自分が(そして相手が)、堅固で変え難い自己を軌道修正することで、二人の前に新しい道が開かれる、それが対話の意味であり、成果だと思う。

しかしこの「自分が変わる」ことほど、難しいことはない。たいていの大人は保身的であり、それまでの経験や自分の来歴などにある程度の自信を持ち、それを根拠に自己を成り立たせているので、「自分が変わる」という選択は普段ほとんど用意がない。意見が対立すれば、「自分の経験」の視点から相手の間違いを正し、自分の正しさを証明できる様々な凡例を(都合よく)上げ、相手を説得しようとするだろう。そして相手の話に理があると感じた場合でも、それを素直に認めて「自分を軌道修正」することはまれで、やんわりとあいまいにして妥協案的な理解を示し、共通認識らしきものを分け合う程度である。平田オリザによれば、日本では中高年の男性に「自分を変えられない」傾向が強いという。

『相手が自分より立ち場が弱かったり、経験が少なかったりするような場合に、その相手の意見を押さえつけるような発言をしたり、意見をまったく聞かなかったりという、コミュニケーション能力の乏しさでいえば、日本では、いまの子どもよりも、中高年の男性たちに問題があると思いますね。彼らは、人の意見によって、他者と出会って、自分が変わるってことをまったく想定していませんから。』(平田オリザの発言)

他者と出会い、自分が変わることができる。それこそがコミュニケーション能力の最も大切な点であり、また誰にとっても難しい点なのだろう。コミュニケーション能力とは、口がうまくて説得力のあるようなしゃべりができ、人に意見を変えさせるのを得意とし、しかし決して自分の意見は変えない人、ではないのだ。

最近の出来事で、ひとつ思い当たることがあった。現在進行中のプロジェクトで、ある著者に作品提供の申し出をする過程で問題が起きた。直接著者とやりとりをしていたわけではなく、著者のエージェント、更には日本の代理店が介在していた。日本の代理店を通して海外のエージェントと交渉を進めていたのだが、その条件のやりとりの中で、結果として双方が自分の考えやこれまでのやり方を変えた。それは妥協点を探して見つけた、というのとは少し違う。それぞれが相手の論理に対して、正否を計り、その結果自分のこれまでの考えを変えたのだ。それによって、契約が成立した。葉っぱの坑夫、及びこのプロジェクトを進めるわたし自身が、考えを変えた、そのことは思っていた以上に大きなことだったと思う。明確なルールを掲げ、それを明言し、決して考えを変えない人、堅固な人というのは、他者として見るときは難物の一種であるが、人は自分が「難物」であるかどうかはあまり考えない。多くの人は、自分はむしろ寛容な広い考えを持っていると自負しているはずだ。しかし現実をみれば、人が「他者と出会い、自分が変わる」ことは何よりも難しいことではないかと思われる。

「ニッポンには対話がない」を読んでいて、自分がこれまでどれほど「真の対話」を経験できていたのか、疑問に思った。自分が変わる勇気を持てていたか、そこから新しい自分の道を切り開いていくことを想定できていたのかどうか。最近経験した海外エージェントとの出来事で、自分が変わったときに起こる次の展開について、少しだけ理解できた気がする。自分が変わることは、恐いことでも何かを失うことでもない。過去を反すうするのではなく、未来を生きていくには、どうしても必要なことなのだと思えた。でも難しい。よほど心に言い聞かせておかないことには、実行は簡単ではない。