20120924

個人と国家ーーー自分はいったい誰なのか


現代の日本では、人が自分の存在をどう思っているか、社会の中でどう位置づけられるとしているか、を考えてみると、やはり「個人」というものに行き着くのではないかと思う。都市部に住む人間だけでなく、どんなへき地に住んでいても、それほど変わらないのではないかと想像する。

近代以前の日本では、個人の存在は小さかった。属している社会、部落であるとか村や町など、自分より大きな存在や枠組の一部として生きることに疑問はなかった。一番身近な集団こそが大事で、日々その中で潤滑に存在できるかどうかが、その人の人生に大きく関わっていた。その時代には、逆に国家のような村を超える存在は、個人にとってそれほど影響を及ぼすものではなかった可能性がある。自分は○○村の誰それの家の次男であることが、その人の主要なアイデンティティであり、日本の国民であるという意識がどれくらいあったかのかは疑問だ。

とすると、日本という国や領土、その境界線を意識したり、自分を日本人であると自覚するようになったのは、割に最近のことではないか。日本「独特の」文化とか、伝統とか、あるいは歴史というものも、近代以降に意図して「生まれ」意識されたものなのかもしれない。それ以前は個別の村の祭りであったり、しきたりであったり、昔話や言い伝えがただあっただけ、とも考えられる。

日本が近代化の中で国民国家となり、自分は日本国人であると強く意識するようになったのは、国外も含めた時代の流れであると同時に、意図されたプログラムの中での変移と思われる。

昔は村の一員であることは、村の構成要員であるとは意識されていても、個人という意識は小さかった。村の考えと違う生き方をすることは難しかったに違いない。現代では、村の一員であることが、個々の人間の生き死ににまで関わってくる地域はそれほどないだろう。もっと大きな県や国のルールの中で生きているはずだ。

では現代を生きる日本人は、自分と国家の関係をどのように見ているのだろう。日本人とは何か、と言えば、日本国籍をもっている人のことである。日本国籍はどのようにしたら持てるのか、と言えば、両親のいずれかが日本人であることによって自動的に「日本人」となる、血統主義という考えを日本は採用している。血統主義ではない国では、出生地主義といって、生まれた地がその人の国籍となる考えを採用している。誰から生まれたか、よりもどこで生まれたかが重要というわけだ。また戸籍という制度が日本にはあり、これらのことから考えると、人がどこに所属するかを決めるのは、先祖代々の家系やその家系の群れである村、ということになり、一個のただの人間、孤立した人間というものが想像しにくい環境にあった。どんな両親から生まれようが、アメリカで生まれればアメリカ人、ブラジルで生まれればブラジル人という出生地主義や、家単位の国民登録制度がなく、個人単位のものしか持たない国の人々の有り様とはかなり違う。

両親が日本人でなくても、日本人になる方法はある。帰化すればいいのである。帰化には条件がいろいろ課せられるが、そういう手続きを踏んで日本人になった人は少なくない。旧植民地である朝鮮半島や台湾の人々は、日本在住の数が多いので、おそらく帰化した人数も多いのではないか。出身国別の在日外国人を見ると、中国、台湾、韓国・朝鮮、ブラジル、フィリピンあたりが上位国である。

スポーツ選手には帰化する人が多いように思う。外国人のお相撲さんが引退後に、親方になるには帰化が必要と聞いたことがある。サッカーの日本代表のチームには、最近、帰化した選手が増えている。在日朝鮮人であった李忠成選手は、悩んだ末、韓国ではなく日本の選手としてプレイする道を選んだ。他にも日本生まれでオランダから帰化した選手や母親がドイツ人で日本代表を選んでいる選手などいる。彼らは見た目からして「ハーフ」または「西洋人」の風貌である。移民の多いフランスでは、もっと前からアフリカなどからの移民系選手たちがたくさんいた。ドイツも近年トルコからの選手が増えている。日本でも、見た目の印象でも「日本人」ではない日本人が、日本代表チームで普通に見られるようになってきたということが言える。

が、それが社会や、「日本血統」の日本人の意識を変えはじめたか、と言えば、まだそうはなっていないと思う。一般に、現代の日本では、自分は日本人であるという意識は持ちながらも、どのようにそれを自覚しているか不明な部分がある。それは冒頭に書いた「個人」の意識がどのようなものかとも関係している。

村社会がなくなった現代日本では、個人は国家に所属してはいても、それぞれがアイデンティティをもって個人を生きざるを得ない。村社会の時代は、集団のしきたりに従っていればよく、逆にそれを無視すれば生きることが難しかった。だから個人のアイデンティティなど持つ必要もなく、ある村に生まれたことは一種は運命とも言えた。では現代の個人と国家の関係はどうだろう。村社会の時代が集団=個人とすれば、国家=個人という図式は成り立つのか。

成り立たない、という意見がおそらく多いのではないか。「国とか、日本人であるとか意識してないし」と言う人もいるかもしれない。しかし、わたしが思うには、個人が個人として(意識の上だけでも)全く単独に生きることは簡単ではないと思うし、今の多くの日本人がそのように生きているとも思えない。1960年代からしばらく続いた高度成長期であれば、都市部の多くの日本人は会社に所属していた、と言うことができる。会社員の妻や子どもも含めて、会社という村に所属していた。そういう意識も薄れたここ10年、20年はどうなのか。

身近な村社会が消えていく中で、帰属意識を明確に保てるものと言えば、国、という単位になっても不思議はない。普段それほど意識はしていなくとも、最後の頼みの綱は「日本人」であること、であってもおかしくはない。もし自分が「日本人」であることを、自分の主軸となるアイデンティティの説明にしないのであれば、いったい何で自分を証明すればいいのか。となる気がする。

少数かもしれないが、そうは思わない人もいるだろう。わたし自身そちらの側に入ると思う。(この項つづく)

20120907

アマゾン・キンドルが開く未来(2)



アメリカでキンドルが発売になって以来、いつか手にしてみたいと思ってきた。それがやっとかなって、この夏、キンドルでの読書をスタートさせた。購入したのはキンドル・タッチというタッチパネル方式のWifi接続のもの。キンドルの中で標準的な機種と言えるものだ。価格は$139.00、日本円で一万円ちょっと。エクスプレスの送料など入れて13000円だった。注文から6日目には届いていた。

箱を開けて、ドキドキしながら中身を見る。画面は6インチ(対角線で約15 cm)と小さめだが、紙のようなマットな質感の画面上の文字や絵はクリアで見やすい。まず充電をせよ、ということで、パソコンとUSBでつないで充電をする。1ヵ月ほどたつので詳細は忘れてしまったが、一番苦労したのがWifi接続だった。

キンドルは Wifiのものと3Gのものとあるが、Wifiの方が価格が安いことと、外に持ち出したときに本を購入したり、ウェブに接続したりという必要性がそれほどないと思い、3Gでなくていいと思った。接続で苦労したくない人は3Gがいい、という説もある。そもそも今回キンドル購入に踏み切った理由の一つに、無線LANの導入があった。夏のあいだ、メインマシンを涼しい階下に移すことにしたのだが、去年は長〜いケーブルを使ってネットに接続していた。今年こそと、まず無線LANを導入し、そしてキンドルへと進んだわけだ。

Wifi接続は、最初簡単なように見えたのだが、実際にはキンドルがつながらず、いろいろネットで調べて経験者の試みた解決法をやってみたが、ダメだった。こういうときは、一回やめて、また改めて心新たにやってみるのがいい、とこの日のトライは中止した。が、そのあと、理由はわからないが、家族の者がちょっと触ったら一発でつながってしまった。何も特別なことはしていないので、トライしていたときの通信状態が悪かっただけなのかもしれない。無線LANはときどき、全くつながらなくなってしまうことがあり、仕方なくケーブルを引っぱってくることもある。キンドルの設定をしていたときも、そういう状態だったのかもしれない。

Wifiがつながると、キンドルの画面上にあった「My Kindle」の表示が自分の名前に変わる。「Kazue's Kindle」というように。これでアマゾンと直結されたわけで、本の購入などが簡単に行なえる。米国アマゾンがこちらの端末を認識しているのだ。メニューを見ると、いつの間にか、MacBookのクラウドで読んでいたキンドルの本がダウンロードされている。ノートパソコンと共有で本を読めるというわけ。

「Welcome Kazue」という項目がメインの画面にある。開いてみると、アマゾンの創設者でCEOのジェフ・ベゾスからの手紙だった。日付けは7月31日。キンドル到着の1日前の日付けになっているところが心憎い。Dear Kazue, で始まり、 Sincerely,とJeffの手描きサインで終わる短い手紙は、仰々しくなくシンプルでフレンドリーで感じがいい。アメリカのアマゾンでは、ときに大きなお知らせがあると、ベゾス氏自らの手紙がサイトのトップページにドーン!と載っていることがある。それとほぼ同じ調子だが、自分の買ったばかりの端末に創設者からの手紙が来ているというのは、何か微笑ましい。

ベゾス氏はまずキンドルストアに行ってみてください、と勧める。どの本も最初の1章がサンプルとして読めるし、新聞や雑誌も2週間のサンプル購読が試せますよ、と。本の1章分が読めるというのは、とてもいいサービスだと思う。本の紹介文の他に、目次と中身1章が読めれば、買うかどうかの決断はそれほど難しくはない。またベゾス氏はこんな風にも言っている。あなたがこの読書機の存在を早く忘れて、本の中身に没頭してくれますように、と。外の世界が溶けてなくなり、あなたが作家の物語や言葉や考えの中に浸ってくれますように、と。確かにキンドルというのは、本の匂いもしないし、どんな手触り感も、本にまつわるもろもろのものもなく、内容以外何も伝えてくれない。内容がすべて、なのである。

キンドルの本の面白い点として、同じ本を読む他の読者と感動を共有できる機能があげられる。本を読んでいると、行間に小さな薄い文字でHighlighterが何人、という表示が出ることがある。それは他の読者がここが面白いとか、印象的だという意味でハイライトを入れた箇所なのだ。自分のハイライトを他の読者と分けあうこともできる。ネットに接続した読書機ならではの特徴と言える。読書中にハイライトを入れる他、メモを書き込んだり、しおりを挟んだり、リアルブックでしていることはキンドルの本でもできる。

面白いのが本の貸し借り制度だ。リアルな本で友だちに本を貸すことができるように、キンドルでも本を貸すことができる。貸している間は自分は読めない、というところもリアルな本と同じ。また図書館から本を借りることもできる(アメリカ)。全米の11000の図書館が現在キンドルと提携しているとのことで、地元の図書館から読者は本を一時的にキンドル内にダウンロードすることができる。貸し出し期限が過ぎて読めなくなった後、キンドルストアでその本を購入すれば、自分の履歴(どこまで読んだか、ハイライトやメモなど)が再現されるそう。商売上手とも言えるが、基本の思想は、本をできるだけ広くオープンにする、解放する、ということで、読み手を本の世界へ引っぱり込もうという思案の結果に見える。

日本でも電子書籍の未来の話の中で、図書館の存在はどうなる、のようなことが課題としてあげられているのを見たことがあるが、アマゾンはそれを実際にやってみせている。「データの本では、本屋と図書館が競合関係になってしまい、、、」などとブツクサ言ってないで、とっとと図書館も取り込んだ本と読者の世界を築き上げている。こういうところがアマゾンの商売上手さ、とも言えるが、志の高さだと考えることもできそうだ。

図書館以外にも、本を無料で読める仕組はある。プライム会員の特典は別にしても、キンドルではフリーの本というのがあるのだ。パブリックドメインになっているものや、著者の許可がとれたもの、ということだろう。葉っぱの坑夫で何年か前に出した「籠女」という童話集の原作が、キンドル版でフリーの本になっていた。さっそく$0.00で手に入れてみた。アメリカのボランティア団体がeBookにしたもののようである。こうやって久々にキンドル版で読めるのは嬉しいことだ。

キンドルの使い方として、本を買って読む以外に、自分の書いたテキストを(推敲などのために)読んだりもできる。パソコンから、あるいはメールを使ってファイルをキンドルに送ることができるのだ。またウェブをブラウザーで見ることも可能だが、小さな画面の中でズームしてテキストを読むのが面倒であれば、テキストに変換、とすれば、普通のドキュメントとして画面に表示できるので、とても便利だと思った。

オーディオブックを聴いたり、 MP3で好きな音楽を入れて楽しむこともできる。オーディオブックはアマゾンのストアで販売している。試しにスペイン語の入門的なものを買って聴いてみた。また音楽も聴いてみた。音楽専用機ではないので iPodのような機能はないが、読書の合間、読書中に音楽を聴きたければ楽しめる。

キンドル・ブックはキンドルの端末でしか読めないか、というとそうではない。iPadやiPhoneなどのデバイスでもキンドル用アプリを入れれば読めるようだ。

その他の便利な機能として、辞書機能がある。わたしの購入したキンドルはアメリカ版なので、入っている辞書はオックスフォードなどの英英辞典となっている。テキストを読んでいてわからない言葉が出てきたら、そこをハイライトすると、辞書が起動する。言葉によっては、Wikipediaと連動しているものもあったと思う。日本でアルクの英辞郎のキンドル版をつくっている人がいて、1500円くらいで販売している。それも試しに入れてみた。起動が少し遅い気がしてデフォルトの辞書からは外したが、ときに、造語などでオックスフォードにはない言葉の場合、英辞郎が起動されることもあった。

China Dailyという新聞のサンプル購読を始めてみた。中国の新聞と言っても、内容的にはインターナショナルなものから、中国ローカルの小さな記事まで様々で、どの記事もシンプルな英語で短く簡潔な内容になっている。各記事のタイトルの下に800 wordsというように文章量が書いてあるので、だいたいの当てがつく。Focusのところでは、2000単語くらいの長いレポートを読むこともできる。今朝読んだ、中国の100歳を超える人をレポートした「100歳代の人は年なんてただの数字と言っている」という記事は興味深かった。

多くの記事に写真がついていて、モノクロながらそれを見るのも楽しい。スポーツ(国際)には、日本の新聞では読めない記事やレポートも多い。記事を読むとき、Text to Speechをオンにすれば、耳で聴くこともできる。読み終わったらページは勝手にめくってくれる。全体として2週間無料購読して良ければ、とってみるのも面白いと思わせるものがあった。日刊で一ヵ月の購読料が$4.99。朝起きて、コーヒーを飲みながら、キンドルをONにすると、新聞がダウンロードされてスーッとタイトルが現われる。

葉っぱの坑夫は今、キンドルから本を出そうと準備を進めている。アマゾン・ジャパンが間もなくサービスを始めると発表し、出版界が動きはじめ、出版社も迅速にとはいかないものの、準備を始めているようである。キンドルでの本の出版は、小さな出版をするところにとって、心強い味方
となりうる。 PODとキンドル、両方で本の準備ができれば、紙の本で読みたい人、電子ブックで読みたい人、両方の読者の要望に応えられる。在庫を抱えて困惑することもなく、絶版の心配もない。

大々的な宣伝での本の販売、ではなく、読者がデータベースを検索して出会うことから始まる、フラットな世界での本と読者の結びつきが基本である。売れると見込める本でなくとも、作者が有名でなくとも、こういう本がこの世界にあった方がいいという本が世に出せる仕組でもある。本を能動的に読む、成熟した人々によって構成される社会ができたときには、流行りや大声での宣伝とは関係なく、いい本、読まれるべき本がそれなりに選ばれるようになるのではないか。