20161124

人間のからだ、更新力はどれくらい?

失明などからだの機能の一部を失ったとき、脳の働きによって他の部位が欠損をカバーすることがあると聞いたことがある。からだと脳の関係、活動によって機能が促進されること、からだの細胞レベルまで神経をいき渡らせること、それによって早期の察知やコントロールが効くことなど、興味深い事象がある。これについてはまた別の機会に詳しく書こうと思っている。2016年9月28日のブログ「パラアスリートたち:スポーツと障害」より

人間のからだが、使用頻度や必要性に応じて進化したり、退化したりすることは経験や知識である程度知っている。またある部位の欠損によって、別の部位が活性化しそれを補おうとする働きがあることは、自然の原理として納得のいくことだ。

現代は予防医学や予防美容などが発達し、からだに何か変化が起きる前に、それに気づく前に、それが起こらないよう化学的な処置を施したりするので、自分のからだの実態がわかりにくい、あるいは実態を知る機会が失われている気がする。

わかりやすい例をあげると、ここ10年(いや20年か)くらいは美容マーケットの中で(少なくとも日本やアメリカでは)、エイジングへの対処は大きな柱になっている。「女性は見た目の美しさ、若々しさが大事」という信仰のもと、顔のしわ、しみ、くま、たるみ、などが起きないよう、あるいは起きてしまった場合は修復するため、様々な合成化学物質や栄養素などを含むが商品が販売されている。これらの化粧品は一定の効果があるのかもしれない(有毒性もあり得る)が、(想像するに)お金、費やす時間、自分の顔と向き合い日々一喜一憂する精神の健全性を考えると、自分を総合的な人間像として捉える能力が劣化しないかと心配になる。

ある種の脅迫観念にさらされているのだと思う。日常目にする雑誌やネットのメディアでは(広告はもちろん、純粋な記事であっても)「何もせずに放置すればやがて大変なことになる」と謳われているのかもしれない。しかし最近ある日本の女優が書いたコラムを読んで、愉快な気分になった。その人は80歳を優に超えた女性と出会う機会があり、肌の美しさに驚き、どんな手入れをしているのか尋ねた。すると「顔を洗わない」と答えたそうだ。顔を洗わない! その女優はショックを受けながらも、目の前の実証例を見て信じるに足ると思い、実行に移したそうである。
顔を洗わない、というのは、以前に日本の男性作家が同じことをいうのを聞いた覚えがある。人間のからだは自然のもの、自然の法則に従って循環、運営、管理されている。足りないものがあれば、自分自身のからだが補充するのかもしれない。顔を洗わないと、顔の油分が石鹸で強制的に除外されることがない。またからだの方が肌の調子を見て、油分量を適度に補充するのかもしれない。かくいうわたしも、顔は猫程度には洗うものの、そこに何かを塗るということはしない。しかし長年の間に、からだの方が調整するようになっているらしく、洗顔後に(石鹸をつかった場合も)肌がつっぱるというようなことは全くない。

予防医学や予防美容が過ぎると、自分のからだの状態に、逆に無頓着になってしまうのではとも思う。風邪をひいたり、ちょっとした怪我をした際の回復過程は神聖なものだ、という話をきいた。確かに風邪がじょじょに治り、体調が戻っていく過程や、傷口が新たな皮膚におおわれて綺麗になっていく様子を見れば、自然の回復力を実感するし、一種神秘でもある。薬に頼り過ぎると、その感覚が失われてしまうことがある。

人間が自分のからだを、どれくらい意識下でコントロールすることが可能なのかも興味深い問題の一つだ。スピートスケートの清水宏保さんが、新聞のコラムで書いていたこと。彼は子どもの頃、ひどい喘息だった。発作に対して恐怖感があるため、発作が起こりそうな気配に神経を尖らせるようになる。それによってどのような状態になったとき、発作が起きるのかをある程度察知できるようになったらしい。そのことがスピードスケートの選手になったとき生きたという。つまり自分のからだの隅々まで、細胞レベルまで、神経を行き渡らせることが可能になったのだ。それにより、筋肉のコントロールが効くようになり、効果的な使い方ができる、というような話だった思う。

人間のからだは、そして神経も、訓練次第。清水宏保さんは子どもの頃に喘息で「訓練」していたことが、大人になって効いた。おそらく年齢が低い方が、訓練には向いているかもしれない。ある人が、テニスでもピアノでも、何歳になっても始められるが、ただ40歳で始めた人は40歳のテニスに、60歳で始めた人は60歳のピアノになる、と言っていた。それもわかる気がする。年齢が低い方が、神経や意識とからだの部位が結びつきやすい可能性はある。とくに成長期は、訓練に対する受け入れ態勢が、からだの発達と相まってスペシャルな状態にあるのかもしれない。

ひとがピアノを弾けるのは訓練の結果だ。ピアノを小さい頃から弾いている人の指は、一本一本が独立した生きものである。同じ人間のからだなのに、ピアノを弾いたことのない人の10本の指は、鍵盤に乗せたとき太い棒のようである。一本ずつの独立性はほとんどない。人差し指で一つの鍵盤を押そうとすれば、中指や小指にも力が入り突っ張ってしまう。もしかしたら使っていない反対の手も突っ張っているかもしれない。バレエの1番のポーズ(足首から先だけを180度に開いてまっすぐに立つ)を、未経験の人にやらせると、たいてい左右の手も、手首から先が開いてしまっている。それと同じだ。からだの部位ごとに、独立して神経が行き渡らないためだ。

人間のからだは訓練を積めば、部位ごとに神経を行き渡らせることができ、その変化は画期的だ。ひとつには意識の問題がある。意識を極限まで高め、集中することで、からだの隅々まで自分の管理下に置くことが可能になる。意識(神経)をからだの各部位に緊密につなげるのだ。その線は一度しっかり結びつけば、そう簡単には分裂しない。おそらく野生動物も、必要に応じて、神経を高め肉体の訓練をしているだろう。それによって生き延びることができる。


人間は自分以外のもの、からだの外からやってくる化学物質やテクノロジーにより、肉体に変化をもたらすことができるようになった。しかし、それに頼りすぎると、自分のからだが自分の管理外のものになってしまうこともある。知らないうちに、意識のレベルで、自分のからだを感知する力が低下しているのかもしれない。

20161111

新刊発売! 「本」の形を再考する

イルカ日誌:バハマの海でマダライルカたちと25年』が発売になった。パッケージの本(紙やkindleなどスタンドアロンな本)を出すのは去年の4月以来。1冊の本を出すまでにはなかなか苦労も多い。が、かなり楽しいことでもある!

そして今回は、発売直後の今日、Synodosというニュースサイトに本の紹介記事が掲載された。タイトルは「バハマのイルカの暮らしから、日本の水族館のことを考える」。本の紹介という形をとった読み物になっている。

さて、葉っぱの坑夫では創設以来、さまざまな形で本を出版してきた。「本」と言ったとき、厚手の表紙のついた背のある本を思い浮かべる人が多いと思うが、葉っぱの坑夫がつくってきた本は、必ずしもそれに当てはまらない。

そもそもWeb Press 葉っぱの坑夫という場、あるいは媒体を「本」と思って出発したのが始まりだ。日本でもインターネットが広まり、ウェブで画像を表示できるブラウザーが現れ、一気に出版物としての可能性が高まったのが1990年代の後半。それより前、日本発のウェブサイトがほとんどなかった頃、坂本龍一氏が「いつか自分も発信する側になりたい」と言っているのを聞いて、エッー、そんなことできるのか???と思ったことを覚えている。

しかしそれから間もなく、個人でもウェブサイトを制作、運営できるようになった。葉っぱの坑夫が準備を始めたのが1999年の秋。当時、まわりにいるデザイナーたちに、ウェブのことをよく知っている人はいなかった。紙の世界のグラフィックデザイナーたちの一部が、ウェブデザインに見よう見まねで入ってきた。当時の葉っぱの坑夫のデザイナーも、広告や音楽業界を中心に仕事をする、紙専門のグラフィックデザイナーだった。GoLiveという今はないAdobeのソフトウェアが、サイトデザインの主流だった。デザイナー系ではない人々は、htmlのコードを書いてサイトをつくっていた。

葉っぱの坑夫は、ウェブサイトを「出版物」と捉えて出発した。コンテンツを掲載することをpublishと表現していた。これはアメリカなどのサイトでは、普通の感覚だったと思う。公開する、出版する、この二つは同じ言葉publishで表される。日本では「公開する」という感覚が希薄なため、サイトを運営する人は「管理人」と呼ばれ、その人を指すときは「管理人さん」と言っていた。当時「管理人様」というメールをしばしば受け取ったが、わたしは管理人か?と奇妙な感覚をもったことを覚えている。

現在も、葉っぱの坑夫が、ウェブサイトを出版物として扱っていることに変わりはない。プラスのメディアとして、オンデマンド印刷による紙の本を2001年秋に出版した(初版300部)。その方法で、2004年までに何冊かの本を出版した。1冊をのぞいて、多くは100ページに満たない小さな本である。この「小さくて薄い」(しかもモノクロ)ということが、日本では「本」の概念から外れてくるらしく、書店に本の見本をもって売り込みに行くと、「これが本ですか???」という顔をよくされた。「パンフレット?」と言われたこともある。ウェブが本でないのと同様、たとえ紙であっても、規格から外れていると、「本」であるかどうかが疑われる。それが日本の出版、書籍業界だと思った。大事なのは、中身ではなく、見た目。体裁。

その後、イラストレーターのミヤギユカリさんと出会ったことがきっかけで、ビジュアルの本をオフセット印刷で何冊かつくった。『シカ星』という最初の本は、絵の赤と文字の黒という2色印刷で、「二つ折りジャバラ」という紙でしか実現できない変わったつくりのものだった。その後、何冊かオフセットのフルカラーでビジュアル本をつくったが、そのうちの2冊は、スイスのニーブスというインディー出版との共同出版だった。『Rabbit and Turtle』は初版1000部を日本で印刷し、両者で分け合い、その後重版もした。スイスへは航空便のエコノミーで送っていた。

そのニーブスというインディー出版がやっていた、コピー機でつくるzineと呼ばれる薄くて小さな少部数(100部程度)のアートブックが世界的に人気を呼び、日本でもニーブスのzine(ジン)は広まり、何人かの日本人アーティストがニーブスからアートジンを出すようになった。スタイルの確立、そして名付け、この二つがあれば、日本でも(ただし一般書店ではないが)「本」の一部として認められるという例だと思う。葉っぱの坑夫でも、ユトレヒトが主催するZine’s Mateというジンの販売イベントに参加した際、何冊かコピー機によるzineを制作し販売した。

その後、アメリカのアマゾンが開発、販売していた電子書籍を読むためのデバイスKindleに興味をもち、2012年7月に購入した。日本でKindleが発売になる3ヶ月前だった。そしてその年の11月、日本でもKindleが発売され、葉っぱの坑夫から2冊のKindle本を出版した。その際、同じくアマゾンがやっているPOD(プリント・オン・デマンド)の仕組をつかった紙の本もつくり、販売した。KindleとPOD、よい組み合わせだと思った。

現在は、その流れを維持して出版活動をつづけている。当初からのウェブ、それにKindle本とペーパーバックのPOD本の3種だ。この三つの共通点は物理的なprint処理が少なく、デジタル処理によって本がつくられること。ペーパーバックのPODに関しては、最終出力ではインクと紙が使用されるが、そこまではデジタル処理である。一つのソースから、三つのメディアに出力する。

今回出版した『イルカ日誌』の場合、出版の1ヶ月前に、ウェブサイトでプレビュー版を公開した。出版する本の10%を載せている。日本のアマゾンのなか見検索や、Kindleのサンプルは非常に量が少ないため、自サイトでもっと読めるようにしたかったのだ。アメリカの原著の版元に許可を得てこれを進めた。オリジナルが商業出版でないときや、パブリックドメインがソースの場合は、これまでウェブでも全内容を公開することが多かった。今回は原著が商業出版の本なので、10%が無料公開の限度だと思う。

『イルカ日誌』はウェブでのプレビュー版につづいて、ペーパーバック版とKindle版を販売した。この三つのメディアの共通する長所として、モノによる在庫がない、という点があげられる。聞いた話では、出版社は在庫を置く場所を確保するために、社屋を移ったり倉庫を借りたりするらしい。葉っぱの坑夫も、実は在庫スペースはかなり厳しい状態で、これ以上増えると処理を考えなければならなくなる。KindleとPODの紙の本であれば、アマゾンが注文を受けた時点で「本」の実態が発生するので、版元には元データがコンピューターの中に残るだけだ。在庫はゼロ。

ウェブ、Kindle、POD、この三つの出版は、資本の投下を最小限に抑えられるメリットがある。ウェブを維持するための諸経費、本を制作するときに使用するデザインソフトやワープロソフトの使用料(現在ほとんどがクラウドである)、その他資料購入などの雑費などを除けば、基本的にかかる経費がない。これにより、本の出版計画をたてるとき、作る価値のある本かどうかを第一に考えることができる。売れるかどうかを最大のハードルにしなくてよいことは、非営利の出版にとってありがたいことであり、非常に相性がいいと言える。たとえ利益が出なくとも(実際のところ、経費を引くと赤字になる)、本を出版することに重点があれば、持ち出しとなっても、なんとか我慢できる。商業出版出あれば不可能なことだ。

この方法で一番難しいのは、出版後に本を広めることだ。基本はリアル書店の店頭には並ばないので、本を知ってもらう方法として、自サイトへのアクセスや検索による出会い以外に、他のメディアへの露出が大きな意味をもってくる。新聞社の書籍紹介に献本したりもするが、採用は簡単ではない。今回はSynodosが紹介文を掲載してくれるので、期待を寄せている。利益のことは別にしても、出した本をできるだけ多くの人に読んでほしい、というのは商業も非営利も同じである。

今回もう一つ嬉しかったのは、本屋B&Bさん(下北沢)が早くから声をかけてくださり、ショップに置いていただくことになったこと。B&Bさんは、毎日のようにトークイベントやワークショップを開き、本好きの人びとが集まる話題の場所。リアル書店では手にとって見てもらえるので、それだけでパブリシティになる。もし書店の方で『イルカ日誌』を扱ってみたいと思われたら、こちらまでご連絡いただければと思います。