20110727

小さな紙の出版が意味するもの

ここのところで少部数の紙による出版に触れる機会がいくつかあって、出版の形態について改めて考えさせられた。最近の携帯端末で読む本の躍進の中で、紙での小さな出版はこれからどのような方向に進んでいくのだろう。

先日、3331 Arts Chiyodaで開かれたZine's Mate主催のアートブックフェアをのぞきに行ったところ、2年前の初回のとき同様、多くの出展者とたくさんの来場者で賑わって健在ぶりをみせていた。表参道の2会場で行なわれた第一回目のときは、葉っぱの坑夫も出展者として3日間会場に詰めていた。小さな出版物への熱意が出し手、受け手の両方から感じられて驚かされたことを覚えている。こういうものを好きな人々がこんなにいるんだ、という発見でもあった。だからZine's Mateがその後も活動を続けているのは嬉しいことだ。ユトレヒトという本屋さんが、非営利の形でやっている一種の啓蒙活動であり、こういった少部数出版の市場活性化なのだと思う。

今回わたしが見つけたものの中で印象的だったものをいくつか取り上げてみよう。フェアが行なわれていた期間は、真夏の晴天で気温も高く、会場内は節電もあってか大型の扇風機があちこちに設置されていた。それでも中はやはり暑く、着いたばかりのときは暑さで本をゆっくり見る気分になれるか不安だった。面白いものを見つけられるかは、場の環境や見る者の体調、気分にもかかっているので、見せる側にとってはある意味ハードルになるかもしれない。

ハッタリという女の子のグループのブースで、こんな本をみつけた。真っ白な手作りの横長の本。「正直ものなうそつきのこと」とへにょっとした手描き文字で表紙に書いてある。開くと半透明の白い薄紙が出てきて文字らしきものの列が透けて見えているが、読むことができない。インクのシミのようだ。薄紙をめくる。ほんの少し文字が濃くなるがまだ読めない。また薄紙をめくる。まだ読めない。どんどんめくる。まだまだ読めない。でもだんだん読めそうになってくる。と、きれいに印字されたグレーの文字列があらわれる。ほっとする。詩なのだろうか。書き出しの一行は「わたしは顔にすぐでてしまうみたいで」、詩の改行がしてある。「はなすことはうそをつく手段として」と続く。会場ではゆっくり読む気分でなかったが、家に帰って読んでみたらこれがなかなかよかった。次のページをめくるとまた薄紙。読めない、読めない、読めない、読めない、、、、、やっと読める。本の終わりまでその調子である。なんでこんな本をつくったんだろう、と思い、ブースにいた女の子に訊いてみた。とその人は作者ではなく、作者はまもなく会場に来る予定であると言う。運がよかったのか間を置かず、当の作者があらわれた。美大でデザインを学ぶ大学生だそうだ。作者によると、本当は誰にも知られたくないことを書いた、だから。。。とのこと。それがあの薄紙でのじりじりいらいらする「読めなさ加減」にあらわれているのか。だとしたら作品をつくる動機(とその迷い)が作品の中身だけでなく、その形態にも表現されていることになる。作者の話では、最初に手作りのDVDがあった、Qtimeで見る紙芝居のようなものとのこと。因みに本にはこのDVDが付いている。そのQtime作品を紙に落としたということのようだ。動画作品にはこの詩の朗読がバックに流れ、この作家らしさが出ていて悪くないと思ったが、紙の本のほうにより面白さはあると思った。このような作品をつくろうと思った作者の気持ちや本にしていくときのアイディアの道筋が見えるようで、本をつくる、という喜びの原点に触れた気分だった。500円

「note book」とペンで書かれたノートのような本をみつけた。これも手作り風。様々なデザインのノートのページに絵が描いてあるものを集めたもの。三人のアーティストの名前が裏表紙にあった。描いてある絵も面白かったが、背景のノートのデザインや絵との組み合わせにも興味をもった。ノートのマス目を色で埋める、アルファベットの文字を原稿用紙に縦書きで入れていく、など「描く」ことの始まりが垣間見えた。わたしは薄手の紙に印刷された一冊を選んだ。中の絵や仕立ては同じで紙だけもっと厚手のものをつかった版もあった。印刷もきれいだった。レーザープリンターとのこと。1000円

葉っぱの坑夫もミヤギユカリさんの本で参加した、日本とアメリカの女性アーティストの本のフェアのところで見つけた一冊。「How I Grew with The Wild Swans」、Ingrid Dinterさんのフォトストーリーブック。写真はセピアカラー、文字も同色なので1色印刷なのだろう。写真がまず目についた。そしてタイトル。How I grewというフレーズには人を惹きつけるものがある。写真はあとから手を加えられたものもあり、どれもどこか現実と幻想の中間のような感じだった。テキストが断片的に入っていて、The Wild Swansのお話からの抜き書きと他の文章が混合している。。。とそこで、ああタイトルはそういう意味だったのかとわかる。でも違った。最後のページのクレジットを見ると、メアリー・マッカーシーというアメリカの作家のテキスト「How I grew」とアンデルセンのワイルド・スワンを合わせたものだからこのタイトルなのだ。やられた。2年前のZine's Mateのときに葉っぱの坑夫でつくった、アリ・マルコポロスと芥川龍之介の「鼠小僧」を思い出す。ちょっと比べてみる。うーん、How I Grew.....はなかなかよく出来ていると改めて思った。メアリー・マッカーシーという作家にも興味をもった。2000円以内だったと記憶。

葉っぱの坑夫の本を扱ってもらっている京都のユニークな本屋さん、ガケ書房さんが出展していたので立ち寄る。きょうと小冊子セッションのブース。販売台の前の床にも本がずらっと広げてあって露店の気分。恵文社一乗寺店との共同出展らしい。「野宿野郎」というタイトルがいかにもミニコミっぽく惹かれて手にとる。「人生をより低迷させる旅コミ誌」と副題にある。こういうものすごく久しぶりな感じと思い見ていたら、ガケさんがこっちにはぼくの文載ってます、というので、最初に見ていた1号とガケさんの載っている5号を合わせて買う。まだ少し読んだだけだが、野宿とはなんぞや、という定義自体がひとつのテーマになっている感じ。その感じは悪くない。駅寝の話があると思えば、アマゾンをいかだで漂流した冒険家の野宿話もあり。こういうものがずっと継続して出されているとしたらスゴい。1号300円、5号500円。

7月に葉っぱが出したドローイング集の作家ラグナール・ペルソンの作品を扱うギャラリー、ガレリア・デ・ムエルテさんのブース。ラグナールがたくさんのジンをつくって出品していた。その中から「Sleeping VIllage:眠る村」からいちばん遠そうなものを1冊購入。デスメタル系のおどろおどろしいもの。500円。表紙から中身まで全ページ髪の毛のディテールというジンもあった。以前にムエルテさんに行ったとき、メキシコの過激なタブロイド誌を見つけたことを思い出した。ああいう世界そのものに興味があるわけではないが、そういう文化がこの世に存在していることには興味がある。いつかシタイやハラワタがなぜ表現に求められているのか、その元の心性は何なのか訊いてみたい。

Zine's Mate以外でいくつかスモールプレスの本を見る機会もあった。ひとつはアートマガジンの記事を書いている北京在住の中国人の知り合いが送ってくれたもの。彼が最近立ち上げた出版社からの出版物で、Sun Yanchuによる「OBSESSED」というモノクロームの写真集。生で、荒々しく、むき出しの感じが強い印象を与えている写真が多く、こういう写真が今撮られていることが中国的なのかもしれない、と思った。日本で言えば森山大道とか藤原新也の写真に見られたような、と言ったらいいか。一人一人の人間に、国とか社会とかの存在が透けて見える作品。それに対面することなく個人を語ることは難しいのかもしれない。今の日本では逆に、アートの領域では、文学でも写真でも国家や社会を語る方が難しい。個人の領域は個人の内に収まっている。言葉を通さないと言っても、違う文化、知らない社会状況から生まれたビジュアルを受けとめるのは簡単ではないと思った。
OBSESSED:
http://jiazazhi.com/jpp/obsessed/


もうひとつは、Ingo Giezendannerの「Iskandariyah Skan」というドローイングブック。Iskandariyahとはアラビア語でアレクサンドリア(エジプト北部の港町)のことで、この本は地中海をフェリーでイスカンドリアまで旅した作者のスケッチ集である。200ページ弱あるがかさ高の軽い紙を使ったソフトカバー仕立てで、手にした感じは小さめのサイズとともに心地いい。ページを開くとまずペンと白紙のスケッチブックとそれをもつ作者の手があらわれる。これは絵ではなく多分スキャン。次にスキャナーで絵を取り込んでいるところ(これは絵)が出てきて、その次からいよいよ旅の絵が始まる。最初は船室の椅子やデッキ、駐車スペースなどの絵があって海があらわれる。水平線やその向こうの風景が描かれることもあるが、全面水面のみというページもあってこれがまたいい。波のようす、しぶき、水の動き、静かな水面、波だった海面、退屈なようで退屈しない、あるいは船で海に出たときの退屈感が味わえる。そして途中からはアラビア語の看板が見える街のようす、人々や市場なども。そして、、、。順番にページを繰っていくという行為が旅の進行に重なっている。本という形態ととても相性がいい作品だ。Nievesの最近の出版物。$28.00
ビデオで本の紹介がされている:
http://antennebooks.com/books/ingo-giezendanner-iskandariyah-skan


ここで紹介した本は手作りのものなら50部以下かもしれないし、印刷にかけたものでも多くても1000部は越さないだろう。通常の商業出版とは一桁、二桁違う。部数は少なくても本の形態と特質をもった紛れもない本、bookである。商業との一番の差は流通の仕方かもしれない。今では本をつくること自体はそれほど大変なことではなく、経費面でも自分の予算にそって企画することもできる。ただその本を売るということになると、どこに卸すか、取り次ぎ(本の卸問屋)はどうするか、などビジネスの話になってきて個人がなかなか入り込むことができない。取り次ぎを通さなくても扱ってくれるインディペンデントな本屋さんを探さなければならない。そういう意味でZine's Mateが主催するアートブックフェアはオープンなので、年に一度それに合わせて本をつくり販売するという方法はひとつのやり方として成立する。

また読者にとっても、小さな紙の出版物に出会う機会は多くないので、こういう催しの中で多種多様な本に出会えることは嬉しいし、貴重な機会となる。

20110711

本をつくること、印刷のこと

久々に紙の本をつくって出版した。今回印刷について試してみたいことがあった。以前から気になっていたネットの印刷屋さんで、本をつくったらどういう仕上がりになるか知りたかった。今までも何回か、その印刷屋さんでつくってみようとしたのだけれど、体裁のオプションがないなどの理由で試すことができなかった。また仕上がりへの不安も少しあった。まったく根拠のない不安ではあったのだが。

ネットの印刷屋さんは通常の印刷会社のような営業マンがいないので、そして印刷の手順としても「完全データ原稿」ー>「印刷」というシンプルな工程なのでコストをかなり低く抑えられる。ということは少部数の本を印刷しても、それほど高い販売価格をつけなくて済む。ざっくりと、ほぼイメージしたものが仕上がればOKというジンや個人プレスの本には向いていると思う。

印刷の紙を厳選し、それを試す意味でも何度も色校正を出し、指示を与えながら色味や濃度を微調整し、といった精度を求める印刷には自由が利かないかもしれない。そういう造りの本も、数は減ったかもしれないが今でもあると思うが。

一方で印刷というものが、パソコンのスクリーンの出現で、意味が変わってきたようにも思う。以前は画集をつくるといえば、原画を基本に印刷のあがりを調整する、ということがあったかもしれない。とは言え、基本にするのが、原画そのものなのか、複写(絵を撮影したもの)原稿なのか、それによってももちろん色味など違っていただろう。今はどうしているのか。複写する場合もあるだろうが、絵をスキャンする方が多いのかもしれない。そのスキャンも印刷所の精度の高いスキャナーと、アーティストがもっている家庭用のスキャナーではもちろん差異はある。ただそれが仕上がりにどこまで影響するか(見る人がどこまで感知できるか)は、はっきりとは言えない。

スモールプレスやジンをつくる人たちは、アーティストから原画を受けとってそれを印刷データにするケースは少ないかもしれない。初めからデータで受け取るのだ。よってそのデータがいわば「オリジナル」原稿になる。校正をする場合は、そのデータが元になる。ただし、データはスクリーンで見るものなので、パソコンやディスプレイの特質によって見え方の差が出る。だから(自分の)スクリーンで見ているものを基本にする根拠はないと言えばない。すべてが相対化される。元の絵があって、データ原稿があって、それを出力した印刷物がある。「原画に忠実に」という思想は、今ではそれほど堅固なものではなくなっているかもしれない。それぞれのメディア特性やものとしての材質や製造の工程が違うのだから、同じものを求めても無駄とも言える。

一旦そう思ってしまうと印刷物のすべてがフラットになる。活版印刷や原色版印刷、写植機にオフセット印刷の時代を経て、今はCTP(computer to plate)と呼ばれるデータからダイレクトに印刷版を出力する印刷が主流になっている。そういう意味では、世にある印刷物すべてが簡便で軽くなっていて、仕上がりは平均化されている。スクリーンで写真や絵を見る時代の印刷というのは、求められているものが違うとも言えそうだ。

またアーティストも、作品を紙やキャンバスの上にだけ描くとは限らない。コンピューター上で絵を描く人、紙に描いた絵を一度パソコンに取り込み、それに色を加えたり、レイヤーで別の要素を乗せてみたりして仕上げる人もいるだろう。そうなるとオリジナルはパソコンのデータにしかない。

作品が生原稿ではなくデータ化されていることにはメリットもある。まず作品の受け渡しが簡単で早い。作家が地球上のどこに住んでいようと、データ化された絵や写真は(容量は重くても)、それほど苦労なく速やかに受けとることができる。原画のように扱いに神経をとがらせることもないし、返却の心配もない。原稿はコピーしてデザイナーに渡し、版元用にも同じものを保存しておける。作家から受けとったデータがオリジナルになるので、基本的にはそれがそのまま印刷の機械にかかることになる。ということは、色校正の意味も昔の印刷法のときとは変わってきていると思われる。完全データ原稿での入稿では、印刷者の側はデータに手を入れずに刷るのが基本だと思うので、もし校正をとって紙に印刷されたものが、オリジナルのデータと違うと思えば、出稿者の側が自分のコンピューターで調整する、ということになるのかもしれない。

印刷精度に重点を置いた本づくりではない本の制作は、どんどん簡便に低コストになっていっている。インターネットのウェブで作品を発表するのとあまり変わらない気軽さで、紙の本がつくれるようになった。今回ドローイング集+ミニ写真集をつくってみて、ネットの印刷屋さんでも充分な質の本がつくれることがわかった。自分用のパソコンをもち、DTPの環境を備え、インターネットに接続し、ブロードバンドのインフラがあれば、ネットの印刷屋さんで質のよい本を少部数、低コストでつくることができる。これは一種の印刷出版革命と言っていいと思う。

ただし、印刷にかかる労力や責任を頼む側がかなり負うことになる。基本は、印刷屋さんはデータをそのままプリントアウトすること。データに誤りがあったり、不備があっても、こちらが責任をとらなければならない。そのことによって低コストになっているのだから。完全データ原稿の制作は出稿する側の範囲である。今回、印刷屋さんが薦めているPDFでの入稿にトライした。インデザインやイラストレーターなどでも入稿できるが、その場合は、ページ物であれば、別途ページ順がわかる台割の画像を添付しなければならない。PDFでの入稿であれば、向こうの基準に沿った形式にファイルを整えれば、PDF原稿のみで印刷ができる(PDFは画像データなので、フォントのアウトライン化も必要ない)。多分、向こうの印刷の機械が、PDFであれば読み込みなどが自動化されているのではないか。インデザインなどで制作したファイルをPDFに変換する方法は、モニター用PDFへの変換とは少し違う。印刷屋さんのマニアルに従って正しく変換する必要がある。

今回、初めてPDFファイルでの入稿を体験したので、やや不慣れなところがあったが、カスタマーサポートからの指摘やアドヴァイスもあって問題なく印刷できた。葉っぱのデザイナーによると、PDF変換後の容量が画像データ総量の倍くらいになっていた、とのこと。印刷に合わせたPDF変換ということなのだろう。PDFでの入稿、というと精度は大丈夫なのか、という疑問が最初あったが、PDFには印刷に適応させるモードがあるということがわかった。

ということで、印刷に関するトライアルは成功した。紙の本をつくる場合の、仕上がりの質とコストの問題がこれでずいぶん進歩したと思う。




追記:2011.7.16
ネットの印刷屋さんにおける色校正について少し。紙だけ本紙を使いレーザープリンターで出力する簡易なものから本紙、本機校正までいくつかのオプションが用意されているが、簡易な校正は色を精査するためではなく、アタリに間違いはないかなど全体の仕上がりを確認するもの。そうであればウェブ校正(PDFによる仕上がりの確認)と基本的には変わらないとも言える。本紙、本機校正は価格が高いが、それを使った場合、もし色の調整の必要が出た場合は出稿する側がそれを行なう、と聞いた。つまりネットの印刷屋さんでは、完全原稿が基本なので、校正においてもデータにはタッチしないということのようだ。そこがネットの印刷屋さんと通常の印刷屋さんとの最大の違いかもしれない。そしてコストが反映されるポイントとも言えそうだ。

印刷の側では色の調整はしないで、出稿する側がパソコンで色調整をする。これがどこまで現実的なのか実際にはわからない。デザイナーが校正紙を見て、印刷機の特性を類推して、入稿データをさじ加減することになる。DTPによる印刷の進化の中で、デザイナーの作業負担は昔に比べて大きくなっているが、色校正についてもデザイナーがすることになれば、印刷屋さんは技術や経験をもった職人というより、単に印刷機を動かす人になるだろう。今、その過渡期にあるのかもしれないが、デザイナーはまだそこまでの印刷における色調整の経験を蓄積していないかもしれない。これまでは仕上がりについての指示をすればよかったのだから。

葉っぱの坑夫の本で、過去に色校正のすべてに立ち会ったことがある。デザイナーといっしょに印刷工場に行き、刷りをその場で確認しながら指示を与え、試し刷りをし、それを確認して指示し、ということを何回も繰り返しながらの印刷だった。元にしたのは原画だったと思う。ひとつの色味を変えると他の色味に変化が出てくるし、インクの乗せ方ひとつでも色は変わってくるので、このような印刷屋さんと顔を突き合わせての色校正であっても、ある程度の妥協は必要、完璧に原画と同じものになるというのではない。

また数人の人間が同じ校正紙を見ていても、同じ感想をもつものでもない。ものを見るときは主観が入るので、気になる部分は人によってわかれてきたりもする。どういう見え方がいいか、ということでもあるのだ。全体のバランスで見る人がいると思えば、個々の色を近づけようとする人もいる。完璧な印刷というのはなかなかないのではないかと思う。またあることに目を奪われていると、案外、別のところで見逃しが出て来たりもする。

この項の最初のところに、ネットの印刷屋さんについて、「ざっくりと、ほぼイメージしたものが仕上がればOKというジンや個人プレスの本には向いていると思う。」と書いたが、色校正のことを含めて、完成度においてはやはりそれくらいのところに仕上がり目標をおいて頼むのが無理がなさそうだ。これも今後、進化して精度が上がっていくだろうとは思うが。