20090416

Englishes, 星の数ほどある英語たち

前回のポスト「語学とスポーツ選手」の終わりに、国境の消えたEU内で移動する人々の英語選択率が高いことはある程度自然の流れ、今の英語一極化を従来の植民地主義や覇権主義だけでは説明しつくせない、ということを書いた。では何故、英語だけがこれほどまでに選択され続けているのか。「多くの人に使われてきた、使われている」からさらに使う人が増えるのだ、というようなことを何か(水村美苗「日本語が亡びるとき/英語の世紀の中で」だったか)で読んだ記憶があるが、それだけではどこかすっきりしない。自分の感触としては、英語は他の言語と比べて、単純で取得しやすいからではないか、という気がしていた。そういえばスペイン語と英語を教えている友人(母語はスペイン語)も、英語を教える方がずっと楽、こんな簡単な言語はない、と言っていた。

英語が簡単な言語であるかどうかは議論のあるところかもしれないけれど(スペルと発音の一貫性のなさなどはよく言われている)、英語がコンピューターにフィットしやすいことからも、ある単純化はされている気がする。同じラテン文字言語でもフランス語やドイツ語はアクセント記号のつく文字があり、abcの26文字に収まらない。葉っぱのコンテンツでフランス語やスペイン語、あるいはヘブライ語などの表記が必要になると、フォントのインストールやキーボードの設定をしなければ文字が打てない。コンピューターを発明したのが英語圏の人間だったからさ、と言う人がいるかもしれないが、逆に言えばコンピューターの思想はより単純な言語の話者によって初めて生まれた、と言えるのかもしれない。

言語学者の鈴木孝夫によると、英語は17世紀以降、話者数を世界に広げる中で言語としてもまれ、結果外国人(非英語圏の人)に「学ばれる言語」としての成長があったという。(鈴木孝夫、C・Wニコル著「ことばと自然」) 1600年頃、シェークスピアの時代には英語を話す人口は400万人しかいなかった(イギリス)。それがイギリスの膨張、つまり侵略による植民地化の中で英語話者を増やし続け、現在は14億人が日常的に英語を使い、英語を母語とする人だけとっても4億人もいるらしい。この膨張の歴史の中で、英語は各地域でローカライズされ、地域ごとに特長のある(発音においても語句の使われ方や表現法にしても)英語が生まれ育っているのだ。どのような英語を話すかで、その人のアイデンティティを表明することができる。たとえば、鈴木孝夫によると、ヤーコブソンというハーバード大の言語学者は、ロシア生まれのユダヤ人で、フランス語を学んだ後アメリカに亡命したという履歴の人で、話す英語はフランス語風味のロシア語なまりだという。

この言語学者の英語のしゃべりはハーバードでも有名だそうで、しゃべる言葉が個性や人格のひとつとして認識されているのではないか。言葉というのは元々そういうものであるし、またそれが人それぞれのしゃべる言葉の魅力にもなっている。英語を話す際、自分の母語の臭いを気にして必死に消し去ろうとするのは、アイデンティティや自分の歩いてきた道を消そうとする行為かもしれない。人に伝わりやすいクリアーな英語を話す努力をするのは、特に英語が母語でない人々との会話をスムーズに運ぶために、ある程度したほうがよいと思うが、日本人が「ネイティブのように」「アメリカンのように」話す必要や意味はほとんど見つけられない。

自分の経験でいうと、英語が便利な言葉だと思うのは、非英語圏の人々と話すときにより強く感じられる。朝鮮語や中国語、ベンガル語、フランス語、ドイツ語ができなくとも、相手が英語が少しでも話せれば会話することができる。コミュニケーションがとれる。旅した国々で、あるいはメールで、さまざまな言語話者たちと英語を通じて話ができたことはかけがえがない。それぞれのお国なまりや不思議ないいまわし、母語と英語のちゃんぽんによる会話は、英語話者とのコミュニケーションとはまた違った面白さや風味を記憶にとどめる。

同じ国民同士が、英語によって言葉をつないでいる例もある。アフリカ諸国などでは、地域ごとにローカルな言語が多数あって同国人同士が英語を共通語とするというような。ケニアやザンビアのように、共通語を持たないところにイギリスの植民が始まると、英語がその国の超地域的な言葉、共通語となるケースが多いようだ。同様にトーゴなどフランスが植民していた国では、フランス語が共通語、公用語になっている。中国にも地域語がたくさんあり、イギリスの植民を受けていた香港では英語が公用語の一つになっていた時期があるが、中国全土として見るならマンダリンと言われる北京語に近い標準語が共通語の役割を果たしているらしい。香港に遊びに行ったとき(イギリス植民時代)、街角のバーでテレビを見ていたら、英語のドラマに2種類の字幕がついていたのを見て不思議に思ったことがある。香港の人は日常語としては広東語を話す。バスの中で英語で熱心に話しかけてくる青年がいて、降りるまで話すはめになったことがあるが、特に達者というわけでもなく、香港の人にとって英語は公用語ではあっても外国語なのかなあと思った。

Englishes、という言い方があって、Englishはふつう複数形にしないが、世界にはいろいろな英語があるという意味でsを付けて言うことがあるらしい。constellation of English(英語の星座)とかgalaxy of English(英語の銀河系)という見方もある。上記の鈴木孝夫さんの本にあった記述。

英語そのものからは少し離れるかもしれないが、関係の話題として。最近日本の雑誌などで、日本人の名前を英語(ローマ字?)表記する場合、名字、名前、の順で記すことが多くなっている。ふりがなのつもり?と思ったが、使われている箇所、ケースを見ると、必要からというより、主としてデザイン処理として英文字を入れているように見える。ウェブサイトやメールの名前などでも名字、名前、の順の人は増え続けている。わたしも15年くらい前に一時的にそうしていたことがあるが、短期間でやめた。理由は二つあって、一つは英語のコミュニケーションの中で使う場合、混乱が起きやすいから。こちら側に「日本人だから日本名の順番で表記したい」という意図があっても、それが相手に伝わらなかったり、姓名、名姓の二つのケースが混在していると、いったいどっちがどっちなのか判断に困るからだ。二つ目は、姓か名か、と言えば名の方が個人を表わすもので、名字はfamily nameというように家族の名前。日本において家族名の後に個人の名前が来ているのも、封建制度の名残りではないかと思っている。英語表記でYamada Hanakoとするより、むしろ日本名をこそ花子山田としてもいいときが来ているのではないか。