20190628

音楽による対話:新譜『Zwiegespräche』を聴いて


ミュンヘンにあるレーベルECMレコードからこの5月に出たアルバム『Zwiegespräche(対話)』は、二人の作曲家による感動的な作品集だ。ハンガリーの作曲家、ピアニストであるジェルジュ・クルターグ、93歳、スイスのオーボエ奏者、作曲家のハインツ・ホリガー、80歳。この友人関係にある二人の音楽による対話が、この作品集のコンセプトであり、それぞれの短い楽曲が対話するように交互に置かれている。5月に80歳を迎えたホリガーのバースデー記念アルバムとしてリリースされた。

実はジェルジュ・クルターグについては、ここ2、3ヶ月興味をもって、作品を聴いいたり、ビデオを見たりしていた。きっかけはなんだったか。クルターグが妻のマルタと連弾しているバッハのカンタータ(クルターグ編曲)『神の時こそいと良き時』を見たのが最初だったか。非常にいい演奏で、また二人の演奏ぶりが魅力的で、第2ピアノを弾く90代のクルターグの顔にじっと目を当ててしまうのが常だった。

このアルバム『対話』を見つけたのは、ときどきチェックしているECMのウェブサイトだった。発売まもなくのことで、トップページにあげられており、そこにクルターグの名前があった。ハインツ・ホリガーは未知の人だった。タイトルがドイツ語でZwiegesprächeとなっており、Google翻訳を通したところ、DIalogueの訳が出てきた。ダイアローグ=対話。ECMのサイトの解説を読むと、二人の作曲家クルターグとホリガーが対話をするように曲を並べたとあった。そしてこの二人は長年の友人だという。

ECMのサイトでも試聴はできるが、すぐにSpotifyに行って全篇を聴きたいと思った。Heinz Holligerで引いたところすぐに見つかった。第1曲はクルターグ作曲による「... ein Brief aus der Ferne an Ursula」(ウルズラへの遠くからの手紙)。ホリガーによるオーボエのソロ。2分46秒。第2曲はホリガー作曲による「Berceuse pour M.」(Mのための子守唄)。ホリガーの弟子マリー=リーゼ・シュプバッハによるイングリッシュホルンのソロ。3分3秒。

この冒頭の2曲は、どちらもオーボエソロによる美しくもの悲しい旋律のゆっくりとした作品。どちらもオーボエという楽器の美しい音色を堪能できる楽曲だ。また作曲者が違うのに、双子のように似てもいる。クルターグの『ウルズラへの遠くからの手紙』は、ホリガーの妻のウルズラの死に際して書かれた曲だという。ホリガーの『Mのための子守唄』は、弟子でありこの曲を演奏しているマリー=リーゼ・シュプバッハの母親が死んだ際に作曲されたものらしい。つまりどちらの曲も、身近な、親しい人の悲しみを思い、その人の親族に捧げられた。

そして続く第3曲『... FÜR HEINZ(ハインツのために)』は、ホリガーの妻ウルズラの埋葬に向けて、クルターグが友人ホリガーに向けて書いたピアノ曲。2分53秒。オーボエ奏者であるホリガー自身が、ピアノを弾いている。この曲は左手のみの曲で、CDのブックレットによると「人生の仲間(配偶者)を失ったことを象徴的に表している」とのこと。なるほど。右手のない左手だけの楽曲は、通常ピアノでは右手がメロディを担当するだけに、喪失感をかもしだす充分な効果がある。ホリガーのピアノ演奏を聴く機会はほとんどないと思われるので貴重なことであるし、またこの曲をホリガー以外の他の誰が演奏できようか、とも思える。そのような必然が、対話の始まりである第1曲、第2曲、第3曲で表される。

CDブックレットと上に書いたが、そう、CDをECMのサイトから購入したのだ。送料が5ユーロかかったと思うが、数日で届いたのは嬉しかった。Spotifyで聞けるのになぜCDを?と思うかもしれない。理由はブックレットが付いていると書かれていたから。サイトにもそこそこの長さの解説はあったが、ブックレットにはもっと詳しい情報があるに違いないと思ったのだ。

そう思わさせられたのは、このアルバム全体の作りや構成のせいだと思う。曲を聴いたり、解説を読んでいると、もっと知りたい、このアルバムがどのようにして出来たのか、もっと知りたいという思いが突き上げてくる。そして楽曲を作る上での、ホリガーとクルターグの関係性についても(どんな風な手順で音楽による対話が行なわれたのか、など)詳しく知りたいと思った。サイトに書いてある以上のことが、きっとあるはずだ、と。

CDのブックレットより: 
このブックレットなしに、曲と作曲者を一致させるのは至難のわざだろう。「わたしたちの書法は、ほんとうに似ている、同じだね」とクルターグは録音を聴いて、ホリガーに言ったという。親族のような同質性。二人をつなぐものは数限りなくある。(訳:だいこく)

この二人の共通性として、まず作曲の師が同じだったという点があげられていた。シャーンドル・ヴェレシュ(ハンガリー系スイス人作曲家)の教えをクルターグはブタペストで、ホリガーはのちにベルンで受けている。ハンガリー的、そしてヴェレシュ的なもの、それが二人に共通の資質として伝わっているのではないか、とブックレットの解説にあった。ホリガーはピエール・ブーレーズにも師事しているので、日本ではその影響について触れられることが多いようだが、本人は「音楽の本質を学んだのはヴェレシュ」であることを強調しているようだ(Wikipedia 日本語版)。ホリガー、クルターグ両者とも小規模な楽曲が多く、それを友だちや音楽仲間、同志など身近な人々に捧げていることも共通項としてあげられていた。さらに、西洋音楽史の全体をフレームとして使っていること、この点でも二人の創作は似ているという。

CDブックレットより: 
両者とも作曲において、西洋音楽史の全体をフレームとして使い、小規模な小さな楽曲を好み、友だちや音楽仲間への賛歌を追求し、生存の、あるいはもう亡くなった心の同志たちとともに、現代の「ダヴィド同盟」(ロベルト・シューマンによって創設された架空の音楽ソサエティ。文学同盟を参考に、同時代の音楽を中傷する者からの保護のために作られた)を育み、ともに文学への強い愛と関心をもち、それだけでなく同じ詩人、作家への興味を示してきた。(訳・注:だいこく)

「西洋音楽史の全体をフレームとして使い」というのは、作曲において、現代の音楽やその一つ前の時代の19世紀、18世紀の音楽を参照するのではなく(一部の現代音楽の作曲家たちが熱心に研究しているのと同じように、古典派以前の音楽、つまりバロックや中世の音楽への関心を含む)、西洋音楽の成り立ちの全体を視野に入れている、ということではないか。クルターグの『Versetto』という56秒の曲は、「偽のオルガヌム」という副題が添えられ、この様式(オルガヌム=初期のポリフォニーの形式)が特徴的に使われており、それは音楽史への注釈であるとブックレットには書かれていた。

少し前に戻って、第4曲と第5曲、これもホリガーとクルターグの対話によって成り立つ曲だ。『Die Ros’』はホリガーによってまず書かれた。この曲は『Die Rose’ ist ohne warum(バラに理由はない)』というテキスト(18世紀のカトリック神父、医者、詩人、アンゲロス・ジリジオスによる)からの引用で、ホリガーが重い病いで入院していたとき、回復期に1日1曲書くことで生を取り戻そうとして、カレンダーの日めくりを繰るように書かれたものだという。ホリガーはこの曲をクルターグに送った。クルターグは同じテキストを使って曲を作り、1ヶ月後に、ホリガーに返してきた。

CDブックレットより: 
ホリガーのハーモニーの配置を反転させて、ソプラノとホルンのビシニウム(ルネサンス時代の2声)を自分に課して作っている。それによりホリガーのポリフォニー(多声部)が、緩やかに解放されてイングリッシュホルンの旋律に溶け込んでいく。回復と新たな人生を祝う、喜びに満ちた歌。(訳:だいこく)

音楽を深く知り愛する者同士の、音による交流。メディアは音楽の言葉。ホリガーとクルターグの関係性を、より間近に知ることのできる出来事であり、作品だと思う。

CDを買ったのには、もう一つ別の理由があった。アルバムの中で詩を朗読しているフランスの詩人のことが気になったからだ。「Airs」というタイトルのホリガー作曲による組曲のようなものがあり、全7曲にフランスの詩人、フィリップ・ジャコテの詩が組み合わされている。フランス語でairは「空気」「アリア」「メロディ」「色合い」「表情」など多くの意味を含む万華鏡のような言葉だという。

構成としてはまずジャコテの詩が詩人本人によって読まれる。どれも30秒くらいの短いもので、おそらく最初の数行のみが読まれているのではないか。今年93歳になるジャコテの朗読は、声質、抑揚ともに素晴らしく、音楽的だ。詩の朗読につづいてオーボエとイングリッシュホルンの演奏がはじまる。ホリガーは作曲の際、楽器のパートの下に詩が流れているかのように音楽を作ったそうだ。演奏者は詩を心の中で読みながら演奏する。すると楽器の演奏は「言葉をもつ歌」となり、それがメロディに力を与え、聴くものにそこに刻み込まれたものを伝える。そのようなことがブックレットには書かれていた。

Airsは最後の曲を除いて、1分半くらいのごく短いものが多い。楽器の演奏が終わると、また詩の朗読が始まる。この繰り返しが心地いい。音楽のような詩の響き、詩のような音楽の抑揚。詩がある種の音楽であるように、音楽もある種の言葉なのかもしれない、という思いが湧いてくる。

ブックレットには朗読されている詩のテキストがちゃんと載っていた。フランス語なのではっきりとした意味は取れないが、淡々と自然や風景を描写しているような感じではないか。詩の言葉と次にくる音楽あるいはメロディーは呼応しているのだろう。言葉あるいはテキストは、音楽を産むらしい。作曲家が、文学を身近において仕事をすることはよく知られている。ホリガーとクルターグもそうなのだ。作曲家がどのようにして、無から形あるもの(音楽)を生み出すかの秘密をのぞいたような気分になる。

ECMのサイトのこの作品のページには、ホリガーのインタビュー映像があった。穏やかな面持ちの作曲家が、笑顔を見せながらクルターグについて静かに語っている。言葉がホリガーの母語ではない英語だったので、考えつつ、ときに言葉を探しながら、真摯に話をしている。いくつか印象的なものを取り上げてみたい。

彼と最初に会ったのは、1973年だったと思います。わたしは当時、現代音楽のグループSIMCをバーゼルで率いていて、そこでクルターグの作品が組まれました。  
彼の作品の最初の音を聴いて、すっかり魅了されてしまったのです。
彼の書く音はどれも本質をついていて、世間話みたいなものはありませんし、誰かを喜ばすとか、聴衆を喜ばすとかないんです。
それが彼にとってのただ一つの真実で、本質であり、音楽づくりにおいて嘘をつくことがありません。 
ドイツ語で「Klangrede」というもので、わたしが、そしてヴェレシュ・シャーンドルが感じてるもの、そしてクルターグが感じているものです。
これがわたしたちのもっとも著しい類似点かもしれません。
「Klangrede」これが二人のもっとも著しい類似点、とホリガーは言っている。造語なのか、この言葉は調べてもなかなか出てこなかった。なんとかわかったのは以下の解釈。

Musik als Klangrede"=music as speech=語りとしての音楽
またWikipediaドイツ語版には「Klangrede」の項目があり、Google翻訳にかけると以下のような意味だった。[ Klangrede(音によるスピーチ)は音楽の形式であり、原理(特に18世紀の)のデザインである。ヨハン・マッテゾン(18世紀のドイツの作曲家、音楽理論家、辞書編集者)の『The Perfect Capellmeister(完璧なる楽長)』の中に記された、彼の手による造語。他の音楽形式と組み合わされることもしばしばある。](Wikipedia ドイツ語版からの訳)


再び、ホリガーのインタビュー映像から:

クルターグにとって、音楽はしばしば誰かが亡くなった時に書かれます。追悼です。 
それは音楽は生と死の境界を超えられる唯一の芸術だからです。音楽家として別の世界に行ったオルフェウスみたいにね、それは画家ではないんです。

おー、画家ではなく、音楽家だけが超えられる、あるいは音楽だけが超えられる生と死の境界。ちなみにオルフェウスというのは、ギリシア神話に登場する吟遊詩人で、竪琴の演奏が素晴らしく、オルフェウスが演奏すると、森の動物ばかりでなく木や岩までもがそれに聞き入ったそうだ。そして愛する妻が死んだとき、オルフェウスは竪琴をもって冥府に足を踏み入れ、妻を取り戻そうとした。そこで見事な演奏をし、冥界の人々に涙を流させたという。(Wikipedia 日本語版)

ホリガーのインタビュー映像から:

言葉が終わったとき、音ははじまります。一種のメタ言語なのです。言葉が行きついたその先に始まるものなんです。これがジェルジュの追悼の曲を書く方法で、わたしの方法でもあります。

音楽は一種のメタ言語である。言葉の行きついたその先に始まるもの。。。語りとしての音楽のあり様。死者への追悼の音楽。身近な人々、生きている、死んでしまった友人たち、親族へ贈る、あるいは語りかける音楽。それは境界を超えていく音楽。これらのことは、ホリガーが、そしてクルターグが、80代、90代と長い人生の最晩年をいま生きていることと関係があるのだろうか。それとも単にそれが元々の彼らの音楽性ということなのか。

この二人が『対話』によって差し出しているものは、静かに、深く衝撃を与える音楽であり、またそれは言葉でもある。『対話』というタイトルに、すべてが収斂し(しゅうれん)ていくように思える。ホリガー、クルターグが音楽をとおして発した悲しみ、痛み、いたわり、喜びが、きらめく幾千もの光線となって、一点に集まっていくように。


CD『Zwiegespräche』(ECM, 2019年5月)

クルターグのドローイング(左)フィリップ・ジャコテの詩(右)




20190607

人間の脳とAI:創造性とか知性とか


ここ数年、AI、ビッグデータといった言葉をメディアなどで頻繁に聞くようになった。AIとは人工知能(Artificila Intelligence)のことだが、過去にもAIブームと言われるものが2回あり、今回のものは第3次ブームらしい。

総務省のウェブサイトによると、第1次ブームは「1950年代後半~1960年代」に起こり、コンピューターが推論、探索して問題の解決を提示できようになったことが、ブームを呼んだ原因とのこと。しかしその時点では、現代社会が持つ複雑な要因がからむ問題の解決には至らなかったようだ。

第2次ブームは1980年代で、コンピューターに認識可能な形で人が知識を与えれば、コンピューターがそこから専門分野の知識を取り込み、実用可能な水準で推論を引き出すことができるようになった、ということが挙げられている(総務省)。しかしこの時点では、コンピューターに認識可能な形で記述する必要があり、この世の中にある膨大なデータをその記述方式に変換することには限界があった(総務省)。

そして2000年代に入って、第3次ブームが起き、それは大量のデータ(ビッグデータ)をコンピューターに入力することで、コンピューター自身がそこから学び、より精度の高い推論が可能になった(総務省/説明がなかったが、この時点でコンピューターに認識可能な、容易に扱える記述方式が見つかったのだろうか?)。何年か前に、グーグルが開発したアルファ碁で、AIがプロ囲碁棋士に勝ったことがニュースで取り上げられ話題を呼んだが、これはその一例だと思う。この話題によって、一般にAIがスゴイらしいということが、わかりやすく伝わった。

またアメリカの未来学者、発明家のレイ・カーツワイルという人が、シンギュラリティという言葉を使って、遠くない将来、AIが知識や知能で人間を超えるという主張を著書の中でしたことが、AIの持つ可能性の衝撃を一般に広めたと言えそうだ。AIのせいで、人間の仕事がなくなってしまう、といった発想は、現在のコンピューター・サイエンスの進化とともに、カーツワイルの主張からも影響を受けているように見える。

わたしにとってAIと言えば、身近なところでマッキントッシュのコンピューター。かれこれ20年以上使っている。確かにここ10年くらいの進化には目覚ましいものがある、と思う。しかし日本語入力など、まだまだ足りないところも多い。自動翻訳も、日本語に関して言えば、進歩はしているが使えるものになるには先がまだ長そうだ。英語とスペイン語など他の近い言語間の翻訳については、かなり使えることを体験しているので、日本語がまだ足りないだけとも言えるが。

AIに関してなんとなく気になるのは、アルファ碁でAIが人間に勝ったとか、一人の未来学者(コンピューター科学者ではなく)の発言が、ブームの中心となって一般に広まっていること。カーツワイルという人が何を専門としているかも知らずに、著書を読んだわけでもなく、一部の発言が真実であるかのように信じられてしまうことは、どうなんだろうなと。

そこでAIについて、少し学んでみようと、Coursera(オンライン大学)の「AI for Everyone」という授業を受けてみた。先生はAndrew Ngというアメリカのコンピューター科学者、人工知能研究者で、コーセラの創始者でもある人。For everyoneというくらいだから、知識のない人間にもわかるような授業だろうと思って受けた。4週間分の授業をほぼ受けてみて、すべてを理解したわけではないけれど、大まかなことはわかった気がした。

最初にそうなのか、と思ったのは、AIには2種類あって一つはANI(Artificial Narrow Intelligence)、つまり現在進行しているマシーンラーニング(機械学習)とかディープラーニングとかの範疇のこと。Narrowは狭いとか限られた範囲を指す言葉。基本は人間が適切なデータを大量にマシンに与えること(input)でoutputされるもの、その成果を指しているのだと思う。アルファ碁もそうだと思うし、自動運転とか顔認証とかもこのinput → outputの仕組によって得られる成果のようだ。

それに対してもう一つのAGI(Artificial General Intelligence=汎用人工知能)は、人間とまったく同じ能力をもつ知能を指す。つまり現在の状態は、AGIではなくANIのところでの進行ということ。ここのところが一般に、混同されて伝わっている気もする。AIはAGIのところにまで到達するのか、あるいはAIとAGIとは根本が違うのか。もし人間がAGIを手に入れるとしてどれくらいかかるのか、についてはコンピューター科学者も断言できないようだ。アンドリュー・エン先生によれば、何十年、何百年、あるいはもっとかかるかもしれない、とのことだ。現在の進化のスピードをもってしても、それくらいかかるということか。

授業を受けた感じでは、アンドリュー・エン先生は、AIとは何かということや、現在のAIには何ができて何ができないか、といった区別を具体例をあげて説明することで、過剰なAIへの焚きつけやあおりを避けているようにも見える。それは一般の知識のない人ほど、ブームの中で踊らされてしまうことが多いからではないだろうか。科学として物事を知るというのは、正確な事実関係の認識がまずある。AIとは、まずは科学の話なのだから。

ではコンピューター科学以外の話として、AIについて考えてみたらどうだろう。たとえば人間の脳の働きについて考えてみるとか。AIの技術は人間の脳の働きをコピーすることで生まれたと思うが、AIについて考えていると、人間の脳の働きのことが逆に気になってきたりする。

AIについて調べていて、いくつか面白い論文を見つけた。ベン・ゲーツェルというAGIの研究者は、「汎用人工知能概観」(『人工知能』2014年5月号)で、人間の知能を八つの異なる種類に分類する考え方を紹介している。有名なものとしてガードナーの「多重知能理論」をあげていた。よく知られた知能の測り方としてはIQ(intelligence quotient=知能指数)がある。これはターマン(アメリカの心理学者)によって1916年に提唱されたものだが、それより前にスピアマン(イギリスの心理学者)によって知能を定義して測定する初期の研究があったようだ。どちらも心理学者というのが興味深い。今なら脳科学とか認知科学とか情報処理とか、そういう分野の学者から出てきそうだが。

今でも知能とか頭の良し悪しの話には、IQの測定値が出てくることが多い。「あの人はIQが高いからね」といった文脈で。(日本の学校では今でも知能検査をやってるのか、ちょっと調べてみたが、やってるところ、やってないところあるようだった。Forbsというアメリカのビジネス雑誌の今年の1月号に、「賢い国、世界ベスト25」という記事があり、その査定の一つとしてIQを比べている。それによると1位シンガポール、2位中国、3位香港となっていた。一応いまも一つの基準として有効なのだろうか)

一方、ガードナーの多重知能理論によれば、知能は(1)言語的、(2)論理、数学的、(3)音楽的、(4)身体運動的、(5)空間的、(6)対人的、(7)内省的、(8)博学的の8つの種類の知能が考えられるようだ。上にあげた論文では、「個々人の知的スキルは、知能プロファイル、すなわち8種の知能にまたがる固有のモザイクまたは組み合わせによって表現される」(ゲーツェル)と記されていた。つまり知能は一つの塊ではなくて、いくつかの要素の組み合わせによって表されるものだという考え方なのだろう。それに比べてIQのアプローチは、分化されない一つの塊としての知能として捉えられていることになる。

ガードナーのこのアプローチには、なるほどと思わされるところある。おそらくIQの測定では、この中の(1)と(2)が主な要素となっているのではないか。(3)~(8)の知的スキルを見ると、ちょっとほっとするところがある。なーんだ、知力を測る方法として、こんなにいろんな見方があるのか、と。たとえば(4)の身体運動的知力の高い人で、(1)の言語的能力が低い場合、あるいは(6)の対人的な知的スキル(人の話をよく聞いて、自分の考えを伝えらえる対話能力など)が高い人で、(2)の論理、数学的能力があまり高くない場合、IQ測定では知能が高いとは認められなかったかもしれない。

細かく見ていけば、この八つ以外にも知的能力を測る方法はありそうだ。人間を多面的に見ていくという点で、単純なIQ測定法より良い方法のように思える。社会が必要とする人間、という尺度だけで人間の能力を測るのは理に合うかどうか。また、その社会が必要とする人間という基準自体も、昔のようにIQ的な知力が高ければいい、ということから変化していると思われる。(6)の対人的知力などは、現代社会において筆頭にくるかもしれない。また職業によっては、(5)の空間的知力の高い人が優れた仕事をする可能性もあるだろう。

もちろん、基本的な考えとして、社会にとって何の役に立つのか、だけで人間の存在の意味を測ることはできない。音楽的知力を有する人がいることで、まわりの人間が幸せを感じたり、生きる力を授けられることはあるだろう。

人間の知的能力を見極めることは、きっと簡単なことではないのだ。最近Netflixで『地上の星たち』というインド映画を見た。主人公の男の子は、学校の勉強についていけず、小学校3年生を2回やっている。落ちこぼれの度合いに衝撃を受けた両親が、寄宿制の学校へやる決心をする。そこでも相変わらずの落ちこぼれだったが、あるとき美術の代用教員がやってきて、事態は大きく変化する。その美術の先生は、少年の書いたノートをじっくり見て、「失読症」(識字障害)であることを発見したのだ。勉強ができない理由は、文字が認識できないせいだった。

その先生は授業でこんなことを言う。相対性理論を唱えた物理学者アインシュタイン、イタリアの芸術家レオナルド・ダ・ビンチ、蓄音機や電話を商品化した発明家エジソンも、そして先生自身もこの障害を持っていた、と。主人公の少年は、この話を聞いて勇気づけられ、美術教師の適切な指導によって障害を克服していく。さらに、もともと好きで才能を見せていた絵を描くことに情熱を傾け、素晴らしい成果を上げるまでになる。

この少年は文字を読んだり、書いたりすることには障害があったが、別の知力においては優れたものをもっていたのだ。素晴らしい絵を描くこと、それが人間の知力の一つであることは間違いない。言語や計算に優れていることだけが、知力の高さを示すわけではない。

人間の能力、知力を測ることは簡単ではない。人間の脳の機能をニューロンレベル(脳の神経細胞)で詳細に明らかにしたとして、そこでわかった構造や機能性によって、人間の思想や創造性まで解明できるのだろうか。あるいは再現できるのだろうか。思想や創造性は、人間の場合、明確な意図や意志、あるいは動機から生まれる。人間の脳と同じ構造と機能をもつ機械脳(AI)を再現したとして、そこに意図や意志、動機はどのようにして生じるのだろうか。

前述のゲーツェルによれば、AGIの正確な定義や特徴づけはAGI分野の研究課題の一つだと言う。同時に人間の脳の解明も、意図や意志、創造性の起源はどこにあって、どのように出現するのか、まだ解明されていないと思う。とても知りたいことの一つだ。

参考
総務省