20170929

在日二世とわたし

わたしは日本国籍をもち、日本語を話す。両親はどちらも「日本人」で、生まれも育ちも日本。日本の公立学校を中心に教育を受けてきた。日本ではこういう人間を「純粋な日本人」と呼び、日本に住む大半の人間はこういう人間だから、日本は単一民族国家と言ってもよい、とされたりもする。

でも実際、日本には日本で生まれ、日本語を話す「日本国籍を持たない人」や「日本に帰化した人」がたくさん住んでいる。古くから住み、数としても一番多いのは朝鮮半島をルーツにもつ在日コリアンではないかと思う。在日コリアンに親しい友人がいるわけではないが、ここ15年くらい、朝鮮半島からやって来た人やその子ども、またその母国に暮らす人々も含めて関心の対象の一つにしてきた。

きっかけが何だったかはよく覚えていない。もしかしたら東京国際ブックフェアで、韓国のブースで見つけた本が興味をもつことにつながったかもしれない。その本とはMirok Li(李 弥勒)による自伝『The Yalu Flows: A Korean Childhood』。原典はドイツ語で書かれているが(作者がドイツに亡命して暮らしていたため)、わたしが手にしたものは1986年出版の英語訳版で、韓国で出版されたものだ。

ミロク・リー((1899-1950)は、日本による植民地支配が始まった年の10年後の1920年、3.1(独立・抗日)運動を経て、ドイツに単身亡命している。中国との国境を流れる790Kmにわたる大河、ヤールー川(鴨縁江/朝鮮名:アムノク川)を夜の闇にまぎれて命からがら渡っていったことから、タイトルの『Yalu Flow』はつけられたのだろう。この作品では、ミロクの幼年時代からドイツ到着に至るまでの十数年間のさまざまな出来事が、ひとつひとつ思い出しては辿るようにして書き綴られている。

ブックフェアでたまたま手に取ったこの本のどこに惹かれたかと言えば、日本による植民地化がはじまったときのことが、そこに暮らす地元の子どもの視点で詳しく描写されていたからだ。こんな話は聞いたことがないと思い、その本をすぐに購入した。ミロク・リーによるこの本は、当時の朝鮮半島や日本の状況を、一般市民の暮らしを通して知る機会となったし、自伝としても、また物語としても面白かった。

何年かのちにこの作品を日本語訳し、主宰する葉っぱの坑夫で出版している。

この本を読んだこと、日本語に訳して出版したことで、朝鮮半島に対して親しみをもつようになったのは確かだ。また同じ頃にちょうどサッカーの日韓W杯が開かれ、その試合を見ていて、韓国代表チームに感動させられたことも、朝鮮半島への興味に多少影響したかもしれない。しかし在日朝鮮人について知るようになるのは、もっとあとのことだと思う。それがいつ頃のことか、ほとんど記憶にないが、mixiが人気だった頃、すでに「在日朝鮮人韓国人」のコミュニティに参加していたという事実はある。

引き続き、朝鮮半島の問題や在日コリアンに対して興味をもちつづけ、様々な著者の関連図書を読んできた。テッサ・モーリス-スズキによる、在日たちの帰国事業を追った本『北朝鮮へのエクソダス』や北朝鮮を旅した『北朝鮮で考えたこと』を読んだのもそのうちものもだ。コリアンでも日本人でもないイギリス出身の学者が、日本と朝鮮半島をめぐる問題に真摯に迫っていることに衝撃を受けたし、彼女の状況認識の仕方に尊敬の念を抱いた。日本サイドの言説から外れてものを見ることの大切さを知ったのも、このときのことだと思う。

日韓W杯の延長で、学術書やエッセイ以外に、サッカーの世界でも、在日や朝鮮半島の選手たちを興味の対象として追ってきたところはある。最初に知った在日の選手は安英学(アン・ヨンハ)選手で、新聞のインタビュー記事を読んで感銘を受けたことを覚えている。具体的な内容は覚えていないが、朝鮮半島や日本の社会に対する見方や、北朝鮮代表としてサッカーをする気持ちなど話していたと思う。2010年南アフリカ大会のときは、鄭大世(チョン・テセ)選手にも注目していた。のちにこのときの北朝鮮代表について、イギリスのスポーツライター、ショーン・キャロルが鄭大世に取材したものを日本語に訳して出版もしている。
知られざる国のサッカー代表

また南アフリカ大会の前には、韓国代表の朴智星(パク・チソン)選手が、新聞のインタビューに答え、南北両朝鮮がいっしょに南アフリカに行けたらいいと思う、と発言していたのを読んだ。そうなんだ、両国の選手たちの中には(そして在日の選手の中にも)そのように望む人が少なからずいるんだなあ、と感慨を覚えたことを記憶している。

ここまで、朝鮮半島をルーツとする人々へのわたしの興味を、その始まりから書いてみた。少なくとも10年から15年くらい、そうしてきたということだ。おそらくそこには自分が日本人であることが関係している。また最近『在日二世の記憶』(2016年、集英社)という本を読んで、いろいろ思うところがあった。新書版ながら750ページを越す、分厚い、中身の濃い書籍だ。

この本は小熊英二、高賛侑、高秀美編による在日二世のインタビュー集で、50人の在日コリアンを6年間かけて取材したオーラル・ヒストリー集である。被取材者を生年月日順に並べてあり、一番年上の人が1932年生まれ、一番若い人が1967年生まれと、同じ在日二世でも35年の差があった。35年と言えば一世代のあたるわけで、社会状況や経験の違い、それに対する感じ方にもバラツキはあった。しかし時代が進んでもいくつかの共通事項はあり、個別の体験への衝撃とともに、読んでいて記憶に残った。

記憶に残ったことの一つは、親の世代の暮らしの貧しさであり、読み書きができないなど在日一世である親たちがたどった人生の厳しさだ。そのような貧しい暮らしや、朝鮮人の日本社会での地位の低さなどから、自分がなぜ朝鮮人として生まれなければならなかったかについて、否定的な気持ちをもったことがある二世も多いようだった。日本の学校に行っていた者は、朝鮮人であることを恥じたり、隠したりもしていた。彼らが「チョン」などと言ってからかわれたり、いじめられたりという話を聞くと、いったいいつの時代の話かと思うが、自分が学校生活を送っていたときと重なっているのだ。つまりわたしが同じ社会で生きていた時代の話しなのだ。同じ社会に暮らしながら、知らない世界が、見えない世界があったということだ。

この本に登場するのは、主として自分で道を切り開いてきた人々で、音楽家やスポーツ選手、映画監督など名の知られた人も何人かいる。そこまで有名でなくとも、日本社会の中で事業を成功させたり、起業家として業界では知られている人もいるようだ。しかし多くの人に共通しているのは、子ども時代に、自分は在日だから、普通の日本人のようにまともな職業(会社員や教師など)への道は断たれている、という認識をもたされていたという事実だ。

ある人は、学校の進路相談で「教師になりたい」と言うと、教師から「あんた知らんの、それは無理やで」のようなことを平然と知らされたりもしている。大学院時代に、在日は大学の教員にはなれない(なった人はいない)と担当教授に教えられ、大学院をやめてヨーロッパに留学した人もいた。未来を夢みる子どもや十代の若者にとって、日本社会にいる限り、自分には自由に生きる権利、職業を選択する自由が失われている、と知ることがどういうことだったのか。それは想像を絶すること、底なし沼のような暗く重い未来を受けとめねばならないことだったのではないか。普通ならいろいろな夢を描く年代に、である。

そういう社会の中で、何も知ることなく、ぬくぬくと生きてきたのは、そしてその社会をつくり、存続させてきたのは日本人である自分だ。この本の終わりのまとめの部分で、小熊英二が「在日の歴史は日本社会の鏡であり、もう一つの日本史だ」と言っていたことは正しいと思う。

在日の人に知り合いがいなくとも、在日の人がいる日本社会を自分も構成し、日々生きていることで、すでに彼らと関係している。いや、彼らはわたしたちだ。自分がどう生きるか、日本で、あるいは国外でどう生きるか、を考えるときにも、自分の国に在日の人々が暮らしていることが無関係とは言えない。家庭内で北朝鮮のことを、あるいは韓国のことを話題にするときも、なぜ朝鮮半島を日本が植民しようとしたのか、なぜ分断は起きたのか、という知識なしに、あるいは事実の曲解や断片的な理解で語ることに対して、自覚的になることは必要だと思う。とくに小さな子どもがいる家庭では。

日本社会で生きることに疑問をもった二世たちが、ドイツやフランスに留学などで行き、外から自分のアイデンティティを眺めてその意味を知ったという話は興味深い。ドイツに留学していて、ドイツにおけるトルコ移民の人々が、在日の状況と似ていることに気づいた人もいた。在日の人たちはこのような見方ができることで、よその国の同じような状況にいる人々に共感したり、連帯したりすることで、自分の住む世界や思想の幅を広げているとも言える。日本に生まれ育って、自国には「日本人」しかいないと思っている日本の人々より、確実に広い視野を確保している。

『在日二世の記憶』はページ数も多いし、いっぺんに読むのは難しそうだったので、毎日一人ずつ読むことにしていた。朝起きて、コーヒーやハーブティーを飲みながら、一人一人の人生を知っていく。50人いるので50日、プラス巻末の編者たちの鼎談に3日、全部で53日間かけて読んだ。中身の濃い人生なので、一日に一人でちょうどよかったと思う。登場する人々が文中であげていた、お薦めの朝鮮史の本、本人発行による俳句雑誌、出版されたエッセイ集、音楽家の場合はYouTubeの動画など、インタビュイーの周辺も当たりながら読んだ。歴史作家、片野次雄著『李朝滅亡』もその一つ(この本は購入した)。インタビュイーの一人が、朝鮮と日本の関係を知るのによい著作であると紹介していたので。

『在日二世の記憶』には、在日の人々を救ったり、支援したり、協力を惜しまなかった日本人のこともたくさん語られている。ユダヤ人を助けたと言われる杉原千畝は有名だが、朝鮮人を助けた日本人の話はあまり聞かない。それはユダヤ人は日本人と関係が浅く遠く、朝鮮人は歴史的にも対立や利害が深く近いからかもしれない。また朝鮮人を救うことが、必ずしも名誉にはならない日本の社会の反映なのかもしれない。日本の社会や制度の欠損や進歩を知ることも含めて、具体的な一人一人の在日の人生を本人の語りによって知ることは、統計やメディアが伝える概要的な情報とは全く違う体験が得られる、と感じた。

最後にもう一つ。この本の中の在日二世に、自分のアイデンティティを考えるとき、帰化して日本の国籍はとるが、名前は朝鮮名で生きるという人がいた。最近の新しい傾向かもしれない。日本社会でよりよく生きるために国籍は変えるが、名前は民族のものを残すという考えだ。現実に生きている社会、その中でフルに生きたいと思う自分、その基盤は日本だ。しかし両親や祖父母の文化や言語の中にも自分は生きている。そこに矛盾はない。ある国家の枠組みの中に身を置く選択をしたとしても、自分という個人の全権を国家に託すわけではない。そういうことだろうか。

『在日二世の記憶』小熊英二、高賛侑、高秀美編、集英社 (2016/11/17)



20170915

日本の大手メディアの信頼度は?

1年くらい前に紙の新聞を取るのをやめた。長く習慣的に取っていたものだが、2、3年前くらいから、新聞を読む意味に疑問をもち始めていた。取っていたのは朝日新聞だが、記事の扱いや内容に得るものが少ないと感じたからだ。そう思い始めてからは、ヘッドラインをさっとなめ、気になる外部の専門家のインタビューやコラム(小熊英二の論壇時評など)、いくつかの署名記事のみ読む日がつづいた。家族に自分はいつやめてもかまわない、と宣言してから2年くらいして、やっと賛同が得られ、めでたく新聞をやめた。月額購読料4,037円、年額で48,444円の無駄が省けた。

新聞を読まないとどうなるか。テレビのニュース? いやそれも見ない。同じ理由から。ではどこで情報やニュースを得るのか。ネットでいくつかのデジタル版の新聞は(無料の範囲で)見ている。その理由は主として、大手メディアがどのような言説をとっているか、知っておくためである。日経、毎日、朝日、ハフィントンポスト、ときに琉球新報、沖縄タイムスなど。あとは海外の英語版の新聞(中東、インドなど含む)。

最近重視しているのは、ニュースではなく、もっと遅いメディアだ。事件や社会事象について解説し、専門家にインタビューして見解を聞いている特化されたメディア、あるいは国際ニュース解説のメールニュースなどを読んでいる。国際ニュース解説については、新聞をやめたあと、有料のものを申し込むことにした。いわゆる大手のメディアではないものを選択するときは、そのメディアや書き手への信頼度が大きな問題になる(いや、大手メディアだって信頼度を常に問われるべきだが)。しかし今という時代は、その「メディアを選ぶ」ことこそが、ニュースを、情報を得ることと同義になっているようにも思う。

一つ例をあげたいと思う。エッセイスト、翻訳家の中島さおりさんのブログを読んでいて、「私は共謀罪に反対です。」という文に出会った。中島さんは、国連の「越境組織犯罪防止条約」に加入するために、国内法で「共謀罪」法案を成立させる必要がある、という論理が国会で通り、採決されたことに対して反論している。組織犯罪処罰法の中に、共謀罪を含めることで、2020年の東京オリンピックに備えるというのが、政府側の言い分のようだ。

中島さんの主張の中で、国連の「越境組織犯罪防止条約(TOC条約)」というのは、マフィアや暴力団など「物質的経済的な目的がある組織犯罪集団」を取り締まるためのものであり、テロや宗教、思想集団の犯罪を対象としてはいない、という部分が目を引いた。つまり国際的な条約に批准するために、政府がぜひとも必要と言っている共謀罪(を含む組織犯罪処罰法)の成立は求められていないことになる。

求められてもいないのに、それができないと国際条約を批准できず、国際社会から非難を浴びるかのような発言をしているのは、騙しの手口であり、国民への嘘でもある。政府が共謀罪法案を成立させるために、口実としてTOC条約批准を利用した、という風に見られてもしかたない。

このことを踏まえて、「越境組織犯罪防止条約」「共謀罪」について、事実関係を別のメディアで調べてみることにした。

日経新聞(デジタル版)の日経プラス10「フカヨミ」という特集に次のような記事があった。

なぜ日本は「組織犯罪封じ込め条約」に乗り遅れたのか   
坂口祐一・論説委員に聞く2017/2/6 10:00 
導入部にには次のようなことがあげられていた。
1.安倍総理が、犯罪の計画段階で処罰する、いわゆる「共謀罪」法案の成立に意欲。
2.国連総会でテロ組織などの国際犯罪に対応する「国際組織犯罪防止条約」が採択され、187の国と地域がこの条約を締結している。
3.この条約の締結には共謀罪を盛り込んだ国内法の整備が必要
4.共謀罪は過去3度にわたり廃案となり、日本は国連の条約を締結できずにいる

この赤字の部分は、事実ではない。「国際組織犯罪防止条約」はマフィアなどを取り締まるためのもので、テロ集団のためのものでないから。そういった趣旨の条約であることから、共謀罪法案の成立は必須ではない(専門家によると、他の国内法で充分対応可能だそうだ)ことがわかる。よって現状のままで、日本は国連の条約を締結できるのだ。 

日経新聞という信頼を得ているはずの大手メディアで、国際的な条約の説明、解説に不備(うそ)があるのは大きな問題だと思う。これを読んだ人は、「国際組織犯罪防止条約」の定義を間違って覚えてしまうだろう。

またこのページは、国際組織犯罪防止条約の説明として、以下のことが図にして、「わかりやすく」あげられていた。

国際組織犯罪防止条約とは
  • テロ防止に向けて国際的な情報共有を強化(ここに赤線が引かれている)することを目的に、200011月国連総会で採択
  • 条約の締結には、「共謀罪」を盛り込んだ国内法の整備が必要で(ここにも赤線)、「日本は未締結」
  • 2020年東京五輪・パラリンピックでテロ対策に万全を期すため(ここにも赤線)、法案の成立と条約の締結に安倍総理が意欲を示す

このページは、日経の論説委員、坂口祐一に話を聞くという形で記事が書かれている(元は1月31日放送の小谷真生子キャスターの番組のようでそれを記事化している)。つまり論説委員という社説を書く立場にある新聞社の重要な記者が、このような事実とは明らかに違うことを認め、広めてしまっているのだ。

これにはわたしもさすがに驚いた。日本のメディアもここまできたかと思ったし、自分(日本の国民)は馬鹿にされていると感じた。

政府と大手メディアがいっしょになって、東京五輪を口実に、テロ対策を国際社会とともに進めていくためには、共謀罪の成立がぜひとも必要だと声をあげている、としか見えない。

このような日本国民に向けての騙しの手口というのは、政府と大手メディアが手を結ぶことで大きな効果をあげてきただろうことは想像できる。ではそういう嘘の言説に騙されないためには、国外に出たらすぐに間違っていると指摘されてしまうようなものごとの理解から抜け出すにはどうしたらいいのか。

やはり自分で信用のできるメディアを選びとることをするしかないのでは、と思う。またメディアが平気で嘘をつけないよう、各問題の専門家、学者などは、新聞やテレビが嘘を報じたときは、声をあげて批難してほしい。個人でも、学会や大学の立場からでも。知の集団はそういう形で、実社会に貢献してほしい。政府やメディアが二度と嘘がつけないよう叩いてほしい。

ニュースサイトSYNODOSで今年の6月に掲載された「共謀罪、政府与党の主張を徹底検証!」では、刑法学者の高山佳奈子教授が、シノドス編集長荻上チキの質問に答えている。高山さんは専門家の立場からこの問題の参考人として、法務委員会に出席して意見を述べた。高山さんが指摘している政府の発言の問題点の要点をいくつかあげてみる。

*法律のことでやや複雑にからみあう事項の理解が必要なため、詳細は実際の記事読んでほしい。ここでは意図を汲んだ要点のみあげる

  1. TOC条約は2000年にマフィア対策の条約としてできたもので、国際法上はテロ対策の諸条約とは全く無関係。対象は利益を得ることを目的とした組織的な犯罪集団。
  2. 政府側はTOC条約に加盟していないと五輪を招致できないと言っているが、実際には招致できている。政府の主張は論理的に間違っている。
  3. TOC条約には、共謀罪に似た対応が選択肢の1つとして求められてはいるが、日本の場合は、従来からある共犯の処罰範囲や予備罪などのいくつかを組み合わせることで十分対応できる。
  4. 既存の枠組みでは不十分と指摘する専門家もいることに対して:日本の場合(危険が発生した段階で処罰する)犯罪類型が諸外国よりたくさんあるので、現行法で対応が可能と思われる。
  5. TOC条約の批准はマフィア関連の情報共有にはつながるが、テロの情報共有にはつながらない。
  6. テロに関する国際条約は主要なものだけでも13本あるが、日本はすべて国内法化しており、対応が完備している。
  7. テロ対策と言ってTOC条約と結びつけるのは国民をだますような議論の運び方である。
これを読めば、政府や例に挙げた日経新聞の記事が、この問題に関して何をどのような方法で推し進めたかが、よくわかるのではないか。

それに対して、東京新聞は署名入りのウィーン取材記事(写真も記者によるもの)で、国連の「立法ガイド」を執筆した刑事司法学者のニコス・パッサス教授へのインタビューを載せている。この記事でパッサス教授は、「TOC条約はテロ防止を目的としたものではない」と明言した上で、「新たな法案などの導入を正当化するために条約を利用してはならない」と警鐘を鳴らしている。

また東洋経済ONLINEも、署名入り記事で、SYNODOSと同じ刑法学者の高山佳奈子教授にインタビューをし、この問題の真相に迫ろうとしていた。少なくともこの件に関しては、小さめのメディアの方がまっとうにものを見ている。

共謀罪法案とは別に、日本のメディアがどのようなものか知るのに役立ちそうなSYNODOSの別の記事があった。国連人権理事会の特別報告者のデービッド・ケイ氏の出した報告書についての記事である。ケイ氏は、昨年日本を訪問し、表現の自由に関する包括的な現地調査を行なっている。その報告書の中に、「メディアへの政府の圧力に対する懸念」という項目があった。以下にSYNODOSの記事からの引用を載せたい。少し長いが、日本ではあまり知られていないことなので、詳しく引用させてもらう。

国際法・国際人権法の専門家、阿部浩己教授へのインタビュー記事: 
報告書にはいくつかの重要な指摘があります。一つは、メディアの独立性についてです。(中略)報告書では、圧力に抗するメディアの力が日本では弱いことが指摘されています。その理由の一つして、ジャーナリストたちが大手メディアに雇用され、多くの場合そこでずっと仕事をし、組合も企業レベルでしか存在していないことがあげられています。要するに、日本では、雇用された新聞社なりテレビ局に忠誠を尽くす仕組みになっており、横断的にジャーナリストの独立を守る仕組みがないということです。 
世界的に見ると、ジャーナリストたちはむしろ所属する報道機関を移動することが多く、だからこそ、所属する会社に忠誠を尽くすようなことはなく、ジャーナリスト同士での連帯の度合いが高くなっている、と報告書はいっています。日本での現地調査に協力してくれたジャーナリストたちのほとんどが匿名を条件としたことにケイ氏は驚いたようですが、これも、日本の報道機関で働いている人たちが、経営者からの報復を恐れ、ジャーナリストとしての独立性を保障されていない証左であるとされています。

この記事を読めば、なぜ日本の大手メディアでは、本当でないことがまことしやかに報道されるのかが理解できる。残念ながら、わたしたち日本社会に住む、日本語のみの話者は非常に貧しく、偏向した情報環境の中で暮らしている、と言わざるを得ない。

日本人の中には、北朝鮮や中国の人々は政府やメディアの手中にあり、洗脳状態の中で暮らしているようなイメージをもつ人が多くいるかもしれないが、実際は、彼らは状況をある程度認識した上で、権力機構に従っているフリをしているだけだ、いう識者の分析を読んだことがある。それに比べると日本人は、メディアの言うことを鵜呑みにしてしまう傾向が強いそうだ。自分たちは民主的で表現の自由が確保された先進国に暮らしている、という理解。しかし実際は北朝鮮や中国以上に、メディアあるいは情報のリテラシーが低いという可能性がある。

日本社会を構成する、日本語で情報を受信する一人一人が、情報を判断する力、メディアを識別する能力をつけなければ、今のような状態から抜け出すことは難しい。一人一人、それはわたしであり、あなたであり、どこかの誰かではない。政府が都合のいい論理を振りまわすことができたり、メディアが騙しの手口や嘘で国民を平気で欺くような国は、どんなに経済力があっても、大学卒業率が高くても、知的レベルの低い国としか言えないし、そのように国際社会から見られてもしかたがないな、と思っている。