20191129

ミス、偶然性、予測不可能(補足)


このテーマで書くのは(1)(2)で終わりと思っていたのだけれど、もう少しだけ補足的に書きたいことが出てきたので、追加で書くことにした。

きっかけは(2)を書いていたときに起きた、サッカー場での「事故」だった。ミスと事故は違うかもしれないが、ミスによって事故が起きることはある。どちらも予測不可能な形でやってくることに変わりはない。そしてそれに関わった人々が、どう対処するかには興味深いものがある。

11月10日(日)、イングランド北西部にあるエヴァートンのホームで、ロンドンをベースにするトットナムとの試合があった。試合終盤の70分過ぎ、トットナムのソン・フンミン選手(韓国)がエヴァートンのゴメス選手(ポルトガル)にタックルを仕掛け、それによって転倒したゴメス選手が、手前にいたトットナムのオーリエ選手(コートジボワール)と衝突し重傷を負った。ニュースによると脱臼骨折とのことで、映像には映されなかったが足首が不自然な方向に曲がってしまっていたとのこと。ソン選手には当初イエローカードが出され、その後事態の重さから一発レッド(退場)へと変更になった。

試合は一時中止、ピッチ上は大変な騒ぎになり、医療関係のスタッフの他、各チームの選手やコーチングスタッフなどが、負傷した選手の周囲を取り囲んだ。ゴメス選手の足の状態を目の当たりにしたソン選手はショックを受けてパニック状態になり、頭を両手でおおい、スタッフに抱きかかえられながら号泣している映像がカメラに捉えられた。また衝突されたオーリエ選手もショックを受けていたようで、両手で頭を抱えていた。

これに似た事故を10年前にも見たことがあった。2009/2010シーズンのプレミアリーグの試合で、ストーク・シティのショウクロス選手がアーセナルのラムジー選手にタックルを仕掛け、骨折を負わせた。ショウクロス選手にはレッドカードが出され、退場した。退場の際、目に涙をためている選手の顔が映し出された。当時、ショウクロス選手は23歳。ラムジー選手は20歳、どちらも将来を有望視されているイギリス人だった。2月に事故にあったラムジー選手は、その年の10月にトレーニングに戻ったが、フィットネスを取り戻すため、下位のチームでしばらくプレイするなど、万全な状態になるまで長い日数を要したようだ。

サッカー選手にとって怪我、中でも手術を必要とするような重い負傷は、大きな絶望感につながる。ピッチ上で怪我をし、タンカーに乗せられて搬送される選手が、泣いている姿はよく見られる光景だ。しかしその怪我が重傷であるときは、怪我を負わせた選手の方も大きなショックを受ける。

トットナムのソン選手のときは、その号泣する選手のまわりをエヴァートンの選手が囲んでいるのが印象的だった。ゴールキーパーのピックフォード選手(イングランド)とフォワードのトスン選手(トルコ)が、ソン選手の肩を抱き、背をさすり、頭に手をやり慰めていた。このような予測不可能な出来事の、それも自チームの選手が大けがを負った場面、騒然とした空気の中で、事故の一因となった選手の元に行って慰めの言葉をかける、という行為に目を惹きつけられた。

これで思い出したことがあった。何年も前、もう閉店してしまった有楽町西武での出来事。ある日そこで買い物をしていたら、目の前の下りエスカレーターを年配の着物姿の女性が上から転がり落ちてきた。はっきりとは覚えていないが、わたしの目の前だったように思う。もしかしたら、一番近くにいたのが自分だったかもしれない。驚きのあまり、わたしは呆然と突っ立っていた。何もすることができなかった。すると周りにいた何人かの人が、その女性に駆け寄って助け起こし、救急車を呼び、とテキパキと事故の処理をはじめた。

そのあとで、わたしは考え込んでしまった。なぜ自分は何もできなかったのか。突っ立っているだけだったのか。人間として欠陥があるのではないか。たとえ他のこと、たとえば仕事ができるとか、何かの能力に優れているといったことがあったとしても、このような場面でまるで役立たずであるのは、人間として全体的に見たとき、極めて能力が低いことにならないか。などなど。確かに突然の出来事に対応するのは簡単ではない。でも。

それから何年かたって、同じような場面にまた遭遇した。そのときは新宿西口の大江戸線に降りていく長い階段だったと思う。階段半ばあたりまできたとき、上から年配の女性が転がり落ちてきて、途中の踊り場で止まった。このときはもう迷わなかった。すぐに駆け寄って、女性に声をかけ、周囲でびっくりしてこちらを見ていいる人々に救急車を呼ぶよう頼んだ。そして救急車が到着するまでの何分間か、その女性のそばに着いていた。女性は気は失っておらず、話をすることはできたし、骨折などはないように見えたが、ショックもあってか起き上がることができないようだった。わたしに向かって何度も「すみません」「ありがとう」の言葉を繰り返していた。

その女性にはこちらの事情など知りようもないことだけれど、この出来事があって、わたしは少しだけ救われた思いがした。自分は冷酷な人間でも役立たずでもない、以前何もできなかったのは、おそらく経験が足りなかったせいだろう。そう思えるようになった。

サッカー選手の場合は、自分が事故の原因だったりするので、心理的な負荷はとてつもなく大きいだろう。ソン選手に与えられたレッドカードは、VAR(video assistant referee)での診断の結果、イエローカードに変更された。ソン選手のタックルが引き起こした事故ではあるが、怪我自体はソン選手の足によるものではなく、ゴメス選手の落下時の衝撃と判断されたからのようだ。その試合の2日後には、トットナムはセルビアでのチャンピオンズリーグの試合を控えていた。ソン選手の退場時のショック状態から見て、出場は無理ではないかと思われていた。しかしソン選手はトットナムにとって、今シーズンも得点源の一角。どうなるのか、でもあの様子ではおそらく無理だろう、多くの人がそう思っていたかもしれない。

しかしセルビアでの試合に、ソン選手はスタメンで出てきた。なんというメンタルの強さ。トットナムのファンだけでなく、エヴァートンのファンからも、たくさんの励ましのメッセージを受けたことが、その後のソン選手のインタビューでは語られていた。そういう思いに応えるためにも、自分は試合に出る、と語っていた。そしてその試合で2ゴールをあげ、チームを快勝へと導いた。そのゴールのとき、ソン選手は喜びを表すことはなく、ゴールを祝うチームメートに囲まれながら、カメラに向かって両手を合わせた。

この同じ動作をその次の週のプレミアリーグでまた見ることになった。ウォルバーハンプトン対アストンヴィラ戦での、ヒメネス選手(メキシコ)はゴール後に、ソン選手と同様、両手を合わせた。それはその試合で、オーバーヘッドのシュートをしたヒメネス選手の足が、相手ディフェンダーの頭に当たり、その選手は脳震盪を起こして気絶した。その直後、ヒメネス選手は膝をついて、ヴィラのGK(ゴールキーパー)などとともに気絶しているディフェンダーへの対処(体の向きを変え舌を出させるなど)をしていた。医療スタッフが到着する前のことだ。サッカー選手はこういったことへの対処法の訓練を受けているのだろうか。

ここでも試合は長い時間にわたって中断した。脳震盪の選手はタンカーで運ばれていった。ヒメネス選手には、危険なプレーということでイエローカードが出された。

その後試合は再開され、ヒメネス選手はゴールを決め、ウォルバーハンプトンは勝利した。そのゴールパフォーマンスのとき、ヒメネス選手はソン選手と同じ動作をした。チームメイトに囲まれながらもゴールを喜ばず、両手を合わせていた。この両手を合わせる、という動作が何を意味するのか、何に基づくものなのか、興味をもった。

仏教? キリスト教? いくつか関係ありそうなことをサイトで見てみてわかったのは、キリスト教においては、両手を合わせるのは祈りの意味があるようだった。ただイメージ検索をすると、両手を合わせただけでなく、指を組み合わせている写真もあった。その動作はキリスト教の動作としては知られているものだと思う。しかし手を合わせて尖塔をつくるような格好も、祈りの動作としてあるようだった。神に許しを請う(forgiveness)の意味が書いてあるものもあった。

ところでエヴァートンのフォワード、トスン選手(事故直後にソン選手を慰めていた人)は、この試合で、事故のあった後、シーズン初のゴールを決めている。1-0で負けている中の貴重なゴールで、また97分という試合終了直前のアディショナル・タイムでのゴールだった。これにより試合は引き分けとなった。

事故とゴールには直接の関連はおそらくない。しかし続けざまに、事故に深く関わった選手がゴールを決めているのを見ると、どういうことなのかちょっと考えてしまう。

一連のサッカーの試合での事故について、そして自分が事故現場に立ち会ったときの対処について書いてみた。予測不可能なことは、ミスであれ事故であれ、どこでもいつでも起きる。起きてしまったことは元に戻すことはできない。しかしそれにどう対応するか、対処するかは、そこにいた関係者全員の手に委ねられる。(1)(2)で書いたように、演奏中や試合の中での大きなミスも、その「事故」のあと、人々がどう思い、行動するかで全く違うストーリーになるのではないかと思った。とすると、わたしたちは普段から、ある程度そのようなミスや事故に対して、心構えをもっていた方がいいのだろうか。

少なくとも、こうして不測の事態が起きたあとの余波を見て考えたり、学習したりする機会があれば、少しだけマシな行動が取れるかもしれない、そう思ってこの記事を書いていた。


20191115

ミス、偶然性、予測不可能(2)


ミス、偶然性、予測不可能(1)はこちら

先々シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの決勝、レアル・マドリード対リヴァプール戦で、リヴァプールのゴールキーパーが大きなミスをした。チャンピオンズリーグは欧州のクラブチームのトップを決めるシーズン最大の大会で、おそらく世界最高レベルの試合が観れる機会といっていい。その決勝の舞台で、GKが大きなミスをしたことが影響してリヴァプールは負けてしまった。そのキーパーはまだ若手の選手で、シーズン中、不安定なプレーがときに見られたものの、チャンピオンズリーグをチームメイトとともに戦い抜いて決勝まで来た。つまりこのような大舞台での経験はなかったとしても、一定レベルのGKであると言っていいように思う。

サッカーでのミス、目立つミスと言えば、多くは守備に関するものだろう。その中でもGKのミスは直接ゴールにつながるので大きなミスになりやすい。非難も受けやすい。センターバックなどディフェンスの選手も、時にミスによる非難の的になる。多いのは、ゴール前でボールを失い、相手選手にボールをかっさらわれてシュートされることだ。それがゴールになれば、大きなミスとなることは必至。もう一つミスとして大きな注目を浴びるのが、PKの失敗だ。ペナルティキックは、ペナルティエリア内(ゴール前のスペース)で相手選手がファールを犯したり、ハンドをしたりしたとき与えられる特権。これを蹴るのはキックの上手い人で、多くは攻撃の選手かもしれない。GKとキッカーが1対1になるので、比率的には入る確率が高い。しかし緊張のあまり枠外に飛ばしてしまったり、GKに弾かれたりしてPKを失敗すると、特にそれで勝ち越せるとか、同点にできるなどの重要な場面であれば、チーム、サポーターともに大きな失望を味わう。よって非難の的になる。

またW杯などのトーナメント方式の試合では、延長戦でも勝負がつかないとき、PK戦になることがある。数人の選手が順番に蹴っていき、失敗した人の数が多い方が負けだ。2010年のW杯南アフリカ大会で、日本とパラグアイのベスト16の試合がPK戦にもつれ込み、日本の選手(駒野選手)が失敗したことで敗退したのを覚えている人もいるだろう。試合後、駒野選手は顔をおおって泣き崩れ、それを泣きながら慰めている松井選手の姿がカメラに捉えられた。ボール1個、蹴り損ねただけで、世界が終わったような悲しみようだ。大事な場面で、公衆の前で、ミスをすることの典型のような光景だった。

前にあげたリヴァプールのGKカリウス選手も、試合後、大泣きしながらサポーター席の前に行って謝罪した。こちらまで泣きたくなるような表情だった。彼のミスは、ボールを仲間ディフェンダーにアンダースローで投げようとして、すぐ目の前にいた相手フォワードにボールを弾かれ、ゴールされてしまったというもの。確かになんで!!!というミスではあるが、このようなGKのミスはこれ以外にも何度か見たことがある。SNS上では、心ない人たちからの脅迫めいた投稿が溢れたと聞く。そこまでいかなくとも、試合の放映を見ていた人の中には、「何だコイツ」「レベル低すぎ」と言っていた人は少なくなかったのではないか。

しかし、あのオリバー・カーンでさえ、ミスを起こすのだ。もっとも重要な場面で! そしてそれを「ただ起きる」と言っている。

カリウスのミスに対して、ウェールズの元GKネヴィル・サウスオールは、試合後にカリウスに応援の言葉をツイッターで送っている。自分にもその経験がある、暗い記憶だ、でもそこを通り抜けてほしい、Stay strong, Believe in yourself! と結んでいる。人がミスを犯したとき、その場にいた人、それを見ていた人は何をするべきなのか。ということを考えさせられる。

カリウスがサポーター席に謝りに行ったことについて、批判をした批評家もいたようだ。詳しいこと、その意図はわからないが、わたし自身は彼がそのような行動に出たことに少し驚いていた。自分のミスが影響して試合に負けて(優勝を逃して)しまったとき、心を固く閉ざして自分の内にこもり、ドレッシングルームに直行するといった行動もあり得るように思ったのだ。大泣きしながらサポーター席に行ったという行動からわかるのは、彼とサポーターとの間には、なんらかの、それなりのコミュニケーションがあったということだ。試合会場にいたわけではないし、リヴァプールのファンでもないので想像するだけだけれど。彼は最悪の事態を招いたときに、少なくともその場で自分を晒している。そこにこのGKがどんな思いでこの試合に臨んでいたか、決勝戦に至るまでの道のりをどう歩んできたかを想像させるものがある。

わたし自身は、カリウスのミスを見たとき、単純に他人事とは思えなかった。自分のことのように、とまではいかないが、起きたことの事態や彼の、彼のまわりにいる人間の心情に思いがいった。小さな痛みを感じた。わたし自身、公開の場でミスをしたことがある。カリウスとは比べものに全くならない、もっと小さな限られた場所で、一般に知られていない場面ではあるが。ただミスをした本人にとっては、その場の大小や重要度はあまり関係ない。何かのコンクールでもなく、実際上はなんの影響もなくても、ミスによる痛手は受けるものだ。

(1)で書いたピアニストのピレシュは、ワークショップの最後の日に、参加者全員の発表の場を設けた。練習してきたことをみんなの前で見せる。場所は音楽ホールの舞台の上ではあったけれど、観客がいるわけではない。ワークショップをともにしてきた仲間同士の発表の場だ。ピレシュは舞台に立つときの心構えや挨拶の仕方を話したようだ。そしてこう言った。「わたしがまず弾いてみます。わたしが緊張しないと思ったら、それは間違い。緊張します」 そしてお辞儀から始まって、短い曲を演奏した。大きな舞台での演奏より、少ない数の人の前で演奏する方がより難しい、とも言っていた。その意味はよくわかるので、こんな指摘までするとはさすがだなと思った。

またこうも言っていた。弾く前はとても緊張します。でも聴衆の前に出ていって、そこで挨拶をするとき、その緊張の質が違うものなる、良い心理状態に変わるのだと。あるいはそうなるようにすると。この話も、非常によくわかる。一度だけ、それを経験したことがある。その日、わたしはシューベルトのピアノソナタを会場で弾くことになっていた。力に余るということはないものの、そして数ヶ月間かなりの練習をしてきてはいたが、いろいろな意味で余裕しゃくしゃくで弾けるというレベルのものでもなく、まあだからこういった発表の場は力試しになるわけだ。舞台の袖でわたしは緊張し、檻の中の動物のように意味なく歩きまわっていた。もう楽譜は手元にない。身一つで舞台に出て行って、ピアノの前に座り、10分近くの時間、すべてを自分がやり通さなければならない。自信があるとか、そういう気持ちは特になかった。ただ舞台の上を歩いていって中央で立ち止まると、会場にいる人々をゆっくりと見まわした。理由はなく、ただそうしていた。お辞儀をして拍手を受けたとき、どうしてか「ありがとう」という気持ちが湧いてきた。自分のこれからやる演奏を聴いてくれて、ありがとうという心からの素直な気持ちだ。今このときその場に自分が、人々がいることに対するある種の感動があった。そして鍵盤に向かって弾き始めた。それ以前にも人前での演奏は何回か経験はしていたが、あの時ほど気持ちよく演奏できたことはない。のちにピレシュの言葉を聞いて、あの時の状態(心とからだの状態)が、彼女の言っていること(緊張からリラックスへの切り替わり)ではないか、と思い当たった。

もちろんミスは緊張が理由でだけで起きるものではない。ただ緊張がミスを呼ぶことはある。緊張して自意識が高まると、完璧なプレイ(演奏でもサッカーでも)を求めてしまい、リラックスが難しくなる。ここで気付いたのだが、完璧とプレイ(遊ぶ、楽しむ)は相反する言葉かもしれない。完璧に遊ぶ、完璧を求めて楽しむ、などという表現は理に合わない。

やはり演奏もサッカーも、その発生は遊びであり、楽しむものなのだ。それがプロの世界になれば、そうも言っていられないという事情が発生するかもしれないが、そうであっても、先にあげた演奏家たちが強調し、日々挑戦しているように、完璧性を求めての行動、行為は、やっていることの破壊に繋がることもあるのだ。そういうことをプレイヤー、聴衆の両方が、よくよく理解していれば、ミスが起きたときの波紋は違ったものになるかもしれない。

聴衆としてミスに立ち会うことで、プレイも含めた出来事全体が忘れがたいことになって、記憶にとどめられることもある。こんな話を聞いた。ある地方のコンサートで合唱付きの交響曲が演奏された際、地元の児童合唱団が曲の途中の入りを間違えた。それは現代曲で入りが難しく、歌い始めを逃してしまったのだ。すると指揮者がチッと舌を鳴らして、その少し前から演奏し直した。今度は順調にいった。しかし音楽が止まり再開するまでの間、会場は凍りついたという。その場で聞いていた人の話では、なぜかその曲が忘れがたいものになり、CDを買い求めて、その後ずっと聴き続けているとのこと。

わたしにも似たような経験がある。今でもその曲(ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲)を聴くと懐かしさとともに、小さな胸の痛みを感じる。その曲が単なる名曲ではなくなってしまったのだ。会場でリアルタイムで「事件」を分け合った経験とでも言おうか。楽曲に別の意味が足されたのだ。

ミスは人間の行為の結果。そして演奏やサッカーも人間の行為であり、なぜそれをするのか、追求するのかといえば、そこに遊びがあり、楽しさがあるからだ。予測不可能なことが起きたり、偶然性と出会ったりするからだ。そういう「空き」のことを「遊び」とも言う。ミスをしたくなければ、準備をすることは大切かもしれないが、充分準備をしたならば、あとはミスを恐れることなく、できる限り自由な精神でプレイするのが理想だろう。プレイヤー、聴衆の両方がその精神でリアルタイムの出来事に接すれば、もし大きなミスが起きたときも、受け止め方はまったく違ったものになるだろうし、プレイヤーだけでなく聴衆の側にも学びが生まれるはずだ。

20191101

ミス、偶然性、予測不可能(1)


『This is Football』というドキュメンタリーを見ていたら、オリバー・カーンという元ドイツ代表の名ゴールキーパーが、「それ(ミス)は、ただ起きる」と言っていた。2002年日韓W杯のときの決勝戦で、カーンにとってこの大会ただ一度の、初めてミスを犯して、ブラジルにゴールを許してしまったことを言っている。シュートされたボールを手前でこぼし、転がったボールを相手に入れられたのだ。名キーパーによるまさかのミス。この失点とさらなる追加点により、ドイツは優勝を逃した。

それにしても、ミスはただ起きる(理由を探しても無駄)、という発言は衝撃的かもしれない。多くのタイトルを獲得し、強豪バイエルン・ミュンヘンで14年(21年間の選手生活)を過ごした存在感のあるGKだったカーンの口から、そんな言葉が出るとは。

人間はミスを犯す(他の生物もそうだろうが)。現在のサッカーではミスを減らすために、予測不可能なこと、偶然性を極力減らすことに力を入れているそうだ。小さな、あるいは大きなミスが試合を決定してしまうことが多いからだろう。しかしその予測不可能性こそが、サッカーの面白さでもあり、サッカーをサッカーにしているという見方もある。たとえばゴール前で大きく跳ねたボールが、ディフェンダーに当たってゴールマウスに吸い込まれるとか。弱小のチームが、いくつかの偶然が重なって、強豪チームに勝ってしまうとか。サッカーは得点の少ないスポーツなので、1点が試合を左右することがある。

人間はいつでも、どこでもミスを犯す可能性をもっている。クラシック音楽の演奏会のことを考えてみよう。プロでもアマチュアでも、演奏会でのミスは心理的に演奏者の大きな痛手となる。クラシックの場合、楽譜に書かれたこう演奏されるはずという見本があるので(そして聴衆がそれを知っていることもあるので)、そこを踏み外せばミスと認定される。プロはミスをしないのか、と言えばそんなことはない。様々なエピソード(笑えるものも含めて)が残っている。途中で迷子になって、同じところを何度も繰り返したとか、演奏を止めて最初から弾き直したとか。ただプロの方が、何か起きたときの対処法はうまいだろう。聴衆に気づかれずに演奏を終えることも可能かもしれない。

より経験の少ないアマチュアはどうかと言うと、演奏中にミスを犯すと、それが引き金となって演奏全体をうまくコントロールできなくなったりしがちだ。自分の失敗に動揺して、平常心を保つことが難しくなり、一つ一つのアクションが綱渡りのようになってしまう。音楽は一度走り出すと終わりまで止まることができない(止まってはいけない)ので、その意味で非常に厳しい。発表会など人前で一人で演奏することは、普通の人(そういう経験のない人)が考える以上に、演奏者にとって負担が大きいことだ。小さな子どもでも、舞台に出る前、顔が白くなるほど緊張することはある。練習をたくさんしてきた子どもほど、緊張度は高まるかもしれない。

少し大きくなって、中高生くらいになると、自意識が高まるので、さらに人前での演奏は難しくなる。他で経験したことのないような緊張感に包まれる。頭が真っ白になって、数ヶ月練習してきたことがどこかに行ってしまったように感じられるかもしれない。でもいま、この場から逃れることはできないのだ。絶体絶命の危機。緊張のあまり、そして自意識が最高潮に達して、いつもの体と気持ちの関係が崩れ、自然な演奏が不可能になると、何でもない箇所でミスを犯したりする。それがさらに心理的に打撃を与え、全体の流れに影響を与える。などなど。

オリバー・カーンは、ミスはただ起きる、と言った。それはある意味正しいように思える。もちろんミスの原因をたどることはできる。集中力の欠如、練習の不備、不足、心理的な圧迫、その日の健康状態といった。しかしどれだけ準備し、練習し、不測の事態に備えていても、ミスは起きるときは起きる、というのも真実のように思える。

サッカー選手でも演奏家でも、ミスをしたあとで言っていることは同じだ。ミスから学べることは大きい。そこには学びの絶好の機会がある、と。ある演奏家はステージでミスをすると、その晩帰ってから、ベッドの中で100回くらい自分のその日の演奏を反芻するという。その作業、ミスから何を学べるかこそが、何を汲み取れるかが大事なのかもしれない。貴重な学びのチャンスと捉えることができたら、ポジティブになれる、次の機会に生かせる。

リコーダー奏者のミカラ・ペトリは、舞台で完璧に演奏するために、音楽性を犠牲にするのは良くない、と言っている。ミスなく演奏すること(完璧性)と音楽性とは違うものだと言っているのだ。完璧さを第一目標にミスなく演奏することに心を傾ければ、音楽性が失われてしまうというわけだ。それは音楽というのは、完璧性を聴衆と分け合うものではなく、楽しさや美しさを分け合うものだからだ。サッカーで言えば、予測不可能なことを最小限に抑え、ミスのないプレーを第一目標にすると、サッカー本来の楽しみが薄れてしまうというのと似ている。

パーカッショ奏者のエヴェリン・グレニーは、準備や練習はしっかりするけれど、舞台の上では何ヶ月もやってきたこと、リハーサルでやったことは繰り返さない、と言っている。練習してきたことを見せるのではなく、舞台の上ではそこから自由になって演奏したい、練習はそのための準備であると。それは予測不可能なことを含むから危険にさらされる、何が起きるかわからない、でもこれこそが聴衆と分け合いたいことだ、と言っている。前述のミカラ・ペトリ同様、音楽の本質は完璧さではなく、ミスも含めた予測不可能性や偶然性、自由な心情、今そこで生まれている何かの中にこそある、そういうことなのだろう。

最近引退したピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュは、さらに強い言葉でこれについて語っている。「演奏家が不変、安定を演奏に求めると、音楽が破壊される」 子どもたちにピアノを教える、ブラジルで行なわれたワークショップでそう言っていた(NHK教育:スーパーピアノレッスン)。プロの演奏家だけでなく、アマチュアの演奏家にとっても、大事なことなのだろう。アマチュアや子どもの演奏者にとっては、練習してきたことがミスなく舞台で再現できるかは、普通、まず一番の目標になることかもしれない。先生も親も、本人もそれを期待する。しかし音楽の本来のあり方から考えると、そのやり方は、音楽性が失われたり、音楽が破壊されたりすることなのだ。

しかし練習でやってきたことを舞台で繰り返さない、というやり方はプロにとっても厳しいことかもしれないのに、アマチュアや子どもの演奏家にできることなのか。おそらくこれを実行するには、練習そのものを変える必要があるだろう。目標(ミスのない演奏を目指す)が変われば、普段の練習も変化するに違いない。たとえば難しい箇所、間違えやすい場所を、反復練習して体に覚え込ませる、という体育会系的なやり方ではなく、その箇所をいろいろな方法、解釈で弾いてみたり、違った視点で捉えてみたり、新たな発見を求めるといった、取り組みの幅を広げ、可能性を探していくような練習を試みるとか。このような練習は、練習そのものが音楽の追求、音楽の中にある何かを探す、という行為と結びつく。完璧さを得るための単純な反復練習には、何かを問うとか探すといった心理は働かないかもしれない。

ではミスに対して、聴衆の側はどうなのか。サッカーにしろ、演奏にしろ。それがプロであれば、完璧性を求める心情は、ある程度あるかもしれない。精神の自由度を求めミスには寛容な人と、まずは完璧性をという厳格な人と両方いるかもしれない。一般に、公衆の面前で緊張の舞台に立たされた経験のない人ほど、他人の犯したミスに厳しいのではないかという印象がある。サッカーでも演奏でも、そういった場に立たされた経験があり、ミスを犯した経験もある人は、ミスを犯したときの言いようない心の痛み、心に残る傷、消えない記憶を体験しているので、他者のミスに対して厳しい言葉を吐くことは少ないように思う。「ダメだ、こいつ」「終わりだな」といった決めつけをすぐにするのは、自分がそういう場に立ったことのない人だと思う。つまりその面での経験の少ない人だ。
つづく