20191101

ミス、偶然性、予測不可能(1)


『This is Football』というドキュメンタリーを見ていたら、オリバー・カーンという元ドイツ代表の名ゴールキーパーが、「それ(ミス)は、ただ起きる」と言っていた。2002年日韓W杯のときの決勝戦で、カーンにとってこの大会ただ一度の、初めてミスを犯して、ブラジルにゴールを許してしまったことを言っている。シュートされたボールを手前でこぼし、転がったボールを相手に入れられたのだ。名キーパーによるまさかのミス。この失点とさらなる追加点により、ドイツは優勝を逃した。

それにしても、ミスはただ起きる(理由を探しても無駄)、という発言は衝撃的かもしれない。多くのタイトルを獲得し、強豪バイエルン・ミュンヘンで14年(21年間の選手生活)を過ごした存在感のあるGKだったカーンの口から、そんな言葉が出るとは。

人間はミスを犯す(他の生物もそうだろうが)。現在のサッカーではミスを減らすために、予測不可能なこと、偶然性を極力減らすことに力を入れているそうだ。小さな、あるいは大きなミスが試合を決定してしまうことが多いからだろう。しかしその予測不可能性こそが、サッカーの面白さでもあり、サッカーをサッカーにしているという見方もある。たとえばゴール前で大きく跳ねたボールが、ディフェンダーに当たってゴールマウスに吸い込まれるとか。弱小のチームが、いくつかの偶然が重なって、強豪チームに勝ってしまうとか。サッカーは得点の少ないスポーツなので、1点が試合を左右することがある。

人間はいつでも、どこでもミスを犯す可能性をもっている。クラシック音楽の演奏会のことを考えてみよう。プロでもアマチュアでも、演奏会でのミスは心理的に演奏者の大きな痛手となる。クラシックの場合、楽譜に書かれたこう演奏されるはずという見本があるので(そして聴衆がそれを知っていることもあるので)、そこを踏み外せばミスと認定される。プロはミスをしないのか、と言えばそんなことはない。様々なエピソード(笑えるものも含めて)が残っている。途中で迷子になって、同じところを何度も繰り返したとか、演奏を止めて最初から弾き直したとか。ただプロの方が、何か起きたときの対処法はうまいだろう。聴衆に気づかれずに演奏を終えることも可能かもしれない。

より経験の少ないアマチュアはどうかと言うと、演奏中にミスを犯すと、それが引き金となって演奏全体をうまくコントロールできなくなったりしがちだ。自分の失敗に動揺して、平常心を保つことが難しくなり、一つ一つのアクションが綱渡りのようになってしまう。音楽は一度走り出すと終わりまで止まることができない(止まってはいけない)ので、その意味で非常に厳しい。発表会など人前で一人で演奏することは、普通の人(そういう経験のない人)が考える以上に、演奏者にとって負担が大きいことだ。小さな子どもでも、舞台に出る前、顔が白くなるほど緊張することはある。練習をたくさんしてきた子どもほど、緊張度は高まるかもしれない。

少し大きくなって、中高生くらいになると、自意識が高まるので、さらに人前での演奏は難しくなる。他で経験したことのないような緊張感に包まれる。頭が真っ白になって、数ヶ月練習してきたことがどこかに行ってしまったように感じられるかもしれない。でもいま、この場から逃れることはできないのだ。絶体絶命の危機。緊張のあまり、そして自意識が最高潮に達して、いつもの体と気持ちの関係が崩れ、自然な演奏が不可能になると、何でもない箇所でミスを犯したりする。それがさらに心理的に打撃を与え、全体の流れに影響を与える。などなど。

オリバー・カーンは、ミスはただ起きる、と言った。それはある意味正しいように思える。もちろんミスの原因をたどることはできる。集中力の欠如、練習の不備、不足、心理的な圧迫、その日の健康状態といった。しかしどれだけ準備し、練習し、不測の事態に備えていても、ミスは起きるときは起きる、というのも真実のように思える。

サッカー選手でも演奏家でも、ミスをしたあとで言っていることは同じだ。ミスから学べることは大きい。そこには学びの絶好の機会がある、と。ある演奏家はステージでミスをすると、その晩帰ってから、ベッドの中で100回くらい自分のその日の演奏を反芻するという。その作業、ミスから何を学べるかこそが、何を汲み取れるかが大事なのかもしれない。貴重な学びのチャンスと捉えることができたら、ポジティブになれる、次の機会に生かせる。

リコーダー奏者のミカラ・ペトリは、舞台で完璧に演奏するために、音楽性を犠牲にするのは良くない、と言っている。ミスなく演奏すること(完璧性)と音楽性とは違うものだと言っているのだ。完璧さを第一目標にミスなく演奏することに心を傾ければ、音楽性が失われてしまうというわけだ。それは音楽というのは、完璧性を聴衆と分け合うものではなく、楽しさや美しさを分け合うものだからだ。サッカーで言えば、予測不可能なことを最小限に抑え、ミスのないプレーを第一目標にすると、サッカー本来の楽しみが薄れてしまうというのと似ている。

パーカッショ奏者のエヴェリン・グレニーは、準備や練習はしっかりするけれど、舞台の上では何ヶ月もやってきたこと、リハーサルでやったことは繰り返さない、と言っている。練習してきたことを見せるのではなく、舞台の上ではそこから自由になって演奏したい、練習はそのための準備であると。それは予測不可能なことを含むから危険にさらされる、何が起きるかわからない、でもこれこそが聴衆と分け合いたいことだ、と言っている。前述のミカラ・ペトリ同様、音楽の本質は完璧さではなく、ミスも含めた予測不可能性や偶然性、自由な心情、今そこで生まれている何かの中にこそある、そういうことなのだろう。

最近引退したピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュは、さらに強い言葉でこれについて語っている。「演奏家が不変、安定を演奏に求めると、音楽が破壊される」 子どもたちにピアノを教える、ブラジルで行なわれたワークショップでそう言っていた(NHK教育:スーパーピアノレッスン)。プロの演奏家だけでなく、アマチュアの演奏家にとっても、大事なことなのだろう。アマチュアや子どもの演奏者にとっては、練習してきたことがミスなく舞台で再現できるかは、普通、まず一番の目標になることかもしれない。先生も親も、本人もそれを期待する。しかし音楽の本来のあり方から考えると、そのやり方は、音楽性が失われたり、音楽が破壊されたりすることなのだ。

しかし練習でやってきたことを舞台で繰り返さない、というやり方はプロにとっても厳しいことかもしれないのに、アマチュアや子どもの演奏家にできることなのか。おそらくこれを実行するには、練習そのものを変える必要があるだろう。目標(ミスのない演奏を目指す)が変われば、普段の練習も変化するに違いない。たとえば難しい箇所、間違えやすい場所を、反復練習して体に覚え込ませる、という体育会系的なやり方ではなく、その箇所をいろいろな方法、解釈で弾いてみたり、違った視点で捉えてみたり、新たな発見を求めるといった、取り組みの幅を広げ、可能性を探していくような練習を試みるとか。このような練習は、練習そのものが音楽の追求、音楽の中にある何かを探す、という行為と結びつく。完璧さを得るための単純な反復練習には、何かを問うとか探すといった心理は働かないかもしれない。

ではミスに対して、聴衆の側はどうなのか。サッカーにしろ、演奏にしろ。それがプロであれば、完璧性を求める心情は、ある程度あるかもしれない。精神の自由度を求めミスには寛容な人と、まずは完璧性をという厳格な人と両方いるかもしれない。一般に、公衆の面前で緊張の舞台に立たされた経験のない人ほど、他人の犯したミスに厳しいのではないかという印象がある。サッカーでも演奏でも、そういった場に立たされた経験があり、ミスを犯した経験もある人は、ミスを犯したときの言いようない心の痛み、心に残る傷、消えない記憶を体験しているので、他者のミスに対して厳しい言葉を吐くことは少ないように思う。「ダメだ、こいつ」「終わりだな」といった決めつけをすぐにするのは、自分がそういう場に立ったことのない人だと思う。つまりその面での経験の少ない人だ。
つづく