20171215

エリック・サティ、ちょっとわかった気がした

19世紀末から20世紀にかけて活躍したフランスの作曲家、エリック・サティ(1866 - 1925)。『ジムノペディ』や『グノシエンヌ』を聞けば、どこかで聞いたことがあると思う人は多いと思う。映画に使われていたり、カフェでかかっていたり。日本でも何度かはやったことがあって、最近では2016年が生誕150年で、展示やCDの発売、コンサートなどあったようだ。 

わたしにとってはこれまで特別好きな作曲家というわけでもなく、知っている作品もごくわずかだった。ただ『ジムノペディ』をピアノで弾くと、なんとも言えない(こんな曲を書く人がいるのか、というような)不思議な感覚に囚われた記憶がある。単調で、静かで、ドラマがなく、どこまでも坦々と同じ調子でつづいていく音楽。調性があるのかないのか、メロディーはそれほど突飛というわけでもなく、まあまあ自然な感じ。でもシューベルトとかベートーベンでは聞いたことのない音の運びやハーモニーがある。

そのサティに最近ふとしたことで興味が湧いた。それはほぼ同時代の同じフランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875 - 1937)の書いた講演録を読んでいたときのことだった。ラヴェルは1928年にアメリカツアーを4ヵ月に渡って行なっているが、コンサートの前にレクチャーをすることもあった。そのレクチャーで、アメリカの聴衆にフランスの現代(近代)音楽の話をした中に、サティの話題があった。以下一部を日本語訳で紹介する。

サティは非常に鋭敏な知性の持ち主でした。ずば抜けて優秀な発明家の知性です。また偉大な実験精神の持ち主でもありました。サティの実験はリストが到達したレベルには至ってなかったとしても、多様性とその重要性において、計り知れないほどの価値をもたらしました。率直にして巧みな方法で、サティはこの道を示しましたが、他の音楽家たちが自分の敷いた道を追いかけはじめると、すぐに自身は方向を変え、ためらうことなく、新たな実験場へと道を切り開いていきました。(中略) 彼のもたらしたものはまったく独善的でなかったため、多くの音楽家へのかけがえのない価値ある贈り物になりました。(A Ravel Reader : Correspondence, Articles, Interviews by Arbie Orensteinより)

この文の中で、「もたらしたものはまったく独善的ではなかったため」という部分に興味を惹かれた。この独善的は元の英語ではdogmaticとなっていて、意味としては自分の信じる考えや意見を強力に押す、あるいは押しつける、譲らない、というようなことだと思うが、この文脈でラヴェルが「dogmaticではない」と言ったことからは、それ以上の意味の広がりが感じられた。

それに気づいたのは、この文を読んだあとで『ジムノペディ』をピアノで弾いてみたときのことだった。久しぶりに弾いてみて、この開放感はなんだろうと思った。言葉であらわすなら、openとかopenness、遮るもののない空間性、果てのない時間性、空間・時間をこえる開放性とでも言おうか。誰もに開かれた音楽、誰もが好きに弾いていい曲。子どもが無邪気に弾けば明るい歌に、初心者がポツポツよろよろと弾けば不安なつぶやきに、上級者が弾けばクールで繊細なタペストリーに、というように。

『ジムノペディ』

独善的の反対は、日本語だと協調的とか民主的などがくるようだが、英語のdogmaticの場合だと、equivocal(あいまいな)とかdoubtful(不確か、疑わしい)、あるいはflexible(融通がきく、柔軟な)などが挙げられ、日英の意味のずれを感じる。どちらの言語にも、openness(開放性)が反対語としてくることはないが、ラヴェルの言う「独善的ではないことで、多くの音楽家への贈り物になった」の文脈から読みとると、「独善的」は独占的の意味も含むように思え、作品にオープンなところ(開放性)があったから、後の音楽家にもたらすものが大きかったとも取れる。

そんなことを考えているとき、『ボレロ』を踊って有名になったダンサーのジョルジュ・ドンの言葉と出会った。東京バレエ団代表の佐々木忠次氏の評伝の中に、佐々木がドンに、「ボレロを踊るのは簡単でしょう、同じことを繰り返してればいいんだから」というようなことを言ったら、ドンが「そうです、誰にでも踊れます」と答えたという場面があった(追分日出子著『孤独な祝祭 佐々木忠次 バレエとオペラで世界と闘った日本人』、2016)。

確かにベジャール版の『ボレロ』はあるパターンを繰り返す振り付けになっていて(ラヴェルの音楽も)、その動きは誰にでも真似できそうなところはある。実際は、15分くらいある作品をほぼ一人で踊り通すことは簡単ではないだろうし、かつてこれを踊ったマイヤ・プリセツカヤは、同じように見えて一つ一つ違うエピソード(振り)が入るこの作品を(短期間に)覚えるのに苦労したと自伝に書いている。

Maya PlisetskayaによるBOLÉRO

しかしわたしはジョルジュ・ドンの言った「誰にでも踊れます」という言葉が強く印象に残った。振りをそのまま真似すれば形を踊ることはできる、という意味なのか。サティの『ジムノペディ』もある意味、誰にでも弾ける曲だ。ものすごいテクニックがなくても、ピアノの初心者であっても、楽譜を読んで音にすることは何とかできるだろう。左手は主にワンパターンな伴奏で、そこに風変わりな右手のメロディーが乗ってくる。そして同じフレーズの繰り返し。ゆっくり弾いていい。たいていLent(ゆっくり)の指示が記されているから。

ゆっくり弾く、ということの中にも、サティの開放性が現れている気がする。遅く弾くことによって、余白や空間が生じる。ピアノ曲は割り合いからいうと、速い曲が多い。細かい音符がずらずらと並び、転がるように弾かれる曲。ゆっくり、それもレント、アダージョ、ラルゴといったかなり遅いテンポの曲は、それだけで特別な感じがある。ゆっくり弾くことで、曲との対話がより多く生まれる気もする。ピアノ初心者にとっては、速く弾くのと同じくらい、ゆっくり弾くのは難しいかもしれない。それは空間や時間を自分が支配しなければならないからだ。

ゆっくりということでいうと、『グノシエンヌ』も同じだ。今回サティに興味をもってから、『グノシエンヌ』の6曲をピアノで弾いてみた。楽譜はいつもお世話になっているIMSLP(ペトルッチ楽譜ライブラリー)でPDFをダウンロードして印刷(無料)。『グノシエンヌ』を弾いてみると、『ジムノペディ』と同じようなスタイルだけれど、もう少しエキセントリックで異国風(中東とかアジアとか)な趣きがあった。IMSLPにアーカイブされている楽譜は、パブリックドメインになっているもので、楽譜そのものも古いものが多い。最初にDLした『グノシエンヌ』の楽譜は、小節線のない曲がほとんどだった。1890年度版も見てみたが、やはり小節線はなかった。見慣れないながらも、ビジュアル的にどこか開放感がある。川の流れのようだ。2014年度版の新しく編集されたものは、すべて小節線が入れてあった。編者が入れたものだろう。

サティの楽譜には、楽譜のところどころに言葉が書き込まれていることがよくあり、これがまた面白い。「何か問いかけるように」「考えの及ばないところから」「自分の中で反すうする」「舌で味わう」「自尊心を捨てて」「予知能力をたずさえて」「自分に教えるように」「つかの間一人になって」「穴を見つけたみたいに」「非常に戸惑い、途方にくれて」などなど。詩の言葉と言ってもいいかもしれない。実際、弾きながらこれらの言葉を汲み取ろうとすると、思わぬ効果や、インスピレーションを得た音の連なりが現れることもある。楽譜にこんな風な指示があることは珍しい。普通はもっと即物的、あるいは抽象的な指示が多い。「強く」「急がずに」「いきいきと」といった。

家で楽譜を探していたら、輸入盤のサティの楽譜ピースが出てきた。”Children’s Pieces for Piano” という三つの組曲が入った薄い楽譜で、どの曲にも音符を追うように言葉が書かれている。『豆の王様の戦いの歌』では、「なんて愉快な王様だ、そのお顔はまっかっか、王様は踊り方を知っている、王様のお鼻は毛だらけ、、、」。かと思えば『友だちの頭にやきもち』では、「やきもちを焼いたら、幸せにはなれないよ、オウムをうらやんだ男の子がいた、、、」というように。音符はシンプルながら、バイエルなどに馴染んだ子どもには、曲があまりに妙ちきりんでなかなか弾けないかもしれない。弾いてる音が合ってるんだか間違ってるんだか、弾きながら判断しにくいのだ。しかし面白いことは面白い。こういうものを好きな子もいるかもしれない。

他にサティでよく知られた曲に『ヴェクサシオン』というピアノ曲がある。音源で聴くと抜粋のCDで70分くらいの作品(指示通り全編弾くと24時間かかるとも聞く)だが、楽譜はたったの1ページ(3段)。この楽譜もIMSLPでDLしたのだが、タイトルの下にフランス語でこう書かれている。

作曲者からの注釈:ここにあるパターンを840回繰り返すこと。弾く前に心して、最大限の静けさと、極限の不動をもって演奏すること。

非常にゆっくりと(tres lent)の指示がある。楽譜の1段はテーマで片手(左手のバス)のみ、あとの2つの段にはマークが上についている。そしてテーマのところに、このマークのあるところでは、テーマのバスを弾くことと書かれている。つまりテーマをまず弾き、次に和声のついた1段目を弾いて、またテーマ、そして別の和声のついた2段目を弾く、これが1セット。それを840回繰り返すということらしい。

このテーマは単音のみの旋律で、調号も小節線もない。四分音符と八分音符からできている。音数にして20音足らず。ド(ハ)から始まりミ(ホ)で終わる。音の幅もファから(上へ)ミと狭い。途中シャープやフラットがいくつかつき、不思議なメロディになっている。





1段目、2段目にはそれぞれ、バスと同じ音価(音の長さ)の二つの和音が重ねられている。これがよくよく見ると1段目と2段目は、鏡和音(などという言葉ないと思うが)になっている。つまり上下の重なり方が反対になっているのだ。たとえば1段目の最初の2和音は下がラで上が♭ミ。これが2段目では(1段目の)下の音ラが上になっていて、その下に♭ミが重なる。ラの音を挟んで、上の♭ミと下の♭ミが鏡のようになっている。終わりまでこの進行になっている。1段目、2段目の2和音の響きを比べると、同じ和声だが2つの音の開き幅が5度、4度と違うので、響きも変わる。そしてもちろんメロディも(最上部の音が変わるので)。


作曲家の指示に従いこれを弾いてみよう。どんな感じがするか。

840回繰り返さなくとも、瞑想でもしているような気分になってくる(いや、いつか1度はやってみよう)。あるいは非常に穏やかなトランス状態というか。単純な左手のバスのメロディが、逐一繰り返しのとき挟まるところがキモかもしれない。それにより短いレンジでのリピート感が強調される。そういえばラヴェルの『ボレロ』もたった二つのメロディの繰り返しだった。単一のリズムに乗って、二つのメロディが延々繰り返される。その繰り返しによって興奮状態が生み出されている。平板、単調、シンプルなもののリピートから、最大限のドラマが創出されるという、ベートーベン的ドラマチックとはまったく違う「熱狂」のアイディアだ。 

サティの音楽は「家具の音楽」という言い方で現されたりもする。単調で時間軸がないような、ただ空間に広がる壁紙みたいな音楽。でも「弾く前に心して、最大限の静けさと、極限の不動をもって演奏すること。」という『ヴェクサシオン』の注釈を読むと、瞑想のための音楽のようにも見える。

以前は面白いとは思ったものの、2、3回弾くとあきてしまったサティだが、今回いろいろなことを知って(特にラヴェルの解釈)、何度弾いても楽しみが見つけられるようになった気がする。そしてもう1回、もう1回と繰り返したくなる。サティという知的で、開放的で、実験精神あふれる作曲家と触れ合う、その音楽に近づく、そういう楽しみを見つけた気がする。



20171201

文章の質について考えてみた

このブログ、Happano Journal(葉っぱの坑夫の活動日誌)は14年前から書きはじめて今日に至る。2003年10月12日が最初。「きのうの午後、パイユート・インディアン童話集のすべての改稿がおわる。」という文で始まっている。当初は毎日、あるいは2、3日置きくらいのペースで短い文章を書いていた。ある時期から、具体的な活動報告(本の校正をした、出荷した、誰それと会った、交信したなど)を日記のように書くことから、テーマを決めて長い文章(2500~4000字)を2週間ごとに書くスタイルに変わっていった。

活動報告というより、「今考えていること」あるいは「関心を向けていること」に近い内容だ。しかしそこで書かれたことが、のちにプロジェクトに発展し、作品化されることもある。頭の中の活動報告のようなものかもしれない。書き続けていて思うのは、ここの部分、つまり頭の中の活発度が高くないと、ものを生み出せないことだ。

長い文章を書くには(それが目的ではないにしても)、いくつかのものが必要になる。そうでないと文を紡げない。その問題への関心の高さや、知識の幅や深さ、自分の独自のアプローチやアイディアなどがないと文が続かない。

テーマを決めて書く場合、たいていは結論めいたもの(自分の考え、仮説)があるものだが、それは絶対的なものではない。書いているうちに(調べているうちに)、最初に書こうとしたことと全く違った結論に至る場合もたまにある。前回、前々回に書いた「人種と民族」についての文章はまさにそれだった。人種と民族の定義の違いを書こうとしていたのだが、書く内に(調べている間に)思わぬ結論に行き着いた。「人種という概念は、科学的に根拠がなく、人種はホモ・サピエンス・サピエンス1種類だ」という事実だった。

もしかしたら文章の王道というか、書き方の主流、お手本は、書くことを決め、結論を想定して文全体の構成をつくり、課題と結論の間に論証の柱を立て、それに沿って論理的に詰めながら書いていくことなのかもしれない、とも思う(一般的な文章術を知らないので想像だが)。

その意味では、わたしの書き方はそこから外れている。書こうとするテーマ、問題への関心とそれを書く動機がまずあって、次に考える材料となる見聞や文書などに当たる事前調査をし、そして具体的な自分のアプローチのアイディア、、、そのあたりでたいてい書きはじめているかもしれない。その時点で結論はまだぼんやりしたものであることが多い。つまり書く中で考えたり、再調査したりして、結論を導きだしていることになる。あてのない放浪性の高い書きだし、と言えると思う。

これと関連して、文章の質ということに関して考えると、何が質を高めるのかということだが、それは「公平性」ではないかと最近気づいた。文章の公平性とは、文を書いている人が、対象としている問題に誠心誠意、公平な態度をとることであり、ウソがないことである。これが難しい。とわたしは思う。アマチュアよりプロの書き手にとって、よりハードルが高くなる場合もあるかもしれない。書き手のこれまでの方向性と合致させるため、あるいは依頼主の意向を汲むために、主張や結論があらかじめ設定される場合があるからだ。

そうではない書き方、公平性を第一にする書き方の場合は、違った態度が求められるだろう。この書き方を徹底するには、自分の考えをある程度、白紙状態(0地点)に戻さなければならないかもしれない。問題への関心を主軸に置いて書きはじめ、それまでに収集した知識や体験をつかいながら、考えを進めていく。考えを深めたり広げたりする過程で、最初に思っていたことと実証のための素材(収集した知識や体験)が合わなくなってきたら、どうするか。まずこうなるためには、材料集めの際に、無意識に自分の考えと違うものを排除してしまうことをなるべく避けなければならない。これも難しいことだ。

しかし公平性を胸に書く態度に努めれば、そして元からある考えと距離をとるようにすれば、書いているときに疑問の一つや二つはだいたい浮かんでくるものだ。本当にそうだろうか?というような。その疑問の声を聞き逃してはいけない。ここも質の高い文章を書く際にポイントになると思う。

公平性の高い文章は、論文でも、報道記事でも、小説でも、読んでいて気持ちがいい(と、わたしは思う)。役に立つ、自分の実になる(こういう表現はないようだが。身になるとは違う)。しかしこういうものが人気を集めるかは別だ。多分、あまり人気がない。もっと誰か、どちらかの立場に寄って書かれたものの方が人の気を引きやすい。多くの人は、自分の立ち位置をそれほど意識せずに、ある立ち場に立っている。たとえば終身雇用のもとで働いてきた人は、それに基づく考えや立ち場をとり、海外生活が長かったり、何か社会的、身体的な障害がある人は、それに基づく考えをもつ、というように。ただし「普通」や「一般的」に属すると思っているマジョリティの方が、自分の立ち位置への意識は薄く、マイノリティに属する人の方がマジョリティとの比較から、より自身の立ち位置に敏感で、意識的だとは思う。

公平性の高い文章は、独自の主張が示されなかったり、何らかの立ち場に立たない、ということではない。そこがポイントではない。書くときの態度として、いかに公平な立ち場からものを見たり、分析したり、それを描写したりできるかということだ。社会生活を送る人間にとって、それは無理ではないか、と言う人がいるかもしれない。確かに。難しいことだと思う。それが難しい場合、自信がない、あるいは自分が偏っているかもしれない、と思うとき、その立ち位置を表明してから述べる、という方法もなくはない。「日本人びいきかもしれないが、A選手(日本人)のあのゴールはワールドクラスでした」というような言い方だ。エクスキューズを入れた上で、自分の言いたいことを語る方法だ。スポーツの世界ではときどき見られる。しかしどうなんだろう。あまり意味のある発言にはならないように思う。「A君のあのゴールはワールドクラスでした」と言うよりマシかどうか。

文章の公平性は、学校の教科書にも求められるものだと思う。社会科の教科書などでは特に問題となりやすいかもしれない。それは内容(何を取り上げるか)だけでなく、どのように表現するか、何を省き何を書くか、に現れる。

教科書ではないが、『李朝滅亡』(片野次雄著、新潮文庫)という、李朝と日本の関係史を朝鮮半島の側から捉えた本の中の記述を見てみたい。この本は以前にこのジャーナルで紹介した『在日二世の記憶』(2016年、集英社)で、在日二世の人が薦めていたもの。在日二世の人と日本人とは、立ち場を異にすることは多い。だから彼らの薦めるものを読んでみようと思ったのだ。

著者の片野次雄さんは在日朝鮮人ではなく日本人。李氏朝鮮を専門にする在野の研究者、歴史作家である。『李朝滅亡』は歴史書ではなく、ノンフィクション・ノベルと紹介されている。著者によれば、専門書などを除き、日本語ではあまり触れられてこなかった(あるいはタブー視されてきた)明治維新以降の日朝関係を書きたいと思ったとのこと。「史実を踏まえたうえで、主要な人物たちの挙動や肉声を、わたしなりに想像をたくましくして、より具体的なイメージをつくりあげていこうと配慮した。」と本の冒頭で述べている。 

わたしが注目した箇所は、日朝間の国書を巡る出来事だ。明治維新により王政が復古し、新政府が朝鮮との交流を引き継いだとき、日本から送られた国書があった。徳川幕府に代わった新政府が、改めて朝鮮国との国交をもつためのものだったという。その国書は、朝鮮側から受け入れられなかった。この出来事について、『李朝滅亡』とともに複数の文書を読んで比べてみようと思った。それぞれの説明の中で、その事情がどう語られているか。立ち場の違う者によって書かれた文章を「公平性」という点から見てみるのは面白いのでは、と思ったのだ。

まず『李朝滅亡』の中のこれに関する部分を引用する。

 皇上登極のくだりは、いうまでもなく明治天皇の即位を指している。
 当時、朝鮮王国は清国を上国と仰ぎ、過去の長い歴史的な関わりから、中国に対して属邦という態度をとり続けていた。朝鮮国にとって、清国は宗主国そのものだったのである。

 その清国の最高権力者が「皇」という文字で表される皇帝だった。

この本によれば、徳川時代は将軍の尊称として「日本国大君」「日本国王」という言葉が使われていたという。それが明治新政府の国書の中に、(朝鮮にとって)清国にしか使われない「皇」の字があったことで、字句の訂正を申し入れたそうだ。しかし日本側はこの申し入れを断った、とある。

この国書について、日本語版ウィキペディアの「征韓論」の項目に、次のような説明があった。

そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こり、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された[5]

文末の注釈[5]のところにカーソルを合わせると、以下の説明がポップアップで表示された。

日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。それまでは将軍が「日本国大君」「日本国王」として朝鮮との外交を行っていた。 

確かに、『李朝滅亡』と近いことが述べられるいるが、本文ではなく注釈としてしてであり、表現もやや違う。本文では「江戸時代の形式と異なること」が拒否の理由とされているが、「皇」の字を日本の最高権力者に当てていることと、文書の形式が違うことは同じことなのか。日朝間の微妙な心理の行き違いの説明がなく、通りっぺんの文章に終わっているように見える。

この征韓論を英語版のWikipediaで読んでみた。日本語のウィキペディアでは海外の情報は、英語版をもとに日本語に翻訳(抄訳)されていることがよくある。では日本に関する情報の英語版はどうなっているのか。以下は該当部分の翻訳(by 筆者)。

Seikanron(原文英語)
明治政府からの使節が1869年、両国間の友好関係を築くための手紙をもって朝鮮を訪れた。その手紙の中に朝鮮王朝の認証済みのもの(対馬の宗氏との間での)ではない、明治政府の紋章があった。また「大君」ではなく、「皇」の字が日本の天皇に使用されていた。「皇」の字は、朝鮮が中国(清)の皇帝にのみ使う文字だったことから、日本が作法上の優位性を朝鮮の君主に示しているように朝鮮側には映り、日本の統治者の下に朝鮮君主が置かれていると解釈した。しかし日本は国内政治的に、将軍は天皇に置き換えられたという反応を示しただけだった。朝鮮は清と関係を結び中華思想下にあったため、使節を受けることを拒否した。 

この項目(Seikanron)は、英語出版物を元にしている記述が多いようだった。「皇」の文字の指摘だけでなく、朝鮮側の受け止め方にまで説明が及んでいる。このあたりの説明は『李朝滅亡』の中にもあった。

 しかし、日本側は、朝鮮側の申し入れをきっぱりと拒否した。明治政府は、国書の字句に関しては、すこぶる依怙地であった。その文言の使い方に、ひとつの意図をもっていたからである。(中略)従来、日本の将軍と朝鮮の国王は、呼称のうえでは対等であった。(中略)

 ところが、徳川氏が滅んで、天皇家の臣下になると条件は変わる。徳川氏の上位に立った天皇家は、必然的に、朝鮮国王の上位にもなるという理屈なわけだ。すなわち日本の天皇のもとに、朝鮮国王も臣属させてしまえという肚が、日本側にはあった。

こうして見ると、事実関係はわからないものの、『李朝滅亡』は小説とはいえ、かなり踏み込んだ書き方をしているように見える。日本政府が「皇」の文字を使ってきたことには、朝鮮を自国の下に置く意図があった、としている。

グーグルで「清国 皇帝 皇の文字 朝鮮 日本」と入れて検索したところ、トップに『「反日思想」歴史の真実』という本の文章が出てきた(Google ブック検索)。そこでは次のように書かれている。

 一八六三年一二月、明治政府が朝鮮に送った国書には「皇祖」「皇上」「奉勅」と書かれていたことから、「“皇”“勅”という文字は清国皇帝しか使えない言葉である」として受け取りを拒否した。
 (中略)
 日本ではこのような朝鮮の態度と、いつまでも清国を宗主国と仰ぎ、頑迷固陋に再三にわたる日本からの国書を拒否する朝鮮側の姿勢が怒りを招き、征韓論が起きるきっかけとなった。

(註:1863年というのは明治維新前なので年号の書き間違いではないか?)

著者は拳骨拓史という中国や韓国についての著書が多い作家のようで、この本は扶桑社から2013年に出ている。日本語版のウィキペディア同様、朝鮮側の文書の拒否の事実に力点が置かれているように見える。

一方、片野氏の方は、日本側が朝鮮を支配下に置くことを意図した文書だと断定している。この文章を読んだだけでは、これが事実なのか著者の想像の産物なのかわからない。もし断定するのであれば、周辺の事実を並べるなど、日本側の意図を解説する必要があるのではないか。あり得ることだ、というのと、そうであったというのでは違う。小説であっても、このような詳細がどう扱われているかは、文章の質に関わってくる問題だと思う。

そう見ていくと、ここにあげた2冊の本、日本語版ウィキペディア、英語版Wikipediaの4つの文書の中で、公平性で優っている文章は、英語版のWikipediaとなりそうだ。日韓の歴史の事実を知るのに、日本語の文書より、英語の文書の方がより優れているのは何故なのか。

『李朝滅亡』を在日二世の人が薦めていた理由は、片野氏の題材(史実)の扱い方が在日の人たちの心情に近いからだろう。そして日本語版ウィキペディアや拳骨氏の本は、日本人の心情から書かれたということだろう。自分がどこかの立ち場に属していて、そのことへの自覚が低いと、心情に左右されやすくなる。そうすると書く文章から公平性が消えてしまう。公平性の低い文書は、文章の質を下げるだけでなく、文書自身の価値も落とす。

比較した四つの文書の中の三つの日本語文を見てみると、他にも表現の上で気になる点がある。

日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。(日本語版ウィキペディア「征韓論」)

日本側は、朝鮮側の申し入れをきっぱりと拒否した。明治政府は、国書の字句に関しては、すこぶる依怙地であった。(『李朝滅亡』)


いつまでも清国を宗主国と仰ぎ、頑迷固陋に再三にわたる日本からの国書を拒否する朝鮮側の姿勢が怒りを招き、(『「反日思想」歴史の真実』)

この下線部の表現は、歴史的事実であるかないかを超えて、書き手の心情を強調するための文に見えてしまうところが問題だ。一般にこのような(非難を含む)強い表現は、こけおどしの「安い文章」になってしまうことが多い。

こうして見ると、質の高い文章とは、一般的に言われているような「文才」のあるなしより先に、公平性への志向がどれくらい強いかどうかに深く関わっているように思えてくる。巧みな言い回しや臨場感あふれる描写を駆使して書かれた文章も、公平性が疑われるような表現や内容が含まれていれば、文章としての質が問われることになるだろう。その意味で、「一般に文才と言われるもの」が多少欠けていても、質の高い文章(=信頼度の高い文章)に近づきたければ、公平性を保って書くことに挑戦することで道は開かれるかもしれない。