20170831

テニス界の新星、王子ズベロフと悪がきシャポバロフ

全米オープンテニスが始まった。今年最後の四大大会(グランドスラム)の話題はどこに向かうのだろう? 葉っぱの活動日誌ではたびたびスポーツの話題を取り上げている。その理由は、日本のスポーツジャーナリズムは貧しい状況にあるのではないか、と懸念しているからだ。このジャーナルで取り上げるることで、何が書ける試してみたいし、いつの日かスポーツに関する本を出せたら、と夢見ている。 

ここのところのテニス界を見ていて高齢化現象というか、新人の出ない停滞状態がつづいているように感じていた。現在トップ5は全員30代という状態。新たに出てくる若い選手の顔が見えない。ここ2、3年は10代から20代初めの選手の動向を気にしてきた。

というのも、過去の有力選手(グランドスラムで優勝するような)が頭角をあらわすのは、たいてい20歳くらいで、そのあたりで一度大きな大会でチャンピオンになっている。しかしここのところ、そういう選手が見当たらなかったのだ。

たとえば今年36歳になったロジャー・フェデラー(1981年生まれ)は、20歳のとき、初めてマスターズ1000(グランドスラムの次の格付けの大会)で優勝している。11シードでの出場だった。その翌年の2003年、ウィンブルドンでグランドスラム初優勝。

そのフェデラーとグランドスラムなどで優勝を争ってきたラファエル・ナダル(1986年生まれ)は、2005年5月の全仏オープン(グランドスラム)で優勝、その年の10月にはマスターズ1000で優勝している。18歳のグランドスラム優勝だった。

現在怪我で試合から遠ざかっているが、ここ何年もの間、鉄壁の王者を保ってきたノバク・ジョコビッチ(1987年生まれ)はどうか。目の上のたんこぶのように、強力な2強フェデラーとナダルを前に何度もチャンスを奪われ、苦労の多い選手時代前半だったとも言われる。しかしそうは言っても、2007年、20歳のときにはマスターズ1000の準決勝でナダルを下し、初優勝。翌2008年1月には、決勝でフェデラーを下し、全豪オープン(グランドスラム)でチャンピオンになっている。ナダルとジョコビッチはたった1歳違いなのだが、ナダルは10代のときから活躍していたため、ジョコビッチは遅咲きと感じられたのかもしれない。ジョコビッチが世界1位になったのは24歳のとき、フェデラー、ナダルが22歳でなっていることから見るとやや遅いだろうか。

ではジョコビッチとここ数年トップを競ってきたアンディー・マレー(1987年生まれ)を見てみよう。2008年、決勝でジョコビッチに勝って、マスターズ1000初優勝(21歳)。そこから4年連続でマスターズを2勝ずつしているが、グランドスラムを取るのは2012年の全米オープンで、そのときマレーは25歳。ビッグ4と言われた4人の中では最も遅いグランドスラム獲得だ。また世界1位になったのも29歳と遅い。

このようにビッグ4と言われるような選手は、20歳前後のときに、大きな大会で一度は優勝を飾っている。そのような選手がここ数年見られなかったことで、次世代の選手は育っているのか、という疑問が出てきていた。

そこに現れたのが今年のマスターズ1000をすでに二つ制覇した、アレクサンダー・ズベロフだ。1997年生まれの20歳。ロシア系の名前がついているが、国籍はドイツ。198cmの長身で、(異論はあるかもしれないが)王子顔。ここ1、2年のうちにグランドスラム王者にでもなれば、日本の女の子のファンを増そうかという容貌である。マスターズはローマの決勝でジョコビッチを破り、モントリオールの決勝で(今年復活して強さを見せていた)フェデラーを破って優勝した。ローマは16シードでの優勝だったため、より際立つ存在となった。

ズベレフは2年前の2015年、初めてトップ100位入りし、翌年にトップ20、そして現在トップ10入り(2017.8.21現在で6位)している。例外はあるだろうが、多くの有望選手は、ある時期(20歳前後)にたいていこのような何段飛ばしのような躍進をしてトップに登りつめている。ズベレフも例外ではなさそうだ。

ズベレフの今年のマスターズの優勝の試合は二つともテレビで見たが、優勝できたのは、技術や実力もあるだろうが、伸び盛りの勢いが影響しているように思えた。それによって勝ちきっている。まだ若いので、プレイの粗さやエラーの多さなど欠点はあちこちに垣間見られたが、それを上まわる勝負強さが感じられた。これがないと、いいところまで行けても、チャンピオンにはなれないのではないか。

さてもう一人の若手、次世代のホープはデニス・シャポバロフ(1999年生まれ)。名前はロシア系だがイスラエル生まれのカナダ人。モントリオールのマスターズ1000で、ワイルドカード出場ながらこの大会シード1位のナダルを破って準決勝まで行き、そこでズベレフと対戦した。結果は4ー6、5−7で敗れたが、試合では充分存在価値を見せてカナダ人だけでなく、多くの聴衆を魅了していた。確かこの試合のときは140位くらいだったと思うが、試合後にトップ100入りを果たしている。

タイトルに悪がきと書いてしまったのは、シャポバロフは今年のデビスカップで、試合中に激怒してボールを打ち付けたところ、それが審判の目にあたり、失格となったというエピソードから。またサーブの前に、選手はみんなボールをポンポンと地面で弾ませるが、シャポ君(覚えにくいのでこう呼んでいる)はそのボールを背後で打ちつけて、股のあいだを通すという面白い習性があり、それがちょっと悪がきっぽい。またトレードマークのキャップの後ろかぶりも、悪がきの名に似合う。ただ本当に悪がきかどうかは、まだ一度しか試合を見ていないので何とも言えない。

シャポ君のズベレフとの試合ぶりを見ていて、この人はここ1、2年のうちにさらに頭角をあらわすのではないか、と多くの人が期待をもったのではないか。モントリオールでのズベレフとの準決勝は、ときどき粗さを見せながらも、勝負どころで強さを見せていたし、もし第2セットを取っていたら、と期待させるところがあった。しかしこの時点でシャポ君はまだ100位以下。ズベレフはこの大会第4シードと錦織圭より上で戦っていたのだから、結果は順当だと思う。

日本のスポーツ報道では、テニスといえば錦織圭(1989年生まれ)ばかりなので、それほどテニスを見ない人にとって、ここまで書いてきたことはやや不可解に映るかもしれない。錦織圭は日本のホープ、いや世界のホープ、次世代を担う若手選手じゃないのか?と。

確かにその兆しが見えた年はあったと思う。第10シードで出場した2014年の全米オープン、当時24歳だった錦織圭は準決勝でジョコビッチを破り、決勝に進出。しかし決勝では自分よりシード順位の低いマリン・チリッチ(1988年生まれ)にあっさりストレート負けしてしまった。期待が大きかっただけに、日本国じゅうが大きなため息をついたかもしれない。ここで勝っていれば次が見えたのに、と思う人もいるだろう。勝てる可能性の高い相手だっただけに、なおさら無念さが残る。

錦織は2014年にマスターズ1000の決勝に進んだものの、そこでナダルに敗れている。また2016年には2回マスターズの決勝に進んだが、ジョコビッチに敗れチャンピオンを逃している。大きな大会での優勝がここまでにないのだ。今年錦織は28歳になるが、怪我のためか今シーズンは全く結果を残せていない。しかし28歳はテニス選手の最盛期でもある。30歳まであと2年。この間に大きな大会(マスターズかグランドスラム)で優勝できるかどうかは重要だ。おそらく順位よりチャンピオンになる方が大切ではないか。

錦織が世界4位になった2015年、日本の国民は大きな期待をもった。そのとき25歳の誕生日をまだ迎えていなかったかもしれない。日本のメディアは「次世代を担う選手」として錦織の記事を書きつづけた。しかし次世代という言葉は当てはまらないかもしれない。ジョコビッチやマレーとは2年の差だ。錦織のピークへと向かう時期が遅かったので、次世代のように感じるかもしれないが、2、3歳の差は同世代と言っていい。全米オープンで負けた1歳上のチリッチや、1年下のラオニッチとともに、ジョコビッチ世代を形成する中堅選手と言ったほうがピッタリくる。

しかしここまでに上げてきた者たちと、全く違う活躍の仕方をしてきた選手もいる。1985年生まれのスタン・ワウリンカだ。現在32歳。それまで決勝に進んだこともなかったのに、2014年、28歳のとき、全豪オープンでグランドスラム初優勝を遂げた。決勝の相手はナダル。この年、マスターズ1000でも初優勝。さらに翌年の全仏オープンでは、ジョコビッチを破って優勝。このとき30歳。さらには2016年の全米オープンでも、ジョコビッチを破り、3度目のグランドスラム優勝を果たしている。このとき31歳。今年の全仏でも敗れはしたが決勝に進んでいる。グランドスラム残りの一つ、ウィンブルドンを取れば、生涯グランドスラム達成者の歴代9人目になるという快挙だ。

だから20代の終わりに初優勝を飾って、いくつものチャンピオンを制覇する人も、あまりないこととは言え、前例はあるのだ。

しかし通常の選手の進化の法則から言えば、やはり18歳のシャポ君、20歳のズベレフへの期待は高まる。シャポ君の方はまだ何も成していないので、未知数だ。ズベレフの方は、もしかしたら今年の全米オープンでいいところまで行くだけでなく、運が良ければ優勝もあるかもしれない。今の勢いの乗って。半ばファンになりかけているわたしは、それを期待しているのだけれど。シーズン残りは、全米が終われば、2、3の大きな大会があるだけ。やはり取るならグランドスラム、ズベレフには20歳でチャンピオンになり、新星ぶりを見せてほしい。

20170817

『母ではなくて、親になる』を読んで

少し前に出たばかりの山崎ナオコーラの出産・育児本を読んでみた。タイトルは『母ではなくて、親になる』。川上未映子の『きみは赤ちゃん』(2014年刊)以来、わたしが読む子育て本だ。なぜ子育て本、それも赤ん坊時代の本など読むのか、と問われたらどう答えようか。この二人はそこそこ有名人ではあるが、タレントではなくて作家、あるいは小説家、文学者(こう書いたからといってタレント本をバカにしているわけではない。一時期タレント本に面白い本がたくさんあって、たくさん読んで感心、感動した)。

山崎ナオコーラ、川上未映子を小説家として好きかといえば、判断をくだすほど作品を読んだ覚えがない。おそらく読んだとしても1、2冊。ただどういう作家かはなんとなく知っている。『母ではなくて、親になる』はタイトルがいいと思った。それでキンドル版でサンプルをまず読んでみた。それほど強い動機はなかった。ちょっとした興味。どんな風に書いてるのかなと。

サンプルを読み始めて少しいくと、面白いことが書いてあった。赤ん坊の性別についてこの本では書かない、また作家である自分も性別を公表していない、とあった。ふふふ〜ん。なんか面白そうなことが始まりそう。だって山崎ナオコーラの性別は(おそらく写真かなんかで見て)誰もが知っている(と思う)。しかしみんなが知っているかどうかは問題ではない。公表しない、という意思に意味があるのだから。ナオコーラ本人は隠すほどのことでもないが、わざわざ公表するほどのことでもないと言っている。「女性作家」という社会の枠の中で扱われることに辟易しているらしい。

たしかに、最近は性別は女でも「女優」とは言わず、「俳優」という方が標準になっている。おそらくアメリカあたりでactressと言わなくなりactorと言うようになったことと関係があるのだろう。ただ日本は文化的にいえば、小さな頃から、たとえば学校生活でも、女と男を分ける傾向が強いように思う。また心理的にも、いっぱんに、無意識に過ごしている人ほど、当然のように男女を分けている気がする。

さて本の話にもどると、ナオコーラは赤ん坊の性別について書くことは、赤ん坊のプライバシーにかかわる気がする、という。身体的に女として、あるいは男として生まれたとして、将来その性を本人がどう受けとめるかはわからないから、と書いている。たしかにそれは言える。自分の身体的な性を受け入れがたい人はたくさんいるし、最近になって、そういう人がいることも一般に知られるようになってきた。赤ん坊の性別に関しても、ナオコーラは絶対に隠したいとは思わないが、最初に言うほどのことでもないと思っている。

赤ん坊といえば、「男か女か」「五体満足か」この二つが日本ではいちばんの関心事になるものだ。だから出産前にエコー検査や新型出生前診断で、性別や障害の有無を調べたりするのかもしれない。ナオコーラによると、通っていた病院に設備はあったものの、診断結果を言わなくていい、と夫とともに医師に伝えたそうだ。理由は「出会い」を大切にしたいから。お腹の中にいる間はまだ出会った感がないから、生まれ出てきたときを出会いとして迎えたいということらしい。結果、「まっさらな状態で人に会い、親になった」と書いている。それはよくわかる。なにごとも出会いや発見という最初のイベントは大事だ。のちのプロセスにも影響する。

赤ん坊が男か女か、をすごく気にするとしたら、その理由は何か。出産後のベビー服の色? 女の子ならピンク系で、男の子ならブルー系? 出産祝いもそれをもとに考える? あるいは名前を考えるのに必要? 女には女の名前、男には男の名前。こういう思考法が、生まれる前から、子どもに枠をはめることになるのに気づいていない。これを常識とか慣習という人もいるかもしれないが、たいして実用性があるとは思えない。男だったらこう、女だったらこう、などと今の社会で、生まれたときから考える必要はない。

また障害についても同じだ。妊婦の健康状態が著しく悪くなり、原因を調べたらお腹の中の赤ん坊に要因があった、という場合は、母体を守るためにも処置や治療が必要になるかもしれない。しかしほぼ健康に妊娠が進んでいる状態で、生まれる前に、赤ん坊に障害があるかどうか詳しく調べたい、という要望はどこから生まれるのか。障害のある子どもは産みたくない、という気持ちがはっきりとしているのだろうか。障害といっても、いろいろなレベルがあると思う。どの程度の障害なら許せて、どの程度なら産むことができない(意味がない、あるいは耐え難い)のだろうか。これについてナオコーラはこう書いていた。


(…… 特に「障害」に関しては、もしも手をかけることが必要な子だったら、と妊娠中期くらいの時期に勉強した。でも、私の場合は、「障害」があったところで妊娠中になんの治療も準備もできないし、顔を見て愛情を湧かせていないうちから赤ん坊のプライバシーをいろいろ調べなくて良かった、とは思っていた)。もう本当に、生きて生まれさえすれば、それ以外はなんにも気にならない。

わたし自身の話をすると、第一子の妊娠中、3、4ヶ月のころにおたふく風邪になった。風疹とともに障害児が生まれる可能性があるとその当時言われていた。たいして熱も出ず、ほっぺたが腫れるというほどでもない軽いものだったが、医者には「まあまあ、よりによってこんなときにねぇ」と言われてしまった。まわりの人間の中には、産まない方がいいと勧める人もいた。しかし自分はピンピンしているし、すごく大変なことが起きているとは思えなかった。何パーセントかの可能性の情報をもとに、障害児を産むリスクを避けるためいちおう堕ろしておく、などとはとても考えられない。仮に産んで障害があった場合も、自分はそれに対応できるという自信もあった。お腹の中の子どもにまだ現実感がなく、愛情がその段階でぼんやりしたものであっても、こういう決断はできるものだ。いや、こういう決断をしたことで、お腹の中の子と自分とのつながりが少し見えた気がした。

ところでこの本には「赤ん坊のプライバシー」という言葉がときどき出てくる。性別を公表したり、出産前に「障害」の有無を調べることが、赤ん坊のプライバシーに触れるかもしれない、とこの著者は考えている。赤ん坊のプライバシー、ということを気にする親はあまりいないと思う。つまり赤ん坊は(とくに母親の場合、お腹の中にいる期間が長く一心同体的な感覚をもつのか)、他人ではないという判断だ。いや判断というほど、意識的なものではない。なんとなくそう思ってしまっているのだ。そして他人ではない赤ん坊は、自分のもの、自分の所有物に近い存在だ、という認識が生まれやすくもなる。

しかし赤ん坊は親の所有物ではない。生まれたときから一個の人間だ。最低10年間くらい(今の世の中では20年くらいか)は、何かと親の世話になっていたとしてもだ。


子育てというと、二十年くらいある気がしていた。….子ども中心の生活にして子どものことはすべて親がやるという期間は、たぶん思っているよりも短い。そう気がついたとき、「五年程度のために仕事を辞めなければならなかった人はつらかっただろうな」と想像した。
(中略)
とにかく、べったりと赤ん坊と過ごせるのは今だけだ。数年後にはきれいさっぱり忘れて、嫌でも赤ん坊と距離をとらなければならなくなることを肝に銘じておこう。
(『母ではなくて、親になる』より)

そうなのだ、子どもを育てる期間は短い。特別の事情がないかぎり、どんなに長くても20年未満。子どもとべったりの数年間を過ごしつつも、子どもは自分の所有物ではないと意識し、のちに距離をとるようになることを想像しておくことは悪くない。この本の中でナオコーラは「わたしのところにいる赤ん坊」と常に書いている。「私の赤ん坊」でも「うちの赤ん坊」でもない。育児を必要とする期間、親である自分のもとに「いる」赤ん坊なのだ。その後、独り立ちできるようになれば、いつでもどこへでも飛びたっていく存在。そうしてほしいと親が望む存在、それが子どもだ。

終わりまで読んで、この本では子どものことを言うとき、徹底して「赤ん坊」の表現だったことに改めて気づかされた。娘とか息子とか〇〇ちゃんは一度も出てこなかった。読んでいてそれで何の不足も不満もなかった。子を産み、(母ではなく)親になった小説家の、子が1歳になるまでのさまざまな思考を知ることができた。今の産科や医療の実態も覗き見た。この本の冒頭でナオコーラはこう書いている。


 でも、出産していない人にも出産の話を、私はしたい。出産していない人が出産についてアドヴァイスをくれたり意見してくれたりもあるはずだ。
 そうして、今、私は育児エッセイを書いているが、読者の育児経験の有無によって、文章の読みが変わるということはない、と思っている。もし、ただ経験と照らし合わせるためだけに文章というものが存在するのならば、文章を書くのはなんとつまらない行為だろう。

その通りだと思う。出産や育児を経験していない人とも、妊娠や子どもの成長について話したり、話題を共有することはいいことだ。子どもは親のものではなく、この世界に生きる人。出産の経験や子どもの有無と関係なく、あらゆる人間と関係をもっていく存在だ。ましてや赤ん坊が「母」に所属しているなどということはないし、母しか子を育てられないわけでもない。女が二人の家庭にも子は育つ。男が二人の家族でも子は成長する。『母ではなくて、親になる』 過不足のない良いタイトルだと思う。

河出書房のサイトに連載されていたときのものが一部こちらで読めます。
Web河出『母ではなくて、親になる』
第1回 人に会うとはどういうことか
http://web.kawade.co.jp/webmag/634/