20070123

不自由な言語アート=文学

ふと思いついたことなので間違っているかもしれないけれど、検証の手がかりとして、思考のプロセスを書いてみたい。
絵とか音楽では、すくなくとも現代の作品について言えば、どんな作品であれその完成度や表現のレベルについて何か言われることはあっても、正否つまりあっているとか間違っているとかが問題になることはない。絵画において写実性が尊ばれた時代に(あるいは学校の写生の授業で)、極端に実物と違う描写をしたりデフォルメしたら、あるいは遠近法がヘンで画面がゆがんでいたら、その絵はだめな絵と烙印を押されることはあるだろう。それは描画におけるルールのせいだ。しかし今は絵が実物にそっくりだからといって、だれも誉めてはくれない。そっくりに描くことは期待されていない。むしろアーティスト誰もが、いかに実像の写生から離れて自分の表現ができるかに専心している。見た目の本当らしさではなく、エッセンス(本質)やソウル(魂)を問題にしている。

音楽においても、西洋古典音楽なら、ハーモニーから外れた音を不適切に入れたり、カデンツの並びがルールから外れていたら、間違っていると言われるだろう。日本やインドの伝統音楽においても、事情は変わらない。でも現代の音楽であれば、いい悪い、面白いつまらないはあっても、音楽の表現法に正否、ルール違反はないのではないか。絵画同様、(ポップミュージックは別にして)、ルール違反の領域を探検している。

言葉によるアート=文学ではどうだろう。
言葉には音やリズムによる表現の他に、意味という具体的な伝達要素がある。意味の伝達を可能にするために、さまざまなルールがあり、日本語なら日本語の慣習がついてまわり、さらに日本語が使われているメインの社会(日本語においては日本)の習慣その他もろもろの要素がかぶさってくる。ひとつの文章を理解するには、それら総合的な判断力が求められる。ちょっとしたことを頭の中で考えるにしても、その言葉の論理にたよって、その道筋にそって考えるしかない、ように思える。しかしある言語の論理にそって考えている限り、新しい考えはなかなか浮かばない。気づいていなくとも、その言葉をつかって考えるだけで、その言葉のもっている慣習や社会構造にきっちり縛られてしまうのである。

そんな不自由な、保身的なメディアとして言葉はある。それをつかってアートをやるのは絵や音楽にくらべて至難の業のように思える。

しかしもし、言葉から「意味」の部分を外してやったら、外さなくとも軽減したなら、事情は少し変わってくるのではないか。意味を伝達するため存在していると思われるがんじがらめのルールは少しゆるむだろう。

言葉が音として、リズムとして、エッセンスやソウルに献身するため飛び出し、跳ねまわり、飛散したら、固まっていた空気がゆるみ、風がこっちからあっちへ、あっちからこっちへと吹き渡るのではないか。そうなったらだれも、てにをはが間違っているとか、文章がなってないとかをおおごとのように言い立てることはなくなるだろう。ちょっと自分のつかっている言葉を眺めてみればわかることだが、日本人が日常的に大盤振舞してつかう「も」という助詞の使用法など、説明不可能なことが多い。たとえ不適切であっても、慣習としてつかっているから非難されないだけの話だ。

日本語のルールがゆるめば、日本語が母語ではないけれど、日本語が好きで日本語で書きたいと思う作家たちが、日本の文学に登場する機会も増えるだろう。世界中から投稿されるルール破りの面白い作品を読んでみたいものだ。その人たちの書く日本語から、日本語しか読めない日本人も多くのことを享受できるだろう。そこで書かれる日本語は、日本語であると同時に書いた人の母語や、その他その人が体験してきた他の言語の音や思考法をひびかせながら輝いているはずだから。

20070114

三省さんの詩から生まれたつながり

年明けに翻訳者のAlexから新しい詩の英訳テキストが届いた。屋久島の詩人・山尾三省の「海」と「風」。どちらもシンプルな言葉でつむがれた短めの詩。でもゆっくり味わって読むと、読む人が求める分だけ深いところへも、遠いところへも連れていってくれる。

去年の11月、ウィスコンシンに住むフランケさんという方から、三省さんの詩のことで問い合わせがあった。医師として終末医療に携わる妻とともに、日本の作家が死に直面したときにどのような思考を持つかを研究しているという。その思想に触れたいという。東京に住む知人から三省さんの晩年の作品を強く薦められたとか。英語に訳されたその時期の作品を探したが見つからない、そういうものを葉っぱの坑夫で出版していないだろうか、そういう問い合わせだった。

三省さんが亡くなった翌年、『祈り』という真っ白な表紙の詩集が野草社から出版された。主に晩年に書かれた詩を集めたもので、病を得てからの詩も入っている。「海」と「風」もそこに収められていたものだ。フランケさんからメールをもらって、久々に三省さんの詩を訳してみようと思ったとき、この詩集のことが頭にうかんだ。「なかでも死と自然に関する詩が読みたい」というフランケさんの要望を意識しなくとも、三省さんの詩には生命と死について、人間社会の中での事象としてではなく、自然界の中に人間の命を置いたときの思考、考察がある。

もしかしたら三省さん自身もそうだったかもしれないが、自分の命をいちど、やってきた場所かえっていく場所という宇宙や自然という広い場所の中に見ること、それが有限の命にとらわれることからの救いになるのかもしれない、そんな風に思った。

Alexの英訳は今までに増して素晴らしく、英語で読んでも、オリジナルの詩と同じような心持ちになれる。きっと英語の人たちにも、多くのことが伝わるのではないか。

訳すにあたっていつものように、奥さんの春美さんに許可を得た。そのやりとりを手紙でするとき、少しだけ三省さんの話をかわす。生前、三省さんが詩の中のある言葉をどのように使っていたかを聞くこともある。葉っぱの坑夫の新刊を送ることもあり、今回のように、最近できたという小さな詩集(野草こども病院の移転記念につくられた、三省さんのこどもをテーマにした詩を集めた冊子)を送っていただくこともある。そんなときどきの小さな交流がここ数年、三省さんの死後つづいている。

『祈り』の本を送っていただいた野草社の石垣さん、春美さん、三省さんの詩を日本語から英語へ訳してくれるAlex、そしてウィスコンシンから葉っぱの坑夫へとたどりついたフランケさん。三省さんの詩のまわりにつどう人々によって、三省さんはいまも生きている。

*2月初旬前後に、「海/Sea」「風/Wind」二つの詩を葉っぱのサイトに掲載する予定です。

詩集『祈り』の紹介文